刀剣の豆知識

日本の剣豪 - 名古屋刀剣ワールド

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「剣豪」とは、日本武術の剣術や剣道に秀でた達人のこと。日本刀が誕生した平安時代から明治時代までその存在が知られ、とりわけ戦国時代や幕末に名を馳せた剣豪が現代でも注目を集めています。剣豪はただ刀の腕が立つだけでなく、奥義と言われる秘伝の技を極めたこと、さらに後継者に対する指導力・影響力も重要です。特に著名な剣豪を取り上げ、その強さや決闘での戦績、また人としての魅力についてご紹介します。

塚原卜伝(つかはらぼくでん)

幼少より剣術を学び、自らの流派を創始

氏名:塚原卜伝高幹(つかはらぼくでんたかもと)
流派:鹿島新當流(かしましんとうりゅう)
時代:室町時代後期~戦国時代

真剣勝負は19回、また37の戦に出て、矢傷6ヵ所のみで勝ち抜いたという「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)。立ち合いでは212人を討ち取ったと伝えられています。

塚原卜伝

塚原卜伝は1489年(延徳元年)、常陸国(現在の茨城県)の鹿島神宮(かしまじんぐう)社家に生まれました。

父の「吉川覚賢」(よしかわあきかた)より剣法の「鹿島中古流」(かしまちゅうこりゅう)を伝授され、元服前には塚原城主「塚原土佐守安幹」(つかはらとさのかみやすもと)の養子となり「香取神道流」(かとりしんとうりゅう)を学びます。

そして17歳となった塚原卜伝は、10年に及ぶ武者修行の旅へ。武者修行は生涯に3度を数え、「一ノ太刀」を奥義とする自らの剣法「鹿島新當流」(かしましんとうりゅう)を編み出しました。

戦国大名に奥義を伝授

足利義輝

塚原卜伝は弟子にもそうそうたる顔ぶれが揃っています。

剣豪としても知られる室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)や、丹後国(現在の京都府北部)の大名「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)、伊勢国司の「北畠具教」(きたばたけとものり)などの戦国武将をはじめ、武田軍の軍師「山本勘助」(やまもとかんすけ)や「今川義元」(いまがわよしもと)の息子「今川氏真」(いまがわうじざね)も奥義一ノ太刀を学びました。

そして、塚原卜伝を語る上で外せないのが「戦わずして勝つ」という考え方。

琵琶湖滋賀県)を渡る船中で若い剣士に決闘を挑まれたときのこと。塚原卜伝は周囲の迷惑とならぬようにと、剣士とふたりで小舟に乗り近くの小島へ向かいます。ところが、血気にはやる剣士が先に小島へ降り立つと、塚原卜伝はそのまま小舟で島を離れ、剣士を置き去りにしてしまったのです。悔しがる剣士に対して、塚原卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と高笑いして見せました。

刀を交えるだけが勝負ではない、機知に富んだ対応で誰も傷付けずに勝つ、塚原卜伝の人となりが垣間見える逸話です。

上泉信綱(かみいずみのぶつな)

武田軍との戦で武功を挙げる

氏名:上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)
流派:新陰流(しんかげりゅう)
時代:室町時代後期~戦国時代
上泉信綱(新陰流創始者)

上泉信綱

上泉信綱(かみいずみのぶつな)は、1508年(永正5年)に「上泉城」(現在の群馬県前橋市)の城主「上泉秀継」(かみいずみひでつぐ)の次男として生まれ、16歳のとき兄を失って家督後継者となります。

幼い頃から剣術家の「松本備前守」(まつもとびぜんのかみ)や「愛洲移香斎」(あいすいこうさい)らに剣の指導を受け、「新陰流」(しんかげりゅう)を興しました。

武田信玄

体格に恵まれ、教養が高く品格があり文武両道に優れていたと伝わる上泉信綱は、「箕輪城」(現在の群馬県高崎市)の城主「長野業正」(ながのなりまさ)の旗下に入り、「武田信玄」軍と戦います。

