歴女に人気の戦国武将 - ホームメイト
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「織田信長」(おだのぶなが)
「破天荒さ」と「個性的なセンス」が魅力

織田信長
抜群の知名度を誇る「織田信長」は、「野性的」で「自由奔放」、「冷酷」と言うような言葉でイメージされることが多い戦国武将です。
実際に織田信長は父「織田信秀」(おだのぶひで)の葬儀の際、お焼香で用いる抹香(まっこう)を位牌に投げ付けるなど常軌を逸した行動を繰り返しており、その周囲には「尾張の大うつけ」と揶揄する人もいたのです。
しかし、このような豪勇さは、合戦における戦闘力の高さにも繋がっています。
例えば、1560年(永禄3年)に勃発した「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)では、敵対した「今川義元」(いまがわよしもと)の軍勢と約20,000人以上の兵力の差がある不利な状況でありながら、今川義元を討ち取りました。
そんな織田信長は、合戦のみならず政治面においても大胆な決断力で様々な政策を施行。そのなかでも良く知られているのが、「楽市楽座」(らくいちらくざ)と称される経済政策です。これにより織田信長は、美濃国・加納(現在の岐阜県岐阜市)や近江国・安土(あづち現在の滋賀県近江八幡市)といった城下町で自由取引市場を実現。民衆が商売をしやすくなるようにすることで、それぞれの城下町を発展させました。
織田信長の豪快な性格に周囲には困惑する人も多くいた一方で、合戦や政治においては優れた手腕を発揮していた武将だったのです。
おすすめ観光スポット:安土城跡(滋賀県近江八幡市)

安土城跡 天主閣跡
キリスト教の宣教師達と積極的に交流を図って南蛮文化を生活に取り入れるなど、常に時代の最先端を行っていた織田信長。そのセンスを肌で感じてみたい歴女の皆さんにおすすめの観光スポットが、織田信長の居城「安土城」の城跡です。
地下1階、地上6階で構成されていた同城は、日本のお城で初めて大型の近世式天守(てんしゅ:安土城では同音で[天主]と表記される)が設けられました。
また、発掘調査によれば安土城は、屋根の瓦に金箔が施されていたと推測されています。派手好きであった織田信長のセンスを活かした、非常に煌びやかな(きらびやかな)外観であったと考えられているのです。
現在の城跡には石垣や堀などの一部が残るのみですが、そのなかで歴女の皆さんに注目していただきたいのは、石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)によって築かれた石垣です。穴太衆による緻密な計算に基づいて積み上げられた安土城の見事なまでに美しい石垣は、一見の価値がある遺構です。
「上杉謙信」(うえすぎけんしん)
戦でも貫いた「義」の精神
越後国(現在の新潟県)の大名であった「上杉謙信」(うえすぎけんしん)は戦国時代の合戦において、負け知らずの戦績を多数残していました。そのため後世では、「越後の龍」や「軍神」といった異名を取っています。
上杉謙信が参戦したなかでも特筆すべき合戦と言えば、1553年(天文22年)、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名「武田信玄」との間で勃発した「川中島の戦い」(かわなかじまのたたかい)。約12年間、5回にも亘って繰り広げられた同合戦のなかで最も有名である、1561年(永禄4年)の第4次合戦において、上杉謙信と武田信玄の両大将による一騎打ちが満を持して行われたとする伝説が残されています。
その真実は憶測の域を出ませんが、このような伝説が現在にまで語り継がれているのは上杉謙信と武田信玄の両者に、「戦国最強」の武将であったイメージが根付いているからなのかもしれません。数々の合戦において勇猛果敢な活躍ぶりを見せていた上杉謙信ですが、それは決して領地を拡大したいと言う自身の野望を叶えるためではありませんでした。
