有名な浮世絵師 - 名古屋刀剣ワールド
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浮世絵師とは
「浮世絵」とは、江戸時代の始まりと共に誕生した日本絵画のジャンルのひとつです。江戸を中心に発展し、江戸絵とも呼ばれました。浮世絵師は、その浮世絵を描く絵師のことです。
浮世絵は、大きく分けて、1枚1枚絵師が描く「肉筆画」と、木版により大量生産が可能な「木版画」に分けられます。制作点数が限られる肉筆画に比べて、一度に大量に制作できるため安価で販売された木版画は、民衆の娯楽のひとつとして親しまれるようになりました。
江戸時代の民衆の生活を主題に発展した浮世絵を時代区分で、初期、中期、後期に分けて、それぞれの時代に活躍した有名な浮世絵師を見ていきましょう。
浮世絵の黎明期を支えた有名な浮世絵師
浮世絵が生まれた1650年代から、多色刷りの浮世絵である「錦絵」(にしきえ)が登場する直前の1764年(明和元年/宝暦14年)までは、浮世絵における初期と位置付けられています。
黒一色の「墨摺絵」(すみずりえ)から、黒墨絵に筆で色を付けた「丹絵」(たんえ)、紅花から作った染料を用いた「紅絵」(べにえ)、膠(にかわ)の効いた染料で黒に艶を出した「漆絵」(うるしえ)、さらに、黒摺絵に色を重ねた「紅摺絵」(べにずりえ)と徐々に発展していきます。
しかし、木版技術の未熟さを不満として、肉筆画を専門とする浮世絵師もいたと言われるほど、彫摺技術は発展途上にあったと言えるのです。
浮世絵師の祖 菱川師宣

菱川師宣「見返り美人図」
「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)は、浮世絵を独立した絵画のジャンルとして確立した人物です。
衣類に装飾を施す職人「縫箔師」(ぬいはくし)の息子として生まれ、技術を磨くため江戸に出た菱川師宣は、絵画の名門である「狩野派」、「土佐派」、「長谷川派」の三派の手法を修得。
1672年(寛文12年)には、「武家百人一首」で署名入り絵師としてデビューしました。
当時、一般的ではなかった町絵師による署名や絵をメインとした本の発行も行ない、1686年(貞享3年)には図案集を発表。
やがて、本の挿絵としてではなく、1枚の版画を鑑賞用の絵画作品として売り出すことを発案し、これが浮世絵の基礎となりました。
菱川師宣は、江戸庶民の生活や風俗を描き、「美人画」の他「枕絵」(まくらえ)などで人気を博しました。
菱川師宣など、日本を代表する有名な浮世絵師たちをご紹介します。
一枚刷りの役者絵を創始した鳥居清信
1664年(寛文4年)、「鳥居清長」(とりいきよなが)は、大坂(現在の大阪府)で元女形役者であり看板絵師「鳥居清元」(とりいきよもと)の子として生まれました。父と共に江戸へ下り、江戸歌舞伎専属の看板絵師になったと伝わります。
1697年(元禄10年)頃から、本格的に浮世絵師としての活動を開始し、菱川師宣の画風を取り入れながら「役者絵」(やくしゃえ)を制作。一枚刷りの役者絵の創始者であり、瓢箪足(ひょうたんあし)や蚯蚓描(みみずがき)と呼ばれる画法も考案するなど、躍動的な役者絵で人気を確立しました。
また、力強い墨絵で、ふくよかに遊女を描いた「立美人」や「傘持美人」なども高い評価を得ており、現代まで続く鳥居派の基礎を築きました。
研究熱心で版元も経営 奥村政信
1686年(貞享3年)に生まれた「奥村政信」(おくむらまさのぶ)は、菱川師宣や鳥居清長の影響を受け、10代から浮世絵師としての活動を開始。
奥村派の開祖であり、黒墨絵、丹絵、紅絵、漆絵、紅漆絵、など、木版画浮世絵の初期過程をすべて経験し、彩色の改良に貢献した浮世絵師と言われています。
また、浮世絵の発行元である「版元奥村屋」を経営。研究熱心で、西洋の遠近透視法を用いた「浮絵」(うきえ)や細長い紙を使用した「柱絵」(はしらえ)を創案し、のちの浮世絵界に大きな影響を与えました。
