日本刀の名刀

日本刀の最上大業物とは - 名古屋刀剣ワールド

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かつて武器として作られた「日本刀」のなかには、特に優れた切れ味を誇る刀を作刀した刀工「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)が存在します。最上大業物の刀は、歴史的・文化的に非常に高い価値があるため、愛刀家の間でも特に高い人気を誇るのが特徴。また、現代では刀剣が登場するゲームや漫画などでその名が使用されることもあるため、愛刀家でなくてもその名を知っていると言う人も少なくありません。

最上大業物(さいじょうおおわざもの)とは

懐宝剣尺

懐宝剣尺

最上大業物」と言う言葉は、江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)、及び懐宝剣尺の追加・修正版「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)で登場します。

この2冊の刀剣書は、刀を切れ味の良さによって最上大業物、「大業物」、「良業物」(よきわざもの)、「業物」の4ランクに分けて格付けしているのが特徴。

最上大業物の刀工は、1797年(寛政9年)に刊行された懐宝剣尺初版では、901~1595年(延喜元年~文禄4年)に活躍した「古刀」の刀工5工、1596~1764年(慶長元年~明和元年)に活躍した「新刀」の刀工7工の計12工が選出されました。

その後、1805年(文化2年)に再版されたときには、新刀の刀工を1工追加。1830年(文政13年)に古今鍛冶備考が刊行された際には、さらに古刀の刀工2工が加えられ、計15工が最上大業物として名を連ねました。

刀剣ワールド財団所蔵の古刀の最上大業物

長船秀光

「長船秀光」は、南北朝時代末期に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東部)で活躍した刀工。備前国の刀工一派「備前長船派」から派生した「小反り物/小反り一派」(こぞりもの/こぞりいっぱ)を代表する刀工で、懐宝剣尺では秀光自体が刀工としての腕前を賞賛されました。

なお、「小反り」の名称由来は「刀身が2尺前後[約60㎝]で少し反りがあるから」や「刀工一派である大宮一派の居住地・大宮の近くにあった小道里[こどうり]と呼ばれる地域付近で活動したため」、「その近辺の山陰にこっそりと集まったから」など諸説あります。長船秀光は、刀の他に長柄武器の一種である「薙刀」の作刀も行っていました。

薙刀 無銘 長船秀光」は、「静形薙刀」(しずかがたなぎなた:源義経の愛妾「静御前」にちなんで命名された薙刀)で、「天下無双の切れ味」と讃えられました。「最上大業物の筆頭」として掲げられた切れ味を誇る長船秀光の作のなかでも、見事な出来栄えの薙刀です。

薙刀 無銘 長船秀光
薙刀 無銘 長船秀光
無銘
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
58.2
所蔵・伝来
谷家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

三原正家(初代三原正家)

「三原正家」(初代三原正家)は、刀工一派「備後三原派」の祖、または中興の祖と呼ばれる、南北朝時代中期に備後国(現在の広島県東部)で活躍した刀工。

当初は、備前国で活躍していた刀工達と比較されることが多かったため、刀工としての評価は下作とされていました。しかし、「応仁の乱」(1467~1477年)以降、卓越した切れ味の良さが評判となり、その名跡は16世紀末までの300年近くも続いたと言われています。

愛刀家として多くの名刀を所有していた天下人「豊臣秀吉」も、三原一派が作刀した刀を所有していました。「大三原」(おおみはら)と呼ばれる太刀は、その刀身の長さが約81㎝もある大きな刀です。罪人の死体を用いた試し切りの際には「2つの胴を重ねて切断した」と言われており、その切れ味の凄まじさを物語っています。

大三原
大三原
金象嵌銘 大三原 二ツ筒
浅野紀伊守拝領
本阿弥光徳(花押)
鑑定区分
重要文化財
刃長
80.9
所蔵・伝来
豊臣秀吉 →
浅野幸長

長船元重

「長船元重」は、南北朝時代に備前国で活躍した刀工。「五箇伝」(ごかでん:日本刀の主な5つの生産地)のひとつ「相州伝」を代表する刀工「貞宗」の弟子であり、貞宗の弟子のなかでも特に優れた腕前を誇った3名の刀工「貞宗三哲」のひとりに数えられています。「刀 折返銘 備前長船住元重」は、「明治天皇」から元帥陸軍大将「小松宮彰仁親王」(こまつのみやあきひとしんのう)殿下へ下賜された名刀です。

本刀は、「磨上げ」(すりあげ:長い刀を使用しやすいように短く切り詰める)を行う際、(つか)に収める部位「」(なかご)に入れられた(めい:茎に入れられる、刀の作刀者や所有者の情報)が消えるのを惜しみ、切った銘の部分を再び茎へ接ぎ合わせた「折返銘」(おりかえしめい)となっているのが特徴。

