刀剣の流派 五箇伝
- 小
- 中
- 大
「五箇伝」(ごかでん)とは、名刀が制作された産地、「5ヵ国」もしくは「5つの地域」のことです。江戸時代以前は、刀剣の産地によって、地鉄や刃文に違いが表れ、その技術は秘伝とされてきました。ここでは、五箇伝の場所や歴史、特徴について詳しくご紹介します。
五箇伝とは
大和伝
大和伝とは、五箇伝の中で、最も古いと言われる伝法です。
誕生したのは奈良時代。710年(和銅3年)、「元明天皇」が、大和国(現在の奈良県)の「平城京」(現在の奈良市)に都を築いたことから大和国が栄え、そこで刀剣も制作されたと推測されるのです。始祖は「天国」(あまくに)と言われていますが、この時代の大和刀剣として現存する物はありません。
しかし、平安時代の794年(延暦13年)に、「桓武天皇」が「平安京」(現在の京都府)に都を移したことで、大和国と共に、大和伝は一時衰退してしまいます。
ところが、鎌倉時代に見事に復活。国家の保護を受けて仏教が発展したことで、寺院の門下に組織されていた大和伝は息を吹き返すのです。「千手院」(せんじゅいん)、「尻懸」(しっかけ)、「当麻」(たいま/たえま)、「手掻」(てがい)、「保昌」(ほうしょう)の「大和五派」が興り、僧兵の需要に応えて作刀し繁栄しました。
寺院のお抱え鍛冶として、上品味はあるものの、僧兵の実戦用に徹した、素朴な作風が特徴です。
場所 | 大和国(現在の奈良県) |
---|---|
隆盛期 | 平安~鎌倉時代で「五箇伝」の中で最も古い。 |
姿 | 長寸で反りが深く身幅が狭く小鋒/小切先。鎬幅が広くしっかりしていて実用的。 |
鍛肌 | 柾目肌(木を縦に切ったときの模様に似た物)が多い。 |
焼入 | 沸本位(中くらいの粒で構成されている) |
刃文 | 直刃または直刃ほつれ。刃縁に二重刃、喰い違いが見られる。 |
大和伝の刀剣
- 千手院派
- 千手院派とは、はじめに奈良県の千手谷に居住し、970年(天禄元年)に、現在の東大寺三月堂の北面に移動した一派です。
- 尻懸派
- 尻懸派が居住したのは、東大寺の裏側。大和国の葛城山の麓から招かれた一派です。始祖は、則弘(のりひろ)。
沸本位、中直刃に小乱、互の目(ぐのめ)乱れが交じり、焼幅が狭いのが特徴です。
- 当麻派
- 当麻派は、奈良県北葛城郡当麻町の当麻寺に所属していた一派です。始祖は「当麻国行」(たいまくにゆき)。
焼幅が狭く、沸本位。中直刃ほつれ、直刃丁子乱が交じる作風です。
- 手掻派
- 手掻派は、東大寺の西正門、天磑門(てんがいもん)の門前に居住した一派です。天磑が訛って、手掻になったと言われています。始祖は、初代「包永」(かねなが)。
鎬高で鎬地幅広く沸本位、直刃が特徴。ほつれや打ちのけ、二重刃、沸足が入る作風です。
- 保昌派
- 保昌派は、大和国高市郡に居住しました。鎌倉時代末期、「国光」が祖。
純然な柾目鍛えの伝法。焼幅が狭く、沸本位。細直刃で焼が締まらず、打ちのけ、二重刃の状態が小さく、鋩子に荒沸が付いて、盛んに掃掛けます。
山城伝
山城伝は、地鉄は精緻に詰んで潤いがあり美しく、優美で格調高い姿が特徴です。
平安時代の794年(延暦13年)、桓武天皇が山城国(現在の京都府)の平安京に都を移したことで誕生しました。主に、天皇の御剣や朝廷に仕える貴族の刀剣を作刀したと伝えられています。始祖は、「三日月宗近」の刀剣で有名な「三条宗近」(さんじょうむねちか)です。
平安京は政治の中心地であったことから高品質の鉄が集まりました。貴族文化が栄えた影響で、刀剣も細身で反り高く美しい典麗な姿が流行。質的にも文化的にも至高を極めた、山城伝が築かれたのです。
また、鎌倉時代初期には、後鳥羽上皇の御番鍛冶制度が設けられ、山城伝も粟田口(あわたぐち)一派から多くの刀工が選ばれます。鎌倉時代中期から南北朝時代にかけては、来(らい)派が繁栄。来国俊の子「了戒」(りょうかい)など、粟田口派を凌ぐほど人気が出ます。
