渋沢栄一

渋沢栄一の偉業

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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、「日本資本主義の父」や「実業界の父」と称される実業家です。日本初の銀行を設立しただけではなく、現代も世界で認められる日本企業の設立にも数多く携わったことで知られています。また、その偉業が称えられて、2024年度(令和6年度)に発行が開始される、日本の新10,000円札紙幣の顔にも選ばれました。渋沢栄一の生涯とともに、渋沢栄一の子孫達の活躍や渋沢栄一とかかわった江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」との関係、同じく新紙幣の顔に起用された「津田梅子」、「北里柴三郎」についてご紹介します。

少年時代の渋沢栄一

優れた父の背を見て育った少年時代

渋沢栄一

渋沢栄一

1840年(天保11年)、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわごおりちあらいじまむら:現在の埼玉県深谷市)で農業や製藍業、養蚕業で生計を立てていた「渋沢市郎右衛門」(しぶさわいちろうえもん)の長男として誕生しました。父・渋沢市郎右衛門は、婿養子として渋沢家へ来た人物ですが、真面目で勤勉な性格をしていたと言われています。

勤勉家であった父の影響を受けて、渋沢栄一は6歳の頃から漢籍(中国の書物)の素読を始めるようになりました。渋沢栄一は、この頃から読書が好きだったと言われており、僅かな期間で中国の歴史書や思想書を多く読破していったと言います。

7歳になると、隣村で私塾を開いていた従兄「尾高惇忠」(おだかあつただ/おだかじゅんちゅう)のもとへ通い、中国古典以外に「国史略」(こくしりゃく:江戸時代後期の歴史書)や「日本外史」(にほんがいし:武家の歴史書)などを学習。のちに様々な企業の設立に携わる渋沢栄一の感性は、こうして磨かれていったのです。

はじめての買い付けでの出来事

渋沢栄一が14歳になったときのこと。渋沢栄一は父の不在に伴って、家業のひとつであった製藍業(着物などの染料に使われる藍の葉を育てて販売する仕事)で使用する「藍の葉」の買い付けを任されることになりました。

しかし、当時の渋沢栄一はまだ幼さの残るただの少年です。ひとりで買い付けに来た渋沢栄一を見て、農家の人びとははじめ、誰も相手にしませんでした。

しかし、渋沢栄一は誰からの助言もなく、大量にあった藍の葉のなかから、良質な藍の葉を選別したのです。じつは、渋沢栄一は以前から父に付いて仕入れの様子を見ていました。直接父から目利きの仕方を教わったわけではありませんでしたが、父の姿を見て自然と目利きできるようになっていたのです。

理不尽な身分制度に憤りを覚える

1853年(嘉永6年)、「マシュー・ペリー」の艦隊が来航(ペリー来航)するなど、諸外国の圧力が日本に押し寄せつつあった頃。17歳になった渋沢栄一は、当時あった身分制度に疑問を抱く出来事に遭遇します。

体調を崩した父に代わって、渋沢栄一が代官に呼び出されたときのこと。渋沢栄一は、御用金(ごようきん:幕府や藩が財政難を補うため、臨時に商人などに課した借用金)として「金500両を申し付ける」と代官から要求されました。当時は、代官の命令に背くなど許されない時代。しかし、渋沢栄一は返答を渋り、「帰って父に相談してから返答します」と代官へ告げました。言葉にこそ出しませんが、渋沢栄一は「真面目に働き、年貢もしっかりと納めているのに、さらに巨額の出金を何の説明もなしにしなければならないとは」と怒りを感じていたのです。

この件は後日、父が500両を出すことで決着。そして、渋沢栄一はこの一件で「働きもしない役人に、一生懸命働いて得たお金を取り上げられるなんて理不尽が過ぎる。こんなことが横行する世の中は変えていかないといけない」と決意したと言います。

