日本刀の名工・名匠

南北朝時代・室町時代の名工

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武士の時代と言われた鎌倉時代を経て、日本刀は大きく変化してきました。鎌倉時代の日本刀は、平安時代までの細く優美な姿から、身幅が厚く全体的にしっかりとした姿へと変化。そして争乱の絶えなかった南北朝時代や室町時代は、戦の様式や武士達の注文に合わせてよりいっそう実用重視の日本刀が作られるようになりました。ここでは、時代による日本刀の在り方、そして南北朝時代と室町時代に活躍した名工達の歴史を追っていきましょう。

南北朝時代の名工

後醍醐天皇

後醍醐天皇

南北朝時代は、鎌倉幕府を倒した「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)と、その配下だった「足利尊氏」(あしかがたかうじ)との対立によって2つの朝廷に分裂した時代です。

恩賞に不満を持った足利尊氏が後醍醐天皇を京都から追い出したことがはじまります。京都を追われた後醍醐天皇は、大和国吉野(現在の奈良県吉野郡)で南朝を開き、足利尊氏は京都室町で北朝を開きました。

広義では室町時代となりますが、1334年(建武元年)の後醍醐天皇の「建武の新政」から1392年(明徳3年/元中9年)に統一されるまでの約60年間は、特に南北朝時代と言います。

以来、大和国と山城国は南北朝内乱の中心になり、全国的に戦が拡大しました。

戦の方法は、騎馬戦による単騎から大量の歩兵を動員した集団戦へと移行。武器は弓から、太刀薙刀などが使用されるようになり、南北朝時代は敵を威嚇するため刃長が1mを超える大太刀なども流行しました。

そしてよりいっそう切れる実用本位の「相州伝」(現在の神奈川県で勃興した鍛刀方法)が各地に波及。が目立って見える荒沸本位の鍛えや、焼幅が広い刃文、棟側まで刃文を焼いた皆焼(ひたつら)などが相州伝の特色です。

さらに相州伝の鍛錬方法を確立した「正宗」(まさむね)に影響を受けた刀工や、備前国(現在の岡山県東南部)で相州伝を加味した「相伝備前」(そうでんびぜん)など多種多様な作風が生まれます。

また南北朝時代の刀は切れ味が一番良いとされているのです。江戸時代に刊行された刀工の格付け本「懐宝剣尺」や「古今鍛冶備考」でも「大業物」(おおわざもの)として、多くの刀工が選出されています。ここでは、南北朝時代に活躍した名工についてご紹介しましょう。

長谷部国重

長谷部国重」(はせべくにしげ)は、南北朝時代から室時時代初期にかけて作刀を行った刀工です。通称を「長兵衛」(ちょうべえ)と言い、長谷部国重を初代として3代続く「長谷部派」の祖となります。

そして長谷部国重は、相州伝の開祖「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)と縁戚関係であると伝わる人物。それは新藤五国光が鎌倉長谷の地に住み、そこから取って「長谷部」と名乗ったからだと言います。

さらに正宗に師事し、後世は正宗の高弟「正宗十哲」のひとりに数えられているのです。当初、相模国で作刀していた長谷部国重でしたが、鎌倉幕府が滅亡したことで注文数が減ることを見越して、京都に移り住んで作刀していました。

しかしそのあとの南北両朝の争いによって京都をいっとき離れます。各地を放浪したのち再び京都に定住を決め、京都で作刀を続けることにしたのです。作風は、相州伝に多かった刀身の棟まで焼く皆焼の刃文、地鉄には大板目肌と大柾目肌が交じります。

現存する長谷部国重の作品は、短刀の在銘品はありますが、磨上げ(長大な刀を短くすること)が行われたためなのか太刀の在銘品は現存しません。けれど、江戸時代の刀剣鑑定家・本阿弥家が長谷部国重作と鑑定した刀「へし切長谷部」は無銘ながら名品と認められ国宝に指定されています。

へし切長谷部
へし切長谷部
(金象嵌銘)
長谷部国重本阿
(花押)
黒田筑前守
時代
南北朝時代
鑑定区分
国宝
所蔵・伝来

兼光

片落ち互の目

片落ち互の目

兼光」(かねみつ)は、備前長船派ながら相州伝の鍛刀方法を取り入れた相伝備前の開祖と伝わります。江戸時代当初は1代説でしたが、現在は作風の差や、作刀年代の幅の広さなどから2代説や3代説があり、いまもって有力な説がない状況です。

