執権政治 - ホームメイト
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源氏の滅亡、北条氏の台頭

北条義時
源頼朝の亡きあとを継いで2代将軍となった源頼家は、当時まだ17歳という若さでした。なおかつ御家人(ごけにん:将軍と主従関係を結んだ武士)を統率する能力にもさほど恵まれていなかったため、実母の北条政子とその父の北条時政は、将軍である源頼家を差し置いて有力な御家人13人による合議制政治を始めます。
北条政子と北条時政は、対抗勢力である御家人を相次いで滅ぼすとともに、1202年(建仁2年)には出家させるという名目で源頼家を伊豆に幽閉。のちに源頼家は暗殺されてしまいます。翌1203年(建仁3年)、源頼朝の次男であり、源頼家の弟である弱冠12歳の源実朝(みなもとのさねとも)を3代将軍に据えると、北条時政は自らを執権と称して幕政で大きな権限を持つようになりました。
さらに1205年(元久2年)には、北条時政の次男で北条政子の実弟、北条義時(ほうじょうよしとき)が2代執権となります。
北条義時は1213年(建保元年)の「和田合戦」(わだかっせん)で有力御家人の和田義盛(わだよしもり)を滅ぼし、政所(まんどころ)と侍所(さむらいどころ)の両方の長官を兼任するなど、執権の権限をより強めていきました。
後鳥羽上皇の院政、反幕府運動
一方の源実朝は、幕府の実権を母の北条政子と祖父の北条義時に握られ、現実世界から逃避するように芸術や学問に傾倒します。京文化への憧れから後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)とも深く交流していましたが、幕府の内部にはそれを快く思わない者もいました。それは、後鳥羽上皇が1202年(建仁2年)あたりから朝廷で独裁的な院政を行っており、幕府に対抗し得る軍事力を持つために、西国(さいごく:現在の関西・九州地方)の武士達の囲い込みを着々と進めていたからです。
1219年(承久元年)、北条義時は源頼家の息子である公暁(くぎょう)をそそのかし、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で源実朝を暗殺させます。しかし、次の将軍の座を狙っていることを北条義時に察知され、公暁もその直後に殺害されてしまいました。これにより、源氏の直系は3代で断絶。北条義時は、源頼朝の遠戚であったわずか2歳の藤原頼経(ふじわらのよりつね)を京から迎えて4代将軍に据えました。
以降、北条氏は幼い摂家将軍(せっけしょうぐん:藤原氏直系の将軍)や親王将軍(しんのうしょうぐん:皇族の将軍)を擁立し、自身が執権として幕府の実権を握る執権政治を本格化させていきます。
朝廷が勢力を復興、後鳥羽上皇が兵を挙げる
藤原氏から藤原頼経を迎えて将軍とした背景には、後鳥羽上皇による幕府への裏切りがあります。
後鳥羽上皇が強力な院政を行い、朝廷に鎌倉幕府以前の勢力が戻りつつあったこの時期、幕府と朝廷の間では4代目の将軍を皇族から迎え入れる話が進んでいました。東国(とうごく:現在の関東地方)を中心に勢力を広めつつある幕府に朝廷が介入することで、後鳥羽上皇はその力を自らの手で制御できるようにしたかったのです。
しかし源実朝が暗殺され、源氏が滅亡したことで、後鳥羽上皇は鎌倉幕府が倒れると確信します。後鳥羽上皇は態度を一変させ、親王将軍を立てることを拒否するとともに、西国の有力地頭(じとう)の罷免を要求しました。この要求が幕府によって退けられたため、後鳥羽上皇は武力による倒幕の実行を決断。これが「承久の乱」です。
承久の乱で幕府が朝廷に圧勝する
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇によって発せられた北条義時追討の宣旨(せんじ:命令書)には、北条義時を討つべき理由や諸国の守護と地頭はすべて朝廷の支配下にあるべきだといった内容が記述されており、幕府に動揺が広がりました。
