鎌倉9代将軍

鎌倉幕府5代将軍/藤原頼嗣 - ホームメイト

文字サイズ
鎌倉幕府4代将軍を務めた父「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)の追放により、わずか6歳で鎌倉幕府5代将軍に就任したのが、「藤原頼嗣」(ふじわらのよりつぐ)です。「摂家」(せっけ:天皇を補佐する摂政と関白を輩出した藤原一族)のひとつ「九条家」(くじょうけ)の血を引くため、父同様「摂家将軍」(せっけしょうぐん)と称されました。しかし、鎌倉幕府将軍の在位はわずか8年間。執権を担う北条得宗家(北条家嫡流)と親密な関係を築いていたものの、「大殿」(おおとの)として君臨した父・藤原頼経の暗躍、反得宗家勢力による謀反の企てに巻き込まれ、失脚することになるのです。いったい背景には何があったのでしょうか。藤原頼嗣の生涯とともに、鎌倉幕府将軍の更迭に至った経緯などをひも解きます。

藤原頼嗣の生い立ち

北条得宗家から教育を施されていた若君

藤原頼嗣

藤原頼嗣

藤原頼嗣は、1239年(延応元年)に、鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経と「大宮局」(おおみやのつぼね)の間に生まれました。

鎌倉幕府5代将軍に就任した時期は極めて早く、わずか6歳。実はこのとき、父・藤原頼経が北条得宗家との関係を悪化させたことで譲位を迫られ、前倒しで鎌倉幕府将軍の位が巡ってきたのです。

ところが父・藤原頼経は、鎌倉幕府将軍を退いたあとも、大殿として藤原頼嗣を補佐。一定の影響力を保持し続けました。

その一方で、京にいる「九条道家」(くじょうみちいえ:藤原頼経の父)と共謀し、鎌倉幕府の実権掌握を画策。鎌倉でも、有力御家人の「北条光時」(ほうじょうみつとき)、「三浦泰村」(みうらやすむら)などの反得宗勢力と接近し、密談を重ねていたのです。

北条経時

北条経時

この動きは4代執権北条経時」(ほうじょうつねとき)も勘付いていましたが、それに対して採った方策はあくまで懐柔策。

1245年(寛元3年)に、北条経時の娘「檜皮姫」(ひわだひめ)を藤原頼嗣に嫁がせることで、極力波風が立たない形での争乱回避を目指していました。

状況が変わったのは、1246年(寛元4年)に、4代執権・北条経時が急死したことでした。これにより、反得宗家勢力の動きが活発化し、直後に北条光時が「宮騒動」(みやそうどう)という反乱未遂事件を起こしたのです。このとき、裏で糸を引いていたのが、父・藤原頼経でした。その後、父・藤原頼経が鎌倉から追放に処されたことで、藤原頼嗣はわずか8歳で実父と離ればなれになってしまったのです。

ここで思いがけない人物が、代わりに庇護者となります。父・藤原頼経の敵であるはずの5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)が、藤原頼嗣に対し、熱心に教育を施すようになったのです。学問は鎌倉幕府の実務官である「中原師連」(なかはらのもろつら)らを教師に付け、武術は有力御家人「安達義景」(あだちよしかげ)、「小山長村」(おやまながむら)などが指導。御家人に呼びかけて同年代の子息を集めるなど、養育環境にも配慮しながら、幼少の鎌倉幕府将軍を支えました。

藤原頼嗣も勉学への意欲が高く、1250年(建長2年)には「帝範」(ていはん)と呼ばれる帝王学の教科書を用いた勉強会に参加。このときは北条時頼も同席し、「貞観政要」(じょうがんせいよう)という唐(とう:7~10世紀の中国王朝)の名君「太宗」(たいそう)が残した問答集を進呈しています。

