日本刀の名工・名匠

帝室技芸員・人間国宝・無鑑査刀匠

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日本美術・文化・工芸の保護や後進育成などを奨励するために作られた「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)・「人間国宝」・「無鑑査刀匠」(むかんさとうしょう)があります。この3つは日本の伝統を守る意味では似ていますが、作られた年代や目的に違いがあるのです。ここでは帝室技芸員・人間国宝・無鑑査刀匠の成り立ちと共に、選ばれた刀工についてご紹介します。
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現代の日本刀を代表する作品を生み出し、突出した技術を持っている刀匠をご紹介致します。

帝室技芸員とは

帝室技芸員」とは、明治時代に日本美術・工芸の保護を奨励する目的で定められた「帝室技芸員制度」により任命された美術家のこと。1890年(明治23年)10月、に最初の帝室技芸員10名が任命されました。

どんな人が選ばれたのか

選ばれたのは、日本画家の「狩野永悳」(かのうえいとく)、彫刻家の「高村光雲」(たかむらこううん)、他に漆工・彫金と、日本の伝統美術や工芸の第一人者達です。

技芸員と言う名前の通り、金工や漆工、日本画家、彫刻家などが任命されています。刀工からは「月山貞一」(がっさんさだかず)と「宮本包則」(みやもとかねのり)の2名だけでした。

帝室技芸員が作られた背景

龍池会の発足

九鬼隆一

九鬼隆一

明治維新を迎えた頃の新政府の人々は、西洋諸国と並ぶため積極的にその文化や芸術、歴史などを取り込もうとしていました。

1879年(明治12年)に、こうした状況を受けて明治政府の官僚「九鬼隆一」(くきりゅういち)、「佐野常民」(さのつねたみ)、「河瀬秀治」(かわせひではる)らが「龍池会」(りゅうちかい)と言う美術団体を発足。

龍池会は、西洋に偏りつつある風潮に異を唱え、日本の古美術や、伝統的な作家達の復権を目指して立ち上がった集団です。1878年(明治11年)に来日し「東京大学」に外国人講師として就任していた「アーネスト・フェノロサ」もその重要なメンバーのひとりでした。アーネスト・フェノロサは「日本美術の恩人」とも評される人物。

日本美術の真髄を外国人の目線から日本人に教えたことや、素晴らしい美術品が日本中にあると伝聞したことに挙げられます。西洋の立場から日本美術の保護や、その方法について多くの貢献をしたとして評価されているのです。

アーネスト・フェノロサは、龍池会の依頼を受け日本美術を保護するため各地で講演を行っていました。しかしアーネスト・フェノロサは、日本古来の技法だけではなく、新しい日本画を創作するため、1884年(明治17年)に九鬼隆一らと共に龍池会を脱退し、新たに「鑑画会」(かんがかい)を発足。そのあと、1887年(明治20年)に「東京美術学校」(現在の[東京藝術大学])を設立します。

龍池会と宮内省の関係

革新的なやり方をする鑑画会に危機感を抱いた龍池会側は、日本の伝統工芸を守るため宮内省(宮内庁の前身)に庇護を求めました。そして1887年(明治20年)に龍池会は「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)を総裁に迎えて、心機一転「日本美術協会」と名称を変更。

さらに翌年には、帝室技芸員の前身となる「宮内省工芸員」を認定しました。そして1890年(明治23年)に「帝国博物館」(現在の[東京国立博物館])総長でもあった九鬼隆一が選択委員長に任命され、さらに佐野常民らをはじめ7名がその選択委員に任命。選択委員長と委員らにより、正式に帝室技芸員制度がここにはじまったのです。

任命方法は、選択委員により作家が推薦され、帝国博物館総長の招集した会議によって決定されました。任期は終身で、毎年100円(現在の金額で2,000,000円相当)の年金の他、宮内省からの注文品には制作費を支給したと言います。

帝室技芸員の刀工

宮本包則

宮本包則は、1830年(天保1年)に伯耆国大柿(現在の鳥取県東伯郡三朝町)にあった醸造業の家の次男として生まれました。同郷の伝説的名工「安綱」(やすつな)に憧れて刀工を目指したとも言われますが、最初に修行をしたのは備前長船派の「横山佑包」(よこやますけかね)です。