しかしこのとき、出家して尼僧となりながらも幕府内での強い影響力を維持していた北条政子が御家人を集め、源頼朝以来の幕府による「御恩」がいかに大きいものであったかを説いたことから、御家人らの士気は一気に高まります。
当初は京からやって来る上皇の軍勢を鎌倉で迎え撃つ予定でしたが、攻め入られる前に京へ向かうことになりました。
わずかな部隊を引き連れて鎌倉を出発した北条泰時(ほうじょうやすとき:北条義時の息子)に道中で多くの御家人が合流し、最終的に幕府軍は190,000の大軍になります。対する後鳥羽上皇も、北条氏に不満を持つ西国の御家人や寺社僧兵らを味方に引き入れて挙兵したものの、その数は20,000程度と思いの外少なく、幕府軍が宇治で上皇軍を破ったのち京を占拠。戦は幕府軍の圧勝に終わりました。
敗北を認めざるを得なくなった後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を撤回した上で、今回の挙兵は一部の廷臣(ていしん:朝廷に仕える臣下)が計画したもので自身は関与していないと弁明したとされています。その上で後鳥羽上皇は、以降は幕府の意向に全面的に従うことを誓いました。
承久の乱がもたらしたもの
京に入った北条泰時らは六波羅(ろくはら:現在の京都市東山区の一部)に居を構え、承久の乱の戦後処理にかかります。上皇軍に付いた朝廷の側近や御家人の処刑は上層部に留め、それ以外の廷臣や武士への処分は軽いものとし、朝廷から没収した3,000ヵ所以上の領地は、戦功のあった御家人らに分け与えました。これらの没収地を与えられた御家人は「新補地頭」(しんぽじとう)と呼ばれ、それ以前から地頭職にあった「本舗地頭」(ほんぽじとう)と区別されます。
続いて北条泰時は、朝廷内部の改革を始めました。承久の乱の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐に、その息子の土御門上皇(つちみかどじょうこう)と順徳上皇(じゅんとくじょうこう)はそれぞれ土佐と佐渡に配流(はいる:島流しの刑)。後鳥羽上皇による院政を止め、後鳥羽上皇の兄である行助法親王(ぎょうじょほっしんのう)を立てて幕府が朝廷に干渉できるよう統制下に置き、院政を行わせることにしました。
また、朝廷の監視と西国武士の統率を行う機関として、「京都守護」に代わって「六波羅探題」(ろくはらたんだい)を設置。初代探題として北条泰時が北方(きたかた)、北条時房(ほうじょうときふさ:北条泰時の弟)が南方(みなみかた)に就任しました。六波羅探題にはのちに様々な役職が追加され、京都の「小幕府」と呼ばれるような存在になっていきます。幕府の力が西国にも直接及ぶようになり、いよいよ幕府による全国支配の体制が整ったわけです。
北条泰時が執権政治を確立
鎌倉時代初期の朝廷と幕府による「公武二元支配」は、幕府が朝廷を支配下に置くことで終わりを遂げました。日本初の武家政権である鎌倉幕府を成立させた源頼朝の子孫の姿はすでにそこにはなく、幕府の実権を握るのは代々執権の座を世襲する北条氏になったのです。
承久の乱から3年後、1224年(元仁元年)に2代執権の北条義時が死去すると、六波羅から呼び戻された北条泰時が3代執権に就任。同じく六波羅から戻った北条時房は連署(れんしょ:執権の補佐役)となりました。翌1225年(嘉禄元年)には、北条政子と重臣の大江広元(おおえひろもと)が相次いで死去し、鎌倉幕府成立時に中心的役割を担った人物はほとんどが姿を消します。
いまや誰が見ても幕府の最高権力者である北条泰時が、執権ではなく将軍になるという選択肢もなかったわけではありません。しかし、もともと貴族の出である源氏とは違い、伊豆の小豪族に過ぎない北条氏が将軍となることには強い反発が生じることが目に見えていました。
また、北条一族の内部でも少なからず権力争いがあったため、北条泰時は執権の座を維持しながら御家人をうまく扱うことが最善策だと考えたのです。