愛知県(名古屋)と刀剣

尾張三作とは

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戦国三英傑(せんごくさんえいけつ)とゆかりの深い土地で、江戸時代には「徳川御三家」(とくがわごさんけ)の筆頭「尾張徳川家」の支配下に置かれた尾張国(現在の愛知県西部)。戦国時代末期から江戸時代前期にかけて、様々な名刀や日本刀の名匠が集まりました。なかでも「尾張三作」(おわりさんさく)と呼ばれる、尾張国を代表する3人の名匠を紹介します。

尾張国の三大刀工「尾張三作」

尾張三作とは

尾張三作」(おわりさんさく)とは、戦国時代末期から江戸時代前期にかけて活躍した、尾張国の三大刀工「相模守政常」(さがみのかみまさつね)、「飛騨守氏房」(ひだのかみうじふさ)、「伯耆守信高」(ほうきのかみのぶたか)を指します。

戦国時代末期に美濃国(現在の岐阜県南部)関で繁栄した刀工の一部が尾張国に移住した「尾張関」(おわりせき)と呼ばれる流派に属し、「織田信長」や「徳川家康」などの天下人に仕えました。

尾張関とは、「五箇伝」(ごかでん)のひとつで、南北朝時代に美濃国で誕生した「美濃伝」(みのでん)の一派、「関物系」(せきものけい)と呼ばれる刀派のひとつ。関物系の日本刀は、美術品的な美しさよりも、実戦で扱いやすく切れ味に優れた日本刀を作刀するのが特徴で、多くの武将達に愛されました。尾張三作はそれぞれが受領名を授かっており、国に認められる優れた腕前を持った刀工であることが分かります。

相模守政常

相模守政常の経歴

相模守政常(さがみのかみまさつね)は、短刀の名手として知られており、城主直々に藩校として召されたほどの腕前を持つ名工です。

通称「初代政常」として知られており、1535年(天文4年)に美濃国納土(現在の岐阜県美濃加茂市納土)に誕生しました。

1567年(永禄10年)に尾張国小牧城下に移住し、「小牧・長久手の戦い」では徳川家康の配下として、槍100本を作刀。刀工として活動しはじめた初期は、「兼常」(かねつね)と(めい)を入れていましたが、1592年(天正20年)に「相模守」の受領名を拝領したのちに「政常」と銘を改めました。

以降徳川家の御用鍛冶として作刀し、1600年(慶長5年)に清洲城主となった徳川家康の四男「松平忠吉」(まつだいらただよし)直々に招集され、相模守政常は清洲城下へ移住。尾張藩工として作刀に務めました。

1607年(慶長12年)に城主・松平忠吉が逝去すると、徳川家康の九男「徳川義直」(とくがわよしなお)が後代として尾張藩主に就任。徳川義直が清洲城(愛知県清須市)から名古屋城(愛知県名古屋市)に移るのと同時に、相模守政常も尾張藩お抱えの刀工として名古屋城下に移住し、数多くの名刀を作刀しました。

相模守政常が作刀した日本刀

相模守政常の作刀は、「慶長新刀」風の身幅(みはば)が広く反りの浅い、鋒/切先(きっさき)の延びた姿が特徴。美濃伝特有の杢目肌(もくめはだ)に柾目肌(まさめはだ)が交じった地肌が、青黒くえています。

平造りの短刀を数多く作刀しており、短刀の作風は、身幅が広く、重ねの厚いしっかりとした姿に、(にえ)本位の広直刃(ひろすぐは)や湾れ(のたれ)乱れを焼いた、相州伝風。刀の作風は、互の目乱れや大乱れなどを焼き、砂流し(すながし)のかかった刃が特徴とされています。相模守政常の作刀は多くの人が求め、特に短刀は贈答用としても重用されました。

薙刀 銘 相模守藤原政常
薙刀 銘 相模守藤原政常
相模守藤原政常
鑑定区分
未鑑定
刃長
47.3
所蔵・伝来
徳川家伝来 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

作域は広く、刀や脇差、短刀の他にも槍や薙刀、剣などの作刀も手掛け、名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」でも「薙刀 銘 相模守藤原政常」を所蔵。

