刀剣の歴史

古刀・新刀・新々刀・現代刀の違い - 名古屋刀剣ワールド

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日本刀の基本形と言える「鎬造り」(しのぎづくり)で、「反り」のある「湾刀」(わんとう)が登場したのは平安時代中期。それから現代まで、日本刀は時代の要請に対応しながら変遷を繰り返してきました。古刀・新刀・新々刀・現代刀の違いでは、日本刀における時代ごとの特色についてご紹介していきます。

日本刀と呼べるのは古刀から

歴史上最初に登場した「日本刀」は「古刀」(ことう)です。古刀より前に作刀された反りのない直刀は、「上古刀」(じょうことう)と言い、日本刀としては未完成であったとされています。日本刀が完成形へと進化したのは、古刀が誕生した平安時代の半ば頃でした。

古刀以降の日本刀は、作刀された時代によって大きく4つに分けることができます。すなわち、古刀、「新刀」(しんとう)、「新々刀」(しんしんとう)、「現代刀」という区分です。

これらの区分が生じた時代の背景に何が起こったのか、日本刀としてどのような違いがあるのか見ていきましょう。

古刀:平安時代中期~1595年(文禄4年)

武士の台頭による日本刀の変化

古刀は、およそ800年という長きに亘って作刀された日本刀で、古刀の登場には武士が大きな役割を果たしました。

それまで支配階級の中核にあった貴族が佩用したのは直刀でしたが、武士は反りのある湾刀を使うようになります。なぜなら、反りのある日本刀は、実際に戦場で使うための理に適った構造だったからです。

反りがあれば馬上で素早く抜いて、その動作の流れで打ち斬ることができ、また向かってくる相手の刀身を斬り上げる防御にも効果的でした。

武士の台頭と共に日本刀の需要も高まり、古刀期には「五箇伝」(ごかでん)と呼ばれる伝法が確立され、各地域、各時代で特色ある日本刀が作刀されるようになります。

古刀期に作刀された日本刀には、美術品としての価値が高い作品も多数あり、現存する古刀の多くが国宝重要文化財に指定されているのです。

五箇伝とは

五箇伝の分布

五箇伝の分布

日本刀の作刀には、材料となる良質な砂鉄が手に入りやすいこと、水が豊富なこと、流通に滞りがないことなどが必要になります。これらの条件に適した土地に刀工が集まり、独自の発展を遂げたのが五箇伝です。

五箇伝はやがて相互に交流を持つようになり、盛んに新しい鍛錬法を研究しながら、より優れた技術へと進化していきます。

五箇伝の伝法とは、それぞれどのような特徴を持ち、どんな刀工・流派が活躍したのでしょうか。(※五箇伝は[五ヵ伝]、[五ヶ伝]と表記される場合もあります)

大和伝

大和伝」(やまとでん)は、大和国(現在の奈良県)を中心として、五箇伝の中では最初に成立しました。刀工のほとんどが寺院のお抱え鍛冶となり、僧兵が使う武具を作っていたのが特徴です。現存する大和伝の日本刀には、ほとんど銘が切られていません。

その理由は刀工が所属する寺院へ直接日本刀を納めていたため、銘を入れる必要がなかったためと考えられています。この大和伝では、所属する寺院により刀工達は流派が分かれていました。

なかでも主流となった、「千手院派」(せんじゅいんは)、「当麻派」(たいまは/たえまは)、「尻懸派」(しっかけは)、「手掻派」(てがいは)、「保昌派」(ほしょうは)という5つの流派は「大和五派」と呼ばれ繁栄を極めています。

千手院派

千手院派は大和五派の中で最も古い流派であり、平安時代後期から南北朝時代にかけて活動しました。「東大寺」(奈良県奈良市)に付属する「千手院」に属したことから千手院派と呼ばれています。

一般的に千手院派は活動した時代によって区別され、平安時代後期から鎌倉時代初期頃までが「古千手院派」(こせんじゅいんは)。鎌倉時代中期から南北朝時代にかけては「中千手院派」(ちゅうせんじゅいんは)と言います。

千手院派の日本刀は大和物の例に違わず無銘の作品が多く、特に古千手院派の在銘品は現存していません。数多くの名刀を所有した徳川家をはじめとする有力大名の蔵刀の中にも、古千手院派の在銘正真作はなかったと言われています。

一方、古千手院派と極められた無銘の作品、及び鎌倉時代から南北朝時代にかけて作刀された中千手院派の無銘または在銘の作品は現代でも観ることが可能です。

「刀剣ワールド財団」では鎌倉時代後期に作刀された中千手院派の作品「太刀 無銘 千手院」を所蔵。刀身の反りは浅いものの、猪首風の小鋒/小切先(こきっさき)や、焼幅の狭い直刃調の刃文に小乱れが交じる様子など、千手院派の特徴が色濃く表れた貴重な1振となっています。

太刀  無銘  千手院
太刀 無銘 千手院
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
72.5
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
当麻派

当麻寺(當麻寺:奈良県葛城市)に所属し、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて栄えた「当麻派」。鎌倉時代中期頃の刀工「当麻国行」(たいまくにゆき)を祖とし、その一門の代表格として「友清」、「友行」、「有俊」などの刀工が挙げられますが、在銘で残っている作品はたいへん僅少です。

喰違刃

喰違刃

「当麻」の古い読み方は「たぎま」、「たえま」。書き字としては当麻の他に「當麻」、「当磨」、「當磨」などがあります。当麻派の日本刀は、身幅が広くがっしりとした刀身と、短く詰まった猪首鋒/猪首切先(いくびきっさき)が特徴。

