紀州徳川家の歴代藩主 - ホームメイト
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紀州徳川家の歴史
2人の将軍を輩出した紀州徳川家

紀州藩
紀州徳川家は、江戸時代の徳川将軍家の分家で、「尾張徳川家」、「水戸徳川家」と共に「徳川御三家」のひとつです。
家祖は徳川家康の十男・徳川頼宣で、紀州藩主として紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)と伊勢国(現在の三重県北中部)を治め、石高は555,000石でした。また、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)と14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)という2人の将軍を輩出した家柄でもあります。
居城である和歌山城は、安土桃山時代に、「豊臣秀吉」の弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)によって建てられました。その後、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」のあとに「浅野幸長」(あさのよしなが)によって大改修が行われ、この際に天守が設けられます。さらに、1619年(元和5年)に城に入った徳川頼宣も拡張工事を実施。漆器やミカン栽培など、産業振興にも力を入れ、紀州藩の基礎を築きました。
明治維新まで続いた紀州徳川家
2代藩主「徳川光貞」(とくがわみつさだ)は31年にわたって藩主を務め、良策を講じるなど、領民からの信頼も厚かったと言います。3人の男子に恵まれ、嫡男「徳川綱教」(とくがわつなのり)は江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の長女「鶴姫」(つるひめ)と結婚。これにより紀州徳川家は将軍家とのつながりを強めますが、1704年(宝永元年)に鶴姫、1705年(宝永2年)に徳川綱教が相次いで死去します。その後、4代紀州藩主となった「徳川頼職」(とくがわよりもと)も早逝したため、徳川吉宗が5代藩主になりました。
その後、徳川吉宗が将軍に抜擢されると、支藩である西条藩(さいじょうはん:現在の愛媛県西条市周辺)の「西条松平家」出身「徳川宗直」(とくがわむねなお)が紀州藩主を務めます。7代、8代は順調に嫡子相続が続き、江戸時代後期になると11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の養子が紀州藩主を務める時期が続きました。13代藩主「徳川慶福」(とくがわよしとみ:のちの徳川家茂)は14代将軍に選ばれ、その養子であった「徳川茂承」(とくがわもちつぐ)が最後の紀州藩主を務めたのです。
有名な紀州徳川家の藩主
徳川吉宗

徳川吉宗
徳川吉宗は紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ、1697年(元禄10年)に紀州藩邸を訪れた徳川綱吉に謁見。13歳で30,000石を拝領し、葛野藩(かずらのはん:現在の福井県越前町下糸生)の藩主に任命されました。幼い頃は徳川綱教と徳川頼職ら兄よりも下の立場でしたが、両兄が相次いで亡くなったため、1705年(宝永2年)に紀州藩主となります。
藩政改革に尽力して質素倹約の政策を推進し、徳川吉宗自身も木綿服を着用するなど、つつましやかな生活を実践。地道に財政再建に取り組んだ結果、江戸幕府からの借金や、宝永地震・津波による被害からの復興など、課題を抱えていた藩政の立て直しに成功しました。
その他にも、和歌山城に「目安箱」(めやすばこ)を設置したり、文武を奨励したりと、多岐にわたる改革を実施しています。
その後、1716年(享保元年)に将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が亡くなると、将軍後継者が途絶え、徳川御三家の中から後継者選びが行われました。その際、尾張藩(現在の愛知県名古屋市)の藩主「徳川継友」(とくがわつぐとも)と、紀州藩の徳川吉宗の名が挙がりましたが、大奥の強い推挙により徳川吉宗が将軍に就任。紀州藩主として取り組んだ質素倹約の政策を江戸幕府でも行い、その政治改革は「享保の改革」として知られています。
徳川慶福(徳川家茂)
