第7代将軍/徳川家継の生涯 - ホームメイト
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歴代最年少将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)の誕生
徳川家継の生い立ち

徳川家継
「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が生まれたのは、1709年(宝永6年)のこと。江戸幕府6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)の四男「鍋松」(なべまつ:徳川家継の幼名)として誕生しました。
徳川家宣は6人の子供を儲けましたが、体が強くなかった兄達は次々と早世(そうせい:若くして死ぬこと)してしまいます。このため、ひとり残った四男の鍋松が幼くして将軍の跡継ぎとなったのです。
1712年(正徳2年)、徳川家継が4歳のとき、父・徳川家宣が病に倒れます。病床で死期を悟った徳川家宣は、自身の側用人(そばようにん:将軍の側近で、将軍と老中・若年寄らを取り次ぐ役職)であった「間部詮房」(まなべあきふさ)と、側近「新井白石」(あらいはくせき)を呼び寄せると指示を遺しました。
そのなかで、徳川家宣は次期将軍に関して2通りの考えを提示しています。ひとつは、徳川御三家のなかでも家格の高い尾張徳川家の「徳川吉通」(とくがわよしみち)を次期将軍とし、鍋松の成人後のことも、徳川吉通に一任する、と言う考え。もうひとつは、鍋松を次期将軍とし、徳川吉通を後見役として政務を執らせるが、もしも鍋松が早世すれば徳川吉通に将軍職を継がせるようにするという考えでした。
しかし、間部詮房と新井白石は尾張藩主である徳川吉通やその家臣の尾張藩士が「江戸城」(東京都千代田区)に登城することで起きる混乱を危惧し、後継者を立てないまま鍋松を擁立。反対意見もありましたが、1713年(正徳3年)に徳川家継は元服し、歴代将軍最年少の5歳で将軍になったのです。
徳川家継時代の政策

新井白石像
徳川家継が将軍職に就いたのは、たったの5歳であったため、本人の持つ政治力はほとんどありません。そのため、前将軍・徳川家宣の側近であった間部詮房と、新井白石の2人により政治が主導されていく「側近政治」と呼ばれる体制が採られました。
政策についても、前将軍・徳川家宣から引継ぎ、「正徳の改革」(しょうとくのかいかく)を続行。正徳の改革とは、中国の学問である儒学思想をもととした文治政治(ぶんちせいじ:学問や教養によって社会秩序の安定を図る政治)を行い、改革は財政や外交の他、教育などの多方面に及びました。
正徳の改革では、5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の時代に行われた改鋳による物価の高騰を抑えるために正徳小判を増やしたり、「海舶互市新例」(かいはくごししんれい)を発布することで、海外貿易において金・銀の流出を制限したりするなど、景気回復のための政策が採られています。また、教育改革も行われ、庶民が寺子屋で教育を受けられるようにするなど、学問重視の政策が進められたのです。
正徳の改革は一見成功を収めたかに見えましたが、儒学思想に基づいた政策であったことから理想と実生活の間に乖離があることや、台頭する新井白石や間部詮房を引きずり落としたい他幕閣の思惑もあり、政局の運営が滞るようになってしまいました。
そんななか、大奥内でも勢力が覆るスキャンダル「絵島・生島事件」(えじま・いくしまじけん)が勃発。当時の大奥では、徳川家継の生母「月光院」(げっこういん)が権勢を誇っていました。絵島・生島事件は、それを面白く思わない前将軍・徳川家宣の正室「天英院」(てんえいいん)が、月光院の側近であった「絵島」(えじま)を陥れようと仕組んだできごとだったとも言われています。
この事件によって月光院の地位は急落し、同時に月光院と繋がりのあった間部詮房や新井白石に反対する他幕閣らの勢力も強まるようになったのです。
徳川家継の幼すぎる死
徳川家継の人物像
父・徳川家宣との関係
父・徳川家宣は、徳川家継が4歳の頃に亡くなってしまいましたが、徳川家綱は父親をよく慕っていたと言われています。
江戸幕府の公式史書「徳川実紀」(とくがわじっき)によると、徳川家宣が能楽を好んで舞の練習をしていたことを思い出した徳川家継は自ら能舞台に上がり、「ととぽむ、ととぽむ」と言いながら父親が舞った能の真似をして見せたと記録されました。また、徳川家宣の死後には、父親が使っていた部屋を見て、涙を流してふさぎ込んでしまったとも言われています。
幼くして父親を亡くしてしまった徳川家継ですが、父親の死後は側用人の間部詮房を特に慕っており、間部詮房の官職である「越前守」から取った「えち」という愛称で呼んでいました。将軍に対して他の家臣が遠慮をして言えないようなことでも、間部詮房は徳川家継にはっきりと伝え、ときには厳しく叱咤したと伝わります。徳川家継は自分を教え導いてくれる間部詮房に亡き父の面影を見ていたのです。
家臣から見た徳川家継
徳川実紀では徳川家継について、「聡明でありながら父親に似て情け深く、立派な立ち振る舞いである」という記述があります。
あるとき、公家のひとりが徳川家継に謁見。公家が大きく頭を下げて礼をしたのに対し、徳川家継は自然な態度で、軽く頭を下げるだけの礼に留めました。幼いながらも将軍としての立場や振る舞いをしっかりと理解していた徳川家継を見て、周囲の家臣達は驚き、安堵したのです。
徳川家継についての記録は主に性格や人格に言及したものが多く、その記述からは、立派に育った徳川家継の治世を心待ちにしていた家臣が多かったことが察せられます。