大和物の中でも、とりわけ堅牢な刀姿は、鎌倉時代の武士に好まれました。刃文は焼幅の狭い沸出来(にえでき)に、直刃丁子乱や小互の目乱(こぐのめみだれ)。二重刃喰違刃(くいちがいば)などの働きが目を惹きます。

刀剣ワールド財団が所蔵する打刀(うちがたな:刀のこと)の「刀 無銘 當麻」は、反りが浅く、鎬幅(しのぎはば)の広い刀身に中鋒/中切先という大和物らしい姿が印象的です。沸の付いた中直刃(ちゅうすぐは)の刃文は喰違刃交じり。当麻国行の在銘作を思わせる出来映えの逸品となっています。

刀 無銘 當麻
刀 無銘 當麻
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
69.2
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
尻懸派

東大寺の裏側にある地名「尻懸」(しりかけ)が名前の由来になった尻懸派は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて活動。開祖は「則弘」(のりひろ)と言われていますが、現存する作品がないことから、則弘の長男「則長」(のりなが)を実質的な祖とする説が一般的です。

則弘のように刀工の名前が伝えられているにもかかわらず、その作品の大半が残されていない理由として、当時大和国は政治の中心地であったため常に戦乱が起こっているような状況にあり、寺院に属する僧兵は大量の日本刀を実戦で使用しました。

いわば日本刀を消費してしまったがゆえに残された数が少ないと考えられています。尻懸派の刀工による日本刀は、長大で、平肉(ひらにく:肉厚感のある刀身の厚み)が付いた鎬の高い力強い姿が特徴的です。

  • ほつれ
    ほつれ
  • 二重刃
    二重刃

刃文は、ほつれや二重刃などの働きがある直刃に小互の目交じり。そして地鉄は板目肌が柾目肌に流れるような作風で、これは「尻懸肌」(しっかけはだ)と呼ばれています。また、帽子(ぼうし:鋒/切先に現れる刃文)は、ほうきで掃いたあとのように見える「掃き掛け」か、鋒/切先まで延びて返らない「焼き詰め」です。

手掻派

手掻派が活動した年代は、鎌倉時代末期の1288年(正応元年)頃から室町時代中期の1460年(寛正元年)頃。東大寺の西側に位置する「輾磑門」(てんがいもん)の門前を拠点としたことから、輾磑門の「てんがい」が訛って「手掻」(てがい)と呼ばれるようになったと言われています。

書き字は手掻の他、「輾磑」、「天蓋」などです。開祖の「包永」(かねなが)は大和国でも傑出した名工として有名。その現存作品の多くが国宝や重要文化財に指定されています。

手掻派の特徴は、鎬が高く、鎬幅も広い大和物らしい作風。地鉄は板目肌に柾目が流れ、刃文には、二重刃、ほつれ、喰違刃などの働きが交じります。

また、玉垣刃(たまがきば)と呼ばれる直刃に小互の目風の沸足(にえあし)が出ることも特色のひとつです。

刀剣ワールド財団では、手掻派の開祖である包永の作品を所蔵。「太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之」(たち めい かねなが[きんぞうがん]ほんだへいはちろうただためしょじこれ)は、戦国時代屈指の勇将「本多忠勝」(ほんだただかつ)の孫「本多忠刻」(ほんだただとき)の愛刀でした。

本多忠刻の妻は、「徳川家康」の孫にあたる「千姫」(せんひめ)です。夫に先立たれたとき千姫は本太刀を形見として受け取り、「江戸城」(現在の東京都千代田区)へ持ち帰っています。本太刀は徳川将軍家の蔵刀となり、そのあと、信州上田藩主「松平忠周」(まつだいらただちか)へ下賜されました。

太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
包永(金象嵌)
本多平八郎忠為
所持之
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
71.8
所蔵・伝来
本多忠刻→
千姫→徳川家光→
徳川綱吉→
松平忠周→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
保昌派
柾目肌

柾目肌

保昌派は鎌倉時代後期に活躍した刀工「貞宗」(さだむね)を開祖とする一派です。大和国高市郡に居住し、貞宗、「貞吉」、「貞清」など、「貞」の文字を通字(とおりじ:代々受け継がれる文字)としていました。

有力な寺院に所属していたと考えられますが、どの寺院に属していたのかは明らかになっていません。保昌派は、地鉄全体が真っすぐな木目調となる総柾目鍛を得意とし、黒味がかった地景(ちけい)がしきりに入る肌合いを特色としています。

この柾目肌は天下一と謳われ、見事な柾目肌を表した古刀期の日本刀があれば、保昌派の作品で間違いないと言われるほどです。刀身は重ねが厚く、しっかりとした姿が特徴。刃文は沸出来に二重刃や喰違刃が見られる直刃です。

山城伝

平安時代中期から鎌倉時代末期まで、京都を中心に栄えた「山城伝」(やましろでん)。開祖とされるのは、「天下五剣」(てんがごけん)の1振である「三日月宗近」(みかづきむねちか)の作者「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)です。

山城伝の刀工達は、平安時代には朝廷や貴族からの要請に応えて優雅な太刀を作刀していました。ところが平安時代末期の1180年(治承4年)、「源平合戦」と呼ばれる「治承・寿永の乱」が起こって国が乱れ、山城伝の日本刀には実戦に耐えられるだけの切れ味と頑丈さを備えた実用性が求められるようになります。