美人画や役者絵、花鳥画など幅広く手掛け、人気浮世絵師として長きに亘り活躍。1764年(明和元年)、錦絵が誕生する前に没しています。
浮世絵の発展期を支えた有名な浮世絵師
1765年(明和2年)に錦絵が創始したことに端を発し、その後の寛政期(1765~1800年頃)は、浮世絵の中期と呼ばれます。
多色摺が完成したことで、作品を彩り豊かに表現することが可能となり、浮世絵における描写は次第に写実的傾向が強くなっていきます。
町人階級独自の文化が盛んになったことも由来して、浮世絵は誰しも手にできる民衆の娯楽へと発展。江戸市民の生活をより豊かに、鮮やかに彩ったのです。
美人画の頂点に立った喜多川歌麿
「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)は、国内外で最も高い評価を受ける浮世絵師のひとりです。詳細は不明ですが、1753年(宝暦3年)、江戸生まれであることが有力視されています。
少年期より、狩野派の絵師「鳥山石燕」(とりやませきえん)の下で絵を習い、1784年(天明4年)頃、浮世絵師としてデビュー。狂歌絵本で注目を浴びますが、江戸幕府の禁制により狂歌が厳しく取り締まられます。
1792年(寛政4年)頃からは、それまでの美人画と異なる、圧倒的に艶やかで、表情豊かな独自の美人画を発表。喜多川歌麿の代名詞とも言える「美人大首絵」が誕生したのです。
そうして一躍人気浮世絵師になるものの、再び江戸幕府の禁制により、美人画を描くことが禁止に。母子をテーマにするなどして作画を続けますが、52歳で没しています。
喜多川歌麿など、日本を代表する有名な浮世絵師たちをご紹介します。
多色刷り錦絵の誕生に貢献した鈴木春信
出生年や師弟関係などの詳細は不明ですが、多色刷りの木版画浮世絵・錦絵を実現させた人物である「鈴木春信」(すずきはるのぶ)は、遅くとも1760年(宝暦10年)には作品を制作していたと言われていますが、浮世絵師としての活動はわずか10年程度。
1765年(明和2年)に、風流を好む富裕層の間で行なわれていた「絵暦交換会」において脚光を浴びるようになります。絵暦の作画を担当した鈴木春信は、木版画の彫摺向上や色彩表現の拡大に主導的役割を果たしたのです。その後、幻想的で抒情性豊かな美人絵を数多く制作し、一世を風靡。
また、古典を当時の風俗に置き換えて描く「見立絵」という手法を多く採っている点も、鈴木春信の特徴のひとつと言われています。
約10ヵ月で消えた天才浮世絵師 東洲斎写楽
「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)は、謎の天才絵師として、歴史にその名を刻んでいます。出生などは一切不明で、1794年(寛政6年)5月~1795年(寛政7年)2月の、約10ヵ月のみ活動。短期間ながら、役者絵や相撲絵など、140点ほど手掛けました。
特に、雲母の粉を使用することで角度により背景がキラキラと光る「雲母摺」(きらずり)に、モデルの顔の特徴を誇張して描いた大首絵が注目を集めます。小さな目、大きな鼻など、モデルの美醜に捉われず、大胆にデフォルメを施した表現は、当時賛否を巻き起こしました。
現在は、この独特の表現について、芸術的に高く評価されています。消息は一切判明しておらず、謎の浮世絵師として様々な仮説が立てられているのも、人々が東洲斎写楽の絵に魅了されているからこそと言えるのです。
浮世絵の成熟期を支えた有名な浮世絵師
寛政期を境に、美人画や役者絵という浮世絵の2大ジャンルは徐々に後退に向かい、新たに風景画や花鳥画などが主題となっていきます。
「葛飾北斎」(かつしかほくさい)と「歌川広重」(うたがわひろしげ)が国内の名所を描いた「名所絵」(めいしょえ)で人気を博し、「歌川豊国」(うたがわとよくに)や「歌川国貞」(うたがわくにさだ)、「歌川国芳」(うたがわくによし)に代表される歌川派は、濃艶な美人画や誇張された似顔絵表現の役者絵、勇壮な武者絵で流行を作りました。
