浮世絵の基本

浮世絵とは

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「浮世絵」(うきよえ)とは、江戸時代に発達した色彩豊かな風俗画のことです。昔の日本人が憧れた美人や役者、尊敬した武将、花鳥風月を楽しむことができます。フランスの印象派など、世界的な画家にも影響を与えたという浮世絵の形式や歴史について、詳しくご紹介します。
浮世絵浮世絵
浮世絵の歴史や有名な浮世絵師など、浮世絵に関することをご紹介します。

浮世絵とは

「浮世絵」(うきよえ)とは、江戸時代から大正時代に掛けて描かれた、風俗を描いた絵画のことです。この世は「憂き世」で嫌なことばかり。それならば、ウキウキと浮かれて楽しく、この世を謳歌して暮らしたいと「浮世」の字が当てられた浮世絵が描かれるようになりました。

前時代の武将を描いた「武将絵」や遊郭の美女を描いた「美人画」、歌舞伎役者を描いた「役者絵」など、浮世を取材して描かれているのが特徴です。その浮世絵には、「木版画」(もくはんが)と「肉筆画」(にくひつが)の2つの形式があります。

木版画とは

版本挿絵 伊勢物語
(国立国会図書館ウェブサイトより)

木版画とは、絵師が描いた絵を彫って木版で刷り上げた浮世絵のこと。版面に凸面を持つ版を用いる凸版画の技法が用いられています。

木版をひとつ作れば、何百枚も同じ絵を刷ることができる画期的な技術で、日本には奈良時代に中国から伝来し、鎌倉時代・室町時代に仏画などに用いられてきました。それが、江戸時代に読本が流行したことで挿絵が描かれるようになり、浮世絵が急速に発展したのです。

木版画には、読本の挿絵として描かれた「版本挿絵」(はんぼんさしえ)と、独立した「一枚絵」(いちまいえ)があります。

なお、もうひとつの浮世絵である肉筆画は、たいへん高価な物ですが、この木版画の技術によって、一般庶民でも浮世絵を安価に購入できるようになりました。

木版画を制作するのは?

木版画は、「絵師」(えし)、「彫師」(ほりし)、「摺師」(すりし)が分業して制作しました。

絵師には、才能あふれる絵心が必要。彫師は、絵師が描いた版下絵を版木に貼って、これに合わせて忠実に彫る技術が必要。摺師は彫師が彫った墨版と色版を受け取り、慎重に紙に摺り、完成させる人です。

このように分業することで、質の高い浮世絵を短期間で大量生産させることができたのです。

初摺と後摺

木版画は、すべて摺師によって手摺で大量生産されました。最初に絵師が立ち会い、摺師が試し刷りを行ないます。そうして絵師の希望通りに修正した上で、まず200枚刷った物が「初摺」(しょずり)です。絵師の希望に合わせて刷られるので、かなり質が高いと言えます。

これに対して、追加して摺るのが「後摺」(あとずり)です。後摺には絵師が立ち会わず、版木も劣化するため、初摺よりも質が落ちる場合が多いと言えます。

肉筆画とは

加藤清正公図(葛飾北斎 肉筆画)

加藤清正公図(葛飾北斎 肉筆画)

肉筆画とは、絵師が自分の手筆で描いた、この世に1枚しかない浮世絵のこと。木版画ではない浮世絵です。

なお、肉筆画はとても高価で、一般庶民ではたとえ購入したくても買うことができない品でした。富裕層が絵師に注文して制作するのが基本だったのです。

絵師にとっても肉筆画が売れた方が高収入になったため、肉筆画しか描かない絵師もいたほど。肉筆画を描くことができる絵師は社会的な地位が高かったと言えます。

肉筆画としては、「菱川師宣」の「見返り美人図」や、「葛飾北斎」の「加藤清正公図」、「鏡面美人図」などが有名です。

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浮世絵の歴史

浮世絵が描かれるようになったのは、江戸時代前期です。まず、肉筆画が描かれましたが、木版画の技術が発達。「墨摺絵」(すみずりえ)という黒色1色だった版画は、紅を加えた2~3色の「紅摺絵」(べにずりえ)となり、多色摺の「錦絵」(にしきえ)に変化しました。これに合わせて、浮世絵を描く絵師が増え、浮世絵は一大ブームとなっていったのです。浮世絵の歴史を詳しく見ていきましょう。

江戸時代前期(1603~1680年)

墨摺絵/菱川師宣 伊勢物語(国立国会図書館ウェブサイトより)

墨摺絵 菱川師宣 伊勢物語
(国立国会図書館ウェブサイトより)

1670年(寛文10年)頃、浮世絵が描かれるようになったと言われています。

浮世絵の創始者と言われるのは、越前藩御用絵師「岩佐又兵衛」(いわさまたべえ)です。岩佐又兵衛は、戦国武将「荒木村重」の子。土佐派、狩野派に学び、肉筆画で浮世絵を描いたと言われています。

これに対して、木版画の創始者と言われるのが菱川師宣です。読本が流行したとき、その挿絵を黒色1色の墨摺絵で描きました。

菱川師宣は、この版本挿絵を一枚絵(観賞用の浮世絵版画)として独立させた人物と言われています。

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江戸時代中期(1681~1780年)