青年時代の渋沢栄一

尊王攘夷思想に傾倒する

1858年(安政5年)、江戸幕府と米国の間で「日米修好通商条約」が締結。これによって5つの港が開港され、自由貿易が開始することに。一方で、江戸幕府に対して不信感を募らせる人々も現れはじめていました。そうした人びとのなかには「尊王攘夷」(天皇を敬い、外国人を日本から追い払う思想)を抱き、幕府転覆を企む人の存在もあったのです。

こうした時世のなかで、渋沢栄一は江戸へと向かっていました。江戸では、儒学者「海保漁村」(かいほぎょそん)から儒学を学び、また剣士として名高い「千葉栄次郎」(ちばえいじろう)の道場へ入門して剣術を習いながら、約2ヵ月間過ごします。

1863年(文久3年)、尊王攘夷運動が過熱化するなかで、渋沢栄一は海保漁村の私塾と千葉栄次郎の道場で出会った同志達と共に、世の風潮を語り合いました。こうして渋沢栄一は、次第に尊王攘夷の思想に深く傾倒していったのです。

帰郷後、学問の師である従兄・尾高惇忠や幼馴染の従兄「渋沢喜作」(しぶさわきさく)とも尊王攘夷について議論し合いました。そのなかで渋沢栄一は、農民としての人生を捨てて、国のために行動を起こすことを決意します。

一橋慶喜(徳川慶喜)に仕える

1863年(文久3年)8月、渋沢栄一は従兄達と仲間を集め、外国人が多く暮らしている横浜港へ火を放つという、焼き討ちを計画。しかし、この計画は尾高淳忠の弟「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)の反対によって断念することになります。

計画を中止した翌月、渋沢栄一は嫌疑をかけられたことで家族に迷惑を及ぼすことを恐れて、従兄の渋沢喜作と共に江戸へ向かいました。そして、かつて親交を深めた「徳川御三卿」のひとつ「一橋家」(ひとつばしけ)の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)を頼って京都へと渡り、2人は追手を警戒しながら、身を隠す日々を送ることになります。

逃亡生活で疲弊する渋沢栄一を見かねて、平岡円四郎は渋沢栄一を「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜)に仕官できるよう推挙すると提案をしました。
その提案を受け入れた渋沢栄一は一橋家に仕官し、真面目に働きます。

1865年(元治2年/慶応元年)、その働きぶりが評価され、一橋領を巡回する歩兵集めの役を任じられました。以後、渋沢栄一は持ち前の社交性と家業で鍛えた審美眼を活かし、様々な役割を兼任して上司からの信頼を得たことで、一橋家の財政を管理する「勘定組頭」(かんじょうくみがしら)に就任。領内の産業振興に尽力し、一橋家の財政再建の一翼を担うのです。

幕臣時代の渋沢栄一

主君が将軍になる

1866年(慶応2年)7月、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の死去に伴い、一橋慶喜が徳川将軍家の跡を継ぎ、15代将軍「徳川慶喜」として就任。渋沢栄一は、主君の将軍即位と共に、徳川家の家臣として人生を歩み始めます。

徳川慶喜が将軍に就任して1ヵ月後、渋沢栄一は徳川慶喜とともに長州へと従軍。このとき、渋沢栄一は江戸幕府の役職である「陸軍奉行支配調役」(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)に任命され、幕臣(御家人や旗本といった将軍直属の家臣)へ転じます。

渋沢栄一がヨーロッパで見た光景

幕臣となった直後、渋沢栄一はパリ万国博覧会の幕府使節に選ばれ、将軍・徳川慶喜の弟である「徳川昭武」(とくがわあきたけ)に随行し、フランスへ渡航することになりました。そして、外国人排除を望む攘夷派だった渋沢栄一は、このヨーロッパ留学で新たな思想を抱くようになるのです。

渋沢栄一は、ヨーロッパの各地で整備された水道設備や蒸気機関車、エレベーターなど、先進的な科学技術を目の当たりにします。いずれの技術も日本とは比べ物にならないほどに素晴らしいものでした。渋沢栄一は、ヨーロッパの優れた科学技術を日本へ採り入れれば、今よりももっと暮らしやすくなるはずだと考えます。

