光る君へ 43話「輝きののちに」 - ホームメイト
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あらすじ(2024年11月10日放送分)
1014年(長和3年)、三条天皇の即位から3年が経ち、中宮・藤原妍子は姫皇子を出産します。しかし、藤原道長は、皇子でないことに失望しました。
そんななか、内裏で火災が発生します。三条天皇は枇杷殿へ移り、それまで枇杷殿にいた藤原彰子は、弟・藤原頼通の屋敷である「高倉殿」(たかくらどの)に移動。高倉殿には、敦康親王とその妻が住んでおり、思いがけない形で、敦康親王と藤原彰子は再会してしまいます。
藤原道長は、藤原道綱と共に三条天皇のいる枇杷殿を訪れると、2度にわたる内裏の火災は、天が怒っている証拠だと言い、三条天皇に譲位を進言しました。三条天皇はこれに激怒。そして、藤原道長がいつか自分に毒を盛るのではないかと疑念を抱くようになります。藤原実資は、信頼できる蔵人頭を置くことを助言しました。
後日、枇杷殿では、藤原道長が三条天皇に政務の報告をしています。そこで、三条天皇は、藤原道長の声が小さいと注意。暗いから御簾を上げるように蔵人頭に命じます。蔵人頭が御簾を上げると、文書を逆さに持って読もうとしている自分に気が付いていない三条天皇の姿がありました。
藤原道長は早速、四納言を集めると、三条天皇が目も見えず耳も聞こえないことを伝え、譲位に向けて準備を進めます。しかし、藤原行成だけは、三条天皇に同情的でした。やがて、藤原行成は、かつてのように藤原道長の役に立てていないこと、今後は自分の財を増やしたいことを理由に、大宰府への赴任を申し出ます。
即答を避ける藤原道長でしたが、心の中では、自分から離れていこうとする藤原行成に傷付いていました。
その後も、三条天皇は譲位を受け入れず、宋から取り寄せた薬で病状を治そうとします。そんな三条天皇のもとへ、息子の敦明親王と皇后の藤原娍子が訪ねてきました。敦明親王は、自分の友人である「藤原兼綱」(ふじわらのかねつな)を蔵人頭にしてほしいと懇願。三条天皇はこれを受け入れます。それを知った藤原実資は、息子の「藤原資平」(ふじわらのすけひら、演:篠田諒[しのだりょう])を蔵人頭にするという約束を三条天皇に反故にされ、ひどく憤慨しました。
月日が経ち、越後から藤原為時が帰京します。屋敷で、まひろ達が出迎えていると、双寿丸が駆け込んできました。藤原為時は、身分の差をものともせず、藤原賢子と親しく話す双寿丸の姿に驚きます。まひろは、「双寿丸が来るようになって、藤原賢子がよく笑うようになった」と告げました。
しばらくして、藤原隆家が藤原道長の部屋を訪ねてきます。実は、藤原隆家は狩りの場で目を負傷し、内裏に上がることもままならない状況でした。しかし、藤原実資から、大宰府に腕のいい医師がいることを教えられ、大宰府への赴任を望んでいたのです。藤原道長は、藤原行成と藤原隆家のどちらを大宰府へ赴任させるか迷いましたが、結局、藤原隆家を選びます。そのことを知った藤原行成は、不満を伝えますが、藤原道長は「自分の側にいてほしい」と胸の内を告げるのでした。
やがて、藤原隆家が「太宰権帥」(だざいのごんのそち:大宰府の長官代理)に任命されると、藤原隆家に仕える平為賢の従者である双寿丸も大宰府に行くことが決まります。藤原賢子は、自分も双寿丸に付いていきたいと告げますが、双寿丸にきっぱり断られました。
後日、藤原為時の屋敷では、双寿丸の門出を祝う宴が開かれます。藤原賢子は、切ない目で双寿丸を見つめるのでした。
ライターのつぶやき「藤原道長の思う政とは」
三条天皇との確執
禎子内親王の誕生

藤原道長
1014年(長和3年)、藤原道長の次女で三条天皇の中宮「藤原妍子」(ふじわらのきよこ/けんし)が初めての出産をし、皇女である「禎子内親王」(よしこ/ていしないしんのう)が誕生。待望の子供ではありましたが、皇子を望んでいた藤原道長に喜びはありません。
実際、藤原道長の日記「御堂関白記」(みどうかんぱくき)にも、藤原妍子の出産に関して何の感慨も記されていませんし、藤原実資の日記「小右記」(しょうゆうき)にも「悦ばない(よろこばない)様子が、甚だ(はなはだ)露わ(あらわ)であった」、「女を産みなされたことによるのだろうか。これは天の為すところだから、人間に関することはどうしようもない」と記されているのです。
藤原道長を疎ましく思っていたであろう三条天皇ですら、生まれた禎子内親王のことは可愛がったと伝えられています。「栄華物語」(えいがものがたり)によると、土御門殿(つちみかどどの)へ行幸して初めて禎子内親王と対面した際、髪がすでに豊かであった禎子内親王に「いかに?」と声をかけると、大きな声で応えてにこにこ笑ったので、「何と可愛い。この子はもう、父である私の見分けが付くのだ」と喜んだそうです。こうした周囲の反応と比較すると、よりいっそう孫皇女の誕生を喜ばなかった藤原道長の反応が非情で、野望に取り憑かれているように感じられます。
ちなみに禎子内親王はその後、66代「一条天皇」の第3皇子である「敦良親王」(あつながしんのう:のちの69代後朱雀天皇[ごすざくてんのう])と結婚。71代「後三条天皇」(ごさんじょうてんのう)を出産します。後三条天皇は「延久の善政」(えんきゅうのぜんせい)と呼ばれる政治を行い、積年の課題であった「荘園整理令」を実施するなどして、藤原摂関家の経済基盤に大打撃を与えることになるのです。
藤原実資の批判

