愛知県(名古屋)と刀剣

三英傑と日本刀

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戦国時代を代表する武将「織田信長」と「豊臣秀吉」、「徳川家康」の3人は、その功績を称えられ、中部地方を中心に「戦国三英傑」(せんごくさんえいけつ)と称されています。当時、名刀は有力武将のステータスとされていたことから武将達は名刀を蒐集し、権力者には多くの名刀が集まりました。天下人となる三英傑は特に、名刀中の名刀を数多くコレクションした熱心な愛刀家としても有名。ここでは、三英傑が所持していた名刀とその逸話を紹介します。
戦国三英傑
戦国時代の三英傑「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」についてご紹介します。
明智光秀と三英傑
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三英傑(さんえいけつ)/戦国三英傑(せんごくさんえいけつ)とは

三英傑とは、戦国三英傑とも呼ばれる、「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の3人を指した名称です。この3人は全員が愛知県の出身で、名古屋にゆかりのある人物。そのため、三英傑という呼称は主に中部地方を中心として広まっています。

江戸時代後期には、三英傑を題材にした浮世絵や狂歌などが流行していましたが、江戸時代には徳川家康が別格「神君」として扱われていたため、彼ら3人をまとめて呼称し、比較をするようになったのは明治時代に入ってからのこと。

現代では、三英傑ゆかりの地である名古屋市が毎秋行う「名古屋まつり」において、三英傑を主役とした豪華絢爛な祭が開催されています。

織田信長と日本刀

戦国時代のカリスマ「織田信長」

織田信長

織田信長

織田信長は、1534年(天文3年)に尾張国(現在の愛知県西部)の大名「織田信秀」(おだのぶひで)の嫡男として誕生しました。

青少年時代の織田信長は奇抜な服装や言動を繰り返したことから、「尾張の大うつけ」と呼ばれていましたが、隣国・美濃国(現在の岐阜県南部)の戦国大名斎藤道三」(さいとうどうさん)へ謁見したことをきっかけに、本来のカリスマ性を発揮していったのです。

桶狭間の戦い」では家格・兵力共に格上の大名であった「今川義元」(いまがわよしもと)を破り、室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を京都から追放し室町幕府を打倒。畿内で中央政権を確立し、「長篠の戦い」では戦国最強とも言われた武田家の騎馬隊を、当時の最新兵器である火縄銃を駆使して撃破し天下人の道を駆けあがっていましたが、1582年(天正10年)、「本能寺の変」で「明智光秀」に道半ばで倒されました。

義元左文字と織田信長

分捕り品として多くの名刀を蒐集し、コレクションしたと伝わる織田信長の刀として知られる名刀の1振が、名物「義元左文字」(よしもとさもんじ)です。

義元左文字は「宗三左文字」(そうざさもんじ)としても知られ、織田信長を神格として祀った「建勲神社」(京都府京都市)に織田信長ゆかりの刀として所蔵。

義元左文字の表には、金象嵌で「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」、裏には「織田尾張守信長」と刻印されています。これは、桶狭間の戦いにおいて今川義元を打ち破った記念として、織田信長が今川義元の佩刀であった義元左文字を接収しを入れた物。以降、織田信長は義元左文字を愛刀とし身に付けていたとされます。

義元左文字は「正宗十哲」のひとりで、南北朝時代に筑前国(現在の福岡県)で活躍した刀工「左文字源慶」(さもんじげんけい)の手により作刀されたと伝わる刀です。左文字源慶は、本名を「左安吉」(さのやすよし)と言い、刀身の表に「左」の刀工銘を入れたことから「左文字」と呼ばれるようになりました。

宗三左文字
宗三左文字
織田尾張守信長 永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀
鑑定区分
重要文化財
刃長
67.0
所蔵・伝来
三好政長 →
武田信玄 →
今川義元 →
織田信長 →
豊臣秀吉 →
徳川家 →
建勲神社

豊臣秀吉と日本刀

華やかな桃山時代の太閤「豊臣秀吉」

豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉は、尾張国愛知郡中村郷(現在の愛知県名古屋市中村区)に、足軽「木下弥右衛門」(きのしたやえもん)の息子として誕生。