徳川慶福は1846年(弘化3年)、11代紀州藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)の次男として生まれました。徳川斉順は徳川御三卿のひとつである清水徳川家(しみずとくがわけ)の当主だった人物で、その後、紀州徳川家の養子に入り、1824年(文政7年)に11代紀州藩主に就任。徳川斉順は徳川慶福が生まれる約2週間前に亡くなっており、徳川慶福誕生時には「徳川斉彊」(とくがわなりかつ)が12代藩主となっていました。そして、徳川斉彊も1849年(嘉永2年)に他界したことで、徳川慶福は4歳で家督を継承します。
この頃、江戸幕府内では将軍継嗣問題が勃発し、紀州徳川家は次期将軍に「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)を推す一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)と対立。大老「井伊直弼」が徳川慶福を支持したことで、1858年(安政5年)に徳川慶福は14代将軍に就任し、将軍の座に就く際に、徳川家茂へと改名したのです。
1860年(万延元年)、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されると、江戸幕府は公武合体(こうぶがったい:皇室と江戸幕府が協力して政治を行う体制)を推進。その一環として、徳川家茂は121代「孝明天皇」(こうめいてんのう)の妹「和宮」(かずのみや)と結婚しますが、その後まもなく徳川家茂は「長州征伐」(ちょうしゅうせいばつ)のため出向いた「大坂城」(大阪城とも書く:大阪市中央区)で、病に倒れ死去しました。
紀州徳川家の歴代藩主
初代紀州藩主:徳川頼宣

徳川頼宣
徳川頼宣は、1602年(慶長7年)に徳川家康の十男として誕生。2歳で水戸藩(現在の茨城県水戸市)の藩主に命じられます。ただ、水戸には住まず、徳川家康のもと「駿府城」(すんぷじょう:現在の静岡県静岡市)で養育されました。1609年(慶長14年)には駿河藩(するがはん:現在の静岡県静岡市)に移封となり、1614年(慶長 19年)の「大坂冬の陣」で初陣を飾ります。
徳川頼宣は戦国武将然とした剛毅な人物であったとされ、1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」でも活躍。徳川家康には重用されていましたが、徳川家康の跡を継いで将軍になった「徳川秀忠」(とくがわひでただ)は、徳川頼宣を紀州藩へ転封しました。この人事は、将軍の威信を世に見せ付けることが目的だったと考えられています。
その後、1626年(寛永3年)に、徳川頼宣には江戸幕府への謀反の疑いがかけられ、10年間の謹慎が言い渡されました。
2代紀州藩主:徳川光貞
徳川光貞は徳川頼宣の長男として生まれ、徳川頼宣が死去した1667年(寛文7年)に藩主となりました。徳川頼宣の謹慎中は和歌山城の増築などが禁じられ、藩政が進んでいなかったため、徳川光貞は藩主となったのちに検地や帳簿の整理、税制度の整備などを実施し、藩政の基礎を固めます。法を定め、慈愛にあふれる政治を行い、領民からも支持されていました。
さらに、嫡男・徳川綱教と江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の娘との政略結婚も進め、将軍家とのつながりを強化したのです。
3代紀州藩主:徳川綱教
徳川綱教は1665年(寛文5年)に生まれ、1685年(貞享2年)に鶴姫と結婚しました。1698年(元禄11年)、徳川光貞の隠居に伴って藩主となり、藩政を整えるため倹約政策を推進。徳川綱吉の跡を継いで次期将軍となることを期待されていましたが、1705年(宝永2年)に41歳で死去しました。徳川綱吉は甥の「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)ではなく、徳川綱教を後継者にしようと考えていたと言われます。
4代紀州藩主:徳川頼職
徳川頼職は徳川光貞の三男で、徳川綱教の弟にあたる人物です。1680年(延宝8年)に誕生し、1697年(元禄10年)に越前高森藩(現在の福井県越前市)30,000石の藩主になりますが、兄・徳川綱教の死によって急遽藩主の座を獲得しました。しかし、紀州藩主に就任してからおよそ3ヵ月で病没。その直前には徳川光貞も死去していたため、紀州徳川家は1705年(宝永2年)に3人の藩主を失うことになり、財政悪化にもつながりました。
5代紀州藩主:徳川吉宗
5代紀州藩主・徳川吉宗は、日々衣食の節制や心身の鍛錬を心がける堅実な性格を持つ一方、好奇心の強い人物だったとされており、江戸幕府将軍に就いていた時期には洋書の輸入を解禁したり、ベトナムから象を輸入したりもしています。この結果、江戸においては蘭学ブーム、象ブームが起こり、市井に流行を巻き起こした人物でもあるのです。
