徳川15代将軍

徳川慶喜

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「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、その聡明さによって遺憾なく発揮された政治手腕から、神君「徳川家康」の再来と評されていた江戸幕府「最後の将軍」です。その一方で徳川慶喜は、明治新政府軍と対立した「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)において敵前逃亡したために、「腰抜け」と揶揄されるなど評価が分かれています。徳川慶喜の生涯を紐解いてその人物像に迫ると共に、徳川慶喜の愛刀であった「刀剣ワールド財団」所蔵の「長巻 銘 備前長船住重真」についても解説します。

徳川慶喜の年譜

西暦(和暦) 年齢 出来事
1837年
(天保8年)
1 水戸藩(現在の茨城県水戸市)9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として誕生。幼名は「松平七郎麻呂」(まつだいらしちろうまろ)
1847年
(弘化4年)
11 一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)の養子となって同家の家督を相続。「一橋慶喜」と名乗る。13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の後継者候補となったが、14代将軍は「徳川家茂」(とくがわいえもち)に決定する。
1859年
(安政6年)
23 井伊直弼」による「安政の大獄」で謹慎処分を受ける。井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺され、徳川慶喜は政治の表舞台に復帰する。
1862年
(文久2年)
26 徳川家茂の将軍後見職を務める。
1864年
(文久4年/
元治元年)
28 将軍後見職を辞任し、「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)の座に就く。「禁門の変」(きんもんのへん)では幕府軍を指揮し、長州藩(現在の山口県)に勝利する。
1866年
(慶応2年)
30 14代将軍・徳川家茂が病死したことにより、15代将軍に就任する。
1867年
(慶応3年)
31 大政奉還」を行い、江戸幕府が握っていた政権を天皇に返上する。
1868年
(慶応4年/
明治元年)
32 戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)で大敗を喫する。「江戸城」(東京都千代田区)を新政府軍に明け渡す。「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)にて謹慎する。
1910年
(明治43年)
74 七男「徳川慶久」(とくがわよしひさ)に家督を譲る。
1913年
(大正2年)
77 病気で亡くなる。

徳川慶喜が将軍に就任するまで

天才児・徳川慶喜、一橋家の養子となる

徳川慶喜

徳川慶喜

1837年(天保8年)に水戸藩9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた徳川慶喜。

徳川慶喜が属したのは宗家の徳川将軍家ではなく、徳川宗家に継嗣がいない場合に将軍候補を提供するために宗家から分立した「徳川御三家」(とくがわごさんけ)のひとつ、「水戸徳川家」です。

当時の御三家では、徳川姓を名乗ることができたのは当主と嫡男のみで、それ以外は「松平」姓を用いていました。そのため徳川慶喜は、松平七郎麻呂と称していたのです。

父・徳川斉昭はこのとき、水戸徳川家から将軍を出すことを切望していました。それには心身の鍛錬が不可欠と考えた徳川斉昭は、自身が創立した藩校「弘道館」(こうどうかん:茨城県水戸市)にて、武芸はもちろん、「尊王/尊皇攘夷論」(そんのうじょういろん:天皇を尊び、外国を撃退しようとする思想)を説く「水戸学」を始めとした学問を松平七郎麻呂に叩き込んでいたのです。

なお松平七郎麻呂は、元服後に徳川斉昭の偏諱(へんき:貴人などが用いた2字名のうちの1字)を受けて、「松平昭致」(まつだいらあきむね)に改名しています。

利発な少年に育った松平昭致の噂は世間に広まり、1847年(弘化4年)には12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の命により、一橋徳川家の跡継ぎとなるべく同家に養子として迎え入れられました。一橋徳川家は、御三家と同じく将軍候補を提供する立場にあった「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつ。松平昭致は徳川家慶に気に入られて偏諱を授かり、一橋慶喜に改名。このとき徳川家慶は、一橋慶喜を次期将軍継嗣候補にしたいと考えていたのです。

そんななか徳川家慶が1853年(嘉永6年)に急死。このときはちょうど、浦賀沖にペリー率いる4隻の軍艦がアメリカより来航していた最中でした。動揺していた日本国民を混乱させないために、次期将軍を早急に決めなければならない状況となったのです。