そこで、大和伝や備前伝などから実戦向けの技術に優れた地方の刀工を招き、優美さと実用性をかね備えた山城伝へと進化させていったのです。本格的な武家政権が始まる鎌倉時代に入ると、武士の間では豪壮な太刀が好まれるようになり、「粟田口派」(あわたぐちは)や「来派」(らいは)が牽引していくこととなります。

三条派

山城伝を代表する流派の中で最初に興ったのは平安時代中期に繁栄した「三条派」です。開祖の三条宗近は京都の三条に居を構え、気品あふれる優美な太刀の作刀にあたりました。

打ちのけ(打徐け)

打ちのけ(打徐け)

三条宗近はもともと公家であり、朝廷へ勤める公務の傍ら趣味として作刀に携わっていましたが、その腕前の高さから「一条天皇」の勅命により宝刀「小狐丸」(こぎつねまる)を作刀。その際、「稲荷明神」の化身より助力を得たと伝えられ、この伝説は「能」や「歌舞伎」の題材にもなっています。

三条宗近の名を一躍知らしめることとなった太刀 三日月宗近は、刀身の刃縁(はぶち)に現れる三日月状の働き「打ちのけ」から名付けられました。

「最も美しい刀」と称えられ、室町時代に天下五剣の1振に選ばれると、その後は徳川将軍家代々の重宝となったのです。現在は「東京国立博物館」(東京都台東区上野)に所蔵されています。

三日月宗近

三日月宗近

三条派の作風は、身幅が狭く長寸で反りの深い優美な刀姿に、刃文は小沸本位の直刃に小乱。刃中に三日月を思わせる打ちのけや二重刃、三重刃が盛んに入るのが特徴です。

これらの作風は三条宗近の子、または孫とされる「吉家」(よしいえ)や、一派の「近村」(ちかむら)、「兼永」(かねなが)、「国永」(くになが)などに受け継がれました。

刀剣ワールド財団が所蔵する三条吉家の作品「刀 額銘 吉家作」は、もともと優雅な太刀でしたが大磨上げによって打刀となっています。なお「額銘」とは、大磨上げの際に銘を短冊状に切り取って、新しい茎にはめ込んだ状態のことです。

刀 額銘 吉家作
刀 額銘 吉家作
吉家作
鑑定区分
重要美術品
刃長
63.8
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
粟田口派

京都東山の粟田口を拠点とし、鎌倉時代初期から中期にかけて最も栄えた「粟田口派」。開祖は「国家」(くにいえ)とされますが、作刀が現存していないため、その子である「国友」、「久国」、「国安」、「国清」、「有国」、「国綱」という「粟田口六兄弟」が事実上の開祖と認められています。その技量の高さから、国友、久国、国安、国綱らは「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が設けた「御銀鍛冶」(ごばんかじ)にも選ばれました。

また、六兄弟の次男・久国の曾孫にあたる「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)、通称「藤四郎」(とうしろう)はとりわけ名高く、「正宗」や「郷義弘」(ごうよしひろ:[江義弘]とも)と並んで「天下三作」(てんがさんさく)と呼ばれています。

粟田口派の作風は、刀姿は細身で、反りの中心が刀身の中ほどにある鳥居反り(京反り/輪反り)、そして小鋒/小切先の上品な佇まい。刃長、身幅、重ねのすべてにおいてバランスの良さが際立っています。

また、地鉄の美しさでも他の追随を許さず、小杢目鍛え(こもくめきたえ)が精緻に詰んだ「梨子地肌」(なしじはだ)と呼ばれる最高級の鉄にしか見られない肌が特色です。刃文は小沸本位の直刃に小乱が交じります。

刀剣ワールド財団では、粟田口六兄弟に続く名工「国吉」(くによし)作と伝えられる名刀「刀 無銘 粟田口(伝国吉)」を所蔵。国吉は重要文化財にも指定されている名物「鳴狐」(なきぎつね)の作者としてしられ、1278~1288年(弘安年間)頃に活躍しました。

刀  無銘  粟田口(伝国吉)
刀 無銘 粟田口(伝国吉)
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
65.5
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
来派

「来派」は粟田口派と並び称される名工一派であり、鎌倉時代中期以降に粟田口派と入れ代わるように台頭しています。高麗(こうらい:朝鮮半島中南部にあった国)からの帰化人である「国吉」(くによし)が始祖と伝えられますが、確かな記録がなく、また国吉の作品が現存していないため、国吉の子である「国行」(くにゆき)を事実上の開祖と見なす説が有力です。

作風は2種類の傾向に分かれ、反りが浅く身幅の広い、猪首鋒/猪首切先のがっしりとした姿の作品と、鳥居反り(京反り/輪反り)で身幅の狭い、京物らしい優美な姿の作品があります。

来派を代表する刀工としては、国行の子である「国俊」(くにとし)や孫の「国光」(くにみつ)、国俊の娘婿にあたる「国次」(くにつぐ)などが有名。刀剣ワールド財団が所蔵する来派の名刀は、代表格のひとりである国俊の作品と伝えられています。

磨上げが行われているため無銘となっていますが、身幅の広い豪壮な体配に猪首ごころの鋒/切先、また浅い湾れに丁子や小乱が交じり、小足(こあし)・葉(よう)がしきりに入る刃文や、乱れ込んだ帽子の様子から国俊が手掛けた日本刀の逸品と極められました。

刀 無銘 伝国俊
刀 無銘 伝国俊
無銘
鑑定区分
重要文化財
刃長
67
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

