刀剣の豆知識

新撰組と日本刀 - 名古屋刀剣ワールド

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「新選組」(しんせんぐみ)とは、京都の治安を守るために組織された浪士隊のことです。浅葱色のダンダラ模様羽織を身に纏い、「尊王攘夷派」(そんのうじょういは)を撃退し、徳川慶喜が大政奉還したあとも徳川将軍家のために戦い続けました。武士以上に武士としての誇りが高い新選組と、彼らが所持した日本刀について詳しくご紹介します。

新選組(しんせんぐみ)とは

新選組

新選組

新選組」とは、1863年(文久3年)に、江戸幕府の京都守護職「松平容保」(まつだいらかたもり)が、非正規で雇った浪士組(ろうしぐみ)のことです。浪士とは、主君のいない武士または農民・町人を含む浪人のこと。新選組の主な任務は、尊王攘夷派(討幕派)の取り締まりで、政治の中心地である京都の街を警護することでした。

なお「尊王攘夷」とは、王を尊び、夷を攘う(はらう)という思想。つまり江戸幕府を倒して天皇を中心とした新しい政治を行い、外国人を撃退しようという考えです。

治安を維持する正規組織は、すでに幕臣(旗本・御家人)で構成した「京都見廻組」(きょうとみまわりぐみ)がありましたが、京都の街は尊王攘夷運動が激しくて治安が悪く、新選組のような非正規の組織も必要となっていたのです。

役職 隊士名
局長 芹沢鴨(せりざわかも)
局長 近藤勇(こんどういさみ)
副長 土方歳三(ひじかたとしぞう)
総長 山南敬助(やまなみけいすけ)
一番組長 沖田総司(おきたそうじ)
二番組長 永倉新八(ながくらしんぱち)
三番組長 斎藤一(さいとうはじめ)
参謀 伊東甲子太郎(いとうかしたろう)

主なメンバーと主要武器

浪士で構成された新選組は、主に2組の部隊が合わさったものでした。それは、「芹沢鴨」(せりざわかも)が率いる「水戸藩浪士」のメンバーと、「近藤勇」(こんどういさみ)が率いる「試衛館」(しえいかん:江戸の剣術道場)のメンバーです。

芹沢鴨

芹沢鴨

芹沢鴨は、剣術「神道無念流」(しんとうむねんりゅう)の皆伝免許保持者。また、近藤勇は、剣術「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)の4代目宗家で、試衛館の道場主です。

当初の部隊名は「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)と言い、芹沢鴨と近藤勇が局長を務める2トップ体制でした。

壬生浪士組は「八月十八日の政変」(はちがつじゅうはちにちのせいへん)での警備の実力が認められ、主君・松平容保より「新選組」の名前を拝命したのです。

副長には天然理心流を修めた「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、総長には小野派一刀流の免許皆伝者「山南敬助」(やまなみけいすけ)、一番組長には天然理心流を修めた「沖田総司」(おきたそうじ)、二番組長には神道無念流の皆伝免許所持者「永倉新八」(ながくらしんぱち)、三番組長には山口一刀流を修めた「斎藤一」(さいとうはじめ)、参謀には神道無念流、北辰一刀流を修めた「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)がいました。

このように新選組はとても剣術に長けた部隊。主要武器は日本刀で、尊王攘夷派を見付けたら必ず相手よりも多い人数で取り囲み、捕縛(生け捕り)するのが原則でした。相手が抵抗した場合には、確実に斬殺したことが伝えられています。

新選組の日本刀

確実に敵を斬殺するためには、よく斬れる刀剣が必要です。武士以上の武士と一目置かれた新選組の隊員が選んだのは、「新刀最上作」(しんとうさいじょうさく)、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)などとランク付けされた刃文(はもん)も美しい刀剣ファン垂涎の憧れの刀剣揃い。彼らが所持したこだわりの1振をご紹介します。

近藤勇×長曽祢虎徹(所在不明)