しかし、宗家を継ぐ人物が将軍の座に就くことが原則であったため、13代将軍には徳川家慶が推挙していた一橋慶喜ではなく、徳川家慶の四男・徳川家定が就任することに。徳川家定には3人の兄がいましたが、すでに亡くなっていたため、人前に出ることがあまり得意ではなかった徳川家定が父・徳川家慶の跡を継いだのです。

また徳川家定は、病弱で子どもに恵まれなかったことから継嗣問題が浮上。一橋慶喜は、江戸幕府の老中首座であった「阿部正弘」(あべまさひろ)らの「一橋派」によってその候補に挙げられます。

ところが最終的には、一橋派と対立していた「南紀派」(なんきは)に半ば押し切られる形で、1858年(安政5年)、同派が推していた徳川家茂が14代将軍の座に就いたのです。これは、南紀派の中心人物であり幕府の最高職である大老を務めていた井伊直弼が、幕政において強い発言権を持っていたことが背景にあったと考えられています。

尊皇派として井伊直弼と対立する

父・徳川斉昭の悲願である将軍就任の好機を2度も逃した徳川慶喜でしたが、将軍の肩書にはあまり興味を示していませんでした。一方で徳川慶喜は、幕政には熱心に携わっていたのです。

1858年(安政5年)に井伊直弼が、アメリカより迫られた「日米修好通商条約」に、勅許(ちょっきょ:天皇の許可)を得ずに調印します。同条約には、外国人による犯罪を日本の法律で裁けない、日本に関税自主権がないといった、日本にとって不利な項目が多く含まれていました。

この井伊直弼による調印は、アメリカから決められた返答の期限に間に合いそうになかったため、やむを得ず行ったとする見解もあります。しかし、尊皇派であった一橋慶喜は、井伊直弼が身勝手な行動に出たと捉えて怒り心頭。井伊直弼のもとへ出向いて、直接問いただしたのです。これが要因となり、一橋慶喜は謹慎処分を科されます。そして一橋慶喜は、一時的に幕政の表舞台から姿を消すことになったのです。

そののち井伊直弼は、尊皇派を弾圧する安政の大獄などの強硬政策を実施。このような井伊直弼の独裁は、尊皇派を始めとした人々の反感を買い、水戸浪士達によって暗殺されます。これが世に言う桜田門外の変です。

同事件によって井伊直弼が亡くなったことにより一橋慶喜は、1860年(安政7年/万延元年)は謹慎処分を解かれて幕政へと復帰。1862年(文久2年)に将軍後見職の座に就いた一橋慶喜は、京都にて朝廷を護衛すると共に、畿内の治安維持に従事する「京都守護職」を設けたり、各藩の財政を逼迫(ひっぱく)していた「参勤交代」制度を緩和したりするなど、政治改革を次々と実行。これはのちに「文久の改革」(ぶんきゅうのかいかく)と称され、高く評価されています。

このように一橋慶喜は、将軍になる前から優れた政治手腕を持ち、幕府のリーダーにふさわしい片鱗を見せていたのです。

徳川慶喜、将軍就任の悲願を叶える

そして一橋慶喜は、1864年(文久4年/元治元年)に京都御所を警護する幕府公認の役職・禁裏御守衛総督に就任。そして討幕派/倒幕派であった長州藩を討伐するために、同年と1866年(慶応2年)の2回に亘って「長州征伐」が繰り広げられます。

このうち「第二次長州征伐」では、もともとは幕府側に付いていた薩摩藩(現在の鹿児島県)が長州藩と手を結んで出兵を拒否したため、苦戦を強いられることに。さらには、幕府軍を指揮していた徳川家茂が滞在先の「大坂城」(現在の大阪城大阪市中央区)で急逝したため、幕府軍は窮地に陥りました。これを救済しようと一橋慶喜は、長州側に休戦協定を取り付けるために奔走し、実現させたのです。

休戦協定を交わした5ヵ月後に一橋慶喜は、将軍就任の要請を受けて、とうとう江戸幕府15代将軍の座に就きます。しかし一橋慶喜は当初、徳川宗家の相続を承諾したのみで、将軍就任については一旦保留にしました。

その理由には、前述した通り将軍職に興味がなかったことも考えられますが、渋々引き受けて恩を売った形にすることで、誰にも邪魔されることなく、自分の思い通りに幕政を取り仕切る思惑があったとも推測されています。