また、これだけではなく、多くの人々から集めた資金で事業を行い、利益を分け合う「資本主義」という経済体制に大きな影響を受けました。のちに数多くの企業の設立にかかわる渋沢栄一の思想は、このときに根付いていったのです。

渋沢栄一に資本主義経済の仕組みを教えたのは、銀行家の「ポール・フリュリ=エラール」でした。渋沢栄一は、ポール・フリュリ=エラールと共に銀行や証券会社などへ赴き、実務を見学することで銀行の仕組みや株式を学びます。

そして、渋沢栄一はポール・フリュリ=エラールが、徳川昭武に随行していたフランス陸軍大佐の「レオポルド・ヴィレット」と対等な関係で交際していることに気が付きました。これは、身分制度に縛られた日本では考えられない光景です。

渋沢栄一は、後年になってから当時を振り返り、「身分制の打破と実業の地位向上の必要を痛感した瞬間だった」と述べています。

幕臣としてヨーロッパへ随行

1868年(慶応4年/明治元年)1月、渋沢栄一がフランス留学を開始して1年が経ったときのこと。渋沢栄一達は、フランスの新聞記事を見て愕然としました。そこには、「将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府が瓦解[がかい:ある小さな破れ目や乱れが広がって、組織全体が破壊されること]した」と書かれていたのです。

徳川昭武や使節一行ははじめ、その記事を信じることができませんでした。一方で、渋沢栄一は幕臣になる以前の京都滞在時に、倒幕を目論んでいた長州藩(現在の山口県)や薩摩藩(現在の鹿児島県)が、強大な勢力となっていることを知っていたため、祖国の政変に驚きつつ、誰よりも冷静に事態を受け止めたと言います。

1868年(慶応4年/明治元年)3月、朝廷から帰国を命じられた使節一行は、渋沢栄一と徳川昭武を残して帰国。このとき、渋沢栄一は「自分達が急いで帰国しても、日本の状況は変わらない」と冷静に判断し、徳川昭武とともにフランスでの視察を続けました。

新たな事業と大蔵省での働き

現在の宝台院

現在の宝台院

渋沢栄一が帰国したのは、帰国を命じられてから半年後の1868年(慶応4年/明治元年)11月3日。渋沢栄一は、明治新政府の設立に伴い、「宝台院」(ほうだいいん:静岡県静岡市葵区)で謹慎していた旧主・徳川慶喜のもとへ向かいます。そして、徳川慶喜に留学の報告を済ませ、フランスで学んだことを活かすために動き始めました。

1869年(明治2年)、静岡藩の資金と地元豪商から募った出資により、宝台院近くに「商法会所」(しょうほうかいしょ)を設立。そうして、渋沢栄一は農家に資金を貸し出す金融業と、米や肥料などの売買をする商社をかね備えた新しい事業を始めます。

その後、渋沢栄一は新政府で実権を握っていた「大隈重信」(おおくましげのぶ)より、大蔵省(現在の財務省)へ入省し、租税や土地制度などを確立するために、長さや体積、重さを示す「度量衡」(どりょうこう)の単位基準を定めたり、郵便制度の土台となる事業を立案したりするなど、新しい日本の基盤づくりに取り組んでいきました。

多くの案件にかかわりながら、「大蔵大丞」(おおくらたいじょう:大蔵省における実務のトップ)に昇進しますが、渋沢栄一は仕事に励む一方で、民間事業を発展させる機会を窺っていたと言います。

1873年(明治6年)5月、予算を取り仕切る大蔵省と、経費増額を要求する各省の間で対立が発生。この結果、大蔵大輔(おおくらたゆう/おおくらたいふ:大蔵省の次官)「井上馨」(いのうえかおる)が辞表を提出したため、これをきっかけに渋沢栄一も大蔵省を退官します。渋沢栄一はその後、民間事業を通して商業の発展に携わっていくのです。

