小倉百人一首の歌人一覧

蝉丸と百人一首 - ホームメイト

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「蝉丸」(せみまる)は、平安時代の伝説的歌人です。蝉丸の生涯について、詳しいことは分かっていません。10世紀ごろの人物だった、60代「醍醐天皇」(だいごてんのう)の第4皇子だったなど諸説あり、謎が多い人物です。蝉丸に関する史料はほとんど残されていませんが、平安時代の説話集「今昔物語」(こんじゃくものがたり)と、鎌倉時代の軍記物語「平家物語」に、「逢坂の関」(おうさかのせき:現在の滋賀県大津市)の近くで暮らしていた盲目の琵琶奏者として登場します。蝉丸の伝説は能や浄瑠璃の演目にもなり、後世に語り継がれました。琵琶の名手だったことから、芸能の神様として人々に崇拝されています。「百人一首」(ひゃくにんいっしゅ:正式名称[小倉百人一首:おぐらひゃくにんいっしゅ])には、出会った者は必ず別れるという無常観を詠んだ歌が収録されました。

蝉丸の生涯

「今昔物語」に描かれた逸話

蝉丸は生没年未詳の歌人で、出自などは明確にされていません。しかし、「今昔物語」の中で、蝉丸は59代「宇多天皇」(うだてんのう)の第8皇子「敦実親王」(あつみしんのう)の「雑式」(ぞうしき:雑務をしていた下役人)として描かれています。

敦実親王は音楽に優れており、敦実親王が琵琶を演奏する音を長年聴いていた蝉丸は、自身も琵琶を巧みに弾くようになったと言うのです。琵琶には三大秘曲と呼ばれる曲があり、そのうち「流泉」(りゅうせん)と「啄木」(たくぼく)の曲を知っているのは、蝉丸だけでした。

蝉丸の噂を聞いた醍醐天皇の孫「源博雅」(みなもとのひろまさ)は、蝉丸の琵琶を聴きに夜ごと蝉丸が住んでいた逢坂へ行きますが、蝉丸は一向に弾こうとしません。

3年待ったある夜、蝉丸はとうとう琵琶をかき鳴らし、「なんと趣深い夜だろう。この世に私の他に趣を知る人がいないものか。管弦(かんげん:管楽器と弦楽器で演奏すること)の道を知る者が訪れてくれれば良いのに。その人と物語を語り合おう」と独り言をつぶやきます。

それを聞いた源博雅は、「私はまさにそのような者です。3年間この庵の近くに来ていました」と名乗り出ました。その後、2人は語り合い、蝉丸は琵琶の技を源博雅に伝えたと言われています。

また、「平家物語」にも似たようなエピソードがありますが、そこで蝉丸は醍醐天皇の第4皇子として登場。一説によると、54代「仁明天皇」(にんみょうてんのう)の第4皇子「人康親王」(さねやすしんのう)が同じく盲目の琵琶の名手であったため、時代の流れで蝉丸と結び付き、混同されたのではないかと考えられているのです。

蝉丸は琵琶以外の楽器も演奏し、鎌倉時代の歌論書「無名抄」(むみょうしょう)では、「三十六歌仙」(さんじゅうろっかせん:平安時代の和歌の名手36人)のひとり「良岑宗貞」(よしみねのむねさだ:僧・遍昭[へんじょう]の俗名)が、蝉丸に和琴を習いに行くと記述されています。

蝉丸伝説の舞台化

蝉丸の伝説は、能の演目としても有名です。能「蝉丸」では、醍醐天皇の第4皇子として描かれています。生まれつき盲目だった蝉丸は、勅命(ちょくめい:天皇の命令)を受けた廷臣(ていしん:朝廷に仕える臣下)「清貫」(きよつら)により、逢坂山に捨てられてしまいました。

勅命に従わざるを得ず、心を痛めて嘆く清貫に、蝉丸は「前世の報いであり、後世を思う帝の配慮だ」と伝えますが、清貫と別れたのち、蝉丸は泣きながら琵琶を弾いて自分の心を慰めたのです。

