刀身彫刻とは
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日本刀の刀身には、意匠の凝った彫刻が施されることがあります。その目的は、実用性を高める、神仏の加護を授かる、美しさを引き立てるなど様々。ここでは、刀身彫刻の基本知識と共に、美しい彫刻が施された著名な日本刀をご紹介します。
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刀身彫刻・鑢目・疵・疲れ 刀身彫刻や鑢目など、日本刀鑑賞における細かなポイントをご紹介します。
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刀身彫刻の実際 「刀身彫刻の実際」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。
刀身彫刻とは
刀身に施される様々な図柄の意味

刀身彫刻
刀身彫刻とは、「刀身彫」(とうしんぼり)とも呼ばれる、鎬地(しのぎじ:棟[むね:刃の反対側]寄りの側面)に施される彫刻のこと。
彫られる図柄は、動物や植物をはじめとして、和歌や、漢詩を題材とした文字の他、神仏の姿や仏像が所持している道具など、一般に「縁起が良い」と言われる事柄が多く、所有者や制作者の好みによって、多種多様に存在します。
刀身彫刻は、所有者の身を守るため、戦勝を祈願するため、長寿や繁栄を願うためなど、武士が身に着けた甲冑前立て(まえだて:兜の額に付ける装飾)や旗指物(はたさしもの:敵と味方の区別を付けるために使用した旗)と同様に、「お守り」としての役割を果たしていました。
そして、時代が下るにつれて日本刀の美術的価値を高める要素のひとつとなっていったのです。
実用性を向上させる「樋」

樋
樋(ひ)とは、鎬地に入れられた溝のこと。
一般的に「彫る」ではなく「掻く」(かく)、または「突く」と表現され、日本刀の強度を保ったまま軽量化するために施したのがはじまりと言われています。
鎬地全体に樋が掻いてある「棒樋」(ぼうひ)、棒樋に添ってもう1本細い樋が施された「添樋」(そえび)の他、茎(なかご:柄[つか]に納める部分)寄りに短く掻かれた「腰樋」(こしび)など、形状や長さは様々。
なお、樋に漆が塗られていることがありますが、これは手入れをしやすくするため。
日本刀は、使用後に手入れをしなければ容易に錆びてしまうと言われていますが、樋はその構造上、手入れが難しい部位です。そのため、防虫や防腐の効果があると言われる漆を施すことで、錆びの発生を防ぎました。
また、塗られている漆が朱漆である場合、宗教的な意味合いがあると言われています。展示されている日本刀を鑑賞する際は、形状だけではなく、樋に何色の漆が塗られているか注目するのもおすすめです。
刀身彫刻の変遷

梵字
刀身彫刻の歴史は古く、奈良時代以前から文字や溝が刀身に施されていたと言われています。実用性を高めるための樋が施されるようになるのは鎌倉時代からで、この時期に棒樋や添樋など、様々な形状が考案されました。
樋以外の刀身彫刻で、特に古くからあるのは「梵字」(ぼんじ)です。
梵字とは、仏教の守護神「梵天」(ぼんてん)が作った文字のこと。
刀身彫刻では、神仏の名称を表現していると言われており、武士の間では特に厄除けや立身出世などの功徳が得られる「不動明王」が好まれました。
なお、不動明王は梵字だけではなく「素剣」(すけん/そけん:不動明王の化身)や「倶利伽羅剣」(くりからけん:不動明王像が持つ剣)などの図柄としても人気があったと言われています。
江戸時代になると、刀身彫刻はより装飾性が高くなりました。梵字だけではなく、縁起物と言われる動物や植物の他、「日本武尊」(やまとたけるのみこと)、達磨(だるま:中国禅宗の開祖)などの人物、また有名な詩歌、自作の歌など様々な意匠が凝らされるようになります。
刀身彫刻が見所の日本刀
短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
「短刀 銘 来国光」(名物 有楽来国光)は、「織田信長」の末弟「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます])が、「豊臣秀頼」から拝領した国宝の短刀です。
制作者は、鎌倉時代末期から南北朝時代に山城国(現在の京都府南半部)で活動した刀工「来国光」。来国光は、刀工一派「来派」を代表する名工で、制作した作品の多くが国宝や重要文化財に指定されています。
本短刀に施されている刀身彫刻は素剣です。
短刀を腰に差した際、外側に来る「差表」(さしおもて)に施された素剣は、美しい姿に覇気を加味する要素のひとつとなっています。
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太刀 銘 豊後国行平
「太刀 銘 豊後国行平」は、「明治天皇」から「有栖川宮家」(ありすがわのみやけ)に下賜された太刀です。
制作者は、平安時代末期から鎌倉時代初期に豊後国(現在の大分県)で活動した刀工「行平」(ゆきひら)。行平は、「後鳥羽上皇」の御番鍛冶(ごばんかじ:月替わりで作刀を行なった刀工のこと)のひとりで、刀身彫刻を行なった刀工の中で最も古い人物として知られています。
本太刀に施されている刀身彫刻は「松喰鶴」(まつくいづる:松の小枝をくわえた鶴)。松と鶴は、共に長寿を象徴する縁起物で、鶴は松の他に梅や竹、亀などと合わせて描かれることもあります。
短刀 銘 国光(新藤五)
「短刀 銘 国光」(新藤五)は、鎌倉時代末期に相模国(現在の神奈川県)で活動した刀工「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)が制作した短刀です。
新藤五国光は「鎌倉鍛冶の祖」であり、また「五箇伝」(ごかでん:日本刀における5つの伝法)のひとつ「相州伝」を創始した人物としても知られる名工。短刀の制作を多く行ない、現在でもその多くが国宝や重要文化財などに指定されています。
本短刀に施されている刀身彫刻は、素剣と梵字。これを手掛けたのは、彫師(日本刀に彫刻を施す職人)「大進房」(だいしんぼう)と言われています。
大進房は、刀身彫刻の名人として名を馳せた人物で、新藤五国光の他に「行光」や「正宗」の刀身彫刻も行ないました。
刀 銘 肥前国忠吉(倶利伽羅)
刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
「刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作」は、江戸時代中期に摂津国(現在の大阪府北中部、兵庫県南東部)で活動した刀工「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)が制作した打刀です。
一竿子忠綱は、彫物の名人として知られており、「彫物がない一竿子の日本刀は買ってはいけない」と言われるほどの名工でした。
そのため、一竿子忠綱を騙(かた)る偽銘(制作者を偽った銘)や後彫り(あとぼり:別の人物が彫刻を行なうこと)の日本刀が多く出回ったと言われています。
本刀に施されている刀身彫刻は、「登り龍」、「梵字」、「三鈷柄剣」(さんこづかけん:密教道具のひとつ)の3種。彫物名人として名高い一竿子忠綱の手腕が輝く逸品です。
脇差 銘 直胤(花押)
「脇差 銘 直胤」(花押)は、江戸時代後期に江戸で活動した刀工「大慶直胤」(たいけいなおたね)が制作した脇差です。
大慶直胤は、「新々刀の祖」と称される「水心子正秀」の高弟で、非常に高い作刀技術を有した刀工として知られています。
また刀身彫刻にも定評があり、在銘作には技巧を凝らした倶利伽羅や梵字が施された傑作が多いです。
本脇差に施されている刀身彫刻は「欄間透彫」の倶利伽羅。欄間透彫は、天井と鴨居の間に設けられる「欄間」に似た透彫のこと。本脇差は、刀身彫刻を得意とした大慶直胤の技量の高さを示す1振です。