五箇伝 大和伝 - 名古屋刀剣ワールド
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そんな大和伝の歴史についてご説明すると共に、「刀剣ワールド財団」が所蔵する大和伝の刀を通して、同伝の特色についても解説します。
大和伝の歴史

様々な茎
大和伝の始祖は、奈良時代、もしくは、平安時代の刀工と伝わる「天国」(あまくに)。「平氏」に伝来した「小烏丸」(こがらすまる)などを作刀したことで知られる同工は、日本で初めて、作刀の「茎」(なかご)に「銘」を切ったことが古文献に記されています。しかし、現存する在銘作は皆無であることから、実在していたかどうかは定かにはなっていません。
古墳時代に「ヤマト王権」が発生した大和地方では、大陸文化がいち早く伝来し、他の地方に比べると鍛冶の技術も大いに発展していました。710年(和銅3年)、大和国の「平城京」に首都が置かれると、政権の庇護のもと、同国での作刀活動が盛んになっていきます。
しかし784年(延暦3年)に、平城京から「長岡京」(現在の京都府長岡京市、及び向日市付近)へ、その後794年(延暦13年)に「平安京」(現在の京都府京都市)へ遷都されると、大和伝は一時的に衰退していったのです。
天国以外に大和伝最古の刀工として銘鑑に名前が出てくるのが、「千手院派」の始祖「行信」(ゆきのぶ)。同派は平安時代中後期頃、行信が「東大寺」(奈良県奈良市)の子院「千手院」に召し抱えられたことで興りました。大和伝では、①千手院派の他に、②「当麻派」(たいまは)、③「尻懸派」(しっかけは)、④「保昌派」(ほうしょうは)、⑤「手掻派」(てがいは)で構成される五大流派を「大和五派」と呼んでいます。
大和五派に共通していたのは、それぞれが寺院に属していたこと。平安時代後期以降、「藤原氏」が仏教の保護政策を採ったため、朝廷や幕府に強訴(ごうそ)するなど寺院が大きな力を持つようになりました。その中で戦闘に参加する僧侶「僧兵」が登場し、彼らが実戦で用いる刀の需要が増加すると、大和伝の刀工にも作刀依頼が殺到。大和伝は再び勢力を盛り返したのです。
ところが寺院との深い関係は長くは続かず、室町時代中期以降、大和伝の刀工達は豪族に頼ろうと、美濃国(現在の岐阜県南部)など全国各地へ移住。これにより大和伝は、完全に消滅しました。
大和伝の特徴 「極め」ポイントを知ろう!
僧兵の出現により一気に隆盛を極めた大和伝。僧兵用の作刀が中心となったため、ほとんど銘が切られていません。また、大和伝の刀として著名な1振に、「源頼政」(みなもとのよりまさ)が76代天皇「近衛天皇」(このえてんのう)から下賜されたと伝わる「獅子王」(ししおう)がありますが、こちらも無銘刀です。
そのため、銘のない刀を大和伝かどうか「極める」ためには、同伝の特徴をよく知ることが必要。ここからは、そんな「極め」ポイントとなる大和伝の3つの特徴を、具体的に分かりやすくご説明します。
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姿:雄大な中反りと長寸でしっかりとした造り
大和伝の刀において、ひと目見ただけで分かる特徴は、反りが「中反り」(なかぞり)であること。「輪反り」(わぞり)とも呼ばれる中反りは、刀身の中央辺りから始まる反りの一種。この反りがあることで、雄大さを感じさせながらも品のある印象が醸し出されています。
中反り
そして大和伝の刀は、僧兵達による激しい合戦に耐えられるだけの、長寸でしっかりとした造りであることも大きな特徴。これには、「重ね」(かさね)、そして「鎬」(しのぎ:別称「鎬筋」)と呼ばれる2つの部位に秘密があります。重ねとは、刀身全体の厚さのこと。大和伝では、ここを厚くすることで刀を頑丈にしました。しかし、重ねを厚くした分、重量が増えるため、そのままでは、実戦で十分な性能を発揮できなくなってしまいます。そこで鎬の重ねを薄くして、刀身の軽量化を図ったのです。
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重ね -
鎬・鎬筋
三つ棟
また、この鎬が高くなっていることも大和伝の特徴のひとつ。さらには、鎬から刃先にかけての部分を「平地」(ひらじ)、同じく棟(むね)側に向かう部分を「鎬地」(しのぎじ)と呼び、両者のバランスを見たときに、一般的な刀に比べると鎬地の幅が広くなっているのも特徴。このように、「鎬幅広めで鎬高い」刀身は、大和伝の刀に多く見られる作風です。
この他にも大和伝による刀の姿には、南北朝時代以降の作刀に見られる、5cmを超える長さの「大鋒/大切先」に比べて、2~3cmほどしかない「小鋒/小切先」(こきっさき)や、身幅(みはば)が狭いといった特徴があり、これらも大和伝を極める際の重要なポイントとなります。
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小鋒/小切先・大鋒/大切先 -
身幅
