日本刀の名工・名匠

安土桃山時代・江戸時代の名工

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安土桃山時代は「織田信長」や「豊臣秀吉」らが活躍し、その膝元で文化などが発展した時代でした。新たな時代のなかで生まれたのが慶長新刀の刀工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)や「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ:梅忠明寿とも)などです。そして江戸時代となる頃には「徳川家康」による江戸幕府のもと平和な時代が築かれます。安定した幕藩体制から、激動の幕末の間に「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)や「水心子正秀」(すいしんしまさひで)など「新刀」、「新々刀」などを経て多くの刀剣が生まれました。ここでは、安土桃山時代・江戸時代に活躍した名工とその歴史、そして刀剣ワールド所蔵の刀剣についてご紹介します。

安土桃山時代とは

安土桃山時代の特徴と刀

織田信長

織田信長

安土桃山時代とは、1573年(天正元年)から1600年(慶長5年)までの約30年間のことです。安土桃山時代は、畿内統一を成し遂げた織田信長が築城した「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市)と、織田信長の遺志を継いで全国統一を果たした豊臣秀吉が築城した「大阪城」(別名を桃山城:大阪市中央区)にちなみ、この時代を「安土桃山時代」と言います。

この時代は主力の戦闘武器が「弓矢」から「鉄砲」に変遷した時代でした。1543年(天文12年)に種子島に鉄砲が伝来すると、その製造技術や射撃法が伝わり、刀鍛冶は日本刀を鍛錬する技術を応用し、銃身の製造をするようになります。

1575年(天正3年)に、織田信長は「長篠の戦い」で国産の鉄砲「火縄銃」を使用し、当時、最強と言われた武田騎馬隊に勝利したのです。豊臣秀吉が台頭してからは、大阪城築城に合わせて街区を整理したことで、大阪は商都として発展。

五箇伝の分布

五箇伝の分布

すでに織田信長の時代に交通の便が発達していたこともあり、大阪には商人に加え各地の刀工達も城下へと集まって来ました。

人の移動や流通の変化によって、刀の原料である鉄や玉鋼が均質化し、地域色の強かった「五箇伝」(ごかでん:大和伝奈良県]、山城伝京都府]、備前伝岡山県]、相州伝神奈川県]、美濃伝岐阜県]を中心とした5つの地域)などの鍛刀方法は薄れていきます。

さらに南蛮鉄などの輸入が盛んになり、材質が変われば鍛刀方法も変わってくるもの。こうした時代の変化により、刀剣は刀工自身の個性が目立つようになります。

新刀弁疑

新刀弁疑

刀剣史としては、1596年(慶長元年)以後の物を「新刀」、以前の物を「古刀」と言い、この時代がその境目となるのです。なかでも慶長年間(1596~1601年)に作刀された物を「慶長新刀」と言い、その代表格が「堀川国広」。

新刀と言う表現は、江戸時代の刀剣研究家「鎌田魚妙」(かまたなたえ)が著した「新刀弁疑」(しんとうべんぎ)の中で「慶長以来」と時期を明示したことで新刀と呼ぶことが広まったと言われています。

安土桃山時代前期の名工

堀川国広

「堀川国広」は、新刀期を代表する刀工であり、「新刀の祖」とも称される名工。堀川国広は、日向国の綾地方(現在の宮崎県東諸県郡)に生まれ、一族は日向国飫肥領主の伊東家に仕えていました。

伊東氏の没落後、堀川国広は山伏に転身し作刀しながら諸国を放浪。このとき打たれたのが1584年(天正12年)の銘切りがされた名刀「山伏国広」(やまぶしくにひろ)です。さらに下野国(現在の栃木県)では「長尾顕長」(ながおあきなが)が所持した「本作長義」(ほんさくちょうぎ:長銘のため本作長義[以下、58字略]とも書く)の写し「山姥切国広」(やまんばぎりくにひろ)を作刀。晩年になってからは京都の一条堀川に居を構え、鍛刀制作に打ち込みながら後進を育てたと伝わります。

埋忠明寿

埋忠明寿」は、山城国(現在の京都府)生まれの刀工です。平安時代の伝説的な刀工「三条宗近」の末裔だとして自ら「第25代」と称していました。

また一族の本業は刀装などを作る金工家だと言われ、室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)に仕えていました。次いで豊臣秀吉に召し抱えられ、京都室町に邸宅を構えます。作刀例はあまり多くありませんが刀工としての技術に加えて、刀身彫刻や古刀の磨上げなどを得意としました。