戦場においては、「長野家十六人の槍」と称されるほどの戦功を挙げ、さらに「上野国一本槍」という感状を受けました。

1563年(永禄6年)、武田信玄により箕輪城が落城。上泉信綱の腕を惜しんだ武田信玄から旗本として召し抱えたいと請われますがこれを固辞し、武芸者としての道を選んで上洛を目指します。

天皇・将軍が「天下一」と称賛

上洛の途中、上泉信綱は塚原卜伝より一ノ太刀を伝授された伊勢国司・北畠具教の館に立ち寄りました。剣術に優れた北畠具教の館には武芸者が集まっており、ここで上泉信綱は剣豪として有名な大和国(現在の奈良県)の「柳生宗厳」(やぎゅうむねよし)について聞きます。

一方の柳生宗厳も上泉信綱の来訪を知り、両者は大和国の柳生庄で手合わせすることになりました。結果は上泉信綱の圧勝。3日間挑戦し続けてもまったく勝てなかった柳生宗厳は、上泉信綱に留まるよう求め、新陰流を学ぶことになったのです。

武芸者として名高い柳生宗厳の弟子入りは上泉信綱の名声を高め、その噂は塚原卜伝の門人であった足利義輝や、「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)の耳にも届き、上覧試合を行うことになります。そして上泉信綱は、正親町天皇と将軍・足利義輝の双方から「天下一」の栄誉を賜ったのです。

無刀取り(柳生新陰流)

無刀取り(柳生新陰流)

そのあと、上泉信綱は刀を持たず相手の太刀を制する「無刀取り」を会得するよう柳生宗厳に言い渡して柳生庄を去ります。

翌年再会した折に、工夫された無刀取りの技を見て感心し、柳生宗厳を新陰流の後継者としました。新陰流は柳生家に代々継承され、現在は「柳生新陰流」の通称で知られています。

柳生宗厳(やぎゅうむねよし)

松永久秀に与した剣豪

氏名:柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)
流派:柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)
時代:戦国時代~江戸時代初期

柳生宗厳(やぎゅうむねよし)は大和国柳生庄の頭領の家に生まれ、若い頃から剣術の修業に励み、「新當流」(もしくは[中条流])を修得。剣豪として名を馳せ、「五畿内一の兵法者」と称されました。

柳生宗厳

柳生宗厳

阿波国(現在の徳島県)の戦国大名三好長慶」(みよしながよし)配下の「松永久秀」(まつながひさひで)に属した柳生宗厳ですが、1563年(永禄6年)の「多武峯の戦い」(とうのみねのたたかい)で拳に矢を受けて負傷します。

同じ年、上洛途上の兵法家・上泉信綱が大和国に立ち寄ることを知り、試合を申込みました。ところが3日にわたり勝負を繰り返すものの1勝もできず、上泉信綱の甥で弟子である「疋田豊五郎」(ひきたぶんごろう)にも勝つことができません。上泉信綱の力量を思い知らされた柳生宗厳は、その場で弟子入りを志願し新陰流の伝授を請うたのです。

半年ほど修行を積んだ柳生宗厳が腕を上げたのを見て、上泉信綱は無刀取りの考案を託して京へ。翌年、柳生宗厳は上泉信綱と再会を果たし、完成した「無刀取り」を見せます。これに満足した上泉信綱は、「新陰流兵法第二世」の印可(いんか:師が弟子の力量を認めた印)を授けたのでした。

徳川家康に奥義を披露

徳川家康

1577年(天正5年)、松永久秀が織田軍に囲まれて自害。柳生宗厳は兵法家の道に専念するため柳生庄へ隠棲します。

豊臣政権下では領地を没収されるなど辛酸をなめることになりますが、1594年(文禄3年)に柳生宗厳の評判を聞いた「徳川家康」から京へ招かれ、五男の「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)を伴って参上。新陰流の奥義と無刀取りを披露しました。