渋沢栄一と徳川慶喜

お互いに認め合う仲だった

渋沢栄一と徳川慶喜がはじめて出会った当時、渋沢栄一は24歳、徳川慶喜(当時は一橋慶喜)は28歳でした。一橋家に仕えていた平岡円四郎の計らいによって、渋沢栄一は徳川慶喜と対面することが実現。このとき、幕府を立て直す必要性について訴える渋沢栄一に対し、徳川慶喜は賛成も反対も述べず、相槌を打ちながら耳を傾けたと言われています。

徳川慶喜に仕え始めた頃の渋沢栄一の役職は、最下級の「奥口番」(おくくちばん)。しかし、低い身分でありながらも渋沢栄一は財政難に陥っている一橋家を再興するため、徳川慶喜に対して財政再建策を進言するなどの活躍を見せます。

1866年(慶応2年)、徳川慶喜が15代将軍に就任したことで、渋沢栄一は幕臣となりました。なお、当時の渋沢栄一は徳川慶喜の将軍就任に猛反対していたと言われています。その理由は、徳川慶喜の性格を理解していたため。徳川慶喜は将軍ではなく、将軍を補佐する役目のほうが適任だと考えていたのです。

しかし、渋沢栄一の反対も空しく、徳川慶喜は15代将軍に、また自分自身も幕臣となり、渋沢栄一は自分の身の振り方に悩んでいたと言われています。そんなときに、徳川慶喜によってフランス渡航の随員として渋沢栄一が抜擢。徳川慶喜もまた、渋沢栄一の知見が日本をより良いものへ変えていくと見抜いていたのです。

徳川慶喜の名誉回復に奔走

1893年(明治26年)、渋沢栄一は徳川慶喜の復権を願い、私費を投じて徳川慶喜の真意や功績を伝える伝記編纂を始めました。

編纂作業は一時中断されたものの、1907年(明治40年)から本格的に再開。渋沢栄一は、徳川慶喜から直接聞き取りを行うため「昔夢会」(せきむかい)を発足。徳川慶喜は全17回にわたって行われた昔夢会に毎回出席していましたが、伝記が完成する前にこの世を去ってしまいます。

そして、徳川慶喜が亡くなった5年後の1918年(大正7年)、渋沢栄一が約25年間を費やして完成させた「徳川慶喜公伝」を刊行。これをきっかけに、徳川慶喜の功績は再評価されるようになるのです。

渋沢栄一の偉業

渋沢栄一が育てた企業の数はおよそ500社。その多くは現在も日本経済をリードする大企業へと成長しました。さらに渋沢栄一は、約600の社会公益事業に携わり、慈善活動にも貢献しています。

日本初となる銀行「第一国立銀行」の創設

第一国立銀行跡

第一国立銀行跡

1873年(明治6年)6月11日、渋沢栄一によって創設されたのが、のちの「第一勧業銀行」、現在の「みずほ銀行」の前身となった銀行「第一国立銀行」です。

じつは、渋沢栄一が大蔵大丞を勤めていた頃から、両替商として力のあった豪商「三井組」や「小野組」がそれぞれ独自で銀行設立に向け、大蔵省に働きかけていました。しかし、渋沢栄一のいる大蔵省側は、銀行業務の独占に反対していたため、銀行設立の話は一度立ち消えていたのです。

そこで、渋沢栄一は自宅に三井組、小野組の両首脳を招き、合同資本による銀行運営を勧め、一般公募でも出資者を募って、第一国立銀行を設立。大蔵省の官僚として第一国立銀行の創設を主導した渋沢栄一は、1873年(明治6年)、退官と同時に第一国立銀行の創立総会を開き、日本全体の近代化への下支えとなる民間経営の銀行を誕生させました。なお、第一国立銀行は日本最古の銀行であると共に、日本で最初の株式会社でもあります。