幕末期には、混乱する世相を反映するかのように、「月岡芳年」(つきおかよしとし)の「血みどろ絵」などが出現。明治維新後は、「横浜絵」、「開化絵」なども登場し、新しい錦絵のジャンルが誕生していったのです。
月岡芳年など、日本を代表する有名な浮世絵師たちをご紹介します。
世界美術に影響を与えた奇才 葛飾北斎

葛飾北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」
日本のみならず、世界で高い評価を得る天才浮世絵師・葛飾北斎。
浮世絵師の中でも最長の70年という作画期間中、常に変化しながらも、どの分野でもその才能を遺憾なく発揮し、約30,000点に及ぶ作品を遺しました。
90回を数える転居や、30以上の画号(画家が用いる名前)を持つなど、奇行や逸話も数知れず残る人物です。
1778年(安永7年)、「勝川春章」(かつかわはるあき)の門徒となり、その後、狩野派や「住吉派」、「林派」などにも学びます。70歳を超えて、それまでにない新しい風景画「富嶽三十六景」を発表し、一世を風靡しました。
その後も90歳まで傑作を量産。葛飾北斎の作品は、大胆な構図や鮮やかな色彩、型に捉われない自由な表現が魅力です。日本のみならずヨーロッパの印象派を始め画壇に大きな影響を与え、世界の美術史にその名を刻んでいます。
日本の自然美を鮮やかに、リアルに表現した歌川広重

歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
葛飾北斎と並び、名所絵の天才絵師として名高い歌川広重は、1811年(文化8年)、15歳のときに「歌川豊広」(うたがわとよひろ)に入門します。
その後、狩野派、円山派、「四条派」などでも学び、西洋画も取り入れるなど、幅広い画風を培い、初期は美人画や役者絵を手掛けます。葛飾北斎の影響を受けて風景画に転向し、「東海道五十三次」により一躍人気浮世絵師の仲間入り。
歌川広重の特徴は、四季折々の美しい自然、そして天気までも表情豊かに表現した点。特に雨や雪の表現は秀逸で、歌川広重を超える浮世絵師はいないとまで言われています。
生涯で20,000点にも及ぶ歌川広重の作品は、「ゴッホ」や「モネ」など、西洋の画家にも影響を与えました。海外では歌川広重の作品の青色は「ヒロシゲブルー」と呼ばれ、多くの人を虜にしています。
反骨精神と遊び心、奇抜な発想は唯一無二 歌川国芳
1797年(寛政9年)、染物屋の息子として生まれた歌川国芳。わずか12歳で描いた模写が、一流の浮世絵師・歌川豊国の目に留まり、15歳で歌川派に入門することになります。
中々芽が出ず、不遇の時代を過ごしますが、「水滸伝」(すいこでん)を題材にした武者絵シリーズが大当たりし、「武者絵の国芳」と呼ばれるほど大躍進。
1840年(天保11年)には、質素倹約を掲げた幕府による厳しい出版統制令のあおりを受けますが、歌川国芳は動物を用いるなど、斬新な発想と遊び心で新たな表現を模索します。作品を通して幕府を風刺したことで、民衆からさらに支持を集めるようになったのです。
遅咲きながら、ユニークな発想と反骨精神で人気浮世絵師として活躍した歌川国芳は、海外でも高い評価を得ています。
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歌川国芳 歌川国芳など、日本を代表する有名な浮世絵師たちをご紹介します。
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一般財団法人 刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて保有の浮世絵(武者絵)を解説や写真にてご紹介。