一方、蝉丸の姉「逆髪」(さかがみ)も、髪が逆立つ病にかかり、辺地をさまよっていました。たまたま逢坂山の近くで琵琶の音が聞こえたため、逆髪は弟の蝉丸がいることに気づき、2人は再会。思わぬ対面を喜びつつ、お互いの境遇を嘆き合いますが、やがて逆髪は新たな旅路へ出発し、涙ながらに別れるというあらすじです。

これをもとに、江戸時代浄瑠璃歌舞伎作者の「近松門左衛門」(ちかまつもんざえもん)は、浄瑠璃「蝉丸」を創作。その後も蝉丸は近世の芸能でたびたび題材となり、特に歌舞伎では数多くの「蝉丸物」(せみまるもの)と呼ばれる演目が生み出されました。

歌舞音曲の神として信仰を集める

関蝉丸神社

関蝉丸神社

蝉丸は盲目の琵琶法師の始祖とされ、逢坂の関周辺の3つの神社で、歌舞音曲(かぶおんぎょく:歌や踊り、演奏など音楽・芸能の総称)の神として祀られました。

3つの神社は総称して「蝉丸神社」と呼ばれ、平安時代には芸能にまつわる人々が参拝。

興業を行うためには神社発行の免許が必要とされ、蝉丸の信仰は全国に広がっていきました。

また、福井県丹生郡越前町には「蝉丸の墓」が存在します。流浪(るろう:さすらうこと)の果てに越前にたどり着いた蝉丸は、病気になった際、「私の遺体を七尾七谷[ななおななたに]の真ん中に埋めてくれ」と遺言を残して亡くなり、その地に墓が建てられました。蝉丸が舟に乗ってやってきたという「蝉丸の池」が位置するのも、墓の付近です。

各地に蝉丸の伝説があるのは、逢坂の関周辺で活動した放浪芸人達の数々の言い伝えが、偶像化された「蝉丸」に集約されたのではないかと考えられています。

蝉丸と百人一首

蝉丸は、百人一首の10番歌に名を連ねています。平安時代に編纂された「後撰和歌集」(ごせんわかしゅう)に収録されていた歌が、百人一首に採録。恋愛や風景を詠んだ歌が多いなかで、異彩を放つ歌です。百人一首の札も印象的で、蝉丸は唯一被り物を被った姿で描かれています。

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関

読み

これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも おうさかのせき

現代語訳

ここが、都を出て東国へ行く人も、反対に都へ帰る人も、そしてお互いに知っている人も知らない人も、別れてはまた逢うという逢坂の関なのですね。

解説

10番歌 蝉丸

10番歌 蝉丸

「行くも帰るも」、「知るも知らぬも」と対句(ついく:2つ以上の品詞の同じ語句を並べて強調を表す表現)を織り込むことで、リズミカルに仕上げています。

「逢坂の関」とは、かつて「山城国」(やましろのくに:現在の京都府南部)と「近江国」(おうみのくに:現在の滋賀県)の境にあった関所のこと。

この東側が東国(関東地方)とされていて、東国へ行く人も京の都に帰る人も通るため、多くの人が行き交っていた場所でした。

「知っている人も知らない人も、この関所で巡り会い、別れていくのだな」と、逢坂の関を人生に例え、出会った者は必ず別れるというこの世の無常を表現しています。

この歌の「詞書」(ことばがき:和歌の前書き)には、「相坂[あふさか]の関に庵室[あんじつ]を作りて住み侍[はべり]けるに、行き交[か]う人を見て」(逢坂の関に庵を作って住んでおりましたが、そこに行きかう人を見て)とあり、蝉丸が盲人ではなかったのではないかとも考えられているのです。

小刀百人一首 10番歌「蝉丸」

小刀百人一首 10番歌「蝉丸」

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