そして、南北朝時代には「信国」(のぶくに)が「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)、「長谷部国重」が「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりとなるなど、相州伝を取り入れました。
このように山城伝は、「三条」、「五条」、「綾小路」、「粟田口」、「来」、「信国」、「長谷部国重」の一門が鎬を削って、ひとつの素晴らしい伝法を築きあげたのです。
場所 | 山城国(現在の京都府) |
---|---|
隆盛期 | 平安~鎌倉時代 |
姿 | 腰反り・輪反りが見られる。優雅で気品に満ちている。 |
鍛肌 | 小杢目肌。粟田口派は梨子地肌。 |
焼入 | 小沸(小さい粒が現れている)。 |
刃文 | 直刃調で、中には小乱が交じる物もある。 |
山城伝の刀剣
- 三条派
- 三条派は、平安時代中期に活躍。始祖は三条宗近(さんじょうむねちか)で、京都・三条に居住しました。優美さと気品に満ちた作風が特徴。
地鉄は小杢目肌で、刃文は小沸本位。直刃に小乱、刃中に乱れ足、三日月風の打ちのけ、二重刃、三重刃が盛んに入るのが特徴です。
- 五条派
- 五条派は、平安時代中期に活躍。始祖は「五条兼永」(ごじょうかねなが)です。子の「国永」と共に五条派を興し、京都・五条に居住しました。
三条一派とよく似ていますが、京反りが深く、小沸本位に直刃小乱が特徴です。
- 粟田口派
- 粟田口一派は、鎌倉時代初期に登場。大和国の興福寺に属していた具足師(ぐそくし)の「国頼」が、山城国の粟田口に移住して誕生しました。国友、久国、国安、国清、有国、国綱が「粟田口六兄弟」と呼ばれ、実質上の祖と言われています。
地鉄は「梨子地肌」(なしじはだ)。小沸本位で、焼幅の狭い直刃か、直刃仕立てに小乱れが交じり、優美で護摩箸などの彫りが棟側に寄るのが特徴です。
- 綾小路派
- 綾小路派は、鎌倉時代中期に登場。京都・四条大路の綾小路に居住しました。始祖は「定利」(さだとし)。
優美で古雅味があり、小沸本位の小乱れの中に互の目風の乱れが2つほど入り、匂口潤むのが特徴です。刃縁に打ちのけ、二重刃や飛焼風、柾目肌が交じります。
- 来派
- 来派は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて繁栄しました。粟田口派と並ぶ山城伝の二大流派です。
彫刻が上手く、輪反り深く細身で優美な姿と、身幅広く豪壮な姿があり、地鉄は板目に流れ肌交じり、沸映り立ち沸本位の湾れ乱(のたれみだれ)に丁子乱(ちょうじみだれ)が交じり、乱れの頭に沸が懲り、蕨手乱(わらびてみだれ)や刃中に力強い沸足が入ることが特徴です。
- 了戒派
- 了戒派は、鎌倉時代後期に活躍。始祖の了戒は、来国俊の子です。
太刀は、細身で反りが強い優しい姿で、地刃は来国俊に似ていますが、地鉄に柾目肌を交じえたり、匂口が潤みごころとなるところが特徴です。
- 信国派
- 信国派は、南北朝時代に登場。始祖の信国は、「了戒久信」の子で、来国俊のひ孫です。京・五条坊門に居住。
信国は、相州伝の代表的な刀工「貞宗」に師事して貞宗三哲のひとりとなり、彫刻を得意としました。
- 長谷部派
- 長谷部派は、南北朝時代に活躍。正宗十哲のひとりに選ばれた「国重」が始祖で、信国一門とその繁栄を競いました。
鎌倉時代は、住居が鎌倉の長谷(はせ)でしたが、鎌倉幕府の崩壊と共に京の有力者を頼って中央に進出。京五条猪熊に定住して繁栄しました。
備前伝
備前伝は、匂出来で、丁子を主体とした華やかな刃文が特徴です。
備前伝のルーツは、平安時代中期の987年(永延元年)に始まった「古備前」鍛冶と言われています。この技法を受け継いで、1208年(承元2年)、後鳥羽上皇のもとで御番鍛冶となった「則宗」を祖とする「一文字」(いちもんじ)派が生まれ、1238年(暦仁元年)には、「光忠」(みつただ)を祖とする「備前長船」(びぜんおさふね)派が生まれ、備前伝が誕生しました。