備前伝

備前伝」は、平安時代中期から室町時代にかけて、備前国(現在の岡山県)で栄えた伝法です。備前国はもともと砂鉄の産出量が豊富で、水や木炭といった作刀に不可欠な材料が揃う土地でした。さらに政治の中心地から離れていたこともあり、為政者の盛衰に影響を受けることなく発展。多いときには1,200人を超える刀工が活躍したと伝えられています。

備前伝のはじまりは平安時代中期頃。「友成」(ともなり)を祖とする「古備前」鍛冶までさかのぼります。備前伝はこの「古備前派」を先駆けとして、鎌倉時代中期から後期には「福岡一文字派」、「吉岡一文字派」が興り、「備前長船派」(びぜんおさふねは)が誕生すると、古刀期の一大流派として盛隆を極めました。

優秀な刀工達によって受け継がれた備前伝の伝法は、時代の変化に合わせた改革にも臆することなく、戦国時代の膨大な日本刀需要にも対応して長きにわたり繁栄。しかし、1590年(天正18年)8月に起こった吉井川の大洪水で壊滅的な被害を受け衰退してしまいます。

古備前派

現存する古備前の日本刀には国宝に指定されている名刀も多く、現存刀の最高傑作と称えられる国宝の名物「大包平」(おおかねひら)も古備前の作品です。

古備前派の作風として、刀身は茎に近い部分で反りが大きくなる「腰反り」が高く、踏ん張りが見られます。刃文は焼幅の狭い直刃風で、小乱に小丁子乱が交じるのが特徴。地鉄は板目肌が細かに詰み、地沸が厚く付いて輝く「沸映り」(にえうつり)が立つのが典型的です。

刀剣ワールド財団が所蔵する古備前の日本刀「太刀 無銘 古備前」は、身幅が広く長大で、重ねも厚い迫力のある1振。この貫録を感じさせる体配に、金筋や砂流しのかかる小乱の刃文が映え、また地鉄のきめ細かな肌合いは、古備前でも出色の出来となっています。

太刀 無銘 古備前
太刀 無銘 古備前
無銘
鑑定区分
重要刀剣
刃長
77.2
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
福岡一文字派

吉井川東岸にある福岡(現在の岡山県瀬戸内市)の地に興った一文字派のひとつであることから「福岡一文字派」と呼ばれる流派です。開祖は「則宗」(のりむね)。鎌倉時代中期に設けられた後鳥羽上皇の御番鍛冶には、この流派から7工が選ばれています。

福岡一文字派の作風は、腰反りが高く踏ん張りが付いて豪壮であり、猪首鋒/猪首切先となる鎌倉時代中期風。刃の断面は厚く、その形から「蛤刃」(はまぐりば)と呼ばれています。地鉄は板目肌が精緻に詰んで、細かな地沸が付くのが特色。

また刃文と鎬筋の間に、白い影が淡く見える映りの一種「乱映り」は、福岡一文字派の大きな特徴です。刃文にも独自性があり、おたまじゃくしが並んだような「蛙子丁子」(かわずこちょうじ)や丁子が重なった「重花丁子」(じゅうかちょうじ)、袋状の焼きが入る「袋丁子」(ふくろちょうじ)が見られます。

福岡一文字派の代表的な作品としては、岡山県瀬戸内市が所蔵する国宝「山鳥毛一文字」(やまとりげいちもんじ)が有名です。戦国武将の「上杉謙信」や、その養子の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が所有し、上杉家の名刀を選りすぐった「上杉家御手選三十五腰」(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)にも所載されています。

山鳥毛一文字(国宝)

山鳥毛一文字(国宝)

吉岡一文字派

鎌倉時代末期、福岡一文字の開祖である則宗の孫「助吉」(すけよし)が、福岡から吉井川西岸に位置する吉岡の地へ移り住んで興しました。福岡一文字と同じく、「吉岡一文字派」の日本刀も高く評価され、現在、国宝に指定されている作品もあります。

吉岡一文字派の初期には、福岡一文字派の作風に似た作品が作られました。全体的に刀身は反りが浅く、先反りが付いています。地鉄も福岡一文字派と同様に良く詰んだ板目肌に細かな地沸が付くのが特徴的。刃文は互の目丁子や丁子乱が見られますが、華やかさは控えめです。

刀剣ワールド財団には、吉岡一文字派の名刀も所蔵されています。「太刀 銘 一(吉岡一文字)」は、「豊臣秀吉」の実弟「豊臣秀長」が佩用した貴重な1振です。豊臣秀長の長女「菊姫」が「毛利秀元」(もうりひでもと)に輿入れする際に引き出物として贈られ、以降、毛利家に伝来しました。

茎に切られた銘は「一」。これは、福岡一文字派の開祖・則宗が御番鍛冶を務めた折、後鳥羽上皇より「天下一」の名工と称賛されたことにちなんでいます。

太刀 銘 一(吉岡一文字)
太刀 銘 一(吉岡一文字)
一(吉岡一文字)
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
67.3
所蔵・伝来
豊臣秀長 →
毛利家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
備前長船派

「備前長船派」は、鎌倉時代中期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点として誕生しました。流派の実質的な開祖は「光忠」(みつただ)。その子や孫にあたる「長光」(ながみつ)、「景光」(かげみつ)、「真長」(さねなが)は特に名工として名高く「長船三作」と呼ばれています。

長船三作の他にも数多くの名工が属していたことから、備前長船派の作刀は「長船物」と称されて高い人気を誇りました。現代においても、最もよく知られた日本刀のブランドと言えます。