順調に修行を積み出世を重ねたのち、京都の三条堀川に自身の鍛冶場を設けます。幕末の動乱期でもあった当時の日本は、武士からの日本刀注文が増加していたときでした。宮本包則は勤王派(天皇に忠義を尽くす一派でのちの明治政府側)の武士達へ数多くの日本刀を手がけたことで、その功績を認められます。

1866年(慶応2年)に「孝明天皇」(こうめいてんのう)の御剣を作刀し、翌年に「能登守」を受領しました。明治維新を迎えてからは、「廃刀令」の影響を受け日本刀の注文は激減。生活に困窮していましたが、1886年(明治19年)に、3年後の「伊勢神宮」(三重県伊勢市)式年遷宮で奉納する宝刀の大量注文を受けることになります。

一縷の望みをかけ宮本包則はこの大仕事に取り掛かりました。そして見事に期待に応えたことで「明治天皇」からその技量を高く評価されます。こうして宮本包則は、1906年(明治39年)帝室技芸員に任命されるに至ったのです。さらに宮内省御用刀匠にも任命され、「大正天皇」や「昭和天皇」をはじめ皇室の守刀を鍛えました。

刀 銘 因州宮本能登守菅原包則於江州御陣中鍛之
刀 銘 因州宮本能登守菅原包則於江州御陣中鍛之
因州宮本能登守菅原包則於江州御陣中鍛之
時代
明治時代
鑑定区分
保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

月山貞一

五箇伝の分布

五箇伝の分布

月山貞一は1836年(天保7年)に、(現在の滋賀県犬上郡に誕生。月山貞一は大阪の刀匠「月山貞吉」(がっさんさだよし)の養子となります。この月山貞吉とは、出羽国月山(現在の山形県鶴岡市他)の寒河江(さがえ)で平安時代から続く月山一族の末裔。

新々刀の祖「水心子正秀」(すいしんしまさひで)に師事し、そのあと大阪に移って作刀に励んでいたのです。月山貞吉の養子となった月山貞一は腕を見込まれ、「五箇伝」(ごかでん:大和伝奈良県]、山城伝京都府]、備前伝岡山県]、相州伝神奈川県]、美濃伝岐阜県])の鍛刀方法を習得、特に相州風は名刀が多く評価の高い刀剣が残ります。

恩賜の刀(鎺に[御賜]とある)

恩賜の刀(鎺に[御賜]とある)

また、刀身彫刻も巧みに操り、新々刀きっての彫刻の名手でもありました。

明治維新後の1869年(明治2年)には明治天皇の御剣を鍛えるなど、一世一代の大仕事を成し遂げています。1876年(明治9年)の廃刀令以降も作刀に励み、愛刀家でもあった明治天皇が個人的に買い上げたことでいっそう高い評価を得ました。

1906年(明治39年)に帝室技芸員に任命されると、皇室や皇族から著名人の作刀の依頼が舞い込みます。さらに陸軍大学校を卒業する成績優秀者に贈られる軍刀「恩賜の刀」を手掛けることとなったのです。そのあとも月山貞一は、1918年(大正7年)に84歳で没するまでの長きに亘って鍛刀に尽くしました。

刀 銘 帝室技芸員月山貞一作(花押)(菊水紋)
刀 銘 帝室技芸員月山貞一作(花押)(菊水紋)
刀 銘 帝室技芸員月山貞一作(花押)(菊水紋)
時代
大正時代
鑑定区分
保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

人間国宝(重要無形文化財保持者)とは

人間国宝」とは、1954年(昭和29年)に一部改正された「文化財保護法」にて「重要無形文化財」に認定された個人あるいは団体のこと。公式な文言ではありませんが、重要無形文化財保持者のことを人間国宝とする通称が広く用いられています。