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地鉄:多くが「柾目肌」となる
大和伝による刀に施された「地鉄」(じがね)の「鍛肌」(きたえはだ)は、その多くが「柾目肌」(まさめはだ)となるのが最大の特徴。鍛肌には様々な種類があり、それらの形状になぞらえて、異なる名称が付けられています。その中で柾目肌は、木材を縦断した際に現れる、真っ直ぐに通る木目のような形状の鍛肌です。大和伝の刀では、鍛肌が全体的に柾目肌となることもあれば、木材の板目を彷彿とさせる、真っ直ぐではなく流れる年輪のような文様の「板目肌」(いためはだ)に柾目が交じる場合もあります。
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柾目肌 -
板目肌
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刃文:「直刃」仕立てで 「中沸」本位
大和伝の刃文は、直線的な文様である「直刃」(すぐは)となるのが基本。その中には、肉眼でも確認できる粗い粒子の「沸」(にえ)が、中ぐらいの大きさである「中沸」(ちゅうにえ)になっている様を確認することが可能です。
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直刃 -
中沸本位
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直刃ほつれ
また、大和伝の刀には、直刃の「刃縁」(はぶち)付近において、鍛肌の柾目に呼応するかのごとく、糸のほつれに似た沸の連なりである「直刃ほつれ」もよく見られます。
刃縁には、沸筋などによって刃文が二重に見える「二重刃」(にじゅうば)や、刃中の多種多様な働きにより、直刃の一部分が喰い違った形状になる「喰違刃」(くいちがいば)などが出現します。
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二重刃 -
喰違刃
大和伝 刀剣ワールドの所蔵刀
「大和五派」を筆頭に、様々な名工が活躍していた大和伝。ここからは、「刀剣ワールド財団」の所蔵刀の中から、同伝の刀工達が手掛けた作品を選び、ここまでご説明した同伝の特徴が、実際にはどのように現れていたのかを見ていきます。
太刀 無銘 古千手院
大和伝最古の流派「千手院派」は、その始祖については諸説あり、「重弘」(しげひろ)と「行信」(ゆきのぶ)の2名が有力視されています。
本太刀を作刀したと推測されているのは、千手院派の中でも時代が上がる平安時代頃に誕生した「古千手院派」(こせんじゅいんは)の刀工。大和伝の作刀らしく鎬幅が広く鎬高い姿である一方で、中反りではなく、古調を思わせる腰元から強く反った姿になっています。
古千手院派の作例の多くは「剣」(けん/つるぎ)であり、現代にまで伝わる太刀は少ないため、本太刀は非常に貴重な1振です。
短刀 無銘 名物上部当麻(當麻)
「当麻派」を興したのは、鎌倉時代後期頃の刀工「国行」(くにゆき)。
その一門は、「当麻寺/當麻寺」(奈良県葛城市)に属していたことから、当麻派と呼ばれるようになりました。
本短刀は、「御所藩」(ごせはん:現在の奈良県御所市)初代藩主「桑山元晴」(くわやまもとはる)が所有していた1振。その後、「尾張徳川家」(おわりとくがわけ)を経て江戸幕府7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)に献上されました。
本短刀の刃文には、当麻派の大きな特徴のひとつである直刃に近い「小乱れ」(こみだれ)が施されています。また、当麻派の刀の多くは、板目肌が刃のほうに向かうに従って柾目肌へ流れる、「当麻肌」が地鉄に見られますが、本短刀では、年輪のような文様が非常に小さい「小杢目肌」(こもくめはだ)がよく詰み、大板目肌が流れて交じっているところが注目すべきポイントです。
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小乱 -
小杢目肌
刀 無銘 尻懸
刀 折返銘 包永
本刀を手掛けた刀工「包永」(かねなが)は、「手掻派」と称される刀工集団の始祖と伝わっています。同派の刀工達は、東大寺の輾磑門(てんがいもん)の門前において作刀活動を行っていました。
本刀は、「二本松藩」(現在の福島県二本松市)の歴代藩主「丹羽家」(にわけ)に伝来した1振。地鉄は、大和伝に総じて見られる板目肌に柾目肌が交じっているのが特徴。また、細直刃を基調とした刃文には、三日月に似た弧状の働きである「打徐け」(うちのけ)が頻り(しきり)に入り、鋒/切先の刃文である「帽子」は、ほうきで掃いたようにかすむ「掃掛け」(はきかけ)となっており、これらは、手掻派に共通する特徴です。
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打徐け -
掃掛け帽子