古刀・新刀・新々刀・現代刀の違い
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日本刀の基本形と言える「鎬造り」(しのぎづくり)で、「反り」のある「湾刀」(わんとう)が登場したのは平安時代中期。それから現代まで、日本刀は時代の要請に対応しながら変遷を繰り返してきました。古刀・新刀・新々刀・現代刀の違いでは、日本刀における時代ごとの特色についてご紹介していきます。
日本刀と呼べるのは古刀から
古刀:平安時代中期~1595年(文禄4年)
武士の台頭による日本刀の変化
古刀は、およそ800年という長きに亘って作刀された日本刀で、古刀の登場には武士が大きな役割を果たしました。
それまで支配階級の中核にあった貴族が佩用したのは直刀でしたが、武士は反りのある湾刀を使うようになります。なぜなら、反りのある日本刀は、実際に戦場で使うための理に適った構造だったからです。
反りがあれば馬上で素早く抜いて、その動作の流れで打ち斬ることができ、また向かってくる相手の刀身を斬り上げる防御にも効果的でした。
武士の台頭と共に日本刀の需要も高まり、古刀期には「五箇伝」(ごかでん)と呼ばれる伝法が確立され、各地域、各時代で特色ある日本刀が制作されるようになります。
古刀期に制作された日本刀には、美術品としての価値が高い作品も多数あり、現存する古刀の多くが国宝や重要文化財に指定されているのです。
「国宝・重要文化財の刀剣」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。
五箇伝とは

五箇伝の分布
日本刀の作刀には、「材料となる良質な砂鉄が手に入りやすいこと」、「水が豊富なこと」、「流通に滞りがないこと」などの条件が必要になります。
これらの条件に適した土地に刀工が集まり、独自の発展を遂げたのが五箇伝です。
- 大和伝
- 「大和伝」(やまとでん)は、大和国(現在の奈良県)を中心として、五箇伝の中では最初に成立しました。刀工のほとんどが寺院のお抱え鍛冶となり、僧兵が使う武具を作っていたのが特徴です。
大和伝では、「大和五派」(やまとごは)と呼ばれる5つの流派が主流となりました。その5つとは、「東大寺」(奈良県奈良市)に付属する「千手院」に属した「千手院派」、「当麻寺」(奈良県葛城市)に所属した「当麻派」(たいまは/たえまは)、東大寺の裏側にある地名「尻懸」(しりかけ)が名前の由来になった「尻懸派」(しっかけは)、東大寺の「輾磑門」(てんがいもん)の門前に居を構えた「手掻派」(てがいは)、現在の奈良県高市郡で活躍した「保昌派」(ほしょうは)です。
それぞれの流派における盛衰は、所属する寺院の動向に左右されたと言われています。
大和伝 日本刀作りの伝法「大和伝」についてご紹介します。
- 山城伝
- 「山城伝」(やましろでん)は、平安時代中期から鎌倉時代末期まで、京都を中心に栄えた伝法です。
平安時代には、朝廷からの要請に応えて優雅な「太刀」(たち)を制作していましたが、鎌倉時代に入ると、「粟田口派」(あわたぐちは)や「来派」(らいは)が牽引し、山城伝の伝法を完成させました。
山城伝 日本刀作りの伝法「山城伝」についてご紹介します。
- 備前伝
- 平安時代中期から室町時代にかけて、砂鉄の産出量が豊富で、水や木炭といった作刀に不可欠な材料が揃う備前国(現在の岡山県)では、「備前伝」(びぜんでん)が盛隆を極めます。
1,200人を超える刀工が活躍したとされ、政治の中心地から離れていたこともあり、為政者の盛衰に影響を受けることなく発展しました。
「刀剣ワールド財団」には、備前伝の名刀も所蔵されています。ご紹介する「吉岡一文字」の太刀は、「豊臣秀吉」の実弟「豊臣秀長」が佩用した貴重な1振です。
豊臣秀長の長女「菊姫」が、「毛利秀元」(もうりひでもと)に輿入れする際に引き出物として贈られ、以降、毛利家に伝来しました。
茎(なかご)に切られた銘は「一」。制作した吉岡一文字は、鎌倉時代末期に吉井川西岸の吉岡の地で栄えたことで知られています。
備前伝 日本刀作りの伝法「備前伝」についてご紹介します。
- 相州伝
- 鎌倉幕府が開かれたことで、そのお膝元である相模国(現在の神奈川県)に栄えた伝法が「相州伝」(そうしゅうでん)です。
