浮世絵界の大物・和泉屋市兵衛 - ホームメイト
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和泉屋市兵衛とは
和泉屋市兵衛の歴史

和泉屋市兵衛
「和泉屋市兵衛」とは、江戸時代の代表的な版元「甘泉堂」(かんせんどう)で、代々受け継がれた当主の名前です。本姓は山中(やまなか)、通称は「泉市」(せんいち)。
甘泉堂の創業は、1686年(貞享3年)頃で、店は芝神明前三島町(現在の東京都港区芝大門)にあったと伝えられています。
当時の芝神明前は、日本橋に次ぐ、本屋街。増上寺や芝大神宮があったため参拝客で賑わい、芝居小屋や飲食店も多く、たいへん栄えていました。

版元印
当初、甘泉堂は、仏教・学術関連の書籍を扱う書物問屋でしたが、4代和泉屋市兵衛が当主となった寛政年間(1789~1801年)から、庶民向けの娯楽作品、絵本や黄表紙(きびょうし:成人向けの小説)、浮世絵版画を出版する「地本問屋」へと転換しています。
4代和泉屋市兵衛は、芝出身または芝神明前に住んでいる人の中から、戯作者(げさくしゃ:作家)、浮世絵師、彫師などをプロデュース。地域に根差した本作りを開始して、大成功したのです。また文化・文政時代(1804~1830年)には、おもちゃ絵という、絵を切り抜いて遊ぶ特殊な浮世絵を企画して、大当たりしました。
なお、4代和泉屋市兵衛は、義俠心(ぎきょうしん:正義を重んじて弱者を救おうとする気持ち)が高く、面倒見が良い男だったと言われています。
甘泉堂・和泉屋市兵衛は、「耕書堂・蔦屋重三郎」(こうしょどう つたやじゅうざぶろう)、「仙鶴堂・鶴屋喜右衛門」(せんかくどう つるやきえもん)、「千鐘堂・須原屋茂兵衛」(せんしょうどう すはらやもへい)とともに、「江戸の版元ビック4」にも選ばれています。
和泉屋市兵衛が見出した人
絵本や黄表紙、浮世絵版画を企画・制作したのは、4代和泉屋市兵衛です。男気があり、主に、芝神明前出身の作家、絵師をプロデュースして大成功しました。なかでも、「初代歌川豊国」(しょだいうたがわとよくに)を見出したことで有名です。
初代歌川豊国とは

歌川豊国
「初代歌川豊国」は、1769年(明和6年)、芝神明前生まれ。歌川派を創始した「歌川豊春」(うたがわとよはる)に師事し、17歳になった1786年(天明6年)、黄表紙「無束話親玉」(つがもないはなしのおやだま)の挿絵を描いてデビューしましたが、全く名を上げられませんでした。
そこで、初代歌川豊国は25歳のときに、和泉屋市兵衛の書店を自ら訪ねて、「筆料は要らないので、この下絵を錦絵にして下さい」と頼むのです。4代和泉屋市兵衛は、もちろんこのときはじめて初代歌川豊国のことを知ったのですが、ひとめ絵を見て才能を信じ、持前の男気でこの申し出を承諾。そして、1794年(寛政6年)にシリーズ絵「役者舞台之姿絵」(やくしゃぶたいのすがたえ)を出版したところ、大ヒットしたのです。
初代歌川豊国の描く役者絵は、全身像。役者個人の顔はもちろん、身振りの特徴までを捉え、さらに美化した物でした。これが役者ファンの心をつかみ、売れまくったのです。
実は同じ1794年(寛政6年)、版元・蔦屋重三郎のもとから「東洲斎写楽」がデビューし、役者の特徴を誇張したインパクトのある役者大首絵を描きます。ともにテーマが役者絵だったことから、2人は比べられることになるのですが、売り上げという点で、初代歌川豊国が圧勝しました。
その後も、初代歌川豊国と4代和泉屋市兵衛はタッグを組み、絵本、洒落本、狂歌本の挿絵、美人画を次々と出版。すべてが大ヒットとなり、初代歌川豊国は、人気浮世絵師として不動の地位を確立したのです。
また、初代歌川豊国は、浮世絵の指導にも熱心で、弟子の数は40人以上。しかも、「歌川国芳」、「歌川豊重」(2代歌川豊国)、「歌川国貞」(3代歌川豊国)、「歌川国政」など、名だたる著名絵師を輩出しました。甘泉堂では、この歌川派絵師の絵本も数多く出版して、さらに売り上げを伸ばしたのです。
「歌川にあらずんば浮世絵師にあらず」と言われるほど、歌川派は隆盛を誇り、初代歌川豊国は、56歳で亡くなるまで、ずっと活躍し続けました。なお、初代歌川豊国は、4代和泉屋市兵衛への恩を忘れず、他の版元から依頼が増えて忙しくても、4代和泉屋市兵衛の仕事だけは断らなかったと伝えられています。
- 刀剣ワールドが所蔵する歌川豊国(初代歌川豊国)の浮世絵
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歌川豊国 作「賤ヶ岳七本槍高名之図」
刀剣ワールド財団所蔵
和泉屋市兵衛の最期
甘泉堂が描かれた浮世絵とは
1797年(寛政9年)に出版された「東海道名所図会」には、和泉屋市兵衛の書店の様子が描かれています。これは、「北尾政美」(きたおまさよし)が描いた1枚。見開き2ページにわたって大きく描かれ、当時から和泉屋市兵衛の書店が、芝神明前を代表する書店であったのだと分かるのです。
和泉屋市兵衛の書店の屋号は甘泉堂のはずですが、のれんには平仮名で「いづみや」、また漢字で「泉屋」。看板には「さうし問屋(草紙問屋:書店)泉屋市兵衛」の文字を読み取ることができます。壁一面に錦絵が吊るされ、棚には草紙が美しく陳列され、武士や武家の娘達、お坊さんや町人達が集まり、とても楽しそう。
なお、陳列されている錦絵は、どれもいい加減な物ではなく、すべて実在の浮世絵が存在するとのこと。画面中心の奥にある錦絵は、勝川春好の「五代目市川団十郎の暫」かな、など推理して観てみるのも面白そうです。
4代和泉屋市兵衛は、1823年(文政6年)に死去しましたが、和泉屋市兵衛の名前と甘泉堂は、江戸時代中期から明治時代まで、200年にわたって8代まで存続しました。