金梨子地唐草文様葵紋散らし 薙刀拵

本薙刀は尾張徳川家に代々伝来した物で、華やかな唐草文様や徳川家の家紋「三つ葉葵」が散りばめられた、華やかな拵「金梨子地唐草文様葵紋散らし 薙刀拵」も共に所蔵されています。

本薙刀は、湾れ調の刃文に大互の目(おおぐのめ)や、小互の目(こぐのめ)を交え、刃中の働きが盛んな美濃伝らしい絢爛な印象の1振です。

飛騨守氏房

飛騨守氏房の経歴

飛騨守氏房は、「初代氏房」と呼ばれる「若狭守氏房」(わかさのかみうじふさ)の長子として1567年(永禄10年)に美濃国関に誕生。元々は刀工ではなく、織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)の小姓として仕えていましたが、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」で主君が自害したため、父のもとで刀工として腕を揮うようになりました。

「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)の世話によって、1592年(天正20年)に「飛騨守」の受領名を拝領。そのあとは尾張藩工として清洲城主であった「福島正則」(ふくしままさのり)や松平忠吉に仕え、徳川義直が名古屋城に移ると同時に自らも名古屋城下へ移住しました。師である父・若狭守氏房の没後は尾張三作のひとり、伯耆守信高に師事し、作刀したと伝わっています。

飛騨守氏房が作刀した日本刀

飛騨守氏房は相模守政常と比べると、刀を多く作刀しました。作風は当時流行していた、反りが浅く身幅の広い慶長新刀風の姿をしており、沸本位の大湾れ乱れや大互の目乱れの刃文に、焼きがよく入っているのが特徴。本阿弥家(ほんあみけ)の書物によると、磨上げられた物のなかには、天下三作のひとり「江義弘/郷義弘」(ごうよしひろ)とよく似た豪壮な印象の刀もあったとされています。

伯耆守信高

伯耆守信高の経歴

「関七流」(せきしちりゅう)のひとつ、「三阿弥兼則」(さんあみかねのり)の後裔として美濃国に誕生した伯耆守信高は、慶長年間の初期に尾張国清洲城下の関鍛冶町で刀工として開業しました。

1592年(天正20年)に豊臣秀次の取り成しにより「伯耆守」を受領し、1610年(慶長15年)には尾張藩主・徳川義直に伴って名古屋城下の関鍛冶町へ移住。以降代々尾張徳川家の藩工として仕えました。伯耆守信高は相模守政常よりも年少でしたが、尾張三作のなかでも上流の家格であったことから尾張関の総代を務め、信高家は代々総代を務める家柄となったのです。

伯耆守信高が作刀した日本刀

伯耆守信高の作風は、美濃伝を基調としつつも相州伝の作風を加えており、相模守政常や飛騨守氏房と比べると多少反りが強く入っています。また、身幅は狭く、重ねの薄い、総体的におとなしい作風。刃文は沸本位の大乱れや、焼頭の尖った互の目乱れなどの交じった華やかな刃文が特徴です。作刀は切れ味が鋭いことから、息子の2代伯耆守信高と共に、刀工ごとに切れ味の鋭さをまとめた書物「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)の業物50工に数えられています。

現存する作刀は少ないものの、名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館には伯耆守信高の手による槍が所蔵されています。「槍 銘 伯耆守藤原信髙」は、新刀期に作刀されましたが、造込みなどに古刀期の作品の特徴を持った槍です。

まず、「螻蛄首」(けらくび)と呼ばれる、穂(ほ:槍の刀身)とが接する部分が長く、古刀期の特徴を持っています。次に、太平の世となっていた江戸時代に作刀されたにもかかわらず本槍は刃長が76cmもあり、戦国期に用いられていた槍の特徴を持っていることから、勇猛な戦国武将が用いるような印象を狙って作刀されたことが分かるのです。

平三角造の本槍は、柾目肌に大肌の交じった鍛え肌を持ち、直刃に僅かな尖り刃、小互の目が交じった刃文を持っています。さらに、所々ほつれた喰違刃(くいちがいば)が交じってが入り、小沸が付き、上半分に飛焼が見られる華やかな作風です。多くの働きがありながらも統一感のある重厚な本槍は、伯耆守信高の技量の高さが窺える傑作であると言えます。