前述した川中島の戦いが起こったのも、武田信玄から追われていた信濃国(現在の長野県)の豪族を救済したいと言う「義」の精神が背景にあったのです。
おすすめ観光スポット:林泉寺宝物館(新潟県上越市)

林泉寺
誰に対しても「義」の精神を以って接していた上杉謙信は、合戦で自ら先陣を切るなどして部下達の士気を上げ、厚い信頼を寄せられていました。そんな上杉謙信の人柄が窺えるのが、頭部を保護するための武具「車笠」(くるまがさ)にまつわる逸話です。
車笠は戦場で銃弾などの衝撃を受け流す機能を持った笠であり、自軍の足軽達のために上杉謙信自らが開発したと伝えられています。そして、この車笠の現物が保管されている場所が「林泉寺」(りんせんじ)の境内にある「宝物館」です。
こちらでは、車笠だけでなく上杉謙信直筆の書状など、貴重な展示品の数々を観ることが可能。さらに同寺には上杉謙信の墓所などもあり、戦国武将のなかで一、二を争う戦上手な武将であった上杉謙信が「義の人」としてどのような生涯を送ったのかを知りたい歴女の皆さんに、ぜひ訪れていただきたい観光スポットです。
「伊達政宗」(だてまさむね)
粋で豪勇な戦国武将
出羽国・米沢(現在の山形県米沢市)出身の「伊達政宗」(だてまさむね)は、江戸時代には仙台藩(現在の宮城県)の初代藩主を務めていた戦国武将です。
1584年(天正12年)、18歳の頃に「伊達家」の家督を相続し、1589年(天正17年)に起こった「摺上原の戦い」(すりあげはらのたたかい)に参陣。会津の「蘆名義広」(あしなよしひろ)軍に大勝利を収め、そのあともいくつかの合戦で優れた武勇を発揮して勝ち進んでいました。
そして、24歳で奥州の約3分の1を席巻(せっけん:激しい勢いで領土を攻め取り、勢力範囲を広げていくこと)することに成功し、約110万石を領する大大名となったのです。最終的には奥州の覇権を握った伊達政宗でしたが、天下を取ると言う野心に燃えていたため、さらに快進撃が続くと思われました。
しかし、すでに「豊臣秀吉」が天下統一の一歩手前まで上り詰めていたのです。そんななか伊達政宗は、豊臣秀吉と「北条家」の間で勃発した「小田原征伐」に参陣するように豊臣秀吉からの要請を受けます。
それ以前に伊達政宗は、豊臣秀吉に臣従する意思を示してはいたものの、まだ迷いがあったのか同合戦に遅参。豊臣秀吉はこれを咎める(とがめる)ために、伊達政宗に謁見の機会を与えます。
このときに伊達政宗は、葬儀や切腹などに用いる「白装束」(しろしょうぞく)を身にまとっていたのです。処刑されることを厭わない、伊達政宗の覚悟が表われた行動に豊臣秀吉は、その肝の据わった心意気を非常に気に入り、重い処罰を下さなかったと言われています。
おすすめ観光スポット:みちのく伊達政宗歴史館(宮城県宮城郡松島町)
「人目を引くほどオシャレ」、「粋である」ことを意味する「だて[伊達]」と言う言葉の由来となった伊達政宗。隻眼(せきがん)であったことから、「独眼竜」(どくがんりゅう)とも呼ばれていました。
しかし、大きな三日月の前立(まえだて)が装着された兜や、5色の水玉模様が配された陣羽織などを所用し、個性的でスタイリッシュなセンスが窺えることから、現代のゲームやドラマなどでは、いわゆる「イケメン」として描かれることの多い戦国武将です。
こういったところも伊達政宗が歴女の皆さんに人気がある理由のひとつだと言えますが、なかには「伊達政宗が本当に容姿端麗であったのか」と言う疑問を抱く人もいるのでは。そんな人に足を運んでいただきたい場所が、宮城県にある「みちのく伊達政宗歴史館」です。