「蛙子丁子乱」といった刃文や、長船三作に共通する「三作帽子」(さんさくぼうし)など、独自性の高い華やかな作風が知られていますが、備前長船派の最大の特徴は、時代の変化を的確に捉えて対応した柔軟性にありました。また、「相州伝」など他の技法も巧みに取り入れていったため、すべての時代を通して備前長船派ならではと言える特徴はありません。

刀剣ワールド財団では、長船三作のひとり、景光の手による「太刀 銘 備州長船住景光」を所蔵。本太刀は、徳川宗家16代当主「徳川家達」(とくがわいえさと)が所有していました。

徳川家達は徳川15代将軍就任を期待された候補でもありましたが、14代将軍「徳川家茂」が逝去したときわずか4歳であったため、15代将軍には「徳川慶喜」が就任しています。本太刀には但し書きが付随しており、そこには「権現様より伝わる太刀」と記載。「権現様」とは徳川家康の敬称であることから、徳川家康の愛刀であったと考えられています。

太刀 銘 備州長船住景光
太刀 銘 備州長船住景光
備州長船住景光
正和五年十月日
鑑定区分
重要文化財
刃長
75.8
所蔵・伝来
徳川家康 →
徳川家 →
徳川家達 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

相州伝

鎌倉幕府が開かれたことで、そのお膝元である相模国(現在の神奈川県)に栄えた伝法が相州伝です。「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)を祖として興った相州伝は、その子とされる「行光」(ゆきみつ)や孫にあたる正宗等によって独自の技術を発展させます。強く鍛えた「玉鋼」(たまはがね)を高温で熱し、急速に冷却するという鍛錬法は、他の追随を許さぬ高度な技術でした。

この技術革新の契機となった戦いが「元寇」(げんこう:蒙古襲来)と呼ばれる1274年(文永11年)の「文永の役」と、1281年(弘安4年)の「弘安の役」。外国勢力との戦いによって、重ねが厚く重量がある上に折れやすいという、それまで主流であった日本刀の弱点が露呈します。

そこで相州伝では、硬さの異なる地鉄を組み合わせ、さらに板目肌に鍛えることで、軽量ながら強度の高い日本刀を作り上げたのです。

相州伝の日本刀は鎌倉時代末期に大流行し、南北朝時代初期には全国へ普及して各地の刀鍛冶に大きな影響を与えました。しかし、この高度な伝法の継承が難しかったこともあり、相州伝は室町時代中期頃には衰退していくこととなります。

正宗

相州伝を代表する名工であるだけでなく、日本国内、そして海外にもその名を馳せる最も有名な刀工のひとりです。どんな時代であっても正宗に対する評価は揺るぎなく、正宗の作品は多くの有力大名に求められ、家宝として受け継がれてきました。

正宗は、山城国の粟田口吉光、越中国(現在の富山県)の郷義弘と並び、卓越した名工である天下三作に数えられています。また、「正宗十哲」と呼ばれる名工達をはじめ、大勢の優れた弟子を輩出しました。

正宗の作風は際立っており、筋状の地景が入った地鉄の美しさと沸出来の仕上がりで右に出る者はいません。大乱(おおみだれ)や互の目乱、直刃丁子乱、馬の歯乱などを示す刃文には、稲妻や金筋などの働きが交じり、足よく入って豪華な印象です。

刀剣ワールド財団が所蔵し、正宗作と伝えられている作品「刀 無銘 伝正宗」は、「明治天皇」の父である「孝明天皇」の佩刀。

孝明天皇は江戸時代末期の激動の時代に在位し、妹の「和宮親子内親王」(かずのみやちかこないしんのう)を14代将軍・徳川家茂に降嫁させ公武合体政策を打ち出しました。本刀の刃文には輝くほどに冴えた沸が表現され、相州伝の神髄を観ることができます。

刀 無銘 伝正宗
刀 無銘 伝正宗
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
68.2
所蔵・伝来
孝明天皇→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

美濃伝

五箇伝の中で最も新しい伝法である「美濃伝」は、大和伝の手掻派出身で、正宗十哲のひとりとして相州伝を学んだ「志津三郎兼氏」(しずさぶろうかねうじ)と、同じく正宗十哲に列せられる「金重」(きんじゅう)が美濃国(現在の岐阜県南部)へ移住して興しました。美濃伝は、主に3つの要因により、南北朝時代から戦国時代にかけて急速に発展しています。

  1. 周辺の有力な戦国大名がお得意様に

    地元美濃国の「明智光秀」をはじめ、尾張国(現在の愛知県西部)の「織田信長」、三河国(現在の愛知県東部)の徳川家康など、勢力を伸ばしつつあった戦国武将とその家臣達の多くが、美濃伝の日本刀を求めたのです。

  2. 交通の要衝であったこと

    京都と関東を結ぶ交通の重要な拠点ではありましたが、山城伝のように地元が戦場にならなかったことが幸運でした。

  3. 切れ味に優れた実用的な日本刀

    美濃伝は、東の軍事工場として戦国時代に増大した需要に応えています。その日本刀は切れ味に優れて質が高く、実用品として重宝されました。

    五箇伝の中でも特に繁栄を極めていた備前伝が、1590年(天正18年)の吉井川の氾濫によって壊滅すると、美濃伝は備前伝に代わる形で全国から殺到する注文に対応し、日本刀供給の中心地として江戸時代末期まで栄えたのです。

志津系

志津系とは、美濃伝の開祖のひとり、志津三郎兼氏が率いる流派のこと。多芸庄志津村(現在の岐阜県海津市南濃町志津)を活動の拠点としたことから志津系と呼ばれています。兼氏の没後は志津系を継承した弟子達がとなりの直江村に移り住み、一派の名称を「直江志津」と改めました。