伊賀守金道

「伊賀守金道」(いがのかみきんみち)は、関(現在の岐阜県関市)の鍛冶「兼道」(かねみち)の長男として生まれた刀工です。1593年(文禄2年)に伊賀守金道は、父兼道と2人の兄弟と京都へ向かい、「三品派」と言う刀工一派を興しました。

さらに翌年の1594年(文禄3年)に伊賀守金道は、「伊賀守」を受領。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」の折には、東軍側に付き「徳川家康」の命で1,000振の陣太刀(儀礼用の太刀)を納めた功績を認められ「日本鍛冶之宗匠」の永代称号を授かります。こうして三品派宗家は、伊賀守金道のもとで大いに発展し、幕末まで続く一門となるのです。

江戸時代とは

江戸時代前期の特徴と刀

徳川家康

徳川家康

江戸時代前期とは、1603年(慶長8年)から1691年(元禄4年)の88年間のことです。関ヶ原の戦い以降、勝者である徳川家康による政権は開始していましたが、1603年(慶長8年)に徳川家康が朝廷より「征夷大将軍」に任命され正式に江戸幕府を開きました。

徳川家康は、江戸幕府が世襲制であることを示すため、1605年(慶長10年)に嫡男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に将軍職を譲ります。すでに実権は徳川幕府が握っていましたが、豊臣秀吉の遺児「豊臣秀頼」(とよとみひでより)はいまだ徳川幕府に従わない状態でした。

徳川家康は、それを1614年(慶長19年)と1615年(慶長20年/元和元年)の2度に亘る「大阪の役」(大阪冬の陣大阪夏の陣)で滅ぼし、江戸幕府を盤石なものとします。徳川家康は、無事に勝利を見届けると翌年の1616年(元和2年)に永眠しました。

その後も江戸幕府は、大名達へ向け「一国一城令」や「武家諸法度」を制定。さらに1年おきに江戸と国元を行き来する「参勤交代」を義務付けました。将軍と諸大名との主従関係を明確にすることで、江戸幕府は中央集権的な幕藩体制を確立したのです。

そして刀剣のあり方も大きく変化しました。江戸時代前期は1637年(寛永14年)に起きた「島原の乱」を境に、大きな戦はなくなり武士からの刀剣発注が激減。しかしその一方で、町人や農民達の間で刀剣需要が高まっていました。

帯刀は武士の特権でしたが、それはいわゆる打刀脇差の「大小二本差し」のことであり、町人や農民も届出をすれば脇差の帯刀は許可されていたのです。特に裕福な豪商や豪農からは、派手な見栄えをした刀の注文が多かったと言います。

刀剣の時代区分は、安土桃山時代末期の1596年(慶長元年)以降から江戸時代中期の1781年(安永10年)までに作刀された物が新刀。そのなかでも、江戸を拠点とした刀工の作品を「江戸新刀」、大阪を拠点とした場合は「大坂新刀」と呼びました。

江戸時代前期の名工

江戸新刀

越前康継

越前康継」(えちぜんやすつぐ)は、新刀期の江戸を代表とする刀工です。戦国時代末期から江戸時代末期にかけて作刀し、代々「康継」を称します。その初代は近江国(現在の滋賀県)に誕生後、越前国福井(現在の福井県福井市)に移住。

越前国を治めていた「結城秀康」(ゆうきひでやす:徳川家康の次男)に見出されます。のちに結城秀康を通じて、徳川家康・徳川秀忠親子にも技を認められました。

さらに徳川家康のお眼鏡にかない、茎の銘に「葵紋」を許可され、「康」の一字を拝領。「御紋康継」とも呼ばれるようになります。

長曽根虎徹

長曽祢虎徹」は、新刀期では第一の刀工とも称される名工です。もとは越前国(現在の福井県)の甲冑師であり、50歳前後のころ江戸に出府して刀鍛冶として身を立てるようになりました。

甲冑師としての作例を含め前半生については不明な点も多いのですが、作刀例は多く残ります。しかも頻繁に銘を変えていたため、現存している刀の作刀時期を正確に追うことができる刀工でもあるのです。また非常に切れ味が鋭く、後世「最上大業物」に認定されています。

