逸話がある日本刀 - 名古屋刀剣ワールド
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妖怪を退治した逸話がある日本刀
蜘蛛切(膝丸、薄緑)

新形三十六怪撰 源頼光土蜘蛛ヲ切ル図(国立国会図書館ウェブサイトより)
「蜘蛛切」(くもきり)の蜘蛛とは、大きな蜘蛛の妖怪のこと。鬼の頭に虎の胴、蜘蛛の手足を持つと伝えられる、人間を呪う恐ろしい化物です。
平安時代中期の武将「源頼光」(みなもとのよりみつ)は、ある夜、熱病にかかって寝床で伏せていると、誰かが体に縄を巻き付けているのに気付きました。源頼光は慌てて起き上がり、傍にあったこの太刀(たち)で叩き斬ると、何者かはどこかへ逃げていったのです。
すぐに家臣が源頼光のもとに駆け付けて、周辺まで不審者を追ってみると、4尺(約1.2m)以上もある大蜘蛛の化物が倒れていました。家臣がトドメを刺したところ、たちまち源頼光を苦しめていた病が治ったのです。源頼光はこの刀を蜘蛛切と名付けて大切にしたと言われています。
本刀は、清和源氏の祖「源満仲」(源頼光の父)が作らせた源氏重代の名刀で作刀者は不詳。蜘蛛切という号(ごう)のほか、呼び名を何度も変えたことで有名です。罪人を試し斬りしたら膝まで切れたため「膝丸」(ひざまる)と呼んだり、「源義経」(みなもとのよしつね)は美しい春の山に例えて「薄緑」(うすみどり)と呼び名を付けたりしました。しかも、この蜘蛛切(膝丸、薄緑)は、源義経が奉納した箱根神社以外にも、なぜか複数本が存在します。一体どれが本物なのか。存在自体が不思議と言える太刀なのです。

太刀 無銘 薄緑丸
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 平安時代 | - | 箱根神社宝物館 |
火車切広光
「火車切広光」(かしゃぎりひろみつ)は、上杉家に伝来した「上杉家御手選三十五腰」(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)の1振にも数えられる、由緒ある脇差(わきざし)です。
「火車」(かしゃ)とは、葬式の際、死者の亡骸を奪っていく老猫のような姿をした妖怪のこと。仏教では、生前に悪いことをすると亡くなったときに火車が迎えに来ると言う教えがあり、少しでも悪いことをした覚えがある人にはとても恐れられた妖怪です。火車切広光は火車を斬ったであろう刀として伝えられています。
この脇差を作刀したのは、「廣光」(ひろみつ)。南北朝時代に相模国(現在の神奈川県)で活躍した刀工で、初代廣光はあの「正宗」(まさむね)の門人、あるいは実子とも言われている人物です。地鉄(じがね)は板目肌(いためはだ)の大模様、刀身(とうしん)全体に皆焼(ひたつら)が入る華麗な1振。彫物(ほりもの)は表に三鈷附剣と不動明王種子、裏には護摩箸(ごまはし)と薬師如来種子がある見事な名刀です。

脇差 相模国住人廣光(号:火車切広光)
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
---|---|---|---|
相模国住人広光 康安二年十月日 |
南北朝時代 | 重要美術品 | 上杉家 → 佐野美術館 |
仇を討った逸話がある日本刀
小夜左文字
「小夜左文字」(さよさもんじ)は、主の仇を討った、無念を晴らした逸話がある名刀として有名です。
安土桃山時代、浪人の夫を亡くした女は、形見である「左文字」の短刀(たんとう)を生活のために売ろうとしたところ、小夜の中山(現在の静岡県掛川市)で斬殺され、挙句に短刀も奪われてしまいました。遺された息子は、父の形見の短刀は左文字が作った貴重な刀だと知っていたので、きっと犯人は研ぎに出すはずだと考え、掛川の研師に弟子入りすることにしたのです。
すると、まんまと犯人が短刀を持って研ぎに現われ、息子は母の仇を討つことができました。これを聞いた掛川藩主「山内一豊」(やまうちかずとよ)は、この息子を家臣へと召し上げます。息子はこの短刀を山内一豊に献上。それを「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)が所望し、細川幽斎によってこの号が付けられました。
小夜左文字を作刀したのは、「左安吉」(さのやすよし:左文字/源慶/左衛門三郎/大左)。左安吉は、南北朝時代の筑前国(現在の福岡県)の刀工です。相州伝(そうしゅうでん)を正宗に学び、「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりに選ばれた人物。本刀は、地鉄は板目肌に杢(もく)交じりで沸(にえ)がよく付いています。刃文は焼き幅(やきはば)が広く、浅く湾れ(のたれ)て互の目(ぐのめ)も混じり、匂(におい)深く沸もよく付き、砂流し(すながし)金筋(きんすじ)が入った逸品です。

