脇差(わきざし)の解説
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「脇差」(わきざし)とは、短い日本刀のこと。江戸時代、武士は「大小」(だいしょう)と呼ばれる長さが違う2振の日本刀を腰に差して歩いていました。
「大」(だい)は「打刀」のことで、「小」(しょう)は、脇差を指します。大小は「武士の魂」として長く大切にされてきました。
ここでは、脇差の基礎知識とともに、名刀と名高い優れた脇差をご紹介します。
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脇差とは
脇差の大きさ
脇差が登場した時期
身分が低い者でも持つことが許された

道中差
江戸時代、武士は打刀と脇差の「大小」を携帯する「大小二本差」(だいしょうにほんざし)が正装と定められました。
一方で、百姓などは原則として打刀の装備を許されませんでしたが、護身用の名目で携帯を許されたのが、「道中差」(どうちゅうざし)とも呼ばれる脇差です。
なお、仕えていた大名家が断絶した等の理由で、武士から浪人になった者も多くおり、そういった浪人の間では、打刀のみを帯に差す「1本差」(いっぽんざし)が広く浸透したと言います。
脇差と「斬り捨て御免」
脇差は、江戸時代の武士にとってあくまで補助的な日本刀でした。
脇差の使用例として挙げられるのは、町民や農民から無礼な態度を取られた武士が合法的に相手を斬る「斬り捨て御免」(無礼討ち)。
「斬り捨て御免」は、武士が脇差を相手に与えて刃向かわせてから斬ると言う形式で行なわれることがありましたが、この形式に則った結果、町民に脇差を奪われた挙句「私が武士を打ち負かせた」と言いふらされて、出奔を余儀なくされた武士もいたと言います。
なお、「斬り捨て御免」は正当な理由なく行なった場合や、証人が見つからなかった場合、また武士が脇差を与えた相手に打ち負かされた場合は、実行者の武士に「士分のはく奪」や「家財屋敷の没収」などの厳しい処分が与えられることがあったため、実際には滅多に行なわれませんでした。
著名な脇差
脇差 銘 津田越前守助広 寛文十年二月日
「脇差 銘 津田越前守助広 寛文十年二月日」(わきざし めい つだえちぜんのかみすけひろ かんぶんじゅうねんにがつひ)は、大坂新刀の代表工として名高い刀工「越前守助広」が制作した脇差。
「越前守助広」は、江戸で活躍した刀工「長曾祢興里虎徹」(ながそねおきさとこてつ)と並び称された直刃(すぐは)の名手で、大波が打ち寄せる様を思わせる刃文「濤瀾乱刃」(とうらんみだれば)の考案者です。
本脇差は、濤瀾乱刃が完成する以前に制作された1振。地刃、姿ともに健全な名品です。
脇差 銘 繁慶
脇差 銘 源清麿 嘉永二年二月日
「脇差 銘 源清麿 嘉永二年二月日」(わきざし めい みなもときよまろ かえいにねんにがつひ)は、幕末時代の名工「源清麿」が制作した脇差。
源清麿は、幕末時代に随一の人気を誇った刀工で、四谷北伊賀町(現在の東京都新宿区四谷)に住んで作刀を行なっていたことから「四谷正宗」とも称されました。
豪壮な作風で、独特の刃文と切れ味の良さに定評があります。
本脇差の特徴は、変化が激しい華やかな文様と「長巻直し」(ながまきなおし:長柄の武器を短く整形した日本刀のこと)を思わせる刀姿。源清麿の研究書「清麿大鑑」(きよまろたいかん)にも掲載される逸品です。
脇差 銘 勢州桑名住村正
「脇差 銘 勢州桑名住村正」(わきざし めい せいしゅうくわなじゅうむらまさ)は、「妖刀村正」の異名で知られる伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工「村正」が制作した脇差。
村正が鍛えた日本刀は、徳川将軍家に不幸をもたらした妖刀であるため、徳川家に仕える大名や旗本は忌避した一方で、反徳川派の大名や幕末志士達からは競って求められたと言われています。
村正が制作する日本刀の特徴は、「村正刃」(むらまさば:別名「千子刃」[せんごば])が刃文に現れること。村正刃は、表と裏の刃文が一致していることで、本脇差も村正刃の傾向が見られます。
なお、村正は戦国武将だけではなく、初代内閣総理大臣「伊藤博文」や薩摩藩士「西郷隆盛」、日本刀研究の第一人者「本間薫山」(ほんまくんざん)などの著名な人物から高く評価されました。