刀剣乱舞キャラのモデル刀を所蔵する博物館【香川県】 - ホームメイト
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丸亀市立資料館

丸亀市立資料館
「丸亀市立資料館」は、1972年(昭和47年)に設立された資料館です。丸亀城(現在の香川県丸亀市)の城郭内にあり、丸亀藩の藩主を務めた「京極家」(きょうごくけ)ゆかりの貴重な歴史・民族資料や郷土に関係する資料、美術工芸品など39,000点以上が所蔵されています。
なかでも、注目されているのが、刀剣乱舞キャラのモデル刀である、重要美術品の脇差「ニッカリ青江」。常設ではなく、3年に1度など、企画展で展示され、人気です。
このほか、丸山市立資料館には、京極家伝来品の市指定文化財「京極家道具帳」(きょうごくけどうぐちょう)や初代藩主の肖像画「京極高和像」(きょうごくたかかずぞう)、2つの神号が墨書された「二尊旗」(にそんばた)なども所蔵。変わり兜や丸亀城の木型模型「丸亀城木図」(まるがめじょうきず)や、かつて道しるべとして置かれていた石造物を集めた「芝生広場の石造物」、「民具展示室」までを鑑賞することができます。
施設名 | 丸亀市立資料館 |
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住所 | 〒763-0025 香川県丸亀市一番丁(丸亀城内) |
電話番号 | 0877-22-5366 |
施設情報 | 施設情報を見る |
観られる刀
ニッカリ青江
刀の特徴
ニッカリ青江を作刀したのは、備中国(現在の岡山県西部)の刀工集団「青江派」です。青江派とは、平安時代から南北朝時代後期にわたって活動した刀工集団。青江派が作る刀剣は「青江物」(あおえもの)と呼ばれました。平安時代の青江物は古青江(こあおえ)、鎌倉時代から南北朝時代前期の物が中青江(ちゅうあおえ)、南北朝時代後期の物が末青江(すえあおえ)で、大きく3期に分けられます。
したがって、南北朝時代前期に作刀されたニッカリ青江は、中青江。中青江こそが、青江物の全盛期です。長寸で反りが浅く、身幅が広く、実用的で豪壮な姿。しっかりとした直刃を基調とし、地鉄は深い淵を見るように奥深く青黒味を浴びて冴えた青江特有の「澄肌」(すみはだ)なのが特徴です。

にっかり女と子どもの化物
なぜ、ニッカリ青江と呼ばれるのかについては、諸説ありますが、いちばん有名なのが「享保名物帳」(きょうほめいぶつちょう)に記載されたお話。
昔、「中嶋修理太夫」という武士が、江州(ごうしゅう:近江国の別名で、現在の滋賀県)に化物が出ると聞いて見回りに行くと、真夜中にもかかわらず、子供を抱いた女が道端に立っていたのです。よく見てみようと目を凝らすと、女はニッカリ笑って、「殿様に抱いて欲しい」と子供を近付けてきます。あまりに気持ち悪かったので、武士は持っていた脇差でその子供を斬り捨てたところ、今度は女が「抱いて欲しい」と近付いてきたので、武士は女も斬り捨てました。
翌朝、武士がその場所に行ってみると、石燈籠が2つあり、2つとも頭部分が切り落とされていたのです。その日以来、化物はでなくなり、実体のない化物までを斬った中嶋修理太夫の脇差は、ニッカリ青江と呼ばれるようになりました。
この刀を戦国大名「柴田勝家」(しばたかついえ)が手に入れ、嫡男「柴田勝敏」(しばたかつとし)に譲り、1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝敏と戦って勝った「丹羽長秀」(にわながひで)が分捕って「豊臣秀吉」へと献上。嫡男「豊臣秀頼」(とよとみひでより)にわたり、「京極高次」(きょうごくたかつぐ)に与えられ、孫の京極高和が継承し、丸亀藩・京極家に伝来したのです。なお、丸亀城にも幽霊がでるという噂がありましたが、京極家がこの刀を持って入城してからは、一切、幽霊を見た人はいなくなったとのこと。
霊力が強く、逸話も素晴らしい刀でしたが、昭和時代に、一端京極家を離れて、個人所有となりました。しかし、1997年(平成9年)、市場に売り出された際に、丸亀藩のあった丸亀市が、丸亀城の築城400周年を記念して購入したのです。
本刀は、大鋒/大切先で、身幅が広く、豪壮な姿。表裏に棒樋を搔き、地鉄は大板目肌に地沸付き、地斑映りも現れる青江特有の澄肌で、刃文は匂いの引き締まった直刃に、小乱れ逆足まじる逸品です。
キャラクター紹介
ニッカリ青江は、穏やかな口調で、どこか妖しい空気を身にまとった、大人びた美青年です。背が高く、髪型はゆるくポニーテールを結び、前髪で右目が隠れています。服装は、紺色の軍服。化物退治をしたからか、肩には、マントのような白装束(死装束)を羽織っているのが特徴です。
修行の成果により、「ニッカリ青江極」へと成長することが可能。ニッカリ青江極は、ニッカリ青江よりも、さらに神秘的で華やかな雰囲気を醸し出していると言えます。