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紫式部の供養塔がある「慈眼堂」 - ホームメイト

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「慈眼堂」(じげんどう)は、滋賀県大津市にある廟所(びょうしょ:先祖、貴人を祀っているところ)で「天海僧正」(てんかいそうじょう)が祀られています。歴史上著名な人物達の供養塔(亡くなった人を供養するために建てられる石造りの塔)が数多くあり「紫式部」(むらさきしきぶ)もそのひとりです。他にも「徳川家康」、「桓武天皇」(かんむてんのう)などの供養塔も存在します。慈眼堂の建物自体は禅宗様(ぜんしゅうよう:鎌倉時代に中国から伝わった建築様式)仏殿で、西側は大きな阿弥陀仏(あみだぶつ)の石仏が並ぶ厳かな雰囲気がある廟所です。「紫式部の供養塔がある[慈眼堂]」では、慈眼堂の歴史、成り立ちについても解説します。

慈眼堂の歴史

慈眼堂

慈眼堂

慈眼堂は、「慈眼大師」(じげんだいし)とも呼ばれる天海僧正が祀られている廟所です。天海僧正は「織田信長」による比叡山焼き討ちの際、「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)の復興に尽力した人物。

「徳川家康」、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、「徳川家光」(とくがわいえみつ)の3代にわたって将軍家に仕えました。

さらに「日光東照宮」(栃木県日光市)や「東叡山寛永寺」(とうえいざんかんえいじ:東京都台東区)など高名な寺社を創建するという功績を残しています。

慈眼堂の成り立ち

慈眼堂は、天海僧正を祀るために建てられました。建てられた年代の具体的な史料はありませんが「天台座主記」(てんだいざすき)などによると、1646年(正保3年)と伝えられています。なお、慈眼堂には、歴代の天台座主(てんだいざす:比叡山延暦寺の最高位を持つ僧)の墓が存在。

特徴的な景観

慈眼堂の特徴は、宝形造(ほうぎょうづくり)や禅宗様といった建築様式。宝形造とは、平面が正方形だったり八角形だったりする建物にみられる屋根の形で、隅棟(すみむね)がすべて中央に集まる形をしています。

なお、禅宗様の建築様式が見られる建造物としても知られており、火灯窓(かとうまど:灯火をともす器具の形をした窓)や頭貫木鼻(かしらぬききばな)に彫刻が施されているところなどに特徴があるのです。

また、中央間には吹寄菱格子(ふきよせひしごうし)など、和様の建築要素が組み込まれているのも慈眼堂の特徴。正面には石灯篭(とうろう)が2列に並び、厳かな廟所の雰囲気が感じられます。慈眼堂の西側には阿弥陀仏や延暦寺の歴代座主の墓、五輪塔なども存在する、静かな廟所です。

慈眼堂に供養塔がある平安時代の人物

慈眼堂には歴代座主の墓の他、様々な人物の供養塔を見ることができます。平安時代の人物で、小倉百人一首に和歌が登場する、慈眼堂に供養塔が建てられている3名の人物をご紹介しましょう。

紫式部

紫式部

紫式部

紫式部は、平安時代の代表的な女流作家で「源氏物語」(げんじものがたり)を執筆しました。貴族の娘達の家庭教師役を任される才女として知られており、父親に男の子でないことを残念がられたエピソードは有名です。

和歌の才能にも恵まれ、小倉百人一首には「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな」の和歌が選出されています。

清少納言

「清少納言」(せいしょうなごん)は、紫式部と並んで称される平安時代の女流作家です。世界で最も古いとされる随筆(ずいひつ:筆者が体験したり見聞きしたりしたことを自由な形式で書いた文章)の「枕草子」(まくらのそうし)を執筆しました。小倉百人一首には「世をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」の和歌が残されています。

和泉式部

「和泉式部」(いずみしきぶ)は数多くの恋愛歴があることで有名な、紫式部の後輩にあたる人物です。小倉百人一首には「あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」の和歌が残されています。

慈眼堂の詳細情報

施設の正式名称 延暦寺慈眼堂
所在地 〒520-0113 滋賀県大津市坂本4-6-1
電話番号 077-578-0130
営業時間 境内自由
休業日 無休
料金 境内自由
交通アクセス 京阪坂本比叡山口駅から徒歩5分
施設詳細ページ

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