室町幕府7代将軍/足利義勝 - ホームメイト
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足利義勝の生い立ち
父に溺愛されていた若君

足利義勝
足利義勝は、1434年(永享6年)に、室町幕府6代将軍・足利義教と側室「日野重子」(ひのしげこ)の間に生まれました。足利義教の最初の男児だったこともあって出産時から溺愛を受け、臍の緒を切ったのも足利義教だと言われています。
ところが8歳のとき、室町幕府を揺るがす大事件が勃発。父・足利義教が、有力守護の「赤松満祐」(あかまつみつすけ)に誅殺される嘉吉の乱が起こったのです。原因は、足利義教の「悪御所」(あくごしょ)と呼ばれた暴君ぶり。「次に狙われるのは我が身」と感じた赤松満祐が、先んじて足利義教を討ち取ったという顛末でした。
これにより、室町幕府の重臣達は、急遽対応を協議。後継者に足利義勝を立てつつ、成人するまでは管領・細川持之が中心となって、幕政を補佐することが決まったのです。なお、足利義勝は元服前でしたが、この頃からすでに「室町殿」(室町幕府の棟梁)と呼ばれ始めていました。
嘉吉の乱を起こした赤松氏への対応についても、取り仕切ったのは細川持之です。すかさず室町幕府軍を、赤松氏の本拠地である播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)へ派遣。しかし、足利義教の誅殺は、重臣達にとって歓迎すべき行動だったこともあり、なかなか守護達の足並みは揃いませんでした。そこで、積極的に動いたのが有力守護のひとり「山名持豊」(やまなもちとよ:のちの山名宗全[やまなそうぜん])。山名持豊は、赤松満祐を自害へ追い込み、約2ヵ月半で乱を鎮圧します。

水無瀬神宮
しかしこの間、室町幕府軍が出払っている隙を突いて「嘉吉の徳政一揆」(かきつのとくせいいっき)が発生。地侍(じざむらい:在野の武士)と農民によって結成された一揆軍は、総勢数万にも及び、一時期京都の街が完全に包囲される事態にまで陥りました。
結局、室町幕府側は、一揆軍の要求通りに「徳政令」(借金の帳消し)を発布。室町幕府の力が衰退していることが、白日の下にさらされる結果となったのです。このとき、足利義勝は表舞台には出ず、唯一の動向が「水無瀬神宮」(みなせじんぐう:大阪府三島郡)で赤松氏討伐を祈願した程度でした。
就任からわずか8ヵ月で病に倒れる
1442年(嘉吉2年)に、足利義勝はわずか9歳で元服し、室町幕府7代将軍に就任しました。管領も細川持之から「畠山持国」(はたけやまもちくに)へと受け継がれます。足利義勝は早速、畠山邸をはじめとする重臣達の館へ「御成」(おなり:君主が臣下の館を訪れて接待を受けること)を実施。早くも政務への意欲を見せていました。
また、就任から半年後には「朝鮮通信使」(ちょうせんつうしんし:李氏朝鮮の外交使節団)が来訪し政庁にて会見。実は朝鮮通信使に対して、足利義勝が幼いことを理由に、一度入京を断りました。しかし、来日の理由が足利義教の弔問だったことから入京を認めざるを得ず、足利義勝との対面が実現します。すると足利義勝は、年齢にそぐわない毅然とした態度を見せて周囲を驚かせました。会見の最中、赤松満祐の弟が朝鮮半島へ逃亡した噂を使節に伝え、討伐の依頼を行ったのです。このように、足利義勝は、早熟な人物だったことがうかがえます。
ところがその2ヵ月後、足利義勝は突如体調を崩し、危篤状態に陥ります。激しい腹痛に襲われ、薬を処方されてもまったく効果なし。すると発病から10日後、10歳という若さでこの世を去りました。死因は諸説ありますが、赤痢説が有力。その後、室町幕府は後継者問題に直面しますが、足利義勝の弟である「足利義政」(あしかがよしまさ)が次期室町将軍の候補となります。
また、足利義政は、当時8歳だったこともあり、当面は室町幕府将軍職を空位のまま、管領の畠山持国が政務を代行しました。そして、室町幕府内における3大勢力がしのぎを削る時代が到来します。すなわち管領の畠山氏、前管領の細川氏、そして嘉吉の乱にて赤松氏の領土を獲得した山名氏。これらの勢力が、のちの「応仁の乱」において主役となるのです。
足利義勝の逸話
足利義教との類似点
足利義勝は幼い頃から勉学に打ち込み、将来を嘱望された人物でした。しかし、性格にはやや難があり、物事が自分の思い通りにならないと、気分を害すという欠点がありました。その最たる例が、鶏の逸話です。
公卿「万里小路時房」(までのこうじときふさ)が書いた「建内記」(けんないき)によれば、足利義勝は鶏の飼育を趣味にしており、あるとき家臣「摂津満親」(せっつみつちか)が所有する大きな鶏を気に入り、差し出すように命じたことがありました。すると、思いがけず拒否され立腹。ここまでなら子供のわがままに過ぎません。何と足利義勝は、拒否された直後に、摂津満親の所領の調査を命令。つまり、隙があれば所領を没収しようと考えたのです。
調査結果については建内記に書かれていませんが、権力を自らの欲望のために利用する点、目的のために手段を選ばない傾向は、父・足利義教に酷似していました。早逝していなければ、足利義勝が暴君になっていた可能性も否定できません。
絵画の才能が高かった足利義勝
足利義勝は、絵画の才能に優れ、家臣に絵画を贈ることもありました。代表作は、亡くなる直前に家臣の「千秋持季」(せんしゅうもちすえ)に与えた「達磨図」(だるまず)。現在も「臨済宗」(りんざいしゅう)の「霊源院」(れいげんいん:京都府京都市東山区)に収蔵されており、鑑賞することが可能です。