このとき、徳川家康自身も木刀を手に無刀取りを体験。上泉信綱の高弟「奥山公重」(おくやまきみしげ)に学び、剣術の腕には自信を持っていた徳川家康ですが、柳生宗厳の無刀取りの前には為すすべなく木刀を奪われてしまったと言われています。

徳川家康はその場で剣術指南役となってくれるよう求めました。しかし、柳生宗厳は老齢を理由に辞退し、代わりに息子の柳生宗矩を推挙します。そして柳生家の剣技は、徳川将軍家と共に繁栄していったのです。

宮本武蔵(みやもとむさし)

生涯で60回余りの勝負に全勝

氏名:宮本武蔵玄信(みやもとむさしはるのぶ)
流派:二天一流(にてんいちりゅう)
時代:戦国時代~江戸時代初期

宮本武蔵

「剣豪とは」と問われて、最も多くの人が名前を挙げるのが、この「宮本武蔵」ではないでしょうか。

剣術家・兵法家としての実力はもとより、剣豪としての宮本武蔵の名を印象付けたのは、剣術の奥義を記した自著「五輪書」(ごりんのしょ)にあると考える向きもあります。

1584年(天正12年)に播磨国(現在の兵庫県南西部)で生まれた宮本武蔵は、五輪書によると13歳ではじめて斬り合いに臨み、新當流の「有馬喜兵衛」(ありまきへえ)を倒しました。

また、1776年(安永5年)に書かれた宮本武蔵の伝記「二天記」(にてんき)では、21歳のとき上洛して兵法家の「吉岡一門」に挑み、道場主の「吉岡清十郎」(よしおかせいじゅうろう)らを倒したと伝えられています。

五輪書には、29歳までに60回余りの勝負を行い、すべてに勝利したと記されている宮本武蔵ですが、このなかで最も有名な勝負が1612年(慶長17年)の「巌流島の決闘」(がんりゅうじまのけっとう)です。豊前小倉藩(現在の山口県下関市)の舟島(巌流島)で「岩流」と名乗る剣客と戦ったとされ、当時から現代まで、芝居や浮世絵、浄瑠璃、小説、ドラマなど様々な文芸作品の題材となっています。

この対戦相手の岩流こそが「佐々木小次郎」(ささきこじろう)なのです。

「巌流島の決闘」では剣豪・佐々木小次郎を討つ

佐々木小次郎は安土桃山時代から江戸時代初期の剣豪として知られていますが、年齢や出生地についてはよく分かっていません。豊前国田川郡副田庄(現在の福岡県田川郡添田町)の豪族「佐々木氏」の生まれであるとする説が有力で、中条流の「冨田勢源」(とだせいげん)、あるいは鐘捲流(かねまきりゅう)の流祖「鐘捲自斎」(かねまきじざい)の弟子とされ、安芸国(現在の広島県西部)の毛利氏に仕えていました。

佐々木小次郎は秘剣「燕返し」(つばめがえし)を身に付け、巌流島の決闘では刃長(はちょう)3尺余り(約1m)の野太刀「備前長光」(びぜんながみつ)を用いたと言われています。

決闘の顛末についても諸説あり、宮本武蔵が舟の櫂(かい)から作った2振の木刀で佐々木小次郎を討ったとされるのが一般的です。

巌流島の決闘のあと、宮本武蔵はほとんど試合を行わず、1614年(慶長19年)と翌1615年(慶長20年)の「大坂の陣」では「水野勝成」(みずのかつなり)の客将として徳川方で参陣して活躍。その後諸国を遍歴し、22年後の1637年(寛永14年)には、養子の「宮本伊織」(みやもといおり)と共に「島原の乱」に参戦しています。

晩年、肥後熊本藩(現在の熊本県)の藩主「細川忠利」(ほそかわただとし)の知遇を得て熊本に移り住み、画や工芸の制作にいそしみながら五輪書を執筆。死去する数日前に、自らの生き方を記した「独行道」(どっこうどう)と呼ばれる自誓の書と併せて、五輪書を弟子の「寺尾孫之允」(てらおまごのじょう)に託しました。