文明開化の象徴となったガス灯の設置

ガス灯

ガス灯

渋沢栄一は、「ガス灯」の設置にも尽力しました。当時、日本で主な照明として使用されていたのはろうそくや行灯(あんどん)の灯りです。当時のガス灯の明るさは15W相当でしたが、ろうそくや行灯と比較すればガス灯の明かりは非常に明るい物でした。ガス灯が設置された当時、多くの見物人がガス灯の周りに集まったと言います。

日本の街中に初めてガス灯が設置されたのは、1872年(明治5年)の神奈川県横浜市の外人居留地(現在の神奈川県庁から馬車道付近)。神奈川県横浜市中区相生町には現在でも、日本ではじめて設置されたガス灯が残されています。

アジア初となる地下鉄路線の建設にも携わる

渋沢栄一は、アジア初となる地下鉄の建設にも携わりました。地下鉄路線を建設したのは「東京地下鉄道株式会社」で、その創設者は「地下鉄の父」とも称される「早川徳次」(はやかわとくじ)。

早川徳次は、1911年(明治44年)に「佐野鉄道」(現在の東武鉄道佐野線:東京都墨田区)に赴任して経営再建を成功させた他、1912年(明治45年)に「高野登山鉄道」(現在の南海電気鉄道高野線:大阪府大阪市浪速区)の再建にも貢献した人物です。

1914年(大正3年)、早川徳次はヨーロッパを視察した際に、発達した地下鉄を目の当たりにして「東京にも地下鉄が必要だ」と先見の明を発揮します。しかし、鉄道省や自治体は路線建設に後ろ向きで、早川徳次の先見性に理解を示す者はいませんでした。そんな早川徳次に賛同したのが、政治家「後藤新平」や早稲田大学創立者で当時の首相「大隈重信」、そして実業界を牽引していた渋沢栄一です。

渋沢栄一もまた、かつてフランスの生活を目の当たりにし、日本の近代化を進めようと決心した過去があります。そのため、イギリスの地下鉄に感銘を受けた早川徳次の姿が、当時の自身の姿と重なって見えたのでしょう。渋沢栄一らの尽力によって、早川徳次は地下鉄道免許を取得し、事業の設立を果たします。

1920年(大正9年)8月、東京地下鉄道株式会社を設立。5年後の1925年(大正14年)に地下鉄工事が開始されました。着工から2年後の1927年(昭和2年)、現在の東京メトロ銀座線と同区間となる「浅草駅」から「上野駅」までの地下鉄が開業します。日本だけでなく、アジア初となる地下鉄路線を建設し、地下鉄を導入した早川徳次は、地下鉄の父と称えられるようになりました。

渋沢栄一が設立にかかわった企業一覧(一部)

渋沢栄一の家系図と子孫

渋沢栄一の後継者・渋沢敬三

「渋沢敬三」(しぶさわけいぞう)は、渋沢栄一の長男「渋沢篤二」の長男で、渋沢栄一の孫にあたる人物です。

本来であれば、渋沢栄一の後継者は子である渋沢篤二であるため、渋沢篤二は後継ぎとして「澁澤倉庫株式会社」の会長にも就任していました。しかし、理由は定かではありませんが、渋沢篤二は1913年(大正2年)に廃嫡(はいちゃく:法定の相続権を除くこと)されてしまいます。

その後、渋沢栄一は当時まだ18歳だった孫の渋沢敬三を跡取りに指名。渋沢敬三は、渋沢家当主として祖父の期待に応えるように、学問と仕事を両立させながら実業家の道を歩んでいきます。1926年(大正15年)には、第一銀行(現在のみずほ銀行)取締役、及び澁澤倉庫株式会社取締役を歴任することになりました。 

また、渋沢敬三は渋沢栄一の死後、「日本民族学会」や「民族学博物館」を開設した他、太平洋戦争中には「日本銀行」総裁を務め、戦後は大蔵大臣に就任。渋沢敬三は、財界人として成功を収める一方で民俗学者としても功績を残し、祖父の思いを継承して後進の育成にも励んだのです。