刀 折返銘 備前長船住元重
刀 折返銘 備前長船住元重
備前長船住元重
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
68.3
所蔵・伝来
明治天皇 →
小松宮彰仁親王 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

兼元(初代兼元)

「兼元」(初代兼元)は、「清関兼元」(せいかんかねもと)の別名で知られる、美濃国
赤坂(現在の岐阜県大垣市付近)で活躍した刀工。

現存する作数がとても少ない上に、その人物像もほとんど情報がないため、不明な点が多いですが、1469~1486年(文明元年~18年)頃に活動していたと言われています。

孫六兼元(2代目兼元)

孫六兼元」(2代目兼元)は、「関の孫六」の別名で知られる、室町時代後期に美濃国関(現在の岐阜県関市)で活躍した刀工。

兼元の名は室町時代から江戸時代を経て、現代まで続いていますが、特に2代目の孫六兼元の技量が優れていたと言われています。孫六兼元は、「末関物」(すえせきもの:戦国時代の刀需要を受けて美濃国関で作刀された量産品の刀)を代表する刀工の1人で、その作は戦国武将の「武田信玄」や豊臣秀吉、「黒田長政」など、著名な人物達から愛用されました。

刀 銘 兼元(孫六初代)」は、孫六兼元の特徴として知られる「三本杉」(さんぼんすぎ)の刃文を明確に観ることができる刀です。

三本杉とは、「互の目」(ぐのめ:刃文の一種で、規則正しく繰り返す半円状の模様)のなかに「尖り互の目/互の目尖り」(とがりぐのめ/ぐのめとがり:模様の先端が尖っている互の目)が一定の間隔で連なっている刃文のこと。本刀は、孫六兼元の典型的な作風を示す優品です。

刀 銘 兼元(孫六初代)
刀 銘 兼元(孫六初代)
兼元
鑑定区分
保存刀剣
刃長
67.0
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

和泉守兼定(2代目兼定)

和泉守兼定」(2代目兼定)は、「之定」(のさだ)の通称で知られる、室町時代に美濃国関で活躍した刀工。「関鍛冶の第一人者」であり、孫六兼元(2代目兼元)と共に関鍛冶を代表する刀工として名を馳せました。

和泉守兼定が作刀した刀は、非常に切れ味が優れていたため、多くの戦国武将から支持を受け、刀だけではなく薙刀の作刀も行っています。「薙刀 銘 和泉守兼定作」は、「織田信長」に仕えた戦国武将「京極高次」が所持したと言われる薙刀です。

本薙刀の特徴は、豪華で美しい刃文。号として「鬼夜叉」の名が付けられていますが、これは猿楽(さるがく:能・狂言の源となった芸能)の大家「世阿弥」(ぜあみ)が幼少の頃に名乗っていた名にちなんで付けられました。また、本薙刀は茎に切られた之定の銘も鮮明であるため、資料的にも貴重な1口となっています。

薙刀 銘 和泉守兼定作
薙刀 銘 和泉守兼定作
和泉守兼定作
鑑定区分
重要刀剣
刃長
61
所蔵・伝来
京極高次→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

長船兼光(延文兼光)

「長船兼光」は、「延文兼光」(えんぶんかねみつ)と呼ばれる、南北朝時代に備前国で活躍した刀工。長船兼光を称する刀工は4工存在しますが、一般には南北朝時代に活躍した延文兼光を指します。

作刀した時期によって作風が異なるため、「延文兼光は初代と2代の2工が存在したのでは」と考えられていましたが、現在では同一の刀工による作風の変化と見なされており、1代限りの刀工だったとする説が有力です。長船兼光の豪壮な作風は、多くの戦国武将を魅了したと言われています。

戦国武将「本多忠勝」の孫である「本多忠刻(忠為)」は、「刀 無銘 伝兼光(金象嵌)本多平八郎忠為所持之」と言う刀を所有していました。本刀は、目を引く鮮やかな刃文が特徴で、戦国時代に武士から求められた、実用性に富んだ逸品です。

刀 無銘 伝兼光(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
刀 無銘 伝兼光(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
(金象嵌)
本多平八郎
忠為所持之
鑑定区分
重要美術品
刃長
71.5
所蔵・伝来
本多忠刻(忠為) →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀剣ワールド財団所蔵の新刀の最上大業物

長曽祢興里(初代虎徹)

「長曽祢興里」(初代虎徹)は、「虎徹」の通称で知られる、江戸時代前期に江戸で活躍した刀工。銘に虎徹と切った刀工は、初代である長曾祢興里と、2代目「長曽祢興正」(ながそねおきまさ)が存在しますが、一般に虎徹と言うと長曾祢興里を指します。

