刀剣の豆知識

妖刀村正伝説

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江戸時代、「妖刀」(ようとう:不吉な刀)と恐れられ、武士達が持つことを憚った刀がありました。それが「村正」(むらまさ)です。村正とは、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工一派が作刀し、切れ味が良いと三河武士達から絶賛されていた刀。この村正の刀を所持すると、一体どんな災いが訪れると言われていたのでしょうか。「妖刀村正伝説」について、詳しくご紹介します。

「妖刀村正伝説」とは

徳川家康

「妖刀村正伝説」とは、江戸時代に広まった都市伝説のひとつです。

それは「村正」という刀が、「徳川将軍家」に災いをもたらす呪いの刀だという噂。その根拠となったのが、次の5つです。

  1. 江戸幕府初代将軍「徳川家康」の祖父「松平清康」が家臣によって殺害され、その刀が村正だった。
  2. 徳川家康の父「松平広忠」も家臣によって斬られ、その切り傷が原因で死亡。その刀もまた村正の脇差だった。
  3. 徳川家康が今川家の人質となっていた頃に小刀を使って手を負傷。その小刀も村正だった。
  4. 徳川家康の正室「築山殿」と長男「松平信康」が「織田信長」に嫌疑をかけられ切腹を命じられた。その際、介錯に使用されたのが村正だった。
  5. 徳川家康の強敵「真田幸村」が愛刀としていたのが村正だった。

これを聞いた家臣達は、村正の刀に恐れ慄き、村正は徳川家にとって不吉だと処分する者がではじめました。これが、村正の刀を所持し続けている者は、御家に対して二心があるとか、忠誠心がないという話にエスカレート。これにより、町で村正の刀を腰帯に差す者はいなくなったのです。

また、刀を処分しない者でも村正の名前をとにかく恐れ、を磨り潰して無銘としたり、他の銘を上書きしたりしました。そしていつしか、「村正の刀を所持すると祟りがある」とまで言われるようになったのです。

「村正」とは

村正一派

「村正」とは、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工一派、及びこの刀工一派によって作られた刀のことです。

初代・村正は、1501年(文亀元年)頃の人。2代・村正は1532年(天文元年)頃の人で、3代・村正は1573年(天正元年)頃の人。また、4代・村正は1596年(慶長元年)頃の人と言われ、4代にわたって栄えました。

初代・村正は、はじめは桑名で農機具を作っていたと言われています。伊勢神宮に近い桑名の土地はとても平和で武器は必要ありませんでした。しかし、室町時代中期になって戦国の世に突入し、刀の需要に迫られるようになったのです。諸説ありますが、初代・村正は、京に出て「三条長吉」に山城伝の鍛刀法を学び、さらに相州伝を確立した「正宗」(まさむね)にも学んだと言われています。

また、村正は母が桑名の千手観音に祈願したことで生まれたことから、姓を千子と名乗り、千子鍛冶(せんじかじ)とも呼ばれました。

村正はココがスゴイ!

村正の特徴は、表裏の刃文(はもん)が揃っているところ。地鉄(じがね)は板目肌(いためはだ)、刃文は箱乱(はこみだれ:互の目が箱[長方形]のように見える形状)、または湾れ(のたれ:ゆったりとした波のような形状)、三本杉(さんぼんすぎ:互の目が杉木3本並んだように見える形状)のいずれかで、相州備前を思わせる覇気にあふれる作風です。

位列は末古刀(すえことう)の最上作。切れ味は凄まじいと言われましたが、徳川将軍家に遠慮して、最上大業物(さいじょうおおわざもの)といった試し斬りによる評価は一切行われませんでした。

妖刀伝説は歌舞伎で浸透

籠釣瓶花街酔醒

帯刀する者はいなくなった村正ですが、呪いの刀だという噂はますます知れわたり、恐れられるようになりました。煙あれば火あり。この原因となったのが「歌舞伎」です。

歌舞伎とは、江戸時代から始まった日本の伝統芸能、演劇のこと。庶民にたいへん人気があり、村正はその歌舞伎の演目のなかで度々登場したのです。

例えば、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)では、主人公の次郎左衛門が吉原の花魁「八ツ橋」を見初めますが相手にされなかったことで恨み、妖刀・村正(号・籠釣瓶)で八ツ橋含め、吉原にいた多くの人を惨殺します。

また、「八幡祭小望月賑」(はちまんまつりよみやのにぎわい)では、主人公の新助が芸者に恋をしますが、芸者は他の男を好きだということが発覚。愛憎がもつれた新助は芸者を殺害して自害しますが、その際に使用されたのも妖刀・村正だったのです。

この他にも、村正が凶器となる数々の恐ろしい歌舞伎が上演され、村正の名前が浸透。「村正は血を好む」、「抜けば血を見ずにはおさまらない」、「村正の刀を所持すると祟りがある」などと、恐れられるようになったのです。

妖刀伝説の真相は?

村正が徳川家に災いをもたらすという妖刀伝説は、逆に江戸幕府の討幕を企てる者にとっては、都合の良い象徴となりました。

まず、1651年(慶安4年)に軍学者「由井正雪」(ゆいしょうせつ)は、市中にあふれる浪人を集めて、幕府転覆を計画。これが「由井正雪の乱」です。由井正雪は村正を愛刀と表明。かなり綿密な計画を企てたのですが、事前に情報が漏洩してしまったのです。由井正雪は幕府に包囲され、自害に追い込まれました。

また幕末には、「西郷隆盛」など討幕派が、村正の刀をこぞって所持したと言われています。しかし結局は、大政奉還がなされ、江戸幕府が討幕されることはありませんでした。

このように妖刀・村正は、徳川家に対して何の効力も発揮しなかったのです。つまり、村正が徳川家に災いをもたらすというのは、全くの迷信でした。

真相としては、室町時代中期に突如現れた村正の刀は、表裏が揃うという特徴があって格好良く、切れ味も良く手頃な価格で大量生産され、かなりの数が出回ったのです。したがって、村正が徳川家康の家族を傷付けてしまったのは、量に対する確率の問題。ただの偶然に過ぎなかったと言えます。

なお、徳川家康の遺産目録「駿府御分物帳」には、村正が2振記載。このことから、徳川家康も決して村正を妖刀として忌み嫌ったりはせず、たいせつに所持していたことが分かるのです。この2振は尾張徳川家へと伝来し、現在も愛知県徳川美術館にて大切に所蔵されています。