刀剣女子に人気の神社・仏閣 - ホームメイト
- 小
- 中
- 大
宝物殿や博物館で実際の刀を鑑賞できる神社や仏閣
織田信長にゆかり深い本能寺、珍しい大太刀の展示もあり

本能寺
京都府京都市にある「本能寺」(ほんのうじ)は、「織田信長」が重臣の「明智光秀」(あけちみつひで)に襲撃された、歴史的大事件「本能寺の変」の舞台となりました。
戦国時代最大の下剋上でありながら、確固たる謀反の理由が明らかになっておらず、現在でも人々から高い関心を集めている事件とも言えます。本能寺は、1415年(応永22年)に、本門法華宗(ほんもんほっけしゅう)の開祖「日隆」(にちりゅう)により、本応寺として創建されました。
本尊は、法華経の正式な題目「南無妙法蓮華経」の曼荼羅(まんだら)。本能寺は、他宗からの破却や戦乱、火災により、5度も焼失していますが、そのたびに移転や再建を繰り返し、復興を遂げてきた寺院です。1545年(天文14年)、「日承」(にっしょう)が、大伽藍(だいがらん:寺の大きな建物)を有して四条西塔院(しじょうにしのとういん:京都府京都市)に再建した際に、本能寺の変の舞台となりました。
当時の本能寺は、幅6mの堀や石垣を備え、境内は広く、城に匹敵するような防御力があったと言われています。しかし、本能寺の変において、再び焼失してしまったのです。その後1592年(文禄元年)に現在の場所に移転しました。
本堂は1928年(昭和3年)に建築史家「天沼俊一」(あまぬましゅんいち)氏が設計した建物で、有形文化財にも登録されています。本堂の南東には、織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)によって建てられた織田信長の御廟所(ごびょうしょ)もあり拝観が可能です。
本能寺の変では、織田信長の遺骨は見付からなかったため、御廟所には織田信長所用の太刀(たち)が納められたと言われています。本能寺の境内にある「大賓殿宝物館」(だいほうでんほうもつかん)では、これまでの災禍をくぐり抜けた貴重な史料や宝物が展示されています。
中国から伝来した唐銅香炉の「三足の蛙」(みつあしのかえる)や重要文化財の「梅樹雉雀文様銅鏡」(ばいじゅきじすずめもんようどうきょう)を始め、織田信長が寄進した「麒麟の香炉」(きりんのこうろ)や織田信長が所持していた茶椀「建盞天目茶碗」(けんさんてんもくちゃわん)など、織田家ゆかりの品々も。
そして、刀剣女子にも人気を集めているのが、織田信長の側近であり最期まで支えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)の「森蘭丸」(もりらんまる)が所持したとされる「大太刀 伝森蘭丸所要[陣太刀]」です。
1mを超える大太刀(おおだち)で、開戦時の合図、または御守りとして戦場に持ち込まれたと言われています。その他にも、時期や特別展によっては、珍しい刀の鑑賞も期待できるでしょう。
仙台藩・伊達家にゆかりある貴重な太刀を鑑賞できる!

鹽竈神社
宮城県塩竈市(しおがまし)に鎮座する「志波彦神社・鹽竈神社」(しはひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)は、鹽竈神社の境内に志波彦神社の社殿が遷宮されたことから、2社を合わせた名称で表記されています。
古代から東北地方で最も社格が高い神社として崇敬され、「奥州藤原氏」(おうしゅうふじわらし)も篤く信仰しました。また、歴女や刀剣女子からも人気が高い「伊達政宗」(だてまさむね)を藩祖とする仙台藩ともゆかり深い神社としても知られています。
江戸時代には、仙台藩藩主を務めた伊達家が、志波彦神社・鹽竈神社の歴代大神主を担っていたのです。志波彦神社・鹽竈神社の創建は定かではありませんが、奈良時代以前が起源とされ、平安時代初期の820年(弘仁11年)に編纂された文献に、「鹽竈神」の表記が登場。
古代から東北地方最大の神社として信仰を集めていたことを示しているのです。鹽竈神社の主祭神は「塩土老翁神」(しおつちおじのかみ)と言う老人の風貌をした神様で、海上安全や大漁祈願の信仰を集めており、塩や潮の神様とも考えられています。東北の地に、製塩法を伝えたという伝説もあるほど。
また、志波彦神社の祭神は「志波彦大神」という謎に包まれた神様で、土着神と考えられています。境内にある「鹽竈神社博物館」では、鹽竈神社に伝来する宝物や、歴史資料などの文化財が所蔵・展示されています。
注目は、奉納された刀。鹽竈神社では、歴代の仙台藩主が治世の節目において太刀の奉納を慣例化しており、貴重な文化財として現代に伝わっているのです。国の重要文化財に指定されている「太刀 銘 来国光」(たちめいらいくにみつ)と「太刀 銘 雲生」(たちめいうんしょう)を始め、貴重な日本刀も展示されているのでお見逃しなく。
時間をかけて参詣したい、現存最古の木造建築「法隆寺」