幕政改革の推進と大政奉還の詳細

徳川慶喜が実行した「慶応の改革」とは

15代将軍となった一橋慶喜は「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に名を改め、様々な分野における改革を推し進めていきます。徳川慶喜は、ペリー来航など外国の脅威が迫って来ているなかで、日本の国力を上げることが急務であると考えたのです。

慶応の改革」と呼ばれるこの幕政改革で徳川慶喜は、フランスの支援を受けて「横須賀製鉄所」を建設。そしてヨーロッパの行政組織を参考にし、新たな人材を登用します。さらには、フランス軍事顧問団の指導に基づいて新制陸軍を整備するなどして、軍制改革も積極的に行っていました。

徳川慶喜はこのような幕政改革を、歴代の徳川将軍が居城とし、政治的拠点でもあった江戸城には入らず、畿内に留まって朝廷と連携しながら実行していたのです。

徳川慶喜が慶応の改革を積極的に行ったのには、江戸幕府を頂点とした中央集権国家を改めて成立させ、徳川将軍家を何としてでも存続させたいという想いがありました。しかし日本国内では、そんな徳川慶喜の想いとは裏腹に、倒幕の気運が徐々に高まっていたのです。

倒幕派が急増した背景

そのような情勢のなか、時の天皇であった「孝明天皇」(こうめいてんのう)が1867年(慶応3年)に崩御されます。これは江戸幕府にとって、非常に由々しき事態。

と言うのも孝明天皇は、天皇の立場にありながら倒幕の意志はなく、幕藩体制を朝廷の伝統的な権威と結び付けて再編強化する「公武合体」(こうぶがったい)派でした。孝明天皇は熱心な攘夷論者であったため、幕府と朝廷が協力することで、何とか攘夷を遂行したいと考えていたのです。

この公武合体は、朝廷の不満を抑えつつ、強大な権力を取り戻したいと願っていた幕府にとっては都合の良い政治運動でした。

しかし徳川慶喜は幕藩体制とは言っても、あくまでも幕府のみが覇権を握ることを志していたため、薩摩藩や長州藩、土佐藩(現在の高知県)といったいわゆる「雄藩」(ゆうはん:江戸時代における勢力の強い藩のこと)の台頭を厭わしく思っていたのです。

そのため、当初から倒幕派であった長州藩らの不満を大いに引き起こしていました。そのような状況下で、公武合体派の中心的存在であった孝明天皇が崩御されたことで、もともとは同派に属していた薩摩藩なども倒幕派に転じ、その勢力が急速に広がっていったのです。

徳川慶喜が大政奉還を決断した経緯

武力をもって幕府を倒そうとしていた薩長の動きを察知し始めた徳川慶喜のもとに、土佐藩士の「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)より、朝廷に政権を返上することを提案する建白(けんぱく:上役や政府などに意見を申し立てること)が届きます。これが大政奉還です。

このときの徳川慶喜は、幕府が中心となる公武合体の実現はすでに厳しい状況にあると判断。さらに徳川慶喜は、大政奉還を実行して政権が朝廷に移れば、倒幕派が活動しなければならない名目を失わせることができると考えたため、この大政奉還の建白を受け入れることにしたのです。

尊皇論者であった徳川慶喜にとっては、大政奉還を取り立てて拒否する理由はありませんでした。また、例え政権を朝廷に返上したとしても、新政府の体制が整っていないなかでは、水面下で幕府の政権が維持できるという目論見があったと言われています。

またこの当時は、最終的には日本を占領しようとしていた欧米諸国より開国を迫られていたため、内乱を起こして隙を見せることは、何としてでも回避しなければなりませんでした。

二条城 東大手門

二条城 東大手門

そこで大胆にも思える大政奉還を実施することで、薩長との武力衝突を免れようと考えたのです。

こうして徳川慶喜は1867年(慶応3年)10月、「二条城」(にじょうじょう:京都市中京区)にて大政奉還を上奏(じょうそう:天皇に意見などを申し上げること)します。

