太刀 銘 備州長船住景光を観てみよう - 名古屋刀剣ワールド
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人物
「景光」は、鎌倉時代から室町時代にかけて、吉井川流域の備前国邑久郡長船(現在の岡山県瀬戸内市)で栄えた刀工一派「長船派」の名工です。長船派の実質的な開祖である「光忠」(みつただ)の孫であり、「長光」(ながみつ)の子とされる景光は、長船派3代目の惣領を務めました。
父の長光と、叔父「真長」(さねなが)と並んで「長船三作」と表され、とりわけ、鋒/切先(きっさき)部分に焼刃(刃文)を入れる「帽子」(ぼうし)技術に優れることから、この3名に共通する帽子のことを「三作帽子」と呼びます。景光の作刀期は鎌倉時代最末期にあたり、現存作の作刀年紀は1306~1334年(嘉元4~建武元年)。
その期間はおよそ30年にわたっています。通称は「左兵衛尉」(さひょうえのじょう)。銘は「備州長船住景光」の他、「備前国長船住景光」、「備前国長船住左兵衛尉景光」、景光などと切りました。
作風

乱映り
太刀は、父・長光ほどの豪壮さはないものの、品格を感じさせる姿が特徴的。腰反りが高く、踏張りが付いた刀身は、身幅、鋒/切先も含め鎌倉時代末期の典型作と言えます。
また、地鉄(じがね)は小板目肌が良く詰み、乱映り(みだれうつり)が鮮やかに冴え、その鍛え肌は長船派の中で最も美しいと評されるほどです。
焼刃にも工夫が見られ、直刃の小湾れ(このたれ)や直刃小丁子(すぐはこちょうじ)、小互の目(こぐのめ)を焼き、匂本位(においほんい)の「肩落ち互の目」(かたおちぐのめ:片落ち互の目とも)を創始しました。
景光は刀身彫刻の名手でもあり、「梵字」(ぼんじ)や「不動明王」(ふどうみょうおう)の化身である「倶利伽羅竜」(くりからりゅう)など、宗教的な意味合いを持つ彫物を施した作品があります。
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片落ち互の目 -
梵字
評価
備前長船を代表する刀工のひとりとして名高い景光。現存する作品のうち、太刀2振が御物(ぎょぶつ:皇室の持ち物)となっています。さらに、太刀2振と短刀1振が国宝に指定。「刀剣ワールド財団」所蔵の「太刀 銘 備州長船住景光 正和五年十月日」をはじめとする太刀16振と、刀、短刀、薙刀(なぎなた)のそれぞれ1振が重要文化財に指定されています。
国宝に指定されている景光の現存刀の中でも、最も有名な作品は、「備前国長船住景光 元亨二年五月日」の銘が切られた太刀「小竜景光」(こりゅうかげみつ)ではないでしようか。もとは「明治天皇」の御物で、現在「東京国立博物館」(東京都台東区上野)に所蔵されている名刀です。
最大の特徴は、号の由来にもなった刀身彫刻の「倶利伽羅竜」。磨上げ(すりあげ:茎を切り詰めて全長を短くすること)が行われたため倶利伽羅竜の下部が柄に隠れ、竜の頭だけが見えることから「のぞき竜景光」とも呼ばれています。鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将「楠木正成」(くすのきまさしげ)の佩刀であったとの伝説に由来し、「楠公景光」(なんこうかげみつ)の異名も持つ個性的な日本刀です。
太刀 銘 備州長船住景光の特徴
太刀 銘 備州長船住景光は、佩裏に「正和五年十月日」(1316年)の年紀銘があることから、景光が作刀をはじめて10年ほどが経ち、刀工として円熟味が増した頃に作刀されたことが分かります。姿・地鉄・刃文のいずれについても「景光らしい1振」と評される本太刀の特徴を詳しく観ていきましょう。
姿
地鉄
地鉄は、景光の特色である小板目肌が詰み、地沸(じにえ)、乱映りが見られます。
板目肌は非常にきめ細かく繊細で、地沸もたいへん細やかです。優れた鍛えは先代の父・長光を凌ぐと評価されています。

小板目肌
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地沸 -
乱映り
刃文
太刀 銘 備州長船住景光の伝来
太刀 銘 備州長船住景光は、徳川宗家16代当主「徳川家達」(とくがわいえさと)が所有していました。徳川家達の出身は「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつ「田安徳川家」です。
13代将軍「徳川家定」や14代将軍「徳川家茂」の血筋と近かったことから、15代将軍の最有力候補と目されていました。しかし、徳川家茂は21歳の若さで病没。当時まだ4歳だった徳川家達に、幕末の動乱期の将軍職を担うことは適わないと判断され、代わりに15代将軍に任じられたのは「徳川慶喜」でした。
徳川家達はのちに明治政府から徳川宗家を継ぐよう命じられ、将軍ではない16代当主となったのです。本太刀は第2次世界大戦後に徳川家から離れることとなり、その際のただし書きに「権現様より伝わる太刀」と記されました。
「権現様」とは、「徳川家康」を敬っていう呼び方であることから、本太刀は徳川家康の愛刀であり、そのあと徳川家に伝来したと推し量ることができます。