鎌倉時代末期になると、備前長船では「兼光」(かねみつ)と「長義」(ちょうぎ/ながよし)が、流行していた相州伝を「五郎入道正宗」に学び、正宗十哲にも選ばれます。さらに「元重」(もとしげ)は、正宗の子「貞宗」に学んだと伝わり貞宗三哲とも呼ばれ、「相州備前伝」が完成します。
室町時代になると、3代将軍「足利義満」によって行なわれた「日明貿易」の主要輸出品に選ばれることに。戦国時代には「数打ち物」と呼ばれる刀剣の大量生産を確実にこなし、益々繁栄しました。
このように備前伝は、古備前、一文字、備前長船と、優秀な刀匠によって上手く伝法が引き継がれ、長い期間に亘って繁栄し続けました。しかし、1590年(天正18年)8月、「吉井川の大洪水」と熊山の山津波が起き、長船、畠田、福岡の地は水没。備前伝は消滅してしまうのです。
場所 | 備前国(現在の岡山県) |
---|---|
隆盛期 | 平安~室町時代 |
姿 | 腰反りがある物から、大段平(おおだんびら)の物もある。 |
鍛肌 | 杢目肌・小板目肌のつんだ物が多く見られる。 |
焼入 | 匂本位(肉眼ではっきり認められない) |
刃文 | 互の目。丁子乱、映りが多い。 |
備前伝の刀剣
- 古備前派
- 備前伝は、平安時代後期に、古備前派からはじまったと伝えられています。「友成」(ともなり)と「正恒」(まさつね)が双璧。
友成は、三条宗近、「大原安綱」と共に「三名匠」と呼ばれた人物です。また、正恒の地鉄は一際詰んで美しく、洗練されています。
- 一文字派
- 一文字派は、鎌倉時代初期から中期に活躍。茎に「一」の銘を切ることから、一文字派と呼ばれました。
一文字派には、「福岡一文字」、「吉岡一文字」、「片山一文字」など諸派があります。特に福岡一文字派の祖である「則宗」は、後鳥羽上皇に任命された御番鍛冶として有名。福岡一文字では、他にも十数名が番鍛冶に指名されるなど、多数の名匠を輩出しました。
- 備前長船派
- 備前長船派は、鎌倉時代中期から安土桃山時代にかけて活躍。「蛙子丁子乱」(かわずこちょうじみだれ)や「三作鋩子」(さんさくぼうし)など、刃文や鋩子(ぼうし)が独特で華やかな作風なのが特徴です。
流行を取り入れるのが上手く、相伝備前伝を完成しました。
相州伝
相州伝とは、鎌倉時代中期に、相模国の鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で誕生した伝法です。それまで刀剣は、大和国や山城国で作刀されていましたが、鎌倉幕府のある鎌倉に有力な刀匠を常置する必要に迫られます。
そこで、鎌倉幕府5代執権「北条時頼」は、山城国から「粟田口国綱」、備前国から「備前三郎国宗」、「福岡一文字助真」の3名を招聘。これにより、鎌倉鍛冶の礎が築かれたのです。
さらに、1274年(文永11年)に「文永の役」、1281年(弘安4年)に「弘安の役」と言われる「元寇」(蒙古襲来)が起こります。この元寇で、太刀の重ねが厚く平肉が厚いと、重くて振り回すことができないこと、また何度も太刀を合わせると折れてしまうこと、元軍が使用していた革鎧には通用しなかったなど、日本刀の欠点が判明。「新藤五国光」、「行光」、正宗(五郎入道正宗)は、これを克服する新しい鍛刀法を考案し、相州伝を完成したのです。
相州伝は、硬軟の地鉄を組み合わせて、地肌を板目鍛に鍛えることで、軽量ながらも強度アップを実現。見た目には、長寸で身幅が広くを増しながらも、重ねが薄く鋒/切先が伸びたことで、西洋刀のように突き刺しに優れた刀剣ができあがりました。また、湾れ刃文を創始し、地景や金筋といった、沸による意識的な美しさを表現。
「折れない、曲がらない、甲鎧をも断ち切る」という、技術的にも美術的にも昇華した、無二の刀剣を作り上げたのです。相州伝は、鎌倉時代末期から南北朝時代までには全国に広がり、一世を風靡しました。
