五箇伝 山城伝 - 名古屋刀剣ワールド
- 小
- 中
- 大
山城伝の歴史に見る優美な作風の理由
794年(延暦13年)、山城国の「平安京」へ日本の首都が置かれたことにより、誕生した山城伝。日本の経済や政治の中心地となった同国には全国各地から刀工達が移住し、作刀活動が盛んに行われるようになります。
その中で、山城伝の創始者と言われるのが平安時代中期の永延年間(987~989年)頃に登場したと伝わる「宗近」(むねちか)。同工は、「天下五剣」(てんがごけん)のひとつで、「国宝」にも指定されている「三日月宗近」の作刀者として知られている名工です。
宗近は、山城伝諸派の一派である「三条派」の始祖となった人物。初めからプロの刀工として鍛刀していたわけではなく、もともとは、京都御所に勤めていた公卿(くぎょう)でした。その余暇に趣味として鍛刀していた宗近でしたが、技量の高さが認められ、やがて天皇の命により鍛刀するまでに。
そして宗近は、山城伝最初の流派となる三条派を興したのです。三条派の鍛法は、宗近の子(孫説もあり)である「吉家」(よしいえ)に受け継がれ、同派から出た「五条兼永」(ごじょうかねなが)により、「五条派」が誕生。
そのあと、平安時代後期には「粟田口派」(あわたぐちは)、鎌倉時代後期には「来派」(らいは)など、時代ごとに様々な流派が登場。各派が興隆と盛衰を繰り返しながら、山城伝を発展させていきます。宗近が三条派を興した平安時代は、武士による大きな戦乱もなく、天皇を中心とした貴族達が国政を担っていました。
そのため、実戦で用いる武器としての刀ではなく、朝廷儀礼などで佩刀(はいとう)するのに適した品格のある姿の刀身や、華美な装飾を施した拵(こしらえ)など、美術品としての側面を持つ刀に需要があったのです。しかし平安時代末期以降、「源平合戦」が勃発するなど武士が台頭し始めます。その中で刀には、見た目の美しさよりも強靭さが求められるようになっていきました。
そのため山城伝の刀工は、現在の岡山県で発祥し、「刀の代名詞」とも評されていた「備前伝」(びぜんでん)や、しっかりとした造込み(つくりこみ)を得意とした大和伝の刀工を招聘してそれぞれの鍛法を採り入れ、美しさと実用性を両立させた刀を作っていくようになるのです。

後鳥羽上皇
鎌倉時代に入ると、自身でも作刀していた「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が刀工を招き、月番で刀を作らせる「御番鍛冶」(ごばんかじ)の制度を開始。
備前伝の名工のほかに、山城伝から粟田口派の刀工も選ばれていました。このことからは、山城伝、特に同派の刀工が、どれほど高い技術を持っていたのかが窺えるのです。
そのあと、相模国(現在の神奈川県)で発祥した豪壮な作風である「相州伝」の刀が、鎌倉武士を中心に流行します。
山城伝においても、名刀「へし切長谷部」(へしきりはせべ)を鍛えた「長谷部国重」(はせべくにしげ)が、相州伝を確立した名工「正宗」(まさむね)に師事するなどして、相州伝の作風が加味されるようになっていきました。
しかし、室町時代に入り、戦国武将達によって本格的な戦が頻発するようになると、相州伝に取って代わられてしまい、山城伝は衰退していったのです。
山城伝の特徴から知る「上品」な刀とは
主な得意先が天皇や貴族であったこと、さらに創始者自身が公家出身であったことなどから、他の伝法に比べて抜群の品格を持ち、垢抜けた印象を受ける山城伝。
このような作風は、同伝のどのような特徴によって醸し出されているのか、刀鑑賞の際に大きなポイントとなる3つの部位、①姿、②地鉄(じがね)、③刃文について、詳細に解説します。
①姿:優雅な気品は鳥居のような「反り」にあり
②地鉄:果物のように潤いがある鍛肌
山城伝の地鉄は、一般的には木材の板目のような文様が細かく詰まれている「小板目肌」(こいためはだ)や、木の年輪のような小さな文様の「小杢目肌」(こもくめはだ)が多く見られます。
-
小板目肌 -
小杢目肌
その中で粟田口派は小板目肌や小杢目肌に、粗い砂のような粒子である「地沸」(じにえ)が厚く均等に付いた「梨子地肌」(なしじはだ)を得意としていました。その特筆すべき特徴は、きめが細かく美しい肌合いにあります。
梨子地肌は、梨の実を割った直後の断面のように鍛肌が潤っていることから付けられた呼称です。この梨子地肌を地鉄に施すことは難易度が非常に高いですが、粟田口派は山城伝のみならず、すべての伝法や時代を通じて、最も精微な地鉄を特徴とする流派として高く評価されています。このような地鉄の美しさこそが、山城伝の品格を上げるのに、ひと役買っていると言えるのです。
-
地沸 -
梨子地肌
③刃文:「直刃」基調で「小沸」出来
山城伝 刀剣ワールドの所蔵刀
ここまでご説明した通り、「優美かつ上品であること」が作風における最大の特徴である山城伝。しかし、その作風は流派や刀工によって少しずつ違いがあるのです。
刀剣ワールド財団が所蔵する山城伝の刀についてご紹介しながら、実際にはどのようなところに違いがあるのかを観ていきます。
太刀 銘 国行
本太刀を手掛けた「国行」(くにゆき)は、鎌倉時代中期以降に活躍した「来派」(らいは)一門に属する刀工です。山城伝の中で同派は、粟田口派と勢力を二分していました。現代において「山城伝」と言う場合、最初に思い浮かぶのが来派であり、優れた刀工や作品を多数世に送り出した名門です。
来派の始祖は、国行の父「国吉」(くによし)と伝えられていますが、その在銘作は現存していないため、国行が事実上の始祖とされています。国行の作風に見られるのは、来派の作刀に総じて見られる、優美な姿と豪壮な姿の2種類。
本太刀は、茎のすぐ上部にある「区」(まち)付近の反りが最も強い「腰反り」(こしぞり)が高く、猪の首のように短く詰まった「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)となっており、細身の優美な姿が大きな特徴です。国行の在銘作はほとんど残されていないため、本太刀は大変貴重な1振だと言えます。
-
腰反り -
猪首鋒/猪首切先
短刀 銘 光包 延慶二年二月日
本短刀の作刀者である「光包」(みつかね)は、備前国(現在の岡山県東南部)出身。来派の代表的な名工「国俊」(くにとし)のもとで作刀技術を修得したあと、現在の滋賀県大津市にある「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ)の「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)にて刀を鍛えていたことから「中堂来」と称されています。
光包は山城伝において、特に異色の経歴を持った刀工だったのです。本太刀に見られる小沸が深い細直刃の刃文は、光包の作風における大きな特徴のひとつ。そして刀身には、不動明王にまつわる意匠が表裏の両面に彫られており、その出来映えからは、刀身彫刻を得意としていた来派の技量の高さを、十分に受け継いでいることが窺えます。