長曾祢興里は、実用性重視の刀を多く作刀していたため、愛刀家でなくとも全国的に知られていました。一方で、「虎徹を見たら偽物と思え」とも言われおり、これは数多くの偽物が世に出回ったことが理由となっています。

偽物の虎徹と言えば、新選組の局長「近藤勇」が所有していた愛刀が挙げられますが、近藤勇は愛刀を虎徹の作と信じたうえで愛用していました。長曾祢興里の作風の特徴は、「数珠刃」(じゅずば)と呼ばれる刃文です。数珠刃とは、刃文の模様が、数珠のような均一の大きさの丸みを持って、連続して描かれている様子のことを指します。

形状として非常に互の目と似ているため、混同されることがありますが、数珠刃は互の目と異なり、連続する頭の丸みがほぼ同じ大きさであるため、技量が優れた刀工にしか焼くことができない刃文です。

刀 銘 長曽祢興里入道乕徹」には、刃文全体ではなく部分的に「数珠刃風の刃文」が焼かれています。また、本刀は磨上げをされていない「生ぶ茎」(うぶなかご:作刀当時の状態を保った茎)の作であるため、資料としても大変貴重な1振です。

刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
長曽祢興里
入道乕徹
鑑定区分
重要刀剣
刃長
68
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

長曽祢興正(2代目虎徹)

「長曽祢興正」(2代目虎徹)は、江戸時代初期に江戸で活躍した刀工。初代虎徹との関係は「血縁関係にある親子だった」や「もとは門人でのちに養子となった」等、諸説あります。2代目虎徹として名が知られていますが、銘に虎徹を冠した作は少ないため、一般に「2代目虎徹」と呼ばれることは多くありません。

しかし、その技量は非常に高く、長曾祢興里の代作(本人に代わって刀を作刀すること)を務めたこともあったと言われています。また、長曾祢興里と同じく高名であったため、偽物が多いことでも有名です。

刀 銘 長曽祢興正(金象嵌)延宝四年十二月十日貳ツ胴裁断山野勘十郎久英(花押)」は、長曾祢興正が作刀した刀。銘の「貳ツ胴裁断」は、2体重ねた死体を一刀で裁断したことを意味しており、長曾祢興正の刀が長曾祢興里に匹敵するほどの切れ味を誇っていたことを示す名刀です。

刀 銘 長曽祢興正(金象嵌)延宝四年十二月十日 貳ツ胴裁断山野勘十郎久英(花押)
刀 銘 長曽祢興正(金象嵌)延宝四年十二月十日 貳ツ胴裁断山野勘十郎久英(花押)
長曽祢興正(金象嵌)延宝四年十二月十日 貳ツ胴裁断山野勘十郎久英(花押)
鑑定区分
重要刀剣
刃長
71.8
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

仙台国包(初代国包)

「仙台国包」(初代国包)は、「山城大掾国包」(やましろだいじょうくにかね)の名で知られる、江戸時代に陸奥国(現在の福島県宮城県岩手県青森県秋田県の一部)で活躍した刀工。

大和国(やまとのくに:現在の奈良県)で活躍した刀工一派「保昌派」(ほうしょうは)の末流と言われており、1626年(寛永3年)に「山城大掾」(やましろだいじょう)を受領しました。「刀 銘 山城大掾藤原国包 寛永十一年二月日」は、山城大掾を受領したあとに作られた刀です。銘には「山城大掾藤原国包」の名と、「寛永十一年二月日」の年紀銘(その刀が作刀された年代や日付の銘)が切られています。

本刀は、「徳川御三家」のひとつ「水戸徳川家」の支藩家「守山松平家」に伝来した名刀で、刀を保管する際に用いる「白鞘」(休め鞘)には「守山国包」と言う号と、「本奥州守山候松平家之有」と言う所有者銘が記されているのも特徴のひとつ。

刀 銘 山城大掾藤原国包 寛永十一年二月日
刀 銘 山城大掾藤原国包 寛永十一年二月日
山城大掾藤原国包 寛永十一年二月日
鑑定区分
重要刀剣
刃長
71.4
所蔵・伝来
守山藩松平家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

ソボロ助広(初代助広)

「ソボロ助広」(初代助広)は、江戸時代初期に摂津国(現在の大阪府)で活躍した刀工。通称の「ソボロ」の由来は、「服装に無頓着で、いつもボロを纏っていたために付いた」と言う説があり、1804年(文化元年)頃には「助広の刀を所有すると貧乏になる」と言う迷信まで生まれました。

刀の切れ味は非常に鋭く、「祭りの際に無礼を働いた者達を数十名斬った」と言う伝説が存在。なお、「助広」と銘を切った刀工には、2代目の助広である「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)がいます。津田越前守助広は、同時期に大坂で活躍した刀工「井上真改」(いのうえしんかい)と並び「大坂新刀の双璧」と称されていました。