どんな人が選ばれたのか

戦前まで天皇の勅任と言う形を採り、皇室・皇族の御用を中心として制作を行っていた「帝室技芸員制度」が廃止されました。戦後、天皇の地位が変化し皇室を支えていた宮内省が解体、その保護下に置かれていた帝室技芸員も同じように解体されたのです。

そして新たに創り出された、重要無形文化財制度のもと、人形浄瑠璃や文楽、能楽といった演劇の名優・名演者、箏曲・長唄三味線など音楽の名演奏者など。そして工芸品を作る達人、名刀を鍛え上げる刀匠など、日本の伝統的な文化を継承できると認められた人達です。

人間国宝が作られた背景

「文化財保護法」の成り立ち

1945年(昭和20年)に、日本が連合国に無条件降伏したことで「太平洋戦争」が終結しました。戦後日本に進駐したアメリカ軍は、国家と国民が統合するため民主主義下での新しい概念を導入することにしたのです。こうして作られたのが、1950年(昭和25年)に成立した「文化財保護法」でした。

成立した当初の文化財保護法では、建造物・工芸品・彫刻などを保護する有形文化財、演劇・音楽・工芸技術など無形文化財に関して規定。技能を持つ人(保持者)については対象としていませんでした。

次が当時の重要無形文化財の規定条文です。

「第六十七条 無形文化財のうち特に価値の高いもので国が保護しなければ衰亡するおそれのあるものについては、委員会は、その保存に当ることを適当と認める者に対し、補助金を交付し、または資材のあっせんその他適当な助成の措置を講じなければならない。」

それが1954年(昭和29年)に、文化財保護法が一部改正されたことで技能を持つ人(保持者)も認定を受けることができるようになったのです。

同時に具体的な認定の条件を定めた「重要無形文化財の指定並びに保持者及び保持団体の認定の基準」が設けられ、改正前の第六十七条「衰亡するおそれ」のある技能と言う前提は撤廃しました。

その基準のうち、作刀に関する内容を挙げておきましょう。

第一 重要無形文化財の指定基準
〔工芸技術関係〕
陶芸、染織、漆芸、金工その他の工芸技術のうち次の各号の一に該当するもの
(一) 芸術上特に価値の高いもの
(二) 工芸史上特に重要な地位を占めるもの
(三) 芸術上価値が高く、または工芸史上重要な地位を占め、かつ、地方的特色が顕著なもの

第二 重要無形文化財の保持者または保持団体の認定基準
〔工芸技術関係〕
保持者
一 重要無形文化財に指定される工芸技術(以下単に[工芸技術]と言う。)を高度に体得している者
二 工芸技術を正しく体得し、かつ、これに精通している者
三 二人以上の者が共通の特色を有する工芸技術を高度に体得している場合において、これらの者が構成している団体の構成員
保持団体
工芸技術の性格上個人的特色が薄く、かつ、当該工芸技術を保持する者が多数いる場合において、これらの者が主たる構成員となっている団体

戦後の伝統技能保護制度はこうして完成し、保持者は一般的に「人間国宝」と呼ばれるようになっていったのです。

人間国宝の認定方法

文化審議会の様子

文化審議会の様子

人間国宝は歴史的・芸術的価値のある技術の保持者が認定されることが分かりました。では続いて人間国宝がどのように認定されるのかをここではお伝えします。

まず、人間国宝の認定を受ける前に重要なことは、その分野が「重要無形文化財」の指定を受けているかどうかです。審議や議決は「文化審議会」の文化財分科会が行い、文部科学大臣が指定・認定を決裁します。

人間国宝に正式に認定されると技術の維持や後継者育成など、重要無形文化財保護のための活動費として年間2,000,000円の助成を受けることが可能に。また、作品に付加価値が付き売買価格が高くなります。

そして人間国宝の認定は「生涯認定」と言い、一度認定されると亡くなるまで認定を取り消されることはありません。人間国宝は「その分野に人間国宝がいる」ということで、すでに技術の維持に貢献することができているため、たとえ怪我や病気、高齢のため制作が不可能となったとしても効力を持ちます。