1688年(元禄元年)頃からは、墨摺絵に手彩色で2~3色を加える技法が生まれます。それは、丹(紅殻:インドのベンガル地方で産出された赤色顔料)を加えた「丹絵」(たんえ)、紅花から採れる紅を加えた「紅絵」(べにえ)です。

しかし、1枚ずつ手作業で塗るため時間と手間がかかり、さらに同一に仕上げることは難しく、安定性がありませんでした。

1716年(享保元年)頃になると、漆に顔料を交ぜて描く「漆絵」(うるしえ)が登場。さらに1745年(延享2年)頃には、使用する色ごとに色版を彫って墨摺版に重ねる紅摺絵が登場します。

そして、ついに1765年(明和2年)、「鈴木春信」が創始した多色摺の錦絵が誕生するのです。この錦絵により浮世絵は大人気となり、優秀な絵師がどんどん育っていきました。江戸中期に活躍した浮世絵師としては、「鳥居清長」、「勝川春章」、「勝川春英」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」が挙げられます。

  • 紅摺絵 勝川春英 作「熊谷次郎直実」

    紅摺絵 勝川春英 作「熊谷次郎直実」

  • 錦絵 鈴木春信 作「鷲娘」(国立国会図書館ウェブサイトより)

    錦絵 鈴木春信 作「鷲娘」
    (国立国会図書館ウェブサイトより)

江戸時代後期(1781~1867年)

江戸時代後期になると、役者絵の「歌川豊国」、美人画の「歌川国貞」、武者絵の「歌川国芳」といった歌川派が隆盛します。

技法としては、1781年(天明元年)頃からは、2枚あるいは3枚など、複数枚の絵をつなげると1枚の絵になる「続絵」(つづきえ)が登場。続絵で有名なのは、歌川国芳 「武田上杉川中島大合戦」(3枚続)です。1枚目には「上杉謙信」、2枚目は「武田信玄」、3枚目は「山本勘助」が描かれており、1枚絵としても楽しめますが、3枚が繫がることで、動きのある大迫力な絵となりました。

なお、なぜ初めから大版1枚で制作されなかったのかと言うと、それは技術の問題。当時は大きな紙を作るのが難しく、また彫師、摺師共に、絵が大きくなることで難度が増すので、2枚、3枚に分けたのではないかと言われています。

続絵 歌川国芳 作「武田上杉川中島大合戦」

続絵 歌川国芳 作「武田上杉川中島大合戦」

さらに、江戸後期には「風景画」が確立されます。1831年(天保2年)には葛飾北斎の「富嶽三十六景」など、すべて揃えると46枚となる「揃物」(シリーズ絵)が登場。揃物としては、1834年(天保5年)に発表された「歌川広重」の「東海道五十三次」も有名です。

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    江戸時代に整備された五街道のひとつ、東海道にある宿場を題材に描かれた浮世絵をご覧下さい。
  • 五十三次名所図会
    浮世絵師・歌川広重が描いた東海道シリーズ「五十三次名所図会」をご覧頂けます。

明治時代初期(1868~1895年)

武士の世が終わり、明治維新が起こった明治時代。1859年(安政6年)、横浜に港が開港すると、浮世絵には西洋化した都市の様子が描かれるようになります。それが「開化絵」(かいかえ)、または「横浜絵」(よこはまえ)。

外国人や外国の服装をした人、蒸気船や自動車などが描かれた異国情緒あふれる開化絵は、たちまち世の人々の心をとらえました。

開化絵で有名な絵師は、「歌川広重(3代)」や、「楊洲周延」(ようしゅうちかのぶ)、「歌川芳虎」です。

楊洲周延 作「皇国貴顕観花之図」

楊洲周延 作「皇国貴顕観花之図」

また、1870年(明治3年)になると、日本で最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」が発行されます。これは漢字に読み仮名も振られていない、知識人向けの難しい読み物。この新聞を分かりやすく絵にしたのが「錦絵新聞」です。

1874年(明治7年)、「東京日日新聞」の記事を題材として、錦絵を主体としたふりがな付きの解説文が添えられた錦絵版「東京日日新聞」が発行され、大変な人気となりました。錦絵新聞を描いて人気となったのが「落合芳幾」(おちあいよしいく)や「月岡芳年」(つきおかよしとし)です。

しかし、絵を描くのに時間がかかるため、新聞にくらべて速報性に劣ること、また1890年(明治23年)代になると写真が普及したことで、1907年(明治40年)頃に浮世絵はすっかり衰退しました。

大正時代から昭和時代初期(1912~1939年)

川瀬巴水「名古屋城」

川瀬巴水「名古屋城」

明治時代に一度廃れた浮世絵ですが、大正時代から昭和時代初期にかけて復興をめざす動きが見られ、版画作品が多く制作されました。

活躍したのは「小林清親」(こばやしきよちか)、「吉田博」(よしだひろし)、「川瀬巴水」(かわせはすい)、「棟方志功」(むなかたしこう)など。

特に、川瀬巴水は「新版画」という分野を確立し、注目されました。