「べらぼう」あらすじとライターのつぶやき

べらぼう13話-② 「米価次第だった武士の給料」 - ホームメイト

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こんにちは!刀剣ワールドライター・あやめです。2025年(令和7年)3月30日(日曜日)、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(つたじゅうえいがのゆめばなし)の第13話「お江戸揺るがす座頭金」(おえどゆるがすざとうがね)が放映されました。様々な立場の登場人物が「お金」に翻弄される様子が描かれ、共感した視聴者も多かったのではないでしょうか?今回は「米価次第だった武士の給料」と題して、なぜ武士は「座頭金」に手を出すまで困窮したのか、その理由を深掘りしていきます。

大名から庶民まで借金が日常的だった江戸時代

用途に応じて細分化していった金融業

鳥山検校

鳥山検校

第13話に登場した座頭以外にも、江戸時代にはたくさんの金融業者が存在しました。一例を挙げると、大名専門にお金を貸していた「大名貸し」(だいみょうがし)、借りた翌日にすぐ返済することを条件に、零細個人事業主が商品を仕入れる際などに利用した「烏金」(からすがね)、武士が給料としてもらった米を担保に、お金を貸す「札差」(ふださし)などです。

座頭は、主に庶民に向けてお金を貸しており、無担保だったので金利が高く取り立ても厳しかったと言われています。このほか、布団をはじめとする資産価値がある物を担保にして、お金を貸す質屋も繁盛していました。

借金返済のために吉原へ身売りする女性も多かった

江戸時代は借金に関する法律が整備されていなかった時代です。そのため、座頭金では年利が平均して6割、なかには10割などの法外な事例もあったと言われています。また、借金の時効もないため、親の借金を子供が支払うケースも珍しくありませんでした。借金を一度に返済するために吉原へ身売りする女性も多く、特にもとは裕福であった商人や、武士の娘が身売りする場合、そのほとんどが、親の借金返済が理由となっていたのです。

武士の給料が米価に左右された理由

技術の進歩が米価の下落を招く

「富嶽三十六景 江戸日本橋」前北斎為一(葛飾北斎)筆

「富嶽三十六景 江戸日本橋」前北斎為一(葛飾北斎)筆

江戸時代、領地を持たない武士の給料は、主君から米で支払われていました。年貢として農民から徴収した米を、武士にそのまま給料として宛がっていたのです。武士は、このいわゆる「俸禄米」(ほうろくまい)を売って現金を得ていましたが、その作業を代行したのが札差でした。

米は需要が高ければ価格が上がり、低くなれば下がります。そのため、江戸幕府は米価の調整に苦労しました。8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が「米将軍」(こめしょうぐん)と呼ばれていたのは、なんとか米価をコントロールしようと尽力したからです。

「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)が生きていた江戸時代中期は、技術の進歩によって、江戸時代初期に比べると米を増産できるようになっていました。しかし、豊作になるほど米の希少価値が下がるため、米価も下落してしまいます。そして武士の給料も米価に比例して下がり、武士の生活は苦しくなっていったのです。

米価を決めた堂島米会所

「浪花名所図会 堂じま米あきない」歌川広重 筆

「浪花名所図会 堂じま米あきない」歌川広重 筆

江戸時代において米は経済の基盤でしたが、価格を決めていたのは武士ではなく商人でした。大坂の堂島(どうじま:現在の大阪市北区堂島浜)に設置された「堂島米会所」(どうじまこめかいしょ)に全国の年貢米が集められて商人達による売買が行われ、その価格で全国の米価が決められたのです。

堂島米会所で決まった米価は、米を介しての金・銀・銅の交換比率にも影響を与えたため、米価が決まり次第、全国に伝えられました。その際に用いられたのが旗振り通信です。「米相場早移」(こめそうばはやうつし)と称した旗振り通信は、旗や提灯を用いて行われ、最盛期には現在の大阪から和歌山まで、3分で相場の価格が伝わったと言われています。その情報伝達速度はなんと時速720km。電話を利用するスピード並みに、情報が江戸まで運ばれていきました。

次回の放送は2025年4月6日(日)、第14話「蔦重瀬川夫婦道中」です。蔦屋重三郎と「瀬川」(せがわ)の初恋は実るのでしょうか?来週の「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」も目が離せません。

【国立国会図書館デジタルコレクションより】

  • 「富嶽三十六景 江戸日本橋」 前北斎為一(葛飾北斎)筆
  • 「浪花名所図会 堂じま米あきない」歌川広重 筆