大坂新刀

井上真改

井上真改」(いのうえしんかい)は、堀川国広の高弟のひとり「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)の子です。摂津国(現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)で活動した刀匠。1653年(承応2年)に家督を継ぎ、翌年に藩主より「和泉守」を受領し、以後も作刀に勤しみました。

大坂新刀の世界では、類まれなる技量を持ち同時代の刀工「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ:2代目・助広)と双璧を為し、「大坂正宗」とも称されるようになります。1661年(寛文元年)に朝廷より「十六葉菊花紋」を銘に入れることが許されました。

津田越前守助広

津田越前守助広は、父である初代「助広」のもとで修業して、刀工としての腕を磨きました。1658年(万治元年)に23歳で「越前守」を受領し独立、大坂城代「青山宗俊」のお抱え工となります。

津田越前守助広は、同じ大坂新刀の刀工・井上真改とその人気を二分し、合作刀を作るなど互いの良いところを表現し合っているのです。また、波が打ち寄せては返すような華やかな刃文「濤瀾刃」(とうらんば)を生み出したのも津田越前守助広。当時の刀剣界を驚かせ、津田越前守助広は刃文の名手として一世を風靡しました。

江戸時代中期の特徴と刀

井原西鶴

井原西鶴

江戸時代中期とは、1692年(元禄5年)から1779年(安永8年)の87年間のことです。

17世紀後半から18世紀のはじめ頃、幕藩体制が安定し、経済が発達してくることで生活にも余裕が生まれ、武士、町人をはじめ文学や美術が栄えます。

上方(江戸時代の畿内の名称)で町人文化を発展させた代表が、浮世草子(小説)を書いた「井原西鶴」(いはらさいかく)、俳諧を確立した「松尾芭蕉」(まつおばしょう)、歌舞伎や人形浄瑠璃の脚本を書いた「近松門左衛門」(ちかまつもんざえもん)など。

また美術の世界では、「尾形光琳」(おがたこうりん)が写実的な技法による「琳派」を興し、京都を中心とした上層町人の間で人気を博します。そして庶民の間で最も人気があったのが「浮世絵」です。

特に美人画・役者絵を主題とした「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)の版画が、安値で入手できることから人々の注目を集めました。こうして隆盛を極めた文化を「元禄文化」と言います。町人文化が花開く一方で、刀剣の世界は低調を極めた時代。江戸時代中期頃は、日本は戦のない泰平の世を迎えていました。

そうなれば日本刀が実戦で使用される機会はほぼなくなり、武士の大小二本差しは単なる装飾品となっていきます。日本刀の姿も、次第に身幅の細い物が増えていきますが、これはしっかりとした重い刀身だと日常生活に差支えるからです。

徳川吉宗

徳川吉宗

このように武士は体裁を整えるための差料(さしりょう:自身が差す日本刀)だけで事足りてしまうので、刀鍛冶の仕事もめっきり減っていました。

そんなとき、刀剣界の衰退を憂いたのが8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)です。徳川吉宗は、各地の大名に命じて領内にいる優れた刀工を報告させ、そのなかから4名を選出。1719年(享保4年)3月に、その4名を「御浜御殿」(現在の[浜離宮恩賜庭園]:東京都中央区)に招き作刀の技を競わせることで、日本刀再興を図りました。

同年11月には、刀剣鑑定家・本阿弥家に諸大名らの所有する古刀を収録させた名刀帳「享保名物帳」の提出を指示。徳川吉宗の目的は、低迷していた刀剣界の活性化だったと言います。

江戸時代中期の名工

陸奥守吉行

陸奥守吉行」(むつのかみよしゆき)は、現在の福島県相馬市中村が生国と伝わる刀工です。父・兄と共に摂津国の初代「大和守吉道」(やまとのかみよしみち)に入門し、作刀技術を学びました。時期は分かっていませんが、そのあと陸奥守吉行は土佐藩・山岡家の養子となり鍛冶奉行に任じられ、「陸奥守」を受領したと伝わります。

陸奥守吉行は、拳のようにぼこぼこした形の刃文「拳形丁字」(こぶしがたちょうじ)を入れる特徴的な刃文が有名です。土佐藩士の多くが陸奥守吉行の刀を愛用していましたが、なかでも「坂本龍馬」の愛刀であったことで広く知られるようになったと言います。