藤原実資
43話で藤原道長は、三条天皇に譲位させるために「2度にわたる内裏の出火は、天がお上の政(まつりごと)にお怒りである証と存じます」と言う、不遜とも思える言葉を告げます。その際、三条天皇が文書を逆さに持っていたことや、声の小ささを指摘したことなどから、目と耳が悪くなっていることに気付いた藤原道長はこのあと、より一層強く譲位を迫るのでした。
これを受けて三条天皇より頼られるようになった藤原実資は、藤原道長のもとを訪れ、「思うがままの政とは何か」と藤原道長に尋ねます。すると藤原道長は、「民が幸せに暮らせる世を作ることだ」と答えたのです。しかし藤原実資は、「民の顔なぞ見えておられるのか」、「志を追いかける者が力を持つと、志そのものが変わっていく」と痛烈に批判。若い頃ならいざ知らず、今の藤原道長が民の暮らしを気にかけている様子は確かに感じられませんから、藤原実資の批判は的を射ていると筆者には思えました。
藤原道長の日記である御堂関白記では、この頃(1014年[長和3年]頃)については大部分が欠けているため、実際の藤原道長の思惑を探ることは困難です。「光る君へ」で時代考証を担当する歴史学者「倉本一宏」(くらもとかずひろ)氏は、1014年(長和3年)に藤原道長が三条天皇に譲位を要求していたことから、重要な記録を藤原道長自身が意図的に処分した可能性を指摘しています。そうであったとすると、この時期、相当な裏工作が行われていたとも考えられるのです。
御堂関白記に言及がないため、この頃の藤原道長の動向については藤原実資の書いた小右記が頼りとされているのですが、藤原道長が譲位を迫ったことに対して「奇である、怪である」といった藤原実資の憤った心境や、藤原道長、及びその周辺の人々への批判も多く記されています。「光る君へ」で描かれている通り、藤原実資は権力にこびない真面目な人物であり、藤原道長にとっては煙たい存在だったのでしょう。
三条天皇の眼病

三条天皇
平安時代は、眼病を患った人が多かったと言われています。糖尿病を患う人が多くいたため、糖尿病に由来する眼病にかかる人が多かったのです。
43話では「藤原隆家」(ふじわらのたかいえ)も目を悪くし、その理由を「尖った枝が刺さったため」と話していました。しかし、藤原隆家の眼病の原因も糖尿病ではないか、と主張する研究者もいます。藤原隆家の父「藤原道隆」(ふじわらのみちたか)も、兄の「藤原伊周」(ふじわらのこれちか)も糖尿病だったからです。
ただし三条天皇の場合は歴史物語「大鏡」(おおかがみ)に、時々は目が見えることもあったという記述があることから、精神的ストレスにより発症する緑内障の一種ではないかと言われています。この病気の場合、心身の安らぎによって一時的に眼圧が下がり視力が回復することもあると言われているのです。
しかし回復は一時的なものでしかなく、大鏡には、三条天皇が幼い禎子内親王の髪をなでながら「こんなに美しい髪を見ることができない辛さよ」と涙をほろほろとこぼされる様子を側近が見て、悲しく辛く、もったいないことと思ったと記されています。
三条天皇の眼病の原因がストレスだとすれば、内裏で2度も起こった火事が大きな負担となったのは確かでしょうが、やはり一番の原因は、藤原道長からのプレッシャーだったのではないでしょうか。多くの公卿が藤原道長の顔色ばかりを窺って、三条天皇を侮っているような状態だったのですから、味方の少ない三条天皇は非常に辛い状態だったはずです。
43話で三条天皇は病状改善のため、宋から取り寄せた薬を服用していました。しかし、その薬に含まれていた水銀などの成分が健康に悪影響を与え、皮肉な結果を招いたのではないかという説もあるのです。
藤原賢子の失恋
43話で目を怪我した藤原隆家は、藤原実資の勧めもあって大宰府(だざいふ:筑前国[現在の福岡県西部]に設置された地方行政機関)へ行くことになりますが、これが物語に思わぬ余波を生みます。まひろの娘・藤原賢子の想い人である双寿丸も、来年大宰府へ行くことが決まったのです。双寿丸の主人「平為賢」(たいらのためかた)が、藤原隆家に従って大宰府へ行くためだと、双寿丸は藤原賢子に説明しました。
藤原賢子は自分も付いていくと言いますが、足手まといだと断られます。身寄りがない双寿丸は、妹のような藤原賢子の家で温もり(ぬくもり)を感じられるのは楽しかったと伝えますが、「妹」のようだという言葉は暗に、恋愛関係ではないと言われているのも同然なので、その点も藤原賢子にとっては辛かったのではないでしょうか。
藤原賢子がまひろに失恋したことを話すと、まひろは「(双寿丸は)あなたを危ない目に遭わせたくないのではないの。泣きたければ、私の胸で泣きなさい」と慰めます。話したことである程度ふっきれたのでしょうか、藤原賢子は、双寿丸の思い出に残ってほしいから宴を開きたいと、気持ちを切り替えたのです。藤原賢子の聡明さ、前向きさが垣間見られた瞬間であったと言えます。
43話は政治的な思惑が入り乱れ、そのための摩擦も多く見られました。次回44話「望月の夜」では、いよいよ藤原道長が権力を極め、あの有名な和歌が登場するものと思われます。藤原道長の思う政とは何か、という問いに納得のいく答えは出るのかなど、来週の「光る君へ」も目が離せません。