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藤原道長が訪れた「唐崎神社」 - ホームメイト

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「唐崎神社」(からさきじんじゃ:滋賀県大津市)は、平安時代中期の公卿(くぎょう:朝廷に仕える高位の人物)「藤原道長」(ふじわらのみちなが)が祓(はらえ:けがれを清める神事)で訪れた由緒ある神社です。藤原道長は、平安時代に「紫式部」(むらさきしきぶ)によって著された源氏物語の主人公「光源氏」のモデルとなった人物のひとりと言われています。源氏物語の作中では、光源氏が禊ぎ(みそぎ:清い水につかり身体を清めること)をする場面が第21帖「少女」(おとめ)で描写されました。「藤原道長が訪れた[唐崎神社]」では、唐崎神社の歴史と、藤原道長との関係についてご紹介します。

唐崎神社の歴史

唐崎神社

唐崎神社

唐崎神社は、「日吉大社」(滋賀県大津市)の摂社(せっしゃ:本社に付属して建てられ、本社の祭神と縁故の深い神を祀る社)として、697年(持統11年/文武元年)に創建されました。

唐崎神社は、日吉大社の神職を務める一族の先祖「琴御館宇志丸」(ことのみたちうしまる)の妻「女別当命」(わけすきひめのみこと)を祀ることから「女別当社」とも呼ばれ、多くの姫君から参拝された神社です。

また祓の霊場として名高く、平安時代には朝廷で行われた占いのひとつ「七瀬之祓」(しちせのはらい)を執り行う一社として指定されたため、朝廷行事の際には必ず参詣されました。

唐崎神社は琵琶湖(滋賀県大津市)に面しており、景勝地としても有名です。藤原道長の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)、「藤原道綱母」(ふじわらのみちつなのはは)の「蜻蛉日記」(かげろうにっき)、「藤原実資」(ふじわらのさねすけ)の「小右記」(しょうゆうき)、「藤原行成」(ふじわらのゆきなり)の「権記」(ごんき)など、貴族達の日記にも多く描写されました。

その他、「柿本人麻呂」(かきのもとのひとまろ)や「清少納言」(せいしょうなごん)などの教養人の著書にも登場しており、なかでも清少納言は「枕草子」のなかで第一の崎として唐崎を挙げています。

唐崎神社と藤原道長の「禊ぎ」

藤原道長

藤原道長

平安時代、唐崎神社で行われた七瀬の祓とは、天皇の災禍を取り除くために、毎月、あるいは臨時で行われた神事のこと。

963年(応和3年)に始まり、のちに貴族にも波及しました。七瀬の祓を受けた貴族のひとりに藤原道長がおり、著作の御堂関白記に「1012年(寛弘9年/長和元年)藤原道長が唐崎へ祓に出かける」と記載があります。

七瀬の祓は唐崎の他20箇所で行われ、多くの貴族が禊ぎを受けました。

七瀬の祓が行われた場所
七瀬の種類 行われた場所
七瀬・大七瀬 難波、農太、河俣、大島、佐久那、谷、辛崎
霊所七瀬 河合、耳敏川、松崎、石影、東滝、西滝、大井川
賀茂川七瀬 川合、一条、土御門、近衛、中御門、大炊御門、二条末

源氏物語に描かれた唐崎神社

源氏物語では、「少女巻」で唐崎神社の祓が描写されています。光源氏の部下「藤原良清」(ふじわらのよしきよ)の娘が、五節(ごせち:朝廷で歌舞をする行事のひとつ)で舞姫を務めたときのことです。

「やがて皆とめさせたまひて、宮仕へすべき御けしきありけれど、このたびはまかでさせて、近江のは辛崎の祓へ、津の守は難波と、挑みてまかでぬ。」、現代語訳にして「そのまま全員を残らせておき、宮仕えさせるよう意向が出されたが、今回はいったん退出し、近江の守の娘は辛崎(唐崎)で、摂津の守の娘は難波で祓をすべく、競うようにして退出した」と描かれています。

唐崎神社の詳細情報

施設の正式名称 日吉大社摂社唐崎神社
所在地 〒520-0106 滋賀県大津市唐崎1-7-1
電話番号 077-578-0009
営業時間 日曜・祝日10:00~16:00
(ご祈祷受け付け、ご朱印・守札授与)
休業日 要問合せ([かぎや]は木曜日定休)
料金 無料
交通アクセス JR湖西線唐崎駅より徒歩15分
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