1554年(天文23年)頃から織田信長に仕えはじめたとされ、当初は草履取りなどの雑用係として仕官しましたが、「観音寺城の戦い」や「長篠の戦い」などにおける城攻めの功績から、織田信長の信頼を獲得していきます。

織田信長が「本能寺の変」で倒されると主君の仇として明智光秀を討ち、織田信長の後継者としての地位を確立すると「小牧・長久手の戦い」や「小田原攻め」を経て、天下統一を果たしました。「大坂城」を築き、戦国好みの質素な「侘び寂び」の文化から豪奢な桃山時代の文化の根幹を作りましたが、1598年(慶長3年)に亡くなりました。

骨喰藤四郎と豊臣秀吉

名物「骨喰藤四郎」(ほねばみとうしろう)は、山城国(現在の京都府)の刀工「粟田口吉光」の手による長脇差です。

豊臣秀吉は無類の名刀コレクターで、特に粟田口吉光、「正宗」、「江義弘」の手による刀を珍重し、この3人の打った刀はのちに「天下三作」(てんかさんさく)と呼ばれるようになりました。骨喰藤四郎もそのひとつで、「豊臣家御腰物帳」(とよとみけおこしものちょう)の記述によると、豊臣秀吉の名刀コレクションの中でも特に名刀中の名刀しか入れられない一之箱に、「ほねばみ刀」として入れられていたのです。

豊臣秀吉の死後、骨喰藤四郎は「豊臣秀頼」に相続され、「大坂夏の陣」で大坂城と共に焼け落ちたと信じられていましたが、のちに傷ひとつない姿で発見され、徳川家康に召し上げられました。「明暦の大火」で焼け、焼身となったものの再刃(さいば)され、現在は豊臣秀吉を祀る「豊国神社」(京都府京都市)に所蔵されています。

骨喰藤四郎
骨喰藤四郎
無銘
鑑定区分
重要文化財
刃長
58.8
所蔵・伝来
源頼朝 →
足利尊氏 →
豊臣秀吉 →
徳川家康→
豊国神社

徳川家康と日本刀

江戸幕府初代征夷大将軍「徳川家康」

徳川家康

徳川家康

1542年(天文11年)に、三河国(現在の愛知県東部)の武将「松平広忠」(まつだいらひろただ)の嫡男として誕生した徳川家康は、当時の主家であった今川義元のもとへ人質として下り、幼年時を駿河国(現在の静岡県中部・北東部)で過ごしました。

前半生は織田信長や今川義元、武田信玄に従属し、大きな戦功もなく、武将として揮った人物とは言い難い徳川家康でしたが、有力で忠義深い家臣団の助けもあったことから、徐々に頭角を現していきます。

豊臣政権下では関東管領として8ヵ国を有する大大名に上り詰め、豊臣秀吉の死後は「五大老」に就任。当時豊臣政権で力を揮っていた「石田三成」と対立し、多くの大名と婚姻関係を結ぶことで諸国との結び付きを強め、天下取りへと乗り出しました。「関ヶ原の戦い」に勝利し、1603年(慶長8年)、朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を成立させたのです。

日光助真と徳川家康

天下人として数多くの名刀を所持し、愛刀家として知られた徳川家康ですが、徳川家康の愛刀として真っ先に名前が挙がるのが「日光助真」(にっこうすけざね)です。

日光助真は「加藤清正」(かとうきよまさ)から徳川家康に献上された、刀工「一文字助真」(いちもんじすけざね)の手による太刀で、自らの好みのを誂え、以後愛刀として佩いたと伝わります。死後、徳川家康を祭神として祀る「日光東照宮」(栃木県日光市)に神宝として納められました。

日光助真を作刀した一文字助真は、備前国(現在の岡山県東南部)で鎌倉時代に活躍した福岡一文字の刀工です。「惟康親王」(これやすしんのう)の命で相模国(現在の神奈川県)に下向し鍛刀をしたため、「鎌倉一文字」の別称があります。

日光助真

日光助真