法華八講を受け継ぐ「日吉大社」 - ホームメイト
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日吉大社の歴史

日吉大社
日吉大社は、紀元前91年(崇神天皇7年)、10代「崇神天皇」(すじんてんのう)によって地主神(じぬしのかみ:田畑を守る、土地の神様)として創祀された神社です。
785年(延暦4年)に伝教大師「最澄」(さいちょう:天台宗の開祖)が「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)を建立したのちは、地主神としてだけでなく、天台宗の守護神としても崇敬を集めました。
「山王権現」(さんのうごんげん:神仏習合の神)と呼ばれるようになったのは、この頃からで、「唐」(とう:約300年続いた中国の王朝)の天台宗の総本山に祀られていた「山王元弼真君」(さんのうげんひつしんくん:唐の天台山の守護神)にちなんだと言われています。
さらに794年(延暦13年)に50代「桓武天皇」(かんむてんのう)が都を長岡京(京都府南西部)から平安京(京都市中京区)へ遷すと、日吉大社は鬼門にあたる北東に位置する神社となったため、鬼門除けや災難除けの役割も担うようになりました。
以来、日吉大社では、長きにわたり受け継がれてきた法華八講に加え、11世紀初頭からは神事「山王祭」(さんのうまつり:天下泰平と五穀豊穣を願う祭)を行っています。「長浜八幡宮」(ながはまはちまんぐう:滋賀県長浜市)の「長浜曳山祭」(ながはまひきやままつり)、「天孫神社」(てんそんじんじゃ:滋賀県大津市)の「大津祭」(おおつまつり)と並び、湖国三大祭のひとつになったのです。
源氏物語に描かれた「法華八講」
法華八講は、源氏物語の賢木巻、「明石巻」(あかしのまき)、澪標巻、「蓬生巻」(よもぎうのまき)、「御法巻」(みのりのまき)、「匂宮巻」(におうのみやのまき)、「蜻蛉巻」(かげろうのまき)の7つの場面で「御八講」(ごはっこう)として登場します。
賢木巻の法華八講

藤壺
なかでも特に詳しく描写されているのが、賢木巻です。賢木巻では、「光源氏」(ひかるげんじ)初恋の女性「藤壺中宮」(ふじつぼのちゅうぐう)が夫「桐壺帝」(きりつぼてい:物語の最初の天皇)崩御の折、供養のために執り行いました。
作中では以下の通り描かれているように、盛大な法要だったと記されています。
原文
十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり。いみじう尊し。日々に供養ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり
現代語訳
12月十余日ごろ、藤壺中宮が法華八講を行った。素晴らしく見事な法要だった。日々の供養に用いるお経をはじめとして、玉の軸、羅の表紙(うすもののひょうし:薄絹で装丁された巻物などの表紙)、帙簀(ちす:簾編みにした細かい竹を芯に、上から綾や錦で包んだ物)の飾りも、この上なく見事に整えられた
法華八講を終えると、藤壺中宮は出家。源氏物語の主人公・光源氏が理想の女性として思いを寄せる藤壺が出家前の区切りに執り行った法要として、描写されているのです。
御法巻の法華八講
源氏物語第40帖御法巻では、長く体調が優れない「紫の上」(むらさきのうえ:光源氏の正妻)が死を予感し、法華経の「千部供養」(せんぶくよう:経を1部ずつ、1,000部読み上げること、法華八講の一種)を執り行ったのち病没する場面が描かれました。
原文
私の御願にて書かせたてまつりたまひける「法華経」千部、いそぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける
現代語訳
私的に発願して写経した法華経を、急ぎ供養することとなった。紫の上の自邸、二条院で執り行うことになった。
死を目前にしながらも、光源氏に許されないため出家できずにいる紫の上が、最期に執り行った仏事として描かれています。
このように、法華八講は作中で、主軸となる登場人物の死や大きな転換点に関連して描写される、重要な位置付けにある法要です。法華八講の描写から、紫式部は、時の女流作家とは違った、法華八講に対して、敬虔(けいけん:神仏などを深く敬うこと)な信者の立場であったと窺えます。
日吉大社の詳細情報
施設の正式名称 | 山王総本宮 日吉大社 |
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所在地 | 〒520-0113 滋賀県大津市坂本5-1-1 |
電話番号 | 077-578-0009 |
営業時間 | 9:00~16:30 |
休業日 | 無休 |
料金 |
大人300円 小人150円 【団体割引有り】 30名以上270円 100名以上220円 |
交通アクセス | 京阪石山坂本線坂本比叡山口駅より徒歩10分 |
施設詳細ページ |
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