3代説を取った場合の初代と2代目の兼光作は、その素晴らしさから「大兼光」とも称されます。兼光は、長船派の名工「景光」(かげみつ)の子で、同派の正系を継ぐ刀工でもありました。作刀時期の建武から康永期間は、鎌倉時代に多かった刀身の重ねが厚く、猪首鋒/猪首切先(いくびきっさき)の帽子に、備前伝の特徴となる「匂本位」の片方の山が急勾配である「片落ち互の目」だったと言います。

それが延文年間の頃には相州伝法となる、沸本位に焼幅の広い乱刃を基調としつつ肩落ち互の目の刃文が入るのです。備前伝の姿は格式が高く一見して大業物と感じる体配、一方の相伝備前は動的で覇気のある姿となっています。

兼光作品は切れ味の良さを表す号が多く、足利尊氏の命で鍛えて試し切りの際に兜を見事割ったことから付けられた「兜割り兼光」や、鉄砲を切ったことで付けられた「鉄砲切り兼光」などがあります。

他にも、切られたことに気付かないまま川の反対まで泳ぎきったあとに、その人物の体が真っ二つに分かれてしまったという、実話をもとに付けられた「波游ぎ兼光」など。兼光作品は現存数が多く、また名物・国宝重要文化財などに指定されている刀も多いのです。

波游ぎ兼光
波游ぎ兼光
金象嵌銘羽柴岡山中納言秀詮所持之波遊ぎ末代の剣 兼光也
時代
南北朝時代
鑑定区分
重要美術品
所蔵・伝来
豊臣秀吉→
小早川秀秋→
株式会社ブレストシーブ

志津三郎兼氏

志津三郎兼氏」(しずさぶろうかねうじ)は、「五箇伝」(大和伝(奈良県)・山城伝(京都府)・備前伝・相州伝・「美濃伝」(岐阜県)のこと。5つの地域に伝わる鍛錬方法)で最も新しい流派・美濃伝を完成させた刀工。

もとは、大和国手掻包永系(やまとこくてがいかねながけい)の出身で、最初に五箇伝の大和伝を習得しました。そのあと、相模国に移り住み相州伝の正宗を師事し、後世は正宗十哲のひとりに挙げられています。

鎌倉時代の美濃国には、大和国から配流された刀工「千手院重弘」(せんじゅいんしげひろ)が、赤坂(現在の岐阜県大垣市)の土地で「赤坂鍛冶」を興していました。南北朝時代に後継となるべく移住してきたのが、相州伝を学んだ志津三郎兼氏と、越前国(現在の新潟県)出身の僧籍で同じく相州伝を学んだ「金重」(かねしげ/きんじゅう)です。

この2人によって、美濃伝という新しい流派が誕生しました。志津三郎兼氏の一派は、多芸庄志津村(現在の海津市南濃町志津)に移住して活躍したことから「志津系」とも呼ばれ、大和伝と相州伝を加味した作品を作るようになります。特に、実用性に富んだ切れ味の良さを追求したことで、江戸時代中期には「名物」(歴史的価値が高い刀剣)にも多数選ばれ、「美濃物」として高く評価されました。

志津三郎兼氏の日本刀には、美濃国の大名「土岐頼芸」(ときよりのり)が所有したと伝わる1振があります。直刃調の大人しい刃文に見えますが、浅く湾れ、刃中には砂流し金筋などの働きが現れるなど、技術力の高さがうかがえる作品です。

刀 無銘 伝志津
刀 無銘 伝志津
無銘
時代
南北朝時代
鑑定区分
重要美術品
所蔵・伝来
土岐頼芸→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

室町時代の名工

太刀と打刀

太刀と打刀

南北に分かれていた政権が、北朝の室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)と、南朝の「後亀山天皇」(ごかめやまてんのう)との講和条約「明徳の和約」によって統一されました。

これにより南北朝時代は終わり、足利将軍家による全国支配の政権が開始します。南北の争いが収束したことで、日本刀の生産はゆるやかになりました。

そして戦の方法が騎馬戦から徒歩戦に変化していたこともあり馬上で扱うための長い太刀は少しずつ廃れ、徒歩の状態で丁度良い長さとなる「打刀」が作られるようになったのです。太刀は刃長だけで約75.8cm前後ありましたが、打刀は約69cmと5~6cmほど短くなります。また反りについても、太刀は元幅部分が反る「腰反り」なのに対して、打刀は物打から先幅の部分が反る「先反り」へと変化。

これは見た目の違いもありますが、重量や刀を振ったときの感覚も変わってくるため、武士達からすれば大きな変化と言えるでしょう。そして武士達は、二本差しと呼ばれる打刀と「脇差」の「大小」を腰に差すようになります。

