浮世絵の種類 - 名古屋刀剣ワールド
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美人画

己未美人合之内 浄瑠璃本
「美人画」とは、美しい女性の容姿を描いた絵のこと。江戸時代初期から江戸時代後期まで全般に亘って描かれました。
当初、モデルとなったのは、遊郭の遊女。遊女とは、現在は「売春禁止法」という法律で禁止されている売春婦のことです。
江戸時代の日本は、残念なことに「人権」がまだ尊重されておらず、金銭的に困った親が子どもを遊女小屋に売り、その遊女小屋が集まる遊郭が、江戸幕府により公認されていたのです。江戸の「吉原」、京都の「島原」、大坂の「新町」に遊郭があったとされています。
浮世絵は江戸で発達したので、絵師が浮世絵に描いたのは、ほとんどが吉原の遊女。しかも、大名に愛された高位の遊女と言われています。当時の美人の条件は、細面で細い切れ長の目であること。最先端の着物を身に纏い、ヘアメイクが施された美人画は、現在のファッション誌のように購入され、人気となりました。
また、絵に描かれた美人は笑顔ではなく、どこか憂いを帯びているのが特徴。なお、のちに遊女だけではなく、芸者や町で評判の茶屋娘や絵師の妻なども描かれるようになりました。
美人画を得意としたのは、「見返り美人図」を描いた「菱川師宣」の他、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「歌川国貞」、「勝川春好」、「葛飾北斎」など。
はじめ、美人画は全身が描かれていましたが、喜多川歌麿は上半身だけを描いた「大首絵」(おおくびえ)を発表。勝川春好は、顔を大きく描いた「大顔絵」(おおがおえ)を描きました。葛飾北斎は「宗理美人」と言われる、長身で顔が細いうりざね顔の美人を描き、絶賛されたのです。
役者浮世絵

豊原国周 団七九郎兵衛「市川団十郎」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
「役者浮世絵」とは、歌舞伎役者の舞台姿を描いた、現在のブロマイドのような絵のこと。当時、人気の高かった役者が、人気の絵師によって描かれているのが特徴です。
江戸時代、歌舞伎を観に芝居小屋に行くことが、娯楽として定着。芝居を観に行った人がおみやげとして、役者浮世絵を買い求めました。役者のファン、絵師のファンの相乗効果で大人気となったのです。
数多く描かれたのは、「8代市川團十郎」(成田屋)、「5代松本幸四郎」(高麗屋)、「3代坂東三津五郎」(大和屋)、「3代尾上菊五郎」(音羽屋)など。現代の私達もよく耳にする名前ですが、それは歌舞伎役者の名前が代々襲名されているため。
なお、舞台や観客の様子を描いた物は「芝居絵」、役者が亡くなった場合は「死絵」など、区別して呼ばれています。
役者浮世絵に優れていたのは、「歌川豊国」、「鳥居清信」、「豊原国周」など。特に「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)は、1794年(寛政6年)に彗星のように現れ、約140点もの秀逸な役者絵や相撲絵を描き、たった1年余りで活動を停止した人物として有名です。役者個人の特徴を強調している似顔絵風だった点が画期的。
実は、東洲斎写楽は葛飾北斎なのではないかなどとも言われましたが、詳細はいまだに分かっていません。
風景画(名所絵、道中絵)
「風景画」とは、風景を主題として描いた浮世絵のこと。特定の土地の風景や人々の暮らしを描いた「名所絵」と、道中の風景や風俗を描いた「道中絵」の2様式があります。
1816年(文化13年)、一般庶民の間では、伊勢神宮を目指す「伊勢参り」などの「旅行」が大ブーム。これに伴い、ガイドブックのような目的で、風景画が描かれるようになったのです。
まず、1831年(天保2年)から1834年(天保5年)に掛けて発行されたのが、葛飾北斎の「富嶽三十六景」(名所絵)です。富士が見える美しい場所を斬新な構図で紹介しています。
一方、「歌川広重」は1831年(天保2年)「東都名所」(名所絵)、1834年(天保5年)に「東海道五十三次」(道中絵)、1856年に「名所江戸百景」(名所絵)を発表。
葛飾北斎、歌川広重のどちらの絵も大ヒットし、浮世絵に風景画という新しい種類が確立されたのです。そして、葛飾北斎と歌川広重が、風景画の人気を二分しました。
葛飾北斎「富嶽三十六景」尾州不二見原
歌川広重「東海道五十三次」川崎宿
武将浮世絵
「武将浮世絵」とは、歴史上の武将や英雄を描いた絵のこと。故事として大昔から描かれていましたが、1797年(寛政9年)に「豊臣秀吉」の一生を描いた「絵本太閤記」が大流行し、再度注目を浴びます。
しかし、時の将軍は徳川家だったので、豊臣秀吉が人気になるのを良しとはしませんでした。そこで、1804年(文化元年)、徳川家及び天正年間(戦国時代)以降の大名家を描くことを禁止。禁止されると、却って禁止された浮世絵が欲しくなるもの。禁止令に対する反骨で、武将浮世絵ブームが到来したと言えるのです。
この禁令に触れたとして処罰されたのが、人気浮世絵師喜多川歌麿。1804年(文化元年)に、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材とした「太閤五妻洛東遊観之図」を描いて手鎖50日の刑に服し、わずか2年後の1806年(文化3年)に死没しています。
このような中、多くの浮世絵師達はこの禁令をくぐり抜け、武将の名前を少し変えた「偽名絵」(にせなえ)や戦国時代以前の武将の名前で本来描きたかった人物を当てさせる「謎解き絵」を発表しました。
武将浮世絵を得意とした浮世絵師には、「歌川国芳」、葛飾北斎、「歌川芳艶」、「歌川芳虎」、「月岡芳年」、「水野年方」などがいます。
その他
浮世絵の種類は、この世を謳歌する一般庶民の楽しみに合わせて、どんどん多様化していきました。
美しい花や蝶を描いた「花鳥絵」、人気力士を描いた「相撲絵」、無邪気な子どもの姿を描いた「子ども絵」、怪談話と共に楽しめる「ばけもの絵」、明治の文明開化を描いた「開化絵」(横浜絵)など。
特に、歌川国芳が描いた猫や金魚を擬人化した「擬人画」は、愛らしく大好評。人々の興味をくすぐる数多くの作品が描かれ、愛されたのです。