幕政では、享保の改革を実施。新田開発や「上米の制」(あげまいのせい:財政難解消のため、米を上納した大名の参勤交代の期間を短縮する制度)などを実施したことから「米将軍」とも呼ばれました。さらに、輸入に頼っていた砂糖の代替品としてサトウキビを栽培。飢饉の際に役立つサツマイモの栽培を全国に奨励するなど、商品作物の農作も推し進めました。
また、徳川吉宗は、時代劇「暴れん坊将軍」の主人公のモデルとしても有名です。徳川吉宗が貧乏旗本に扮して悪人を成敗するストーリーですが、時代劇の内容は創作が大部分を占めています。
6代紀州藩主:徳川宗直
徳川宗直は1682年(天和2年)、西条藩初代藩主「松平頼純」(まつだいらよりずみ)の五男として生まれました。正室の子である「松平頼雄」(まつだいらよりかつ)を兄に持っていましたが、松平頼雄は松平頼純によって廃嫡され、徳川宗直は西条藩の2代藩主となります。徳川宗直は徳川吉宗の従兄弟であり、徳川吉宗の将軍就任に際して、徳川宗直が紀州徳川家の藩主となったのです。藩政では財政健全化のため、藩札の発行、銅銭の鋳造事業などに尽力しました。
また、徳川宗直には正室がいませんでしたが、側室との間には複数の男児が生まれます。息子に自分の跡を継がせるのみならず、吉井藩(現在の群馬県高崎市)、湯長谷藩(ゆながやはん:現在の福島県いわき市)などへ養子を出したのです。紀州徳川家のなかでは比較的長寿で、1757年(宝暦7年)に享年76で死去しました。
徳川宗直は41年間藩主を務めましたが、藩政に劇的な変化は見られず、可もなく不可もない平凡な政治を行ったと評価されています。
7代紀州藩主:徳川宗将
「徳川宗将」(とくがわむねのぶ)は徳川宗直の長男として、1720年(享保5年)に江戸の紀州徳川家中屋敷(青山御殿)で誕生しました。父・徳川宗直が長年藩主を務めたため、38歳でようやく7代紀州藩主となります。藩政にはあまり積極的ではなく、代わりに仏教の普及に尽力。真言宗を庇護・奨励し、一方で日蓮宗を排斥しました。
徳川宗将は父・徳川宗直同様、男児を多くもうけ、挙母藩(ころもはん:現在の愛知県豊田市)の内藤家、西条藩の西条松平家、紀州藩家老の三浦家(みうらけ)、桑名藩(くわなはん:現在の三重県桑名市)の奥平松平家(おくだいらまつだいらけ)などにそれぞれ養子を出します。1765年(明和2年)、徳川宗将は江戸の和歌山藩邸(現在の紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡[東京都千代田区])で、46年の生涯に幕をおろしました。
8代紀州藩主:徳川重倫
徳川宗将の次男として生まれた「徳川重倫」(とくがわしげのり)は、1746年(延享3年)に誕生し、1765年(明和2年)に20歳で藩主となりましたが、1775年(安永4年)30歳で隠居。50年以上にわたる隠居生活ののち、1829年(文政12年)に享年84で死去しました。
徳川重倫の隠居は、江戸幕府から強制されたものだったと考えられています。というのも、徳川重倫は言動に問題がある人物だったとされるためです。家臣や側室にたびたび刃を向け、ささいな失態を咎めて20人以上の家来や侍女を斬殺したという逸話もあります。
ある時徳川重倫は、江戸の紀州藩邸の向かいにあった松江藩(現在の島根県松江市)の藩邸に向かって発砲しました。松江藩主が奥女中と共にやぐらで夕涼みをする姿を見て、自分の屋敷を見下していると難癖を付けたのです。この事件に江戸幕府は遺憾の意を示し、徳川重倫に登城停止を命じました。後日、江戸幕府の使者が徳川重倫を訪ねると、徳川重倫は「銃ではなく花火を打っただけだ。天下の親藩大名殿が花火の音にうろたえるとは何事か」と、馬鹿にしながら笑って反論したという逸話もあります。
9代紀州藩主:徳川治貞
「徳川治貞」(とくがわはるさだ)は1728年(享保13年)に徳川宗直の次男として生まれ、1741年(寛保元年)に4代西条藩主「松平頼邑」(まつだいらよりさと)の養子になりました。1753年(宝暦3年)に西条藩主となりますが、徳川重倫の隠居によってその後継となり、紀州藩に転封になります。このとき、徳川重倫には「岩千代」(いわちよ:のちの徳川治宝[とくがわはるとみ])という嫡子がいましたが、まだ5歳だったため、すでに領主を経験している徳川治貞が後継者として迎えられました。
