日本刀がよく切れる理由
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日本刀は「世界一切れる」ことで有名です。西洋の剣は突き刺すことと、刀身の重さで打ち叩くことには長けていますが、日本刀は突き刺すことはもちろん、切り裂くことにも優れています。そこで、日本刀の切れ味が世界一と称される理由について見ていきましょう。
刀剣に関する基礎知識をご紹介します。
日本刀がよく切れる3つの秘密
その1.「反り」
一見して分かる西洋の剣(けん/つるぎ)と日本刀の違いは、「反り」ではないでしょうか。日本刀が反りのある現在の姿になったのは、平安時代中期に登場した「古刀」(ことう)からと考えられています。それ以前の「上古刀」(じょうことう)は、まっすぐな刀身を持つ「直刀」で、主に貴族が佩用していました。
反りのある古刀の登場には、武士の台頭が大きく関係しています。武士が馬に乗って戦うとき、反りがあれば素早く鞘から抜くことができます。
また、振り下ろした動作の流れで自然に引き切りを行なうことができ、しかも斬り付けた瞬間の反動をやわらげてくれるのです。
この、引きながら切るという動きは、まっすぐに切るよりも小さな力で大きな効果を得ることが可能。これを「斜面の原理」と言います。
日本刀は反りによって意識しなくてもこの原理を応用しているのです。
その2.「炭素量の調整」

折り返し鍛錬
鉄は含まれる炭素の量が多いほど硬くなります。そこで炭素を定着させるために取り入れられた日本刀の製造方法が「鍛錬」(たんれん)です。
日本刀の原材料は、砂鉄を製錬した鋼(はがね)の中でも特に良質な「玉鋼」(たまはがね)。鍛錬する際にはこの玉鋼を加熱して沸かし、槌で平たくなるまで打ち延ばします。
そして鏨(たがね)で横に切れ目を入れて折り返して重ね、再び打ち延ばすことによって、不純物を取り除き、炭素の含有量を均一化。この一連の作業が「折り返し鍛錬」です。
玉鋼は、鍛錬するほど硬くなりますが、折り返しの回数が多くなり過ぎると、粘り強さが失われてしまいます。
刀工は、玉鋼が沸くときの色を見極め、音を聞き、鍛錬に最適なタイミングと回数を判断しているのです。
その3.「重層構造」

造り込み
「折れず、曲がらず、よく切れる」とは、日本刀の優れた特性を表現する言葉。しかし、この言葉には矛盾があるのです。
物質は、硬くなればなるほど曲がりにくくなりますが、衝撃に対しては柔軟性を欠き、折れやすくなってしまいます。
一方、やわらかければ衝撃に強く、折れにくくなりますが、簡単に曲がってしまうため刀身としては使えません。
そこで日本刀は、刀身の外側を覆い刃の部分を形作る「皮鉄」(かわがね)と、刀身の芯になる「心鉄」(しんがね)を別々に鍛えて、のちに組み合わせて一体化させることで、折れにくさと曲がりにくさを両立することに成功。
これにより、「折れず、曲がらず、よく切れる」という特性を実現させました。
皮鉄は、15回ほど折り曲げを繰り返して鍛え、心鉄は7~10回ほど繰り返すと言われています。皮鉄と心鉄を一体化させる作業を「造り込み」と言い、こうした刀工の叡智(えいち)もまた、日本刀の優れた切れ味のために活かされているのです。
銘に刻まれた切れ味の証
日本刀がどのくらい切れるのか、確かめる方法は実際に切って試すことでした。
室町時代には「試刀術」が生まれ、試し切りが行なわれます。その試し切りに使ったのが罪人の死体です。
徳川幕府の「御様御用」(おためしごよう)を務めた山田家の5代当主「山田浅右衛門吉睦」(やまだあさえもんよしむつ)が1797年(寛政9年)に刊行した「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)や、その加筆・修正版である「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)という読み物には、試し切りの実例がランキング形式で記されました。
良く切れる上位の日本刀から、「最上大業物」、「大業物」、「良業物」、「業物」と4段階で評価しています。
例えば、罪人の死体を重ねて置き、1体両断できれば業物、2体なら良業物。最上大業物は同時に7体を斬ることができたと記載されています。
「刀剣ワールド財団」では、この切れ味の証(あかし)が銘に刻まれた日本刀を所蔵。
その中から、「越前康継」(えちぜんやすつぐ)の作品2振をご紹介します。
越前康継は、「徳川家康」の次男で越前藩(現在の福井県福井市)藩主「結城秀康」(ゆうきひでやす)のお抱え鍛冶となった名工です。のちに腕を認められて江戸へ移住し、徳川家康と2代将軍「徳川秀忠」に仕えました。
松平家伝来の重宝
本刀は、結城秀康の次男「松平忠昌」(まつだいらただまさ)が、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」に差料(さしりょう:自分が腰に差すための日本刀)とした1振。以後、越前藩32万石の松平家に重宝として伝えられました。
切れ味の証は、茎(なかご)に金象嵌(きんぞうがん)で「二ッ筒落」(ふたつどうおとし)という「裁断銘」が切られています。
二ッ筒落とは、罪人2人の死体を重ねて切れたことを意味し、「裁断銘」とは、試し切りの結果を表した銘です。
切り手の名前は記されていませんが、江戸時代初期に試し切りの名手として知られた「中川左平太」(なかがわさへいた)と推測されています。
このようなことから、本刀は歴史的資料としても貴重な1振です。