けれど、人間国宝の保持者が亡くなればその認定は「解除」されるのです。しかしこれは助成金支給がなくなるのであって、保持者がこれまでに築いてきた功績などが消失するわけではありません。人間国宝保持者は、亡くなったあとも人間国宝として評価され続けるのです。

人間国宝の刀工

高橋貞次

高橋貞次」(たかはしさだつぐ)は、1902年(明治35年)、愛媛県新居郡大町村(現在の西条市大町)で生まれました。1917年(大正6年)、15歳のときに大阪に出て刀匠・月山貞一一門に入り、月山貞一の子「貞勝」から作刀技術を学びます。

1919年(大正8年)に東京にある「中央刀剣会」の養成工として働き、1923年(大正12年)に故郷に戻って独立しました。1938年(昭和13年)に第1回刀剣展にて「内閣総理大臣賞」の受賞や、1940年には「鎌倉八幡宮」への御神刀を鍛えています。

さらに戦後の1951年(昭和26年)に、伊勢神宮の式年遷宮に奉納するための御神刀を鍛えたことなどが、功績として認められ1955年(昭和30年)に刀工としては初となる人間国宝に認定。受賞後の1959年(昭和34年)には、皇太子時代の「明仁親王」(現在の明仁上皇)の御成婚のお祝いとして皇太子妃美智子(現在の上皇后美智子)の守刀を鍛えるなど、晩年も華々しい活躍を見せました。

脇差 銘 龍泉入道貞次(花押)
脇差 銘 龍泉入道貞次(花押)
龍泉入道貞次
(花押)
時代
昭和時代
鑑定区分
特別保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

2代・月山貞一

2代「月山貞一」は、江戸時代末期から明治時代に活躍し帝室技芸員でもあった初代・月山貞一の孫になります。1907年(明治40年)に、2代・月山貞一は現在の大阪市中央区鎗屋町で生まれました。

父・月山貞勝から刀工としての手ほどきを受け、父と共に伊勢神宮式年遷宮に奉納する宝刀の作成、昭和天皇の御剣なども鍛え上げています。

戦後の困窮を乗りきり、1967年(昭和42年)には現代刀の新作名刀展にて日本最高の栄誉とされる正宗賞を受けるなど活躍を見せました。こうした功績が評価され2代・月山貞一は、1971年(昭和46年)に人間国宝に認定されています。

短刀 銘 太阿月山源貞一作(花押)昭和五十一年十二月日
短刀 銘 太阿月山源貞一作(花押)昭和五十一年十二月日
太阿月山源貞一作(花押)昭和五十一年十二月日
時代
昭和時代
鑑定区分
保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

隅谷正峯

隅谷正峯」(すみたにまさみね)は、1921年(大正10年)に石川県松任市に生まれました。1941年(昭和16年)に「立命館大学」(京都市中京区)を卒業すると同時に刀匠「桜井正幸」(さくらいまさゆき)に師事。師となる桜井正幸は、当時、立命館大学で刀剣鍛錬所を運営していました。

独立後は、広島県尾道市にあった興国日本刀鍛錬所で働き、そのあとは自身の鍛冶場を松任市に開いて多くの作品を世に出します。しかし1945年(昭和20年)以降は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本刀の製造が禁止に。1953年(昭和28年)に許可制となるまで刀匠としては不遇の時代を過ごします。

そのあと、作刀許可を得た隅谷正峯は、1955年(昭和30年)第1回作刀技術発表会にて初入選。全10回開催された同展に毎回出品をして、優秀賞を4回、特賞を4回受賞するなど実績を重ねていきます。1967年(昭和42年)に、これまでの功績が認められ無鑑査に認定。さらに1981年(昭和56年)には、人間国宝に認定されました。

隅谷正峯が得意としたのは、備前伝の華やかな刃文だったと言います。鎌倉時代に作られる古刀に多かった、丁子の実が連なった状態に見える「丁字」刃文を独自に研究し、「隅谷丁子」(すみたにちょうじ)と呼ばれる刃文を完成させました。

刀 銘 傘笠正峯作之
刀 銘 傘笠正峯作之
傘笠正峯作之
時代
昭和時代
鑑定区分
保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