「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)を祖として興った相州伝は、その弟子である「行光」(ゆきみつ)・「則重」(のりしげ)・「正宗」等によって独自の技術を発展させます。強く鍛えた「玉鋼」(たまはがね)を高温で熱し、急速に冷却するという鍛錬法は、他の追随を許さぬ高度な技術でした。
しかし、この高度な伝法の継承が難しかったこともあり、鎌倉幕府の滅亡と共に衰退していきます。
相州伝 日本刀作りの伝法「相州伝」についてご紹介します。
- 美濃伝
- 美濃国(現在の岐阜県南部)に興った「美濃伝」(みのでん)は、五箇伝で最も新しい伝法です。
南北朝時代に、「正宗十哲」(まさむねじってつ:名工正宗の高弟10名)のひとり「兼氏」(かねうじ)が美濃国志津(しづ)へ移って「志津派」を開き、また越前国敦賀(現在の福井県敦賀市)からは「金重」(かねしげ)が美濃国関へ移住し、「関派」の祖となりました。
美濃伝 日本刀作りの伝法「美濃伝」についてご紹介します。
末古刀
室町時代末期から安土桃山時代にかけての戦国時代に制作された古刀を「末古刀」(すえことう)と呼びます。
戦乱の世にあって、武器としての日本刀の需要が最も増大した期間ですが、大量生産品である数打ち物ではない、注文打ちと呼ばれる入念作には名品も多く、現代まで伝えられています。
しかし、この古刀期の終わりに、刀工界を揺るがす大きな出来事が起こりました。1590年(天正18年)8月、吉井川(岡山県東部)の氾濫により、古刀期を代表する刀工一派の「備前長船」(びぜんおさふね)が大打撃を受け、備前鍛冶の活動が一時的に休止してしまったのです。
これを契機として、刀工界の勢力図が塗り替えられ、美濃鍛冶が注目を集めることとなります。
日本刀作りの伝法「末古刀」についてご紹介します。
新刀:1596年(慶長元年)~1780年(安永9年)
美濃伝の伝法が全国へ
備前鍛冶が活動休止に追い込まれたことで、各地の大名は、京都に近く交通の要衝でもあった美濃国の刀工を召し抱えることになります。
美濃の刀工達は、京都、近江(現在の滋賀県)、越前(現在の福井県北東部)、尾張(現在の愛知県西部)、大坂などへ移住。さらに、主君となった大名の転封(てんぽう:大名の領地を他へ移すこと。国替え)に付き従い、全国の城下町へと広がっていきました。
なかでも、関の「兼道」(かねみち)の一族は、京都へ上って「三品派」(みしなは)を立ち上げると、それに合わせて京都堀川を拠点とする「堀川国広」(ほりかわくにひろ)一派の「堀川派」との交流を深め、新刀期の技術的基礎を固めたと言われています。
また新刀期には、刀身自体にも古刀との違いが顕著に現れました。古刀期には、地方で生産された鋼をそれぞれ使用していたため、地鉄(じがね)には生産地の特色が出ていたのです。
しかし、豊臣秀吉が天下統一を果たして世の中が落ち着くと、流通も盛んになります。そのため、全国的に均一な鋼が行き渡り、地域による地鉄の差がなくなりました。
慶長新刀
江戸新刀
江戸幕府の政治体制が整備されると、武士の大小差し、すなわち「打刀」(うちがたな)と「脇差」(わきざし)の寸法も明確に規定されました。
武士達は差料(さしりょう:自分が差すための日本刀)を規定に合わせて誂えることが必要になったのです。そのため、日本刀に対する需要が増え、日本各地の刀鍛冶が繁栄。政治の中心地となった江戸での作刀も盛んになり、これを「江戸新刀」と称して、「大坂新刀」を生み出した大坂と比肩する新刀の主要生産地となります。
また江戸では、1657年(明暦3年)に、「明暦の大火」が発生。多くの武家屋敷が焼失し、所有されていた古刀も焼け身となってしまったのです。この大火災による日本刀の不足を補うために、江戸新刀の刀工達は作刀に励みました。
江戸新刀を代表する刀工としては、もとは甲冑師ながら50歳を超えてから江戸に出て、刀工となり実力を発揮した「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)や、鉄砲鍛冶としても名を成した「野田繁慶」(のだはんけい)など、個性あふれる実力派が名を連ねます。
江戸新刀についてご紹介します。
大坂新刀