近藤勇

近藤勇

「俺は武士よりも武士らしい武士になる」と言う名言の通り、近藤勇は実は農家出身の三男で、天然理心流3代宗家「近藤周助」に見込まれて養子となり、4代宗家を継いだ人物です。

そんな近藤勇が愛刀としたのは、「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)の刀剣。近藤勇は、「池田屋事件」(尊王攘夷派[宮部鼎蔵]が[徳川慶喜]や松平容保などを暗殺しようと計画していたのを新選組が察知して襲撃し阻止した事件)のあと、養父に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と手紙を書いています。

長曽祢虎徹は江戸時代前期の名工です。刀剣は地刃共にえ、刃文は数珠刃(じゅずば)を焼くなど美しく、切れ味も抜群。江戸時代後期には、新刀最上作、最上大業物と評価されて人気も高く、多くの偽物が出回りました。

これを長曽祢虎徹は、跳虎、角虎など、(めい)の書体を少し変えるなどして対応。しかし、近藤勇の愛刀は無銘だったため、今日では長曽祢虎徹の刀ではなく別物だったのではないかと言われています。

土方歳三×和泉守兼定(土方歳三資料館所蔵)

土方歳三

土方歳三

土方歳三も農家出身で10人兄弟の末っ子です。土方歳三が愛刀としたのは、武将憧れの刀と言われた「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)。

初代・和泉守兼定は、室町時代に美濃国(現在の岐阜県)で活躍。特に2代は「之定」(のさだ)と呼ばれ、同じ美濃鍛冶の「孫六兼元」(まごろくかねもと)と共に人気を二分した名工です。

武田信虎などの猛者に所持され、最上大業物の称号を手にしました。3代も「疋定」(ひきさだ)と呼ばれた名匠。4代は会津国(現在の福島県)に移住し、5代からは会津藩のお抱え刀工となりました。

土方歳三の愛刀は、11代目の作品。主君・松平容保から下賜された1振で、地鉄(じがね)は小板目肌(こいためはだ)がよくみ、刃文は三本杉風の互の目乱れ(ぐのめみだれ)で匂口(においぐち)も冴えています。現在も、東京都日野市にある「土方歳三資料館」で観ることが可能です。

和泉守兼定
和泉守兼定
不明
鑑定区分
未鑑定
刃長
-
所蔵・伝来
土方歳三 →
土方歳三資料館

伊東甲子太郎×濃州住志津三郎兼氏(所在不明)

伊東甲子太郎は、頭脳明晰で容姿端麗と言われた人物です。常陸国(現在の茨城県)の志筑藩士を追放となったあと、水戸学を修め、剣術では神道無念流、北辰一刀流を修得。1864年(元治元年)に参謀として新選組に大抜擢されました。

しかし、討幕思想を高めて御陵衛士を結成し、結局は新選組に粛正され、非業の死を遂げるのです。

伊東甲子太郎が愛刀としたのは、「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)の刀剣。志津三郎兼氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍。大和国(現在の奈良県)出身で、手掻派(てがいは)、相州伝を学んで正宗十哲(まさむねじってつ)のひとりとなり、のちに美濃国(現在の岐阜県)の志津に移り、大和伝と相州伝を組み合わせた美濃伝を完成させました。刃文は直刃(すぐは)と湾れ(のたれ)に互の目という覇気のある乱刃の2様があり、中古刀最上作で大業物と評価される名匠です。

また、剣客揃いの新撰組は最盛期では約200名が入隊していたと言われています。天然理心流4代目宗家は近藤勇ですが、その近藤よりも腕が立つと言われた3人がいました。それが、一番組長「沖田総司」、二番組長「永倉新八」、三番組長「斎藤一」です。誰がどれだけ強いのか、愛刀と共にご紹介します。

沖田総司×加州清光(所在不明)