短刀 銘 左 筑州住(名物:小夜左文字)
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
---|---|---|---|
左 筑州住 | 鎌倉時代 | 重要文化財 | 株式会社 ブレストシーブ |
病気を治癒した逸話がある日本刀
疱瘡正宗
「疱瘡正宗」(ほうそうまさむね)の「疱瘡」とは、天然痘ウィルスによる感染症のことです。日本では、平安時代から多くの人が苦しみ、不治の病と言われ世界的に流行した伝染病。体中に物々しい発疹ができ、致死率がとても高かったのが特徴ですが、1976年(昭和51年)に根絶に成功しました。
江戸時代、この疱瘡に威力を発揮した逸話があるのが、疱瘡正宗です。江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は、嫡男で9代将軍の「徳川家重」(とくがわいえしげ)にこの刀を贈ったところ疱瘡が全快。また、10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)、11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)、13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)も疱瘡となりますが全快し、祝いにこの刀を贈られています。まさに疱瘡を治す力を持った名刀であることから、疱瘡正宗と呼ばれるようになりました。
この刀を作刀したのは、正宗です。正宗は、相模国(現在の神奈川県)で相州伝を確立した名工。本刀は、大磨上げ(おおすりあげ)で、地鉄は板目肌。刃文は湾れ調に乱れ、沸、金筋、稲妻が入る秀作です。

太刀 無銘 正宗(号:疱瘡正宗)
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 鎌倉時代 | 重要文化財 | 徳川将軍家 → 佐野美術館 |
幸運を呼ぶ逸話がある日本刀
五虎退

五虎退の伝説
「五虎退」(ごこたい)とは、上杉家に伝来する1振です。室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)は、1401年(応永8年)より、明(みん:現在の中国)に遣明使を派遣。その際、遣明使達が猛獣の虎5匹に襲われそうになるという事件が起きました。
そこで遣明使のひとりがこの短刀を虎に向けたところ、驚いたことにすべての虎が逃げていき、遣明使達は全員無事だったのです。この話を聞いた足利義満はたいへん喜び、「5匹の虎が退いたからこの短刀を五虎退と名付けよう」と言われたことが伝わっています。
五虎退を作刀したのは、「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)。通称は「藤四郎」(とうしろう)です。鎌倉時代中期に活躍した山城国(現在の京都府)の刀工で、短刀の名手と言われました。
本刀の地鉄は小板目肌が流れて地沸(じにえ)が厚く付いています。刃文は中直刃(ちゅうすぐは)に浅い湾れが交じり、表裏に護摩箸の彫りがあって秀逸です。
物吉貞宗

徳川家康
「物吉貞宗」(ものよしさだむね)は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」の愛刀です。
元々は「豊臣秀吉」の蔵刀でしたが、亡くなったあとに嫡男「豊臣秀頼」に継承され、1601年(慶長6年)に豊臣秀頼から徳川家康に贈られました。
「物吉」とは、運が良い、縁起が良いという意味。徳川家康がこの短刀を帯びて参戦すると、必ず勝利したことから名付けられたと伝えられています。
この刀を作刀したのは、「貞宗」(さだむね)です。貞宗は、鎌倉時代中期に活躍した相模国(現在の神奈川県)の刀工で、相州伝を確立した正宗の弟子で養子。正宗と並ぶほど凄腕の名匠と言われた人物です。
本刀は、地鉄は小板目肌がよく詰んでいます。刃文は湾れに小乱れ小互の目交じり、小沸も良く付き、砂流しや金筋も入る、見事な名刀です。