こちらの博物館では、伊達政宗の墓所から発掘された頭蓋骨をもとに復元された、伊達政宗の顔の模型が展示されています。この他にも伊達政宗の生涯を学べる展示品が多数あり、伊達政宗ファンの歴女の皆さんはもちろん、戦国武将や歴史ファンの皆さんも楽しめる観光スポットです。
「真田幸村」(さなだゆきむら)
日本一の強さを持った戦国武将
「真田幸村」(さなだゆきむら:本名真田信繁)は、武田信玄に仕えていた「真田昌幸」(さなだまさゆき)の次男であった戦国武将です。父・真田昌幸は、「徳川家康」を恐れさせるほどの戦上手であったと伝えられ、その血を引く真田幸村もまた、江戸時代以降の史料などで「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と記されているほどの高い戦闘力の持ち主でした。
それを証明する合戦のひとつが、1614年(慶長19年)及び1615年(慶長20年/元和元年)の2度に亘り「豊臣家」と江戸幕府の間で勃発した「大坂の陣」。豊臣方に従軍していた真田幸村は1度目の「大坂冬の陣」において、勇敢にも徳川家康の本陣まで自ら攻め込んで奮闘。
最終的に真田幸村は、2度目の「大坂夏の陣」において戦死してしまいましたが、徳川家康はその戦いぶりを高く評価。幕府のなかで、真田幸村を称賛することを許可したと言われています。
このように、勇壮に戦った逸話が数多く伝えられている真田幸村はゲームなどでも男らしく強いイメージでその姿を描かれることが多いため、歴女だけでなく男性からも人気を集めている戦国武将です。
おすすめ観光スポット:上田城跡(長野県上田市)

上田城
「上田城跡」は、1583年(天正11年)、真田幸村の父・真田昌幸によって築城された「上田城」の城跡です。このお城は、徳川軍が2度に亘って侵攻して来た際に真田幸村が父と共に立て籠もり、徳川軍を退却させたと言う逸話で知られています。
これがきっかけで「徳川家」が「真田家」を恐れるようになったのです。難攻不落であったと評される上田城は、真田家の強さを世間に知らしめたお城。現在観られるのは、江戸時代初期に、「仙石忠政」(せんごくただまさ)によって再建された城郭です。
現在は公園として整備され、市民の憩いの場となっており、「上田市立博物館」や「真田神社」などが点在しています。真田幸村のみならず、真田一族のことを学びたい歴女の皆さんにおすすめしたい観光スポットです。
「浅井長政」(あさいながまさ)
武勇に優れた愛妻家
北近江(現在の滋賀県北部)の戦国大名であった「浅井長政」(あざいながまさ)は、「浅井家」が南近江を領していた「六角家」(ろっかくけ)に従うことで、その勢力を保っていた時期に生まれました。
保守的であった父に対して浅井長政は、何としてでも浅井家を独立させたいとの思いから、1560年(永禄3年)、「六角義賢」(ろっかくよしかた)との間で「野良田の戦い」(のらだのたたかい)と称される合戦を繰り広げます。わずか16歳であった浅井長政にとって初陣となった合戦でしたが、約2倍の兵力差にも怯む(ひるむ)ことなく勝利を収め、六角家から独立することに成功。
これにより、家臣達からの支持を集めた浅井長政は、半ば強引な形で父から浅井家当主の座を奪っています。そのあと、浅井長政は織田信長からの申し出によって同盟を結び、その妹である「お市の方」(おいちのかた)と結婚。やがて2人は、「茶々」と「初」(はつ)、「江」(ごう)と言う3人の娘を授かりました。
ところが、浅井家と懇意にあった「朝倉家」(あさくらけ)を侵攻しないとする誓いを織田信長が破り、敵対することに。このとき浅井長政は、お市の方に「織田家」に戻ることを勧めています。この提案は2人が離縁することを意味していますが、お市の方を思う浅井長政の優しさがあってのこと。
これに対してお市の方は夫からの提案を受け入れず、夫と添い遂げる道を選んだのです。このように仲睦まじく愛妻家であった一面も、浅井長政が歴女に人気のある理由のひとつだと言えます。