大坂の地から輩出された名工は、「大坂新刀の三傑」と称される「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)、「井上真改」(いのうえしんかい)、「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)が特に有名です。「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)や「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)の名も外すことはできません。
刀剣ワールド財団が所蔵する一竿子忠綱の打刀は、大互の目乱れに小湾れ(このたれ)が交じる濤欄風(とうらんふう)の刃文で、一竿子忠綱の特色がよく表れています。
さらに「彫同作」の添銘があることから、刀身彫は一竿子忠綱自身が施したと推察され、その迫力ある意匠は素晴らしく、技量の高さが感じられる出来栄えです。
大坂新刀についてご紹介します。
新刀の衰退
江戸時代の初期までは盛隆を誇った新刀も、1688~1704年(元禄年間)以降の泰平の世になると、需要が激減してしまいます。日本刀が実戦で用いられることはなくなり、武士の象徴といった意味合いしか持たなくなったのです。
刀工界が再び活気を取り戻すには、1781年(天明元年)よりあとの新々刀の登場を待たなければなりませんでした。
新々刀:1781年(天明元年)~1876年(明治9年)廃刀令まで
新々刀が生まれた歴史背景
長く平和が続いたため、日本刀の需要が減って刀工界は苦境に立たされます。
しかし、1782年(天明2年)から始まった「天明の大飢饉」や、1783年(天明3年)の浅間山大噴火といった大災害が起こると、食料不足に見舞われた各地で一揆が頻発。
さらには、ロシアやイギリスなどの外国勢が通商を求めて来航するなど、日本全体を包む不穏な空気に、人々は不安を覚えるようになりました。こうした状況で、治安の維持強化のために見直されたのが日本刀です。
時代の変化と呼応するように、刀工界には「水心子正秀」(すいしんしまさひで)をはじめとする意欲的な刀工達が登場します。水心子正秀らは、「刀剣復古論」を唱え、長く頑丈な古刀を模範として研究。鎌倉時代から南北朝時代にかけて作られた日本刀の特徴を再現しました。これらの日本刀を、新々刀と呼びます。
新々刀を代表する刀工
新々刀期の刀工として筆頭に挙げられるのは、やはり水心子正秀です。
生涯に369振もの日本刀を生み出し、古刀の作風に回帰した新々刀を広く知らしめる役割を担いました。
水心子正秀と並び称される名工のひとり、出羽国(現在の山形県、秋田県)出身の「大慶直胤」(たいけいなおたね)は、江戸へ出て水心子正秀に師事。特に脇差を得意として多数の傑作を残し、その技量は師匠の水心子正秀を凌ぐとさえ言われています。
また、「源清麿」(みなもときよまろ/すがまろ)は、幕臣で剣術家でもあった「窪田清音」(くぼたすがね)のもとで修業と鍛錬に励み、新々刀の第一人者となりました。江戸の四谷に居を構えた源清麿は、その優れた腕前から「四谷正宗」とも称されます。水心子正秀、大慶直胤、源清麿の3名は、「江戸三作」と呼ばれる出色の名工です。
そんな江戸三作に迫る名工の初代「綱俊」(つなとし)は、水心子正秀に学び、当時備前伝では右に出る者がないと評価されました。
刀剣ワールド財団が所蔵する綱俊の傑作刀「於東都加藤八郎綱俊」(おいてとうとかとうはちろうつなとし)には、沸(にえ)と匂(におい)が共に深い濤欄乱れを焼いた刃文に、綱俊の初期における特徴を見て取ることができます。古刀に倣った新々刀らしい姿は、目を奪われるほどの迫力です。

- 銘
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東都加藤八郎綱俊
(文政五年十一月
吉日)
- 時代
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江戸時代後期
- 鑑定区分
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特別保存刀剣
- 所蔵・伝来