近藤勇(こんどういさみ)

新選組を率いた剣豪

氏名:近藤勇(こんどういさみ)
流派:天然理心流(てんねんりしんりゅう)
時代:江戸時代後期から明治時代初期

江戸時代末期、京都の治安維持を担った「新選組」(しんせんぐみ)には、腕に覚えのある剣(刀)の達人が集い、局長の「近藤勇」(こんどういさみ)もまた剣豪として知られています。

近藤勇

近藤勇

近藤勇は1834年(天保5年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)の豊かな農家の三男として生まれました。幼名は「勝五郎」です。

1848年(嘉永元年)には、「天然理心流」の剣術道場「試衛館」(しえいかん)に入門。剣術を上達させた勝五郎は、翌年、目録を受けると共に道場主の「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)の養子となり、近藤姓を名乗ることになります。

1863年(文久3年)、徳川幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の上洛に先んじて将軍警護のために「浪士組」(ろうしぐみ)が組織されると、近藤勇は門下の「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)らを引き連れて参加。組織内の意見対立もあり、江戸へ戻る浪士組と袂(たもと)を分かった近藤勇達は、水戸藩士の「芹沢鴨」(せりざわかも)と新選組を結成し、「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を敬い、外国の敵を撃退しようとする思想)運動の取り締まりにあたりました。そして芹沢鴨が暗殺されたあと局長となり、新たな新選組を構築します。

「池田屋事件」で名を馳せる

近藤勇と新選組の名が広く世間に轟くことになったのは、1864年(元治元年)6月に起きた「池田屋事件」の武功です。

京都の町で火を放ち、混乱に乗じて挙兵しようと画策していた尊王攘夷派の計画を知った新選組は、市中を探し回った末に、三条河原町(現在の京都府京都市中京区三条通)の旅館「池田屋」で尊王攘夷派の志士達を発見。近藤勇は出口を固めさせると、沖田総司らを率い、4名で斬り込みました。

急襲を受けた尊王攘夷派は多勢であったにもかかわらず9人が斬死し、4人が捕縛されたと言われています。

池田屋事件での功績によって、朝廷と幕府から高く評価された新選組でしたが、その後は隊内での粛正や分裂などで力を失い、「大政奉還」(たいせいほうかん)ののちに勃発した「鳥羽・伏見の戦い」では出陣するも惨敗。続いて旧幕府から甲府の占拠を命じられ、新選組から「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)へ名を改め新政府軍と戦うものの敗れ、下総国流山(現在の千葉県流山市)で捕らえられた近藤勇は処刑されることとなりました。享年35歳。

近藤勇の愛刀は「長曽祢虎徹」

近藤勇が池田屋事件での討ち入りで用いた愛刀は、「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)です。作者の「長曽祢虎徹」は甲冑師から50代で刀工に転身したという異色の経歴の持ち主。甲冑師としての経験が活かされた故か、鍛えに優れ、地刃ともに冴えを見せる作品は人気が高く、当時から偽物が数多く出回っていたと伝えられています。

そのため、近藤勇の長曽祢虎徹も偽物だったのではないかとの説もありますが、近藤勇自身は本物と信じていたと言われ、池田屋での討ち入りでは多くの隊士達の刀が折れたり刃こぼれしたりするなか、近藤勇の愛刀は無事であったことから、「自分の刀は虎徹だったので命が助かった」との旨を養父・近藤周助への手紙にしたためているのです。

残念ながら近藤勇が所有した長曽祢虎徹は現存していませんが、「刀剣ワールド財団」でも同じ長曽祢虎徹の作品とされる「長曽祢興里入道乕徹」(ながそねおきさとにゅうどうこてつ)を所蔵。長曽祢虎徹の技量が遺憾なく発揮された、冴え冴えとして明るい地刃を堪能することができます。

刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
長曽祢興里
入道乕徹
鑑定区分
重要刀剣
刃長
68
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