志津系の作風は、大和伝の伝法に相州伝を加えた独自性が特徴です。刀姿は長寸で豪壮な相州伝の色が濃く表れ、重ねも薄く優れた切れ味を誇ります。鍛えは相州伝らしい板目肌に、大和伝の柾目肌交じり。刃文は、荒沸本位の広い焼幅に互の目が交じる気迫に満ちた様式と、焼幅のやや狭い湾れ乱風の2種類があります。

刀剣ワールド財団では、美濃国主「土岐頼芸」(ときよりのり)が佩刀したと伝わる志津の1振を所蔵。土岐頼芸は、重臣である「斎藤道三」(さいとうどうさん)の裏切りに遭い、国を追われた国主として知られる一方、鷹の絵を描くのが得意な文化人としても歴史に名を残しています。

本刀は、身幅が広く反りの浅い、鎌倉時代末期の相州伝を思わせる勇壮な刀姿が特徴的です。一見穏やかな印象を受ける刃文は、焼幅の狭い沸本位の湾れ乱で、金筋や砂流しなどの働きが刃中を彩ります。落ち着きのある気品の中にも覇気が漂う類まれな名刀です。

刀 無銘 伝志津(土岐頼芸佩刀)
刀 無銘 伝志津(土岐頼芸佩刀)
無銘
鑑定区分
重要美術品
刃長
73.3
所蔵・伝来
土岐頼芸
(ときよりのり)→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
関物系

「関物」とは、武儀郡鞍智郷関村(現在の岐阜県関市)在住の刀工達によって作られた日本刀の総称です。また広い意味では、美濃国全域に在住した刀工の作品を指す場合もあります。美術品としての価値よりも、頑丈さと切れ味に特化した実用性に優れ、廉価な「数打物」と呼ばれる日本刀の大量生産にも成功しました。

関鍛冶の先駆けとなったのは、越前国(現在の福井県北東部)出身で、兼氏と共に相州伝を学んだ金重と言われています。別の説では、大和国から美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市周辺)へ移住した「兼元」(かねもと)が関鍛冶の始祖とされており、その名を継いだ「2代兼元」こと「孫六兼元」(まごろくかねもと)は「関の孫六」としても有名です。

兼元と双璧をなす関鍛冶のもうひとつのブランドが「兼定」(かねさだ)。最も著名な刀工は2代にあたる「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)で、通称を「之定」(のさだ)と言い、その作品は切れ味の良さから多くの戦国武将に愛用されました。

刀剣ワールドが所蔵する関物の1振は、和泉守兼定が作刀した「刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持」です。銘に所持と記された「三浦将監」(みうらしょうげん)とは、江戸時代後期に「紀州徳川家」の家老を務めた「三浦為章」(みうらためあき)のこと。また、「二ツ胴」(ふたつどう)とは刀の切れ味に対する評価で、1振で2体を斬ることができたと示しています。

刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持
刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持
和泉守兼定作
(金象嵌)
二ツ胴
三浦将監所持
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
65.2
所蔵・伝来
紀州徳川家の家老 三浦将監→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

新刀:1596年(慶長元年)~1780年(安永9年)

美濃伝の伝法が全国へ

大洪水により壊滅した備前伝に代わって美濃伝が台頭すると、各地の大名は美濃国の刀工を多く召し抱えることになります。

交通の要衝でもあった美濃国の刀工達は、京都、近江(現在の滋賀県)、越前(現在の福井県北東部)、尾張(現在の愛知県西部)、大坂などへ移住。さらに、主君となった大名の転封(てんぽう:大名の領地を他へ移すこと。国替え)に付き従い、全国の城下町へと広がっていきました。

なかでも、関の「兼道」(かねみち)の一族は、京都へ上って「三品派」(みしなは)を立ち上げると、それに合わせて京都堀川を拠点とする「堀川国広」(ほりかわくにひろ)一派の「堀川派」との交流を深め、新刀期の技術的基礎を固めたと言われています。

また新刀期には、刀身自体にも古刀との違いが顕著に現れました。古刀期には、地方で生産された鋼をそれぞれ使用していたため、地鉄(じがね)には生産地の特色が出ていたのです。

しかし、豊臣秀吉が天下統一を果たして世の中が落ち着くと、流通も盛んになります。そのため、全国的に均一な鋼が行き渡り、地域による地鉄の差がなくなりました。

慶長新刀

古刀期から新刀期へ移行した、1596~1615年(慶長年間)に作刀された日本刀を、「慶長新刀」(けいちょうしんとう)と言います。

豪壮華麗な安土桃山文化が花開いたこの時代、日本刀においても同様の力強く覇気のある作風が好まれました。

この時代は、慶長新刀の祖とされる「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)と、その門人である「肥前忠吉」(ひぜんただよし)、「越前康継」(えちぜんやすつぐ)、「南紀重国」(なんきしげくに)などが名声を博しています。

江戸新刀

江戸幕府の政治体制が整備されると、武士の大小差し、すなわち打刀(うちがたな)と「脇差」(わきざし)の寸法も明確に規定されました。

武士達は差料(さしりょう:自分が差すための日本刀)を規定に合わせて誂えることが必要になったのです。そのため、日本刀に対する需要が増え、日本各地の刀鍛冶が繁栄。政治の中心地となった江戸での作刀も盛んになり、これを「江戸新刀」と称して、「大坂新刀」を生み出した大坂と比肩する新刀の主要生産地となります。