無鑑査刀匠とは

刀剣博物館

日本美術刀剣保存協会が運営する
「刀剣博物館」

この「無鑑査」(むかんさ)とは、作者の過去の実績に照らし合わせ「[主催者側の]審査・鑑査なしで展覧会などへの出品が可能」であると認められることを意味しています。

そして「日本刀」分野における無監査刀匠は、「公益財団法人 日本美術刀剣保存協会」が主催する「現代刀職展」(旧新作名刀展)に出品した作品について、受賞審査を必要としない資格(公益財団法人日本美術刀保存協会無鑑査選任規程第2条)のことを指すのです。

どんな人が選ばれたのか

現代刀職展は1年に1度開催される展覧会であり、ここでは作刀をはじめ刀身彫刻や研磨、白鞘、刀装具作りなど日本刀にかかわる分野すべての部門があります。そのなかで刀匠の最高位である無鑑査刀匠に選ばれるために必要な基準はこちらです。

「協会が主催する現代刀職展において、入賞15回のうち、特賞を8回以上(太刀・刀・脇差薙刀の部)受賞し、そのうちに「高松宮記念賞」(平成17年まで高松宮賞)を2回以上受賞した者、もしくは特賞を10回以上(太刀・刀・脇差・薙刀・槍の部の特賞を6回以上)受賞した者で、人格が高潔であり、刀匠として抜群の技量が認められる者」(無鑑査選任基準1)。

この基準を満たした上で、日本美術刀剣保存協会の理事会による承認議決を経て、日本美術刀剣保存協会会長から無鑑査の資格が授与されることによって、はじめて無鑑査刀匠となるのです。栄誉ある称号ですが、それだけに資格を得るには厳しい手順があります。

無鑑査刀匠の役割

現代刀職展は、現代刀匠として最前線で活躍する刀匠達が年に1度の大イベントとしてしのぎを削る展覧会です。そんな場で、長期間に亘って受賞を続けることは困難を極め、しかもこれを複数回受賞して基準を満たすのは容易なことではありません。

そうした事実を示すように1958年(昭和33年)に初の無鑑査の資格取得者が出てから、2017年(平成29年)までの間に無鑑査資格を授与されている刀匠は、ほんの数十人です。無鑑査刀匠は資格を取得するのも至難の業ではありますが、取得したあとはよりいっそう気を引き締めなくてはいけません。そのあとの無鑑査刀匠の役割として、現代刀匠の模範的存在としての義務が発生するからです。

毎年開催される現代刀職展には必ず出品しなければならない規則があり、年齢(75歳以上)や、病気などの正当な理由なく3回連続で出品しなかった場合に加え、鍛刀技術が低下したと認められる場合などに、無鑑査刀匠の資格取消処分が行われる可能性があります。無鑑査刀匠制度の価値を維持するためにも、運営側は資格取得者に対して厳正な規則を課しているのです。

無鑑査刀匠の刀工

今泉俊光

今泉俊光」(いまいずみとしみつ)は、1898年(明治31年)に佐賀県で誕生しました。刀匠を志すまでは岡山県の紡績会社に技師として勤務。その後、1924年(大正13年)に独学で鍛刀研究を開始し、1934年(昭和9年)からは備前長船派の刀匠のもとで学び備前伝の鍛刀技術の口伝を受けました。

「第2次世界大戦」中に、今泉俊光は鍛刀の術が認められ「陸軍受命刀匠」(りくぐんじゅめいとうしょう)に任じられ軍刀作りを行います。1945年(昭和20年)には、終戦と同時にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本刀の製造を禁止。

衰退しつつあった備前伝を盛り上げようと岡山県長船町に鍛冶場を設立してすぐのことでした。それでも作刀への強い思いを捨てきれず鎌や鍬などの制作で生計を立てる日々を過ごします。1954年(昭和29年)に今泉俊光は、文化庁よりようやく作刀許可を受け再び備前伝の復興に情熱を注ぎました。