脇差の生産が増えてもいましたが、所有していた太刀を腰に差すため太刀を短く磨上げる文化も起きました。この二本差しが、江戸時代以降、武士の正装として定められるのです。ここでは、室町時代に活躍した名工についてご紹介致します。

盛光

盛光」(もりみつ)は、備前長船派の刀工で応永年間(1394~1427年)に活躍したことから「応永備前盛光」と呼ばれます。盛光は、低迷しつつあった長船鍛冶を押し上げた刀工であり、備前長船派を最後に花開かせた人物です。

そして初代・盛光とされる刀工には作品がほとんどないことから、世に多く残る作品の大部分は2代目を継いだ盛光作だと伝わります。そうだとしても盛光作は全国的に見ても当時としては随一の名工と言っても過言ではなく、「修理亮」(しゅりのすけ)の受領名(朝廷から授かる官職名)などを称していました。

作刀については、太刀や打刀は少なく、脇差や短刀などが多いです。作風は、鍛えに板目肌に杢目肌が交じり、応永備前特有の棒映りが立ちます。刃文は互の目に丁子が交わり、焼きの頭が丸くなるところに盛光らしい特色が現れているのです。

なお盛光の作刀は、「忌宮神社」(山口県下関市)所蔵の「太刀 銘 備州長船盛光 応永廿三年八月日」と、「岡山県立博物館」(岡山県岡山市)所蔵の「大薙刀 銘 盛光 拵黒漆塗薙刀」などが重要文化財に指定されています。

初代・村正

初代「村正」(むらまさ)は、伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市)で南北朝時代後期から室町時代前期に活躍した刀工です。

村正の興した一派を「千子派」(せんごは)と言い、開祖となる初代村正は、1501~1555年頃(文亀~天文年間)に作刀活動を行いました。村正は謎に包まれた部分が多く、どの地方のどんな流派を習得したのかについては定まっていません。

出身地についても諸説あり、現在の岐阜県関市あるいは岐阜県大垣市赤坂町だと言われています。村正最大の特徴としては、刀身の表と裏で焼き入れの模様を一致させる「村正刃/千子刃」(むらまさば/せんごば)の刃文をしていることです。

こうした個性的な特徴は、村正の弟子達へも受け継がれていきます。作風は、刀身の反りは浅く、けれども(しのぎ)が高いことから全体的にどっしりとした印象。刀の扱いに慣れた人が見れば「これは切れ味が良い」と思わせる姿をしています。

また見た目だけではなく、実際良く斬れる日本刀だというのが当時の評価です。当時の流行刀だったこともあり、伊勢国から近い三河武士をはじめ「豊臣秀吉」など多くの武将達に愛用されました。

短刀 銘 (金象嵌)村正 日洲(花押)
短刀 銘 (金象嵌)村正 日洲(花押)
(金象嵌)村正
日洲(花押)
時代
室町時代
鑑定区分
特別保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

2代目・兼定(之定)

2代目「兼定」(かねさだ)は、美濃国志津派の流れを汲む刀工で、現在の岐阜県関市に拠点を置いたことから「関鍛冶」と呼ばれている一派です。

また2代目・兼定の銘は、「定」という字のあしの部分が、「之」の字に見えたことから「之定」の通称で知られています。2代目・兼定は名工中の名工であり、1511年(永正8年)に「和泉守」を受領しました。「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が選出した刀工による作刀「御番鍛冶制度」(ごばんかじせいど)では、選出された刀工達に様々な優遇措置がなされましたが、受領名もそのひとつです。

しかし古刀期の受領名は一般的に、「次官」あるいはその下位となる「判官」(はんがん)への任命は許可されていましたが、長官に当たる「守」(かみ)を許されたのは2代目・兼定が最初となります。

作風は、身幅が広く反りは浅め、鋒/切先が少し伸びた相州風。匂本位の焼幅に、角張った箱のような箱乱刃や、矢筈乱の刃文を焼きます。また関鍛冶による作刀は一般的に匂口(刃文の境界線)が沈みがちですが、2代目・兼定の場合は匂口がはっきりとしているところが特徴です。

2代目・兼定の刀は、名だたる名将達にも愛用されています。「武田信玄」(たけだしんげん)の父「武田信虎」(たけだのぶとら)や、明智光秀の娘婿「織田信澄」(おだのぶずみ)、「細川忠興」(ほそかわただおき)などが所有しました。

刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持
刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持
和泉守兼定作
(金象嵌)二ツ胴
三浦将監所持
時代
室町時代
鑑定区分
特別重要刀剣
所蔵・伝来
紀州徳川家の家老→
三浦将監→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