陸奥守吉行
様々な「名刀」と謳われる刀剣を検索できます。

6代・加州清光

6代「加州清光」(かしゅうきよみつ)は、加賀国(現在の石川県)で室町時代から続く刀工一派の一族です。その6代目となる本刀工は、歴代の加州清光でも名工として名高い人物。通称「非人清光」とも呼ばれますが、それは1669年(寛文9年)の大洪水で家を失った者達の救済のため、加賀藩藩主「前田綱紀」が設置した「非人小屋」に居住していたことに由来します。

6代・加州清光の作刀は、新選組隊士「沖田総司」(おきたそうじ)も所持していました。1864年(元治元年)6月5日の「池田屋」(のちの池田屋事件)への討ち入りの際も腰に帯びていたとされ、激闘の末、帽子が折れてしまったことを新選組局長「近藤勇」(こんどういさみ)が郷里への手紙に書き残しています。

加州清光
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大和守安定

大和守安定」(やまとのかみやすさだ)は、紀伊国(現在の和歌山県)で活動していた刀工一派「石堂派」の流れを汲む刀工です。

江戸に出た大和守安定は、幕府の「御用鍛冶」を務める2代・康継の門下となり、作刀の修行をしたと言います。大和守安定は、鋼に粘りを出すための「焼き戻し」の技術に優れており、切れ味の良さに定評がありました。

江戸幕府の「御様御用」(おためしごよう:試し切り役)にもたびたび献上をし、その結果を記した刀の銘には「五ツ胴落」と5体分の胴を切断したとあるのです。こうした切れ味の良さから、大和守安定は江戸時代に出版された刀剣格付書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において、「良業物」と評されています。

江戸時代後期の特徴と刀

江戸時代後期は、1780年(安永9年)から1867年(慶応3年)の87年間のことです。この1867年は、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が「明治天皇」へ政権を返上した「大政奉還」が行われた年でもあります。

これにより264年続いた江戸幕府は終焉を迎えました。安永年間(1772~1781年)以降から、大政奉還が行われるまでの期間は「幕末」と呼ばれ、日本は非常に不安定な時代が続きます。1782年(天明2年)から発生した「天明の大飢饉」、1783年(天明3年)の浅間山噴火といった災害が連続。

その影響で江戸幕府の老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)の政治が行き詰まり、1786年(天明6年)に失脚します。浅間山噴火の灰や天候不順で作物は育たず、国内は深刻な食糧不足に見舞われました。

天明の打ちこわし

天明の打ちこわし

1787年(天明7年)に江戸や大坂で起きた、米屋が襲撃される「天明の打ちこわし」など、各地の一揆へとつながったのです。こうした不安定な情勢のなか、治安維持と強化のために脚光を浴びたのが、日本刀でした。泰平の時代には単なる飾りとなっていた日本刀が、本来の武器として再び注目されたのです。

江戸時代後期は、「水心子正秀」、「源清麿」(みなもとのきよまろ)、「大慶直胤」(たいけいなおたね)などに代表される優れた刀工が出現し、「新々刀」の時代がはじまります。1781年(安永10年/天明元年)以降から1876年(明治9年)の「廃刀令」までに作刀された日本刀を新々刀と呼ぶのです。

そして、伝統的な鍛刀方法である五箇伝をすべて習得した上で、注文者の要望に応じて作り分けることのできる刀工が出現するのも新々刀の特徴。かつての五箇伝は、作刀環境が変化したことでほとんど消滅していましたが、新刀以降の刀工達の努力により、古刀の技法を再現できるようになりました。

江戸時代後期の名工

水心子正秀

水心子正秀は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の米沢藩出身で、幼い頃から刀工になるべく修練を積んでいたと言います。

しかし国元では学び足りず、藩の伝手を頼って1771年(明和8年)に武蔵国八王子の「宮川吉英」門下に入り、1774年(安永3年)に山形藩主「秋元永朝」(あきもとつねとも)に召し抱えられます。ある時期より江戸に拠点を移し、津田越前守助広や井上真改など大坂物の写しを作りました。

水心子正秀は、この大阪物の写しで卓越した能力を発揮し刀工として名を馳せるようになります。やがて国内における幕末の気運が高まってくると、太平の時代に生まれた日本刀ではなく、実用刀剣だった古刀に目を向けるようになっていきました。

こうして水心子正秀は、古刀の姿、刃文地鉄などを再現し、それでいて新刀・新々刀の技術を加えた復古刀を確立しました。

源清麿

源清麿は、復古刀を興した水心子正秀よりやや遅れて登場した、新々刀を代表する刀工のひとり。1813年(文化10年)に信濃国小諸藩に生まれ、16歳になると刀工としてすでに独り立ちしていた兄に作刀を学びます。