多くの努力が実を結び、今泉俊光は1959年(昭和34年)岡山県重要無形文化財保持者に認定されると、続いて1968年(昭和43年)には日本の文化活動に著しく貢献した人物に贈られる「吉川英治文化賞」を受賞。さらに1970年(昭和45年)に新作名刀展に出品し、同年、無鑑査刀匠に認定されました。

今泉俊光は、衰退へと向かっていた備前長船刀を復興させたことから「備前刀復興の祖」とも呼ばれるのです。岡山県瀬戸内市の「備前長船刀剣博物館」(岡山県瀬戸内市)には「今泉俊光刀匠記念館」が併設されており、その功績を称えると共に今泉俊光の作刀道具が展示されています。

刀 銘 天命寿楽 藤原俊光
刀 銘 天命寿楽 藤原俊光
天命寿楽 藤原俊光
時代
昭和時代
鑑定区分
未鑑定
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

河内國平

河内國平」(かわちくにひら)は、1941年(昭和16年)に刀工「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)の次男として大阪に誕生。1966年(昭和41年)に関西大学法学部を卒業後、重要無形文化財保持者である「宮入行平」(みやいりゆきひら)に師事し、五箇伝のひとつ相州伝を学びます。

1972年(昭和47年)に独立し、奈良県東吉野村平野に鍛刀場を設立。1984年(昭和59年)には人間国宝「隅谷正峯」(すみたにまさみね)に師事し、ここでは備前伝を学んでいます。そして1988年(昭和63年)に、日本美術刀剣保存協会から無鑑査認定を受けました。以降は、文化庁美術刀剣刀匠技術保存研修会講師、刀職技能訓練講習会講師など、全国各地で講演し研究機関の委員などを務めます。

2014年(平成26年)に、「新作名刀展」に出展した「國平河内守國助」(くにひらかわちのかみくにすけ)は、古刀の日本刀によく見られた「乱映り」の再現に成功。この映りは、鎬地に光を反射させたときに影のように見える働きのことで、これが乱れているものを乱映りと呼びます。

こうした多くの技術を作刀に反映させ、河内國平は刀剣界の最高賞「正宗賞」(太刀・刀の部門)を受賞しました。さらに同年には黄綬褒章も受章。現在は、母校の関西大学で日本刀研究会会長を務め、日本刀文化の普及に取り組んでいます。

刀 銘 國平製之
刀 銘 國平製之
國平製之
時代
現代
鑑定区分
未鑑定
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

尾川兼國

尾川兼國」(おがわかねくに)氏は、初代「尾川兼圀」(おがわかねくに)の次男として1953年(昭和28年)に生まれました。父・尾川兼圀は岐阜県の重要無形文化財保持者であり、無鑑査に認定された刀匠のひとりです。

刀工として修行をするまで尾川兼國氏は、もともとはガラス施行技能士として働いていました。33歳のときに刀工の仕事を継ぐと決め、実家があった岐阜に戻り、刀鍛冶としての人生をスタート。刀工として33歳という年齢は遅い出だしでした。1997年(平成9年)の新作刀展に尾川親子で出品すると、揃って特賞を受けました。

2009年(平成21年)には尾川兼國氏も無鑑査認定を受け、現代の刀匠界を語るのに欠かせない親子となったのです。尾川兼國氏は、父である初代・尾川兼國が打ち寄せる大きな波を思わせる「濤乱刃」(とうらんば)の刃文を得意としました。

尾川兼國氏も、この濤乱刃を受け継いで、数々の刀剣を作刀しています。2019年(令和元年)には、漫画「るろうに剣心」の作中に登場する「逆刃刀」(さかばとう)を再現。主人公「緋村剣心」(ひむらけんしん)が扱うのは普通の日本刀ではなく、刃が通常とは逆の峰側に付いているため作刀には苦労したと尾川兼國氏は語っています。

また、現在は作刀以外の活動も精力的に行い、2011年(平成23年)から全日本刀匠会理事兼東海地方支部の支部長を務め、今なお技術保持や今後の日本刀発展に尽力し続けているのです。

太刀 銘 義人・兼圀合作
太刀 銘 義人・兼圀合作
義人・兼圀合作
時代
平成時代
鑑定区分
未鑑定
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