刀 銘津田越前守助広 井上真改」は、津田越前守助広と井上真改が作刀にあたった合作刀で、本刀には助広の特色がよく表われているのが特徴。これは、作刀時に津田越前守助広が主導となって作刀していたことを示しており、2人の関係性を研究するための資料として非常に貴重な1振です。

刀 銘 津田越前守助広 井上真改
刀 銘 津田越前守助広 井上真改
津田越前守助広 延宝三年二月日 井上真改
延宝三年二月日
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
72.6
所蔵・伝来
大坂城代青山家 →
鎌田魚妙 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

肥前忠吉(初代肥前忠吉)

肥前忠吉」(初代肥前忠吉)は、江戸時代初期に肥前国(現在の佐賀県)で活躍した刀工。もともとは武士の家柄でしたが、肥前忠吉が13歳のとき、祖父と父が1584年(天正12年)に起きた「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で討死したことで知行が断絶。これがきっかけとなり、一家は刀工として上京することになります。

のちに肥前忠吉は、彫物の名手と名高い「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)のもとで技を磨きました。1598年(慶長3年)になると、肥前国へ帰国し、佐賀城下町(現在の佐賀県佐賀市長瀬町)に居を構えます。

その後、佐賀藩主「鍋島勝茂」に刀工としての技量と、戦功ある家柄だったことが認められて佐賀藩の手明鑓(てあきやり:鍋島家独自の身分制度のひとつで、平時は手明き[無役]、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者達)に取り立てられ、代々藩工として栄えました。

肥前忠吉の代表作に挙げられるのが、「刀 銘 肥前国忠吉(倶利伽羅)」です。本刀は、「大英博物館」の日本刀展示会において、日本刀の代表作の1振として展示された経歴があります。刀身の表裏に施されているのは「倶利伽羅龍」(くりからりゅう:不動明王が右手に持つ、剣に巻き付いている龍)と「三鈷柄附剣」(さんこつかつきけん:密教で使われる祭神具の一種)。師・埋忠明寿から学んだ技量が存分に発揮されている1振です。

刀 銘 肥前国忠吉(倶利伽羅)
刀 銘 肥前国忠吉(倶利伽羅)
肥前国忠吉
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
69
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

陸奥守忠吉(3代目肥前忠吉)

「陸奥守忠吉」(3代目肥前忠吉)は、江戸時代初期に肥前国で活躍した刀工。初代肥前忠吉の孫にあたる人物ですが、父である「2代肥前忠広」の代作を務めていた他、50歳と言う若さで没しているために現存作数は比較的少ないです。

刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉」は、佐賀藩主・鍋島家に伝来した、陸奥守忠吉の最上傑作品。初代・肥前忠吉を思わせる鋒/切先(きっさき)の伸びた豪壮な姿が印象的な1振です。

刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉
刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉
肥前国住
陸奥守忠吉
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
76.35
所蔵・伝来
鍋島家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

多々良長幸

「多々良長幸」(たたらながゆき)は、刀工一派「大坂石堂派」(おおさかいしどうは)を代表する、江戸時代前期に摂津国で活躍した刀工。紀州国(現在の和歌山県全域と三重県南部)から大坂に移住した「河内守康永」(かわちのかみやすなが:刀工一派「石堂派」の刀工)に学び、師を凌駕するほどの技量の持ち主として名声を挙げました。

多々良長幸は、刃文のひとつ「丁子乱れ」(ちょうじみだれ)の名人として知られています。丁子乱れとは、植物の「丁子」(ちょうじ)の蕾が重なり合ったような美しい刃文のこと。「刀 銘 長幸於摂津国作之」は、阿波国(現在の徳島県)徳島藩主「蜂須賀家」に伝来した刀で、多々良長幸の特色である華麗な丁子乱れが見事に焼かれた、同工屈指の銘品です。

刀 銘 長幸於摂津国作之
刀 銘 長幸於摂津国作之
長幸
於摂津国作之
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
84.8
所蔵・伝来
蜂須賀家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

三善長道(初代長道)

「三善長道」(初代長道)は、江戸時代前期に陸奥国会津藩(現在の福島県西部と新潟県、及び栃木県の一部を治めた藩)で活躍した刀工。その作風と切れ味の良さから「会津虎徹」や「会津正宗」などと称され、絶大な人気を誇ったことで知られています。

1658年(万治元年)に「陸奥大掾」を受領したのち、銘に陸奥大掾と切るようになりました。「刀 銘 陸奥大掾三善長道」は、長曾祢興里に似た作風の刀。刀身に美しく掻かれた(ひ:溝状の刀身彫刻)や焼幅(やきはば)の広い刃文が切れ味の良さを思わせる逸品です。

刀 銘 陸奥大掾三善長道
刀 銘 陸奥大掾三善長道
陸奥大掾
三善長道
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
72.1
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