刀剣に宿る武士道 - ホームメイト
- 小
- 中
- 大
刀剣は主君から与えられる名誉の証となった
日本にとって刀剣は歴史が深く、弥生時代の遺跡からも大陸から流れてきた物が出土されているほどです。また、古墳時代には国内独自の製法が確立されていることも、これまでの研究で明らかになっています。当初は祭事の際に使う物でしたが、平安、鎌倉と時代が進むにつれ品質が向上し、戦いのための道具となっていきました。
武家中心の時代において、部下は主君に忠誠を誓い仕える、主君は部下の奉仕に応え彼らの暮らしを保護・保証し、ときには土地や物などの褒美を与えるといった、武士道に準ずる概念が生まれてきます。
この頃から、刀剣は下賜をする物になっていきました。主君から褒美を貰うということは大変な名誉であり、自分の働きが認められた証。このようなやりとりのなかで武士にとって、刀剣の価値はただの道具から名誉の象徴や自分の矜持となるものへと変質していき、江戸時代以降の武士道に大きな影響を与えていくのでした。
江戸時代における刀と武士道

帯刀を許されることは、武士にのみ
許される大変な名誉だった
江戸時代に入ると、俗に士農工商と呼ばれる身分制度が確立。武士は最上位の階級と位置付けられました。そんな武士には、特権が与えられます。それが苗字を名乗れることと、刀を持てることでした。
江戸時代は俗に言う「太平の世」。完全にとはいかないものの、徳川幕府の統治のもと、争いのなくなった時代です。
この時代に刀を持つということは、自身が武士であるということが認められる証となりました。また、武士達は帯刀(たいとう)するということに大きな責任が伴うと考えるようになります。
確かに武士は刀を持ち、場合によってはその刀を抜くことができはしましたが、その権利を乱用することを良しとはしませんでした。特権階級に居るからこそ、己を律し、正しい行いをするときにこそ、刀を振るうべきと考えたのです。武士は主君に命懸けで仕え、国や人を守るために身をささげる覚悟や多くの責任を持つものである。江戸時代における刀は、まさに武士道精神を顕在化した存在として、忠義と名誉の象徴になったのです。
武士と同様に高い地位にいた作り手達「刀工」

武士の魂と言われた刀。その作り手である刀工もまた作刀に魂を込めていた
日本と海外の刀剣を比較した際の特徴的な違いに、日本は日本刀を作っていた職人を高く評価している点が挙げられます。
このことは鎌倉時代、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)がお抱えの刀工に官位を与えたのがはじまりと言われており、武士における刀の価値が変質し特別なものとなっていくにつれ、刀工達もまた評価されていきました。
刀工達も自身の仕事に誇りを持っており、神聖なものと考えていました。そのため、作業に入る前には斎戒沐浴(さいかいもくよく:飲食や行動を慎み、水を浴びて心身を清めること)をし、全身全霊を込めて事にあたったと言われています。その妥協しない姿勢は、武士道における「名誉」と通じるものがあると言えるでしょう。
刀剣にまつわる武士道
塩のお礼に送られた「一文字の太刀」

一文字の太刀はその由来から
「塩留めの太刀」とも呼ばれる
「敵に塩を送る」とは、敵の弱みに付け込まず、むしろ救いの手を差し伸べることを例えた慣用句。
領内の塩不足で苦心していた「武田信玄」を、ライバルだった「上杉謙信」が塩を送って救った故事が由来です。
相手を討ち滅ぼして領土を拡大していくことが常識だった戦国時代において、「戦いの決着は戦場で決めるべきであり、生活の場で決めるべきではない」との考えを持ち、貫いた上杉謙信。その義に対して武田信玄は精一杯の謝礼として「一文字の太刀」を送ります。上杉謙信もこの気持ちを汲み取り、一文字の太刀はのちの世まで上杉家で大切に保管され、現代まで受け継がれるに至りました。
伊達政宗による忠義を示す1振「鎬藤四郎」(しのぎとうしろう)
「鎬藤四郎」(しのぎとうしろう)は室町時代に管領職を務めていた細川家から「織田信長」らを経て「豊臣秀吉」のもとに渡ります。その豊臣秀吉の死後は、遺物として「伊達政宗」のもとに送られました。伊達政宗はこの鎬藤四郎を大切にしていたため、人に見せびらかすこともなく、元日のみ身に着けていました。
時代は流れ、政権が徳川幕府に移ったあと。第2代将軍の「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が仙台藩を訪れました。将軍をもてなす際は、自身が持つ蒐集品のなかからふさわしい物を献上するしきたりがあり、事前に訪れた徳川家の家臣と伊達政宗は、何を送るのが適切かを相談します。その際、徳川家の家臣は、「鎬藤四郎こそがふさわしい」と提案します。家臣は伊達政宗が鎬藤四郎を大切にしていたことを知ったうえで、それを献上することで忠誠を示せと暗に言っていたのでした。しかしこれを聞いた伊達政宗は激怒。「この刀は亡き豊臣秀吉公から賜った名誉ある物。そうやすやすと誰かに渡せる物ではない」と言ってのけました。
豊臣秀吉との縁と武士の名誉を貫いて、伊達政宗が守り抜いた鎬藤四郎の逸話ですが、実はこの話には続きがあります。晩年を迎えた伊達政宗は、跡を継ぐ息子「伊達忠宗」(だてただむね)に「鎬藤四郎を徳川秀忠様に献上しろ。そうすれば仙台城の普請は許可が下りるだろう」と伝えるのです。
この時期、伊達家は仙台城増築の申請を出していましたが、幕府から許可が下りませんでした。そんな幕府の首を縦に振らせるために、自分の大切にしていた刀を献上することを決めたのです。事実、伊達政宗の死後に家督を継いだ伊達忠宗は、鎬藤四郎を徳川秀忠に献上。その結果、仙台城の普請は無事、許可が下りました。義と名誉を大切にしつつ、家のために最善の策を打った伊達政宗。切り札の使い方がうまい人物だったことがうかがえます。