渋沢一族の人びと

渋沢一族は、渋沢敬三以外にも、多くの子孫が実業界で活躍しています。

渋沢栄一の二男「渋沢武之助」は、「石川島飛行機製作所」(現在の株式会社立飛ホールディングス)社長をはじめ、様々な企業の取締役や監査役を歴任し、「帝国飛行協会」(現在の日本航空協会)理事も務めています。

渋沢栄一の三男「渋沢正雄」は、第一銀行へ入社後、渋沢一族系各企業の重役を歴任。渋沢栄一の死後、1932年(昭和7年)に製鉄業以外の関係会社をすべて辞任し、「日本製鐵株式會社」(にほんせいてつかぶしきがいしゃ:現在の日本製鉄株式会社)副社長に就任しています。

渋沢栄一の四男「渋沢秀雄」は、欧米で住宅地開発を学び、渋沢栄一が起ち上げた「田園都市株式会社」(現在の東急グループの母体)の取締役に就任。他にも、絵画や俳句などを嗜む文化人でもあった渋沢秀雄は、「東京宝塚劇場」(現在の東京宝塚ビル)会長や、「東宝株式会社」取締役会長も務めています。

2024年度(令和6年度)に発行される新しい日本のお札

お札に肖像画が使われる理由

日本だけではなく、様々な国のお札には基本的に偉人や国を象徴する人物の肖像画が印刷されているのが一般的です。その理由は様々ありますが、最も大きな理由は「にせ札防止」のため。

人は、顔を認識する能力に優れていると言われています。それは、顔の骨格や表情などの僅かな変化、違いを判断することが可能であると言うこと。そのため、もしも「にせ札」を渡されたとしても、その肖像画がぼやけていたり、少しでも異なる絵柄となっていたりする場合はすぐに気が付くことができるのだとか。

なお、日本においては約20年ごとにお札が改刷されており、紙幣の顔に選ばれるには「本人の業績」の他、「肖像画が残っているか」、「知名度があるか」など、複数の条件をクリアする必要があります。さらに、その時代の社会情勢によっても顔に選ばれる人物は変わるのが特徴。例えば、2004年(平成16年)に新しく5,000円札の顔となった「樋口一葉」は、「女性の社会進出の進展」という観点から選出されました。

そして、2024年度(令和6年度)から現行紙幣が一新。10,000円札には渋沢栄一、5,000円札には「津田梅子」(つだうめこ)、1,000円札には「北里柴三郎」(きたざとしばさぶろう)が、紙幣の新しい顔としてそれぞれ採用されました。

女子高等教育に生涯を捧げた津田梅子と、近代医学の礎を築いた北里柴三郎とは、どのような人物だったのか。新紙幣の顔となった2名の人物についてご紹介します。

新5,000円札:津田梅子

新5,000円札の顔となった津田梅子は、1864年(元治元年)に旧幕臣で士族の農学者「津田仙」(つだせん)の次女として誕生。父・津田仙はオランダ語と英語に堪能であったことから、幕府では外国奉行の通訳として活躍していました。

1871年(明治4年)、津田梅子は父の影響を受けて「岩倉使節団」(明治政府が不平等条約の改正を目指して欧米視察に派遣した使節団)に随行、渡米を果たします。当時、女子留学生として渡米したのは5人、そのなかでも津田梅子は最年少の6歳でした。

アメリカへ渡った津田梅子は、日本弁務使館(のちの公使館)書記官の「チャールズ・ランマン」の家でホームステイし、11年という歳月をアメリカで過ごすことになります。

1882年(明治15年)、アメリカの初等・中等教育を受けた津田梅子は日本へ帰国。帰国後、「伊藤博文」の勧めで新設された「華族女学校」で英語教師として約3年働きますが、このとき津田梅子は、上流階級の娘達に花嫁修業的な