実はこの間、追放された父・藤原頼経はまたしても北条得宗家に対抗。1247年(宝治元年)に、三浦泰村らと共謀して「宝治合戦」(ほうじかっせん)を起こしました。戦い自体は三浦一族の滅亡で幕を閉じましたが、それでもなお5代執権・北条時頼が、謀反人の子息である藤原頼嗣に対して高水準の教育を施し続けたのは、ひとえに期待の表れだったとされています。

謀反事件の発覚により鎌倉を追われる

宝治合戦後も、鎌倉幕府将軍の位に留まり続けた藤原頼嗣でしたが、1251年(建長3年)に新たな火種が生じました。三浦一族の残党などを束ねて謀反を計画した、僧侶「了行」(りょうぎょう)らが捕縛されたのです。尋問の末に吐き出された自白は、驚くべきものでした。謀反計画の加担者の中に、藤原頼嗣の名が含まれていたのです。

ここに至って5代執権・北条時頼は、鎌倉幕府将軍の交代を決断。もはや摂家将軍の血脈が鎌倉にある限り、反得宗家勢力の旗頭になる事実を痛感し、皇族より新たな鎌倉幕府将軍を擁立する方向で、調整を開始しました。選ばれたのは、88代「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)の第1皇子「宗尊親王」(むねたかしんのう)。その後、藤原頼嗣は鎌倉から追放され、京への流浪の旅を強いられることになりました。

1256年(康元元年)に、父・藤原頼経が「赤痢」(せきり)にかかり死没すると、藤原頼嗣もあとを追うように死去。18歳の短い生涯を閉じました。死因は、当時日本中で猛威を振るっていた「赤斑瘡」(せきはんそう:はしか)。親子揃って、同時期に疫病が原因で死に至っていることから、劣悪な環境下で最期を迎えたと考えられています。

北条得宗家の隆盛

藤原頼嗣が鎌倉幕府将軍に就いていた計8年間は、北条経時と北条時頼の2名が執権を務めました。ただし北条経時は、藤原頼嗣が鎌倉幕府5代将軍に就任した翌年の1245年(寛元3年)に病没しており、藤原頼嗣にたずさわったのは、わずか1年。つまり、藤原頼嗣の鎌倉幕府将軍の在位期間のほとんどは、北条時頼が執権として辣腕を振るい、幕政を運営していたのです。

しかし、最初の数年は決して政治基盤が強固ではありませんでした。北条時頼が5代執権に就任した直後から、幕政を担う中枢機関「評定衆」(ひょうじょうしゅう)の大半が反目し、政務に支障をきたすほど混乱。理由は北条時頼の出自にありました。北条時頼は、北条得宗家の出身ではなく、4代執権・北条経時の弟であったことが、有力御家人に不満を抱かせていたのです。

転機となったのは、1246年(寛元4年)に、鎌倉幕府の重鎮・北条光時が、鎌倉幕府4代将軍・藤原経時と結託して起こした、宮騒動でした。ここで北条時頼は、謀反の動きを素早く察知し、機先を制して敵方を包囲。戦わずして降伏させることに成功しました。さらに、翌1247年(宝治元年)には、評定衆のひとりだった三浦泰村を宝治合戦で討ち、改めて執権の権勢を鎌倉幕府内に誇示。奇しくも度重なる内乱が、政治手腕を証明する結果を生んだのです。

こうして、対抗勢力を一掃した北条時頼は、満を持して幕政の大転換に踏み切ります。これまで敷いてきた有力御家人との協調路線を諦め、評定衆の代わりに鎌倉幕府の最高幹部機関である「寄合衆」(よりあいしゅう)を新設。言わば、北条得宗家による専制政治を開始したのです。

藤原頼嗣を鎌倉幕府5代将軍に据え続けて教育を施したり、謀反計画が発覚したことで藤原頼嗣に見切りを付け、宗尊親王を新たな鎌倉幕府将軍に迎え入れたりしたのも、すべて北条時頼の独断。このように、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣の在位期間は、北条得宗家が盤石の権力基盤を形成した時代とも言えます。