徳川治貞は徳川吉宗を模範として倹約政策を実施。熊本藩(現在の熊本県熊本市)の8代藩主「細川重賢」(ほそかわしげかた)と肩を並べる名君として、「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」(きしゅうのきりん、ひごのほうおう)と呼ばれ、「麒麟公」(きりんこう)の異名も持ちます。徳川治貞は、約15年藩主を務めて隠居。その後も質素な暮らしを続け、死去するまでに100,000両の財産を蓄えたとされます。
10代紀州藩主:徳川治宝
徳川治宝は徳川重倫の次男で、1771年(明和8年)に生まれ、1782年(天明2年)に元服しました。1789年(寛政元年)には、徳川治貞の死を受けて10代紀州藩主となり、質素倹約の推進と併せて教育にも力を入れています。和歌山城下に学習館や医学館などの学問施設を設置し、江戸の藩邸や「松坂城」(現在の三重県松阪市)の城下にも同様の施設を設けました。ときには「本居宣長」(もとおりのりなが)を招いて講義を行うなど、藩士の育成に力を入れます。
また、徳川治宝は芸術にも造詣が深く、茶道や画道に精通。領内に陶器の窯を開かせて、南紀男山焼(なんきおとこやまやき)の発展にも貢献しました。1823年(文政6年)に大規模な百姓一揆が起こると、その責任を取って徳川治宝は藩主を辞任。隠居後も、藩政に影響力を持ち続けました。
11代紀州藩主:徳川斉順
徳川治宝の次に藩主になったのが、江戸幕府14代将軍・徳川家斉の七男・徳川斉順です。徳川斉順ははじめ清水徳川家を継いでいましたが、徳川治宝に男子がいなかったため、紀州徳川家は後継として将軍家から養子を取りました。藩主時代は、徳川治貞・徳川治宝の2人の元藩主が隠居生活を送っていたうえ、自身も贅沢な暮らしをしたため、藩は財政難に陥ります。しかし、1838年(天保9年)に発生した大飢饉では良策を講じ、領民を飢えから救いました。
さらに、先代から続いていた「紀伊続風土記」(きいぞくふどき/きいしょくふどき)を完成させるなど、藩の発展に寄与。徳川斉順は1846年(弘化3年)に亡くなりますが、嫡子がいなかったため、異母兄弟の徳川斉彊が跡を継ぎました。
12代紀州藩主:徳川斉彊
徳川斉彊は徳川家斉の二十一男として生まれ、清水家当主となったのちに紀州藩に入ります。紀州藩では、権力を握っていた徳川治宝が西条藩主「松平頼学」(まつだいらよりさと)を藩主に推挙していましたが、紀州藩附家老の「水野忠央」(みずのただなか)が徳川治宝の中傷を含む妨害工作を行い、江戸幕府の意向通りに徳川斉彊が12代藩主になりました。
1846年(弘化3年)、徳川斉彊が藩主に就任してすぐに、和歌山城天守が火事に見舞われます。修復工事には約2年かかり、その間徳川斉彊は江戸に滞在。工事が終わり、満を持して紀州藩に入ったものの病を患い、そのまま1849年(嘉永2年)に死去しました。
13代紀州藩主:徳川慶福
徳川慶福は、11代藩主・徳川斉順の次男で、江戸の藩邸で生まれました。徳川斉彊の死去によって徳川慶福はわずか4歳で紀州藩主に就任しましたが、藩主就任以後も江戸を離れることはなく、藩政にはほとんど関与していません。
1857年(安政4年)、江戸幕府13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の病気が悪化すると、将軍継承問題が起こります。将軍の座をめぐって紀州徳川家は一橋徳川家と激しく対立。徳川家定の判断で徳川慶福が14代将軍になり、徳川家茂に改名します。将軍となったあとは皇女・和宮と結婚し、公武合体運動を進めるも、長州征伐の際に道半ばにして死去しました。
最後の紀州藩主:徳川茂承
徳川茂承は西条松平家の生まれで、徳川重倫の弟にあたります。1844年(天保15年)、江戸の西条藩邸で生まれ、1858年(安政5年)に徳川家茂が将軍となると幕命が下り、紀州徳川家を相続しました。徳川家茂が亡くなると新将軍に推されるも辞退し、徳川茂承は徳川慶喜を推挙。その後、長州征伐の総督を務めましたが、「戊辰戦争」では病気を患い出陣できませんでした。「鳥羽・伏見の戦い」の最中は紀州藩で療養をしていましたが、通りかかった新政府軍に攻撃されかけます。しかし、抵抗する意思がないことを示すため藩兵と軍資金を献上し、それにより紀州藩に対する攻撃が取りやめになりました。
徳川茂承は、徳川家茂とは深い間柄で、第2次長州征伐の総督の指名は徳川家茂が直々に行ったとされます。大坂城の御座の間で、徳川家茂は徳川茂承に陣羽織を授け、それが2人の最後の対面となりました。明治時代に入ると、徳川茂承はそのまま和歌山藩知事を務め、1871年(明治4年)に東京へ移住。その後、1906年(明治39年)に享年63で死去しました。