なお相州伝は、相州伝前期(新藤五国光)、相州伝上期(行光、正宗、貞宗の時代)と相州伝三期(広光の時代)、相州伝中期(秋広の時代)、相州伝四期(広正、正広の時代)の5期に分けることができます。
場所 | 相模国(現在の神奈川県) |
---|---|
隆盛期 | 鎌倉~南北朝時代。 |
姿 | 長寸で反りが浅く、重ね薄く、中鋒/中切先。 |
鍛肌 | 板目肌 |
焼入 | 荒沸(沸の粒が大きく華やか) |
刃文 | 焼幅が最も広い流派。五箇伝の中で一番難しい鍛錬法。 |
相州伝についてご紹介します。
相州伝の刀剣
- 相州伝前期
- 相州伝前期とは、鎌倉時代後期のこと。新藤五国光は、実父が備前三郎国宗で粟田口国綱の養子となった人物。備前伝と山城伝の両方を習得して、相州伝の始祖となりました。
作風は、沸本位の細直刃。地鉄は板目肌で、刃縁が小沸にほつれ、金筋、稲妻が現れるのが特徴です。 彫刻(素剣、梵字、腰樋)が多く、力強さと気品に溢れています。
- 相州伝上期
- 相州伝上期とは、鎌倉時代後期のこと。行光、正宗、貞宗が活躍した時代です。
行光の刃文は、焼きが強く、金筋や沸足が太く湯走も現れるのが特徴。正宗の刃文は、焼幅が広く派手で荒沸本位。沸の粒子が大小不揃いです。貞宗の刃文は、湾れ乱れ。穏やかでそれほど華美ではなく静かで奥ゆかしいのが特徴。彫刻の名手で、梵字、爪付、剣、蓮台を重ね彫した意匠が濃厚です。
- 相州伝三期
- 相州伝三期とは、鎌倉時代後期で、広光の時代のこと。大のたれ乱、上部に行くにしたがって飛焼が皆焼風に帯状に現れ、刃中には荒い沸が付いて一面に金筋や砂流しとなり、賑やかになるのが特徴です。
- 相州伝中期
- 相州伝中期とは、南北朝時代で、秋広の時代のこと。刃文は焼幅の広い大乱、大模様、沸が荒いのが特徴です。
皆焼や棟焼は、南北朝時代から焼き始められます。刃中で盛んに沸裂けが起こり、飛焼には必ず沸が付きます。
- 相州伝四期
- 相州伝四期とは、室町時代で、広正、正広の時代のこと。難しい相州伝がもはや伝承できず、荒沸本位の板目肌という鉄則が崩れます。
刃文は表面上では大乱や皆焼など華やかさがあっても、沸は少なく、焼入れの弱い匂出来で、むら沸となりました。
美濃伝
美濃伝とは、南北朝時代に、美濃国(現在の岐阜県)で誕生した伝法です。五箇伝の中で最も新しい流派。
もともとは鎌倉時代に、大和国(現在の京都府)の番鍛冶を務めた「千手院重弘」(せんじゅいんしげひろ)が配流され、「赤坂鍛冶」(現在の岐阜県大垣市)を興していましたが、後継者が途絶えていました。
そこで、相州伝を学んだ「志津三郎兼氏」(しづざぶろうかねうじ:大和伝・手掻派出身)と「金重」(かねしげ/きんじゅう)が美濃に移住。美濃伝は、大和伝と相州伝の良いとこどりをして、急激に成長を遂げたのです。したがって、美濃伝は、「大和伝系」、「志津系」、「金重系」大きく3つに大別できます。
美濃伝は大量生産品の数打物はもちろん、高品質な「注文打ち」でも名を馳せます。「之定」(のさだ)と呼ばれる2代「兼定」(かねさだ)は最上大業物を作りだし、「孫六」(まごろく)と呼ばれる2代「兼元」(かねもと)は「三本杉」という木が3本並んだような見事な刃文を生み出しました。
また、「兼房」(かねふさ)は、「兼房乱れ」(けんぼうみだれ)と呼ばれる、焼き幅の広い互の目丁子の刃文を創始するなど、多くの名匠を輩出。
さらに1590年(天正18年)に吉井川の氾濫で備前伝が壊滅すると、全国からの受注が集中します。美濃伝は全国一の刀工数を誇り、刀剣需要に応え、江戸の幕末まで繁栄しました。
場所 | 美濃国(現在の岐阜県) |
---|---|
隆盛期 | 南北朝~室町時代 |
姿 | 豪壮な物から、戦国期の片手打ちに見られる先反りの体配の物が見られる。 |
鍛肌 | 板目肌で鎬地に柾目肌が現れる。 |
焼入 | 匂本位(肉眼ではっきり認められない)。 |
刃文 | 焼刃が浮き立ち尖り刃、互の目や兼房乱(けんぼうみだれ)が見られる。 |