また江戸では、1657年(明暦3年)に、「明暦の大火」が発生。多くの武家屋敷が焼失し、所有されていた古刀も焼け身となってしまったのです。この大火災による日本刀の不足を補うために、江戸新刀の刀工達は作刀に励みました。

江戸新刀を代表する刀工としては、もとは甲冑師ながら50歳を超えてから江戸に出て、刀工となり実力を発揮した「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)や、鉄砲鍛冶としても名を成した「野田繁慶」(のだはんけい)など、個性あふれる実力派が名を連ねます。

大坂新刀

豊臣秀吉が「大坂城」(現在の大阪城)を築城し、城下町の整備を進めて以来、大坂は商業の中心地として発展しました。商業活動で活気付く大坂には優れた刀工達が移り住み、全国の大名や武士、帯刀を許された町人などから注文が殺到したと言われています。

大坂の地から輩出された名工は、「大坂新刀の三傑」と称される「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)、「井上真改」(いのうえしんかい)、「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)が特に有名です。「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)や「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)の名も外すことはできません。

刀剣ワールド財団が所蔵する一竿子忠綱の打刀は、大互の目乱れに小湾れ(このたれ)が交じる濤欄風(とうらんふう)の刃文で、一竿子忠綱の特色がよく表れています。

さらに「彫同作」の添銘があることから、刀身彫は一竿子忠綱自身が施したと推察され、その迫力ある意匠は素晴らしく、技量の高さが感じられる出来栄えです。

刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
一竿子粟田口忠綱
彫同作
時代
江戸時代
鑑定区分
重要刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

寛文新刀

新刀の中でも、1637年(寛永14年)に勃発した「島原の乱」以降の太平の世に作刀された作品を「寛文新刀」(かんぶんしんとう)と言います。平和な時代に日本刀が多く作られた理由のひとつは、幕府により武士が腰に差す打刀と脇差の寸法が厳密に規定されたこと。この規定に合わせるために、武士達がこぞって日本刀を求めたため、江戸には大勢の刀工が集まることとなったのです。

また、1657年(明暦3年)に起きた「明暦の大火」も日本刀需要の拡大を促しました。この大火では、武家屋敷をはじめとする江戸の町の大半が焼け、江戸城も西の丸以外の天主や本丸まで焼失しています。そのため、江戸城や武家屋敷に保管されていた名刀の数多くが焼けてしまいました。

明暦の大火のあとには、この日本刀不足を補う必要に迫られたのです。さらに幕府は、戦いのなくなった時代でも、武士の精神が廃れてしまわないよう剣術を推奨します。剣術の稽古では真剣ではなく竹刀(しない)を用いることになり、また剣術の内容も甲冑(鎧兜)を身に付けていない武士同士の対戦を想定したものへと変化していきました。

これらの変化に対応するため、日本刀は頑健さよりもいっそう切れ味が重視されるようになり、竹刀のように反りの浅い、突きに適した形状が主流を占めることになったのです。こうして江戸時代初期には寛文新刀が広く普及していきました。

ところが、実戦で用いられることがなくなった日本刀は、やがて武士の象徴といった意味合いしか持たなくなります。刀工界が再び活気を取り戻すには、1781年(天明元年)よりあとの新々刀の登場を待たなければなりませんでした。

新々刀:1781年(天明元年)~1876年(明治9年)廃刀令まで

新々刀が生まれた歴史背景

長く平和が続いたため、日本刀の需要が減って刀工界は苦境に立たされます。

しかし、1782年(天明2年)から始まった「天明の大飢饉」や、1783年(天明3年)の浅間山大噴火といった大災害が起こると、食料不足に見舞われた各地で一揆が頻発。

さらには、ロシアやイギリスなどの外国勢が通商を求めて来航するなど、日本全体を包む不穏な空気に、人々は不安を覚えるようになりました。こうした状況で、治安の維持強化のために見直されたのが日本刀です。

時代の変化と呼応するように、刀工界には「水心子正秀」(すいしんしまさひで)をはじめとする意欲的な刀工達が登場します。水心子正秀らは、「刀剣復古論」を唱え、長く頑丈な古刀を模範として研究。鎌倉時代から南北朝時代にかけて作られた日本刀の特徴を再現しました。これらの日本刀を、新々刀と呼びます。

新々刀を代表する刀工

新々刀期の刀工として筆頭に挙げられるのは、やはり水心子正秀です。

生涯に369振もの日本刀を生み出し、古刀の作風に回帰した新々刀を広く知らしめる役割を担いました。

水心子正秀と並び称される名工のひとり、出羽国(現在の山形県秋田県)出身の「大慶直胤」(たいけいなおたね)は、江戸へ出て水心子正秀に師事。特に脇差を得意として多数の傑作を残し、その技量は師匠の水心子正秀を凌ぐとさえ言われています。

また、「源清麿」(みなもときよまろ/すがまろ)は、幕臣で剣術家でもあった「窪田清音」(くぼたすがね)のもとで修業と鍛錬に励み、新々刀の第一人者となりました。江戸の四谷に居を構えた源清麿は、その優れた腕前から「四谷正宗」とも称されます。水心子正秀、大慶直胤、源清麿の3名は、「江戸三作」と呼ばれる出色の名工です。