- 銘
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於武州江戸
越前康継(金象嵌)
慶長十九年寅七月十一日二ツ筒落
- 時代
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江戸時代
- 鑑定区分
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特別重要刀剣
- 所蔵・伝来
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松平忠昌→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
葵の御紋が切られた名刀
越前康継は、その技量の高さが徳川家康の眼鏡に適い、1606年(慶長11年)に「康」の字を賜ります。
さらにこのときに「葵紋」を作品に切ることを許されており、本刀の茎には、くっきりとした葵紋が彫られているのを見ることができます。
また、「二胴」(ふたつどう)とあり、罪人の死体を2体重ねて切断できたことを表していますが、切り手については分かっていません。
所持者として銘に刻まれた「本多五郎右衛門」は、結城秀康の家臣であり作刀の支援者でもあった「本多成重」(ほんだなりしげ)の家来とされる人物です。
さらに銘からは、本刀が「南蛮鉄」(なんばんてつ:外国から輸入された鉄)を使用して作られたこと、優れた作品であることから「末世宝」(まっせのたから:末代までの宝)とするよう伝えられたことが読み取れます。

- 銘
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(葵紋)
於武州江戸
越前康継
以南蛮鉄末
世宝二胴 本多五郎
右衛門所持
- 時代
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江戸時代
- 鑑定区分
-
重要美術品
- 所蔵・伝来
-
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
切れ味が名前になった名刀
試し切りではない、実践で明らかになった日本刀の切れ味が名前の由来になることも珍しくありません。
それらの日本刀は、いずれも名高い名刀で、印象的な逸話が残されているのです。
八文字長義
南北朝時代に備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点とした刀工「長義」(ながよし/ちょうぎ)の手による「八文字長義」(はちもんじちょうぎ)。
この名前は、戦国時代の武将「佐竹義重」(さたけよししげ)の豪快な逸話がもとになっています。
その勇猛さから「鬼義重」と恐れられた佐竹義重は、1567年(永禄10年)に小田原(現在の神奈川県小田原市)の「北条氏政」(ほうじょううじまさ)軍との戦いに出陣。
その際、佐竹義重が長義の日本刀を振るって、北条方の騎馬武者の頭上から一撃したところ、兜共々頭部が2つに割れて、馬の左右へ八の字形に落ちたことから、「八文字長義」と名付けられました。
現存する八文字長義は、2尺5寸9分1厘(約78.5cm)の長さに磨上げられていますが、もともとは3尺(約90.9cm)ほどあった大太刀と伝えられています。身幅が広く、重ねも厚い堂々たる体配は、「鬼義重」の愛刀にふさわしい日本刀です。
南泉一文字
「南泉一文字」(なんせんいちもんじ)は、足利将軍家が所蔵していた頃の逸話が名前の由来となっています。
この日本刀を研ぎに出したとき、立て掛けてあった刀身に猫がふれて、そのまま真っ二つに斬れてしまったのです。
この出来事と、唐(現在の中国)の禅僧「南泉普願」(なんせんふがん)の故事「南泉斬猫」(なんせんざんみょう)が結び付けられて、名付けられました。
「南泉斬猫」とは、南泉普願が子猫を奪い合って争う弟子達に禅問答を仕掛けたところ、誰も答えられなかったために子猫を斬ってしまったという故事です。
その後、一番の知恵者である弟子の「趙州」(じょうしゅう)が帰ってきたときにこの話をすると、趙州は履物を頭に載せて出ていきました。
南泉普願は、趙州がいれば子猫を助けられたものをと嘆いたとのことです。この故事の解釈は様々で、明確になってはいません。
南泉一文字は、足利家から「豊臣秀吉」の所有となり、のちに徳川家康に贈られました。徳川家康の没後、遺品として尾張徳川家に伝来。現在は「徳川美術館」(愛知県名古屋市)が所蔵しています。
波游兼光
2代「備前長船兼光」(びぜんおさふねかねみつ)が制作した「波游兼光」(なみおよぎかねみつ)は、江戸時代に編纂された「享保名物帳」に所載された名刀です。
あるとき、船の渡し場で2人の客が喧嘩になり、そのうちのひとりが相手を日本刀で斬り付けます。
斬り付けられた相手は川に飛び込み、泳いで逃げていきますが、対岸にたどり着いた途端、胴が真っ二つになりました。このように切れ味が非常に鋭いことが「波游兼光」という名前の由来です。
また、名前の由来についてはもうひとつあり、刀身彫刻の竜が波間を泳いでいるように見えるためとも言われています。
「波游兼光」は、上杉家に伝えられていましたが、のちに豊臣秀吉の甥「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)の所持となり、1595年(文禄4年)に豊臣秀次が自害する際に使用されたと伝えられています。
その後は、豊臣秀吉や「小早川秀秋」(こばやかわひであき)、「立花宗茂」(たちばなむねしげ)など、名だたる武将の所有となりました。