法隆寺
奈良県生駒郡にある「法隆寺」(ほうりゅうじ)は、現存最古の木造建築物として、1993年(平成5年)には、ユネスコの世界遺産に登録されています。長きに亘って日本の歴史を見守ってきた古刹(こさつ:古いお寺)であり、実は、天下泰平を成し遂げた「徳川家康」、そして徳川家ともゆかりある寺院です。
法隆寺は、聖徳宗の総本山で、「推古天皇」(すいこてんのう)と「聖徳太子」(しょうとくたいし)を開基として、607年(推古天皇15年)に創建されました。金堂や五重塔を中心とする西院伽藍(さいいんがらん)と、夢殿(ゆめどの)を中心とする東院伽藍(とういんがらん)に分けられ、仏像や仏画、仏具など多数の国宝、重要文化財を有する、日本の象徴とも言える寺院です。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、京都とのつながりが薄いと思われるかも知れませんが、実は「二条城」の築城を始め、「知恩院」(ちおんいん)の造営など、京都にある寺院の整備も行っています。
そして、江戸幕府を開いたのち、徳川家にとって最大の脅威だった豊臣家を滅ぼした「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」において、徳川家康は、法隆寺子院の「阿弥陀院」(あみだいん)に宿泊して法隆寺に参拝し、戦勝祈願を行っているのです。
また、豊臣家は法隆寺に対して、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)による大修理の恩顧に応えて豊臣方に味方するよう密使を派遣しましたが、法隆寺はこれを断り、徳川方に付きました。徳川家康が宿泊した阿弥陀院は徳川家の聖地となり、現在は残っていませんが、境内に徳川家康を祀る「東照宮」も造られたと言います。
この他にも、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の側室「桂昌院」(けいしょういん)が寄進した灯籠も現存。仏門に帰依していた桂昌院は、黄金500両に米200俵、徳川家の家紋「三葉葵」と桂昌院が養女に入った本庄家の家紋「九ツ目結紋」(ここのつめゆいもん)があしらわれた銅製の灯籠などを法隆寺に寄進したのです。
境内に点在する建造物自体が貴重な文化財であり、見どころも多い法隆寺ですが、刀剣女子のみなさんへのおすすめは、「大宝蔵院」(だいほうぞういん)です。
国宝に指定されている多数の仏像や、厨子、絵画などの工芸品と並び、刀の展示も行われています。特に、聖徳太子の幼少時の守り刀と伝わる銅製・切刃造の直刀「銅七星剣」(七星文銅太刀)は必見です。
上杉家の忠臣祀る「松岬神社」と宝物を収蔵する「稽照殿」へ

松岬神社
「松岬神社」(まつがさきじんじゃ)は、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)を祀る「上杉神社」の摂社で、山形県米沢市にある「米沢城跡」内に鎮座しています。
1902年(明治35年)に、上杉神社が別格官幣社の社格を与えられたことにより、新たに松岬神社が創建されました。
そのあと、米沢藩2代藩主「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)や、「直江兼続」(なおえかねつぐ)を始め、名君主と謳われた米沢藩9代藩主「上杉鷹山」(うえすぎようざん)など、米沢発展に尽力した武将達を合祀。松岬神社の境内には、正座する上杉鷹山の銅像と、藩主の心得三箇条「伝国の辞」(でんこくのじ)の石碑も建立されています。
松岬神社、そして上杉神社を参詣したら、ぜひ訪れたいのが宝物殿の「稽照殿」(けいしょうでん)です。稽照殿には、上杉謙信を中心に、上杉景勝、直江兼続、上杉鷹山などの遺品や遺墨など、重要文化財や県指定文化財を含む、1,000点を超える宝物を収蔵・展示しています。
展示品には、甲冑(鎧兜)や武具、刀もあり、注目は、関東管領家の宝刀「太刀 無銘 伝元重」(たちむめいでんもとしげ)。この他にも、「愛」の前立(まえだて)で知られる直江兼続所用の「金小札浅葱糸威二枚胴具足」(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく)も鑑賞できます。
歴史に名を刻んだ剣豪とゆかりある神社や寺院
剣豪・宮本武蔵とゆかりある「八大神社」