そのあと、江戸に出て剣術家で幕臣の「窪田清音」(くぼたすがね)に師事し、刀工としての腕を認められました。窪田清音は源清麿のため邸内に鍛刀環境を整え、さらに経済的な援助までしてくれたのです。

恩人である窪田清音に贈ったとする「為窪田清音君」と表銘のある作品が残ります。源清麿の魅力のひとつは、地鉄の美しさです。源清麿に影響を与えた兄や師・窪田清音は古刀の名作を模範とするよう指導したと言います。

源清麿自身も古刀の潤いのある地鉄を好み、その上、自在に表現できる天才でした。当時の源清麿愛好者達は「相州正宗」に並ぶ才能として、源清麿が最後に居住した江戸「四谷」(現在の東京都新宿区)にちなんで「四谷正宗」と称えました。

大慶直胤

大慶直胤は、師・水心子正秀流の復古刀を継承した優れた弟子のひとりです。大慶直胤は、水心子正秀と同郷の出羽国出身。江戸で水心子正秀に入門し作刀の技を身に付けると、1812年(文化9年)に山形藩のお抱え工として召し抱えられます。

また大慶直胤は、地域による作刀の違いを身に付けるため、全国を行脚したことでも知られる人物です。各地の古い鍛刀方法を学び、努力と精進を重ねた結果、大慶直胤は五箇伝すべての技をこなすことができるようになりました。

なかでも備前風・相州風の作刀は、新々刀期では最高の腕前と評されます。師・水心子正秀亡きあとも、復古刀の繁栄に尽力。そんな大慶直胤は、水心子正秀と源清麿の3人合わせて新々刀の「江戸三作」にも挙げられる名工です。

刀剣ワールドで観ることができる安土桃山時代・江戸時代の名刀

掲載した安土桃山時代の刀工・埋忠江戸時代の刀工達はどのような日本刀を作る刀工だったのでしょうか。こちらでは、刀剣ワールドが所蔵している刀をご紹介します。

安土桃山時代の日本刀

堀川国広
刀 銘 洛陽一条堀川住藤原国広
刀 銘 洛陽一条堀川住藤原国広
洛陽一条堀川住藤原国広慶長辛亥八月日
時代
江戸時代
鑑定区分
特別重要刀剣
所蔵・伝来
伊木長門守忠澄→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
埋忠明寿
短刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿慶長拾三年三月吉日 所持熊谷清六
短刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿慶長拾三年三月吉日 所持熊谷清六
山城国西陣住人埋忠明寿 慶長拾三年三月吉日 所持熊谷清六
時代
江戸時代
鑑定区分
重要美術品
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

江戸時代前期の日本刀

越前康継
刀  銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
刀 銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
於武州
江戸越前康継
以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
鑑定区分
重要美術品
刃長
72.6
所蔵・伝来
本多家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
長曽祢虎徹
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
長曽祢興里入道乕徹
時代
江戸時代
鑑定区分
重要刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
津田越前守助広 井上真改
刀 銘 津田越前守助広 井上真改
刀 銘 津田越前守助広 井上真改
津田越前守助広 井上真改
時代
江戸時代
鑑定区分
特別重要刀剣
所蔵・伝来
大坂城代青山家→
鎌田魚妙→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

江戸時代中期の日本刀

大和守安定
刀 銘 於武刕(州)江府大和守安定作
刀 銘 於武刕(州)江府大和守安定作
於武刕(州)江府大和守安定作
時代
江戸時代
鑑定区分
特別保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

江戸時代後期の日本刀

水心子正秀
刀 銘 水心子正秀 天明五年二月日彫同作
刀 銘 水心子正秀 天明五年二月日彫同作
水心子正秀 天明五年二月日彫同作
鑑定区分
江戸時代
鑑定区分
特別保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
源清麿
脇差 銘 源清麿 弘化三年八月日
脇差 銘 源清麿 弘化三年八月日
源清麿 弘化三年八月日
時代
江戸時代
鑑定区分
重要刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
大慶直胤
脇差 銘 直胤(花押)天保六年八月
脇差 銘 直胤(花押)天保六年八月
直胤(花押)天保六年八月
時代
江戸時代
鑑定区分
保存刀剣
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