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刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
幕末の動乱期を経て廃刀令公布へ
幕末の動乱期になると、日本刀はますます武器としての性格を強めていきました。当時は、「尊王攘夷派」(そんのうじょういは:天皇を敬い、外国を排斥しようとする勢力)と、「佐幕派」(さばくは:幕府の政策を擁護する勢力)の争いは熾烈を極め、日本刀はより実戦的な仕様へと変容していったのです。
幕末の動乱は、1867年(慶応3年)の「大政奉還」によって終結。1876年(明治9年)には「廃刀令」が発布され、特例を除いて帯刀が禁止となります。こうして、日本刀の歴史は幕を閉じたかに見えました。
しかし、廃刀令によって禁止されたのは、日本刀を腰に差して所持する「帯刀」のみで、作刀そのものは禁止されていません。さらに、「明治天皇」は日本刀への理解が深く、伝統文化としての継承に尽力したため、刀工界は衰滅を免れることとなったのです。
そして、日本刀文化は現代刀へと受け継がれていきます。
現代刀:1876年(明治9年)~
帝室技芸員に選ばれた名工が刀工界を導く
1890年(明治23年)、日本美術・工芸を保護奨励する目的で、「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)が任命されることになりました。
皇室の御用を務める高名な美術家・工芸家が続々と選ばれ、刀工界からは、1906年(明治39年)に、初代「月山貞一」(がっさんさだかず)と「宮本包則」(みやもとかねのり)が選出されます。
初代月山貞一は、明治天皇の軍刀や皇族の日本刀を数多く手掛け、日本刀文化の盛隆に貢献した名工です。古刀の伝法である相州伝や備前伝に精通し、大きくうねるような地鉄の文様「綾杉肌」(あやすぎはだ)を得意としました。この特色ある綾杉肌は、月山家伝来として現代にも継承されています。
一方の宮本包則は、天皇に忠義を尽くす志士達のために作刀する中で、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)の知遇を得て、のちに「戊辰戦争」へ従軍。その後は、明治天皇をはじめとする3代の天皇の守り刀を制作するなど、97年の生涯を作刀に捧げ、現代刀工にひとかたならぬ影響を与えました。
帝室技芸員をはじめ、刀剣に関する基礎知識をご紹介します。
昭和時代初期には軍刀への需要が高まる
1931年(昭和6年)の「満州事変」(まんしゅうじへん)をひとつのきっかけとして、日本は「第2次世界大戦」へと向かっていくこととなります。こうした状況下にあって、需要が増大したのが軍刀でした。
1933年(昭和8年)には、軍刀整備のために、「靖国神社」(東京都千代田区)の境内に鍛錬所が設けられます。ここで活動した刀工を「靖国刀匠」と呼び、作刀された作品は「靖国刀」と称されました。
靖国刀匠としては、創設当初に主任刀匠を務めた「宮口靖廣」(みやぐちやすひろ)の他、「梶山靖徳」(かじやまやすのり)、「池田靖光」(いけだやすみつ)などが知られています。
靖国刀匠は、終戦を迎える1945年(昭和20年)まで、軍学校の成績優秀な卒業生に与えられる「御下賜刀」(ごかしとう)をはじめ、約8,100振の日本刀を制作しました。
受け継がれる日本刀文化
第2次世界大戦終結後、日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれたことにより、武器と見なされた日本刀は没収。作刀も禁止されてしまいます。
日本刀は、またしても存続の危機に直面したのです。
しかし、日本側の強い働きかけにより、日本刀を武器ではなく、美術品として認めさせることに成功。さらに法律の改正も行なわれ、日本刀を作ることや、個人で所有・売買することができるようになりました。
刀工界が大きく揺れ動いたこの時代、のちに重要無形文化財保持者(人間国宝)に選ばれる「高橋貞次」(たかはしさだつぐ)、「宮入昭平(行平)」(みやいりあきひら[ゆきひら])といった才能豊かな刀工が日本刀文化を支え、作刀の技法と伝統は、現代まで継承されることとなったのです。