八大神社
江戸時代初期の剣客「宮本武蔵」(みやもとむさし)と言えば、歴史に疎い人でも一度は耳にしたことがある名前ではないでしょうか。二刀流を発案し、生涯で60回余りの勝負で一度も負けたことがないとも伝わっています。
また、武道の奥義を記した兵法書「五輪書」(ごりんのしょ)の著者であり、晩年は熊本藩初代藩主「細川忠利」(ほそかわただとし)に仕えました。また、数々の時代小説やドラマ・映画などにもたびたび登場し、現在も人気の高い剣豪のひとりです。
宮本武蔵とゆかりのある神社のひとつが、京都府京都市の「八大神社」(はちだいじんじゃ)。宮本武蔵の生涯の中でも重要な戦いとされる、京都の兵法家「吉岡一門」との決闘の前に、八大神社に参拝し、悟りを開いたと言われています。宮本武蔵は、神仏を敬いこそしても、武芸においては頼ることなく、自分の力を信じることで、弱い心と迷いを断ち切ったのです。
この決闘も、境内の「一乗寺下がり松」があった場所で行われ、現在も境内には決闘当時の下がり松の古木が祀られています。八大神社の創建は、鎌倉時代の1294年(永仁2年)に勧請されたことが始まりで、祭神は「素盞嗚命」(すさのおのみこと)、「稲田姫命」(くしなだひめ)、「八王子命」(はちおうじのみこと)。地域の氏神様として、長きに亘って人々に親しまれています。
また、毎年5月5日に開催される「神幸祭/氏子祭」で行われる「剣鉾巡行」(けんぼこじゅんこう)は、京都市の無形民俗文化財です。剣鉾は、祇園御縁会(祇園祭)の山鉾と同様に、869年(貞観11年)、寺院の「神泉苑」(しんせんえん:京都府京都市)に、66本の鉾を建て疫病退散を祈願した「祇園御霊会」に由来。
巡行に使用される剣鉾の大きさは6m、重さ30kgを超えるほどで、古来より途切れずに行われてきた伝統的な行事です。神幸祭(氏子祭)と合わせての参詣をおすすめします。
複数の供養刀を所蔵する「長円寺」は新選組との縁も

長円寺
京都府京都市伏見区にある「長円寺」(ちょうえんじ)は、阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊とする浄土宗の寺院で、歴女や刀剣女子からも人気の高い「新選組」(しんせんぐみ)に、ゆかりのある寺院としても知られています。新選組とは、開国論と攘夷論に揺れる江戸時代末期に、京都の治安維持を目的に結成された組織です。
「近藤勇」(こんどういさみ)や「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうし)など、腕に自信のある剣士が中心となり、「尊王攘夷思想」(そんのうじょういしそう:天皇を敬い、外国人を打ち払う考え)を持つ不逞浪士を取り締まりました。新選組の活躍は、様々な小説や映画でも幕末のヒーローとして描かれ、現在も根強い人気を誇っています。
江戸幕府側として幕末の京都を舞台に戦った新選組ですが、1867年(慶応3年)、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、「大政奉還」(たいせいほうかん)により、政権を天皇に返上。徳川家が260年以上統治してきた江戸時代は終わりを迎えます。しかし、徳川家は大政奉還後も実質的な政権を維持したため、倒幕の中心となって動いていた薩摩藩や長州藩は激怒。
ついに、1868年(慶応4年)、京都を舞台に、旧幕府軍と新政府軍がぶつかり合う「鳥羽・伏見の戦い」へと発展していくのです。新選組も参加したこの戦いでは、双方が大砲や小砲を撃ち合う激戦に発展し、多数の負傷者や戦死者を出したと言われています。このとき、長円寺は戦禍を免れ、野戦病院として機能しました。次々と運ばれてくる負傷者を手厚く保護し、戦死者を供養したのです。
現在も戦没者の供養を続ける長円寺には、複数の供養刀が奉納されています。一般公開はされていませんが、境内の「観音堂」には、奉納されている刀を紹介するパネルを設置。例えば、「脇差 銘 和泉守兼定」(わきざしめいいずみのかみかねさだ)は、戦死した会津藩士のために「誇りを守り続ける日本刀」として奉納されました。
和泉守兼定とは、美濃伝の名工「兼定」(かねさだ)の子孫が会津(現在の福島県)に移住し、会津藩お抱えの刀工として活躍した「会津の兼定」のこと。土方歳三も鳥羽・伏見の戦いで「和泉守兼定」の太刀を使用していたと言います。
この他にも、「憧れを持ち続ける日本刀」など深い意味を持った刀が、旧幕府軍の武士達が抱いた無念を慰めるための供養刀として奉納されたのです。刀剣女子のみなさんにも見応えのある内容になっていますので、ぜひ足を運んで、幕末の日本に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。