そんな江戸三作に迫る名工の初代「綱俊」(つなとし)は、水心子正秀に学び、当時備前伝では右に出る者がないと評価されました。

刀剣ワールド財団が所蔵する綱俊の傑作刀「於東都加藤八郎綱俊」(おいてとうとかとうはちろうつなとし)には、(にえ)と(におい)が共に深い濤欄乱れを焼いた刃文に、綱俊の初期における特徴を見て取ることができます。古刀に倣った新々刀らしい姿は、目を奪われるほどの迫力です。

刀 銘 於東都加藤八郎綱俊(文政五年十一月吉日)
刀 銘 於東都加藤八郎綱俊(文政五年十一月吉日)
東都加藤八郎綱俊
(文政五年十一月
吉日)
時代
江戸時代後期
鑑定区分
特別保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

幕末の動乱期を経て廃刀令公布へ

幕末の動乱期になると、日本刀はますます武器としての性格を強めていきました。当時は、「尊王攘夷派」(そんのうじょういは:天皇を敬い、外国を排斥しようとする勢力)と、「佐幕派」(さばくは:幕府の政策を擁護する勢力)の争いは熾烈を極め、日本刀はより実戦的な仕様へと変容していったのです。

幕末の動乱は、1867年(慶応3年)の「大政奉還」によって終結。1876年(明治9年)には「廃刀令」が発布され、特例を除いて帯刀が禁止となります。こうして、日本刀の歴史は幕を閉じたかに見えました。

しかし、廃刀令によって禁止されたのは、日本刀を腰に差して所持する「帯刀」のみで、作刀そのものは禁止されていません。さらに、「明治天皇」は日本刀への理解が深く、伝統文化としての継承に尽力したため、刀工界は衰滅を免れることとなったのです。

そして、日本刀文化は現代刀へと受け継がれていきます。

現代刀:1876年(明治9年)~

帝室技芸員に選ばれた名工が刀工界を導く

1890年(明治23年)、日本美術・工芸を保護奨励する目的で、「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)が任命されることになりました。

皇室の御用を務める高名な美術家・工芸家が続々と選ばれ、刀工界からは、1906年(明治39年)に、初代「月山貞一」(がっさんさだかず)と「宮本包則」(みやもとかねのり)が選出されます。

初代月山貞一は、明治天皇の軍刀や皇族の日本刀を数多く手掛け、日本刀文化の盛隆に貢献した名工です。古刀の伝法である相州伝や備前伝に精通し、大きくうねるような地鉄の文様「綾杉肌」(あやすぎはだ)を得意としました。この特色ある綾杉肌は、月山家伝来として現代にも継承されています。

一方の宮本包則は、天皇に忠義を尽くす志士達のために作刀する中で、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)の知遇を得て、のちに「戊辰戦争」へ従軍。その後は、明治天皇をはじめとする3代の天皇の守り刀を作刀するなど、97年の生涯を作刀に捧げ、現代刀工にひとかたならぬ影響を与えました。

昭和時代初期には軍刀への需要が高まる

1931年(昭和6年)の「満州事変」(まんしゅうじへん)をひとつのきっかけとして、日本は「第2次世界大戦」へと向かっていくこととなります。こうした状況下にあって、需要が増大したのが軍刀でした。

1933年(昭和8年)には、軍刀整備のために、「靖国神社」(東京都千代田区)の境内に鍛錬所が設けられます。ここで活動した刀工を「靖国刀匠」と呼び、作刀された作品は「靖国刀」と称されました。

靖国刀匠としては、創設当初に主任刀匠を務めた「宮口靖廣」(みやぐちやすひろ)の他、「梶山靖徳」(かじやまやすのり)、「池田靖光」(いけだやすみつ)などが知られています。

靖国刀匠は、終戦を迎える1945年(昭和20年)まで、軍学校の成績優秀な卒業生に与えられる「御下賜刀」(ごかしとう)をはじめ、約8,100振の日本刀を作刀しました。

受け継がれる日本刀文化

第2次世界大戦終結後、日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれたことにより、武器と見なされた日本刀は没収。作刀も禁止されてしまいます。
日本刀は、またしても存続の危機に直面したのです。

しかし、日本側の強い働きかけにより、日本刀を武器ではなく、美術品として認めさせることに成功。さらに法律の改正も行われ、日本刀を作ることや、個人で所有・売買することができるようになりました。

刀工界が大きく揺れ動いたこの時代、のちに重要無形文化財保持者(人間国宝)に選ばれる「高橋貞次」(たかはしさだつぐ)、「宮入昭平(行平)」(みやいりあきひら[ゆきひら])といった才能豊かな刀工が日本刀文化を支え、作刀の技法と伝統は、現代まで継承されることとなったのです。

伝統が息づく現代刀匠の名刀

刀剣ワールド財団は、「大野義光」(おおのよしみつ)刀匠の手による現代刀を所有。

本太刀「越後国義光作」は、上杉家の御家名物「国宝 山鳥毛一文字」(やまどりげ/さんちょうもういちもんじ)の写しで、「日本刀装具美術館」(東京都文京区:2001年[平成13年]閉館)主催のコンクールに出品されました。

鎌倉時代の太刀姿を見事に再現した勇壮な作品です。白鞘師「廣井章久」(ひろいあきひさ)氏が手掛けた合口打刀拵「上杉拵」が附帯。国宝 山鳥毛一文字のと同様の、鍔がない上杉家独自の様式を写しています。拵と併せて鑑賞するのがおすすめです。

太刀 銘 越後国義光作 (山鳥毛写し)
太刀 銘 越後国義光作 (山鳥毛写し)
越後国義光作
昭和六十一年
二月吉日
時代
昭和時代
鑑定区分
未鑑定
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