沖田総司

沖田総司

沖田総司は、美男子で剣術の天才と呼ばれた人物です。天然理心流のほか、北辰一刀流の免許皆伝も持っていたと言われます。必殺技は三段突き。

新撰組は、内部で粛正をする組織としても有名でしたが、主君・松平容保の命により、芹沢鴨の暗殺を実行したのが沖田総司。

また、総長・山南敬助は新選組の規律である「局中法度」を破って切腹となりますが、その介助をしたのも沖田総司でした。仲間を斬れるとは、メンタルの強さも相当だったと言えるのではないでしょうか。しかし、労咳(肺結核)となり、「鳥羽・伏見の戦い」の参戦後に体調が悪化。25歳という若さで病死してしまいます。

沖田総司が所持していた刀剣には諸説ありますが、確かに所有していた刀剣が「加州清光」(かしゅうきよみつ)です。加州清光は、加賀(現在の石川県)を代表する刀工で、特に6代目は、非人兼光(乞食兼光)と言われるほど著名でした。池田屋事件の際、激闘の末に刃こぼれして修復不可能となり所在不明となっています。

加州清光
加州清光
不明
鑑定区分
未鑑定
刃長
72.7
所蔵・伝来
沖田総司

斎藤一×鬼神丸国重(所在不明)

斎藤一

斎藤一

三番組長・斎藤一も、かなりの猛者と言われています。斎藤一は、壬生浪士のときからメンバーとして活躍。江戸幕臣の家に生まれ、山口一刀流を修めたと言われています。

参謀・伊東甲子太郎を怪しんで御陵衛士に入隊し、伊東甲子太郎の企てを報告。これをもとに、伊東甲子太郎を暗殺した「油小路の変」が起きたことは有名です。

戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦い、「甲州勝沼の戦い」に参戦。近藤勇が投降後も、土方歳三と共に戦いましたが、会津戦争で降伏し、謹慎生活を送ります。近藤勇が斬首、土方歳三が戦死し、「榎本武揚」(えのもとたけあき)が降伏したあとは、明治政府の警視庁警官に採用され、「西南戦争」で「西郷隆盛」に勝利し、勲七等青色桐葉章と賞金を授与されます。警視庁退職後は、東京高等師範学校にて撃剣師範を務め、1915年(大正4年)72歳にて病死しました。

斎藤一の愛刀は、「鬼神丸国重」(きじんまるくにしげ)です。鬼神丸国重は江戸時代の摂津国(現在の大阪府)の刀工で、刃文は大乱れを得意としました。新刀中上作で業物と評価されています。

永倉新八×播州手住柄山氏繁(所在不明)

永倉新八

永倉新八

二番組長・永倉新八は、芹沢鴨と同じ、神道無念流の皆伝免許所持者の剣士で、松前藩(現在の北海道)を脱藩。新選組で最強と言われた人物です。

池田屋事件で活躍後、近藤勇と対立。鳥羽・伏見の戦いでも活躍し、新選組改め甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)として戦いますが、近藤勇と意見が合わず決別。北関東で靖共隊を結成して抗戦しますが、会津藩の降伏を知って帰還し、松前藩士となります。

明治維新後は、「杉村治備」(のちに義衛)と改名して、北海道の小樽で剣術を指導。

しかし、1913年(大正2年)には「小樽新聞」に「新撰組 永倉新八」というタイトルで連載を開始するのです。これにより、一時は「悪の人斬り集団」と言われた新選組の名誉挽回に貢献。そのあと、1915年(大正4年)に77歳で永眠しました。新選組最強と言われた永倉新八ですが、弟子達には「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語っていたと言われています。

永倉新八の愛刀は、「播州住手柄山氏繁」(びしゅうじゅうてがらやまうじしげ)です。播州住手柄山氏繁は、4代・手柄山氏繁のこと。現在の兵庫県姫路で作刀し、白河藩「松平定信」(まつだいらさだのぶ)の御用鍛冶となりました。

地鉄は板目肌、刃文は当時流行した、打ち寄せる波のように美しい濤瀾刃風(とうらんばふう)の大互の目を焼き見事です。