そして朝廷からの使者によりこれが認められ、大政奉還が実行されることになりました。

王政復古の大号令から戊辰戦争へ

王政復古の大号令が発された理由とは

朝廷に政権が返上されたと言ってもそれは名目上だけであり、広大な領地を有し、朝廷の最高機関における事実上の長官「右大臣」(うだいじん)の役職を保持していた徳川慶喜が、変わらずに政治力を維持していました。

ところが、これを不服とした倒幕派の薩長や公家の「岩倉具視」(いわくらともみ)などが中心となり、1867年(慶応3年)12月に、「王政復古の大号令」を発してクーデターを起こします。孝明天皇の崩御により即位された「明治天皇」(めいじてんのう)ご臨席のもと、京都御所にて「明治新政府」の樹立を宣言したのです。

この王政復古の大号令によって徳川慶喜は、倒幕派より、領地も役職も返上する「辞官納地」(じかんのうち)を要求されます。これを聞き入れることは、徳川家が再び権力を握る可能性が限りなくゼロに近付くことを意味していました。しかし徳川慶喜は、一旦この要求に応じることで、新政府樹立の際に設けられた役職であり、政権の中心を担う「議定」(ぎじょう)の座に就くことを企んでいたのです。

そんななか江戸では、薩摩藩士の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が、志を同じくする浪士達と共に、強盗や放火などの挑発行為を繰り返し行っていました。そしてとうとう、江戸市中を取り締まっていた庄内藩(現在の山形県)の屯所において発砲。これに激怒した旧幕府は、江戸にある薩摩藩邸に火を放って焼失させたのです。

この事件により、「戦いを先に仕掛けてきたのは旧幕府側であった」とする既成事実が作られてしまいます。そして薩長ら倒幕派を中核とした官軍(新政府軍)と旧幕府軍が対立する戊辰戦争へ突入することになったのです。

戊辰戦争での敵前逃亡

1868年(慶応4年)1月2日に、約10,000人の旧幕府軍と約5,000人の新政府軍が、鳥羽(とば:現在の京都市南区)、及び伏見(ふしみ:現在の京都市伏見区)付近で接触。戊辰戦争の緒戦(しょせん:始まったばかりの頃の戦争)となる鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。

このときに新政府軍は「錦の御旗」(にしきのみはた)を掲げ、合戦における軍を指揮する権限を天皇から与えられていることを誇示します。すなわちこれは、旧幕府軍が「朝敵」(ちょうてき:天皇や朝廷に抗う敵)になったことを意味していたのです。

錦の御旗を見た旧幕府軍の兵士達は幕府に味方をしていながらも、天皇に反抗するのは恐れ多くてできないと、一気に戦意を喪失。徳川慶喜は兵士達と共に、拠点としていた大坂城へ戻ります。城内にて兵士達を鼓舞し、新政府軍と再び戦うことを宣言した徳川慶喜でしたが、夜の間に何人かの家臣を引き連れて、軍艦「開陽丸」(かいようまる)に乗って江戸まで戻ったのです。

そして総大将を失った旧幕府軍は瓦解し、大敗を喫する結末を迎えました。この敵前逃亡により徳川慶喜は、後世で「腰抜け」と揶揄されるようになったのです。

江戸無血開城とその評価

朝敵と見なされた徳川慶喜は、徳川家の菩提寺であった寛永寺にて自ら謹慎しました。そして1868年(慶応4年)2月には、旧幕府軍に属していた「勝海舟」(かつかいしゅう)に戦後処理を一任。

同年4月11日に勝海舟は、新政府軍の参謀を務めていた西郷隆盛との会談の場を設け、旧幕府における政治の中枢であった江戸城を新政府側に明け渡すことを決定したのです。

武力衝突が起こることなく平和的解決に至ったこの江戸城の開城は、江戸市民が誰ひとりとして血を流さずに済んだことから「江戸無血開城」と称され、現代では高く評価されています。

そののち、徳川慶喜は養子であった「徳川家達」(とくがわいえさと)に徳川宗家当主の座を譲り、自身は静岡に移って隠居生活を送りました。こうして動乱の幕末期が終わり、徳川慶喜が「最後の将軍」となったのです。

徳川慶喜に多大な影響を与えた渋沢栄一との関係

徳川慶喜の生涯を語る上で欠かせない人物と言えば、「日本資本主義の父」と評される「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。

これは、2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)のなかで、主人公の渋沢栄一と徳川慶喜の関係性を物語るエピソードがいくつも描かれていることからも窺えます。

2人が出会ったのは、徳川慶喜がまだ一橋家の当主を務めていた1864年(文久4年/元治元年)のこと。渋沢栄一は農民の身分であったにもかかわらず、同家の忠臣で付き合いのあった「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の推挙により、一橋慶喜への拝謁を果たし、同家に仕官することになったのです。そのなかで渋沢栄一は、一橋慶喜の才覚に惚れ込み、一橋家の家政を改善することに尽力します。やがて渋沢栄一は、一橋慶喜第一の重臣として認められていくことになったのです。

一橋慶喜が江戸幕府15代将軍に就任すると、渋沢栄一はそのまま幕臣に任じられます。ただし当時の渋沢栄一は、徳川慶喜は将軍よりも、それまで務めていた将軍後見職のように、誰かを補佐するほうが向いているのではないかと悩んでいました。一橋家の家臣時代から徳川慶喜の性格を深く理解していたからこそ、渋沢栄一は、そんな風に考えていたのかもしれません。

また、幕臣となった渋沢栄一の才能を見抜いていた徳川慶喜は、前述した慶応の改革の一環として行ったヨーロッパ留学の一員に、渋沢栄一を推薦しています。渋沢栄一が、この留学と「パリ万博博覧会」を視察して得た様々な知見が、明治時代以降、日本の近代国家への発展に大きく貢献したことは間違いありません。

このように、互いの才能を認め合っていた2人でしたが、徳川慶喜は静岡と東京での隠居生活を送り、一方で渋沢栄一は明治政府で官僚を務めるなどして別々の人生を歩むことになります。

しかし、これ以降の徳川慶喜と渋沢栄一は、主君と家臣という立場を超えて、どんなことでも心を開いて話せる唯一無二の友人として、徳川慶喜が亡くなるまで交流を続けたのです。

徳川慶喜の愛刀「長巻 銘 備前長船住重真」

戊辰戦争の終了後、静岡に隠居した徳川慶喜は、一時は明治政府の貴族院議員に就任しますが、その任期を終えると多種多様な趣味に没頭します。そのなかで最も得意としていたのは写真撮影だったと伝わっていますが、その他にも、刺繍や絵画などのインドアで楽しめるものから、弓道や自転車といったアクティブなものまで、様々な活動に取り組んでいました。

そんな徳川慶喜が自身の愛として所持していたのが、「刀剣ワールド財団」が所蔵する「長巻 銘 備前長船住重真」(ながまき めい びぜんおさふねじゅうしげざね)です。本長巻はもともと、陸奥国二本松藩(現在の福島県二本松市)歴代藩主である「丹羽家」(にわけ)に伝来した1振。のちに徳川将軍家に献上され、徳川慶喜が自身の愛刀としていたと伝えられているのです。

長巻は「薙刀」(なぎなた)とよく似た形状ですが、その大きな違いは反り具合にあります。どちらも刀身の先端付近で最も反りが大きくなる「先反り」(さきぞり)になっていますが、その反り具合は、長巻のほうが浅くなっているのです。

本長巻を手掛けた「重真」(しげざね)は、日本における刀の代名詞的な生産地である備前国(現在の岡山県東南部)にて鍛刀していた刀工です。その作刀には、1326~1360年(正中3年/嘉暦元年~正平15年/延文5年)頃の年紀(ねんきめい)が見られ、鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて作刀活動を行っていたことが窺えます。

本長巻の姿身幅(みはば)が広く、反りの浅い形状が特徴。さらに備前伝特有の鍛えが施された地鉄(じがね)は、板目肌(いためはだ)に杢目肌(もくめはだ)が交じり、映り(うつり)も鮮明です。また刃文は、中直刃(ちゅうすぐは)を基調として(におい)深く、小沸(こにえ)が付いています。

このように本長巻は、鎌倉時代から南北朝時代における刀の特長が顕著に現れているだけでなく、その姿も変えられずにそのまま現存していることから、資料的価値が高い貴重な作品と言えるのです。

長巻 銘 備前長船住重真
長巻 銘 備前長船住重真
備前長船住重真
鑑定区分
重要刀剣
刃長
63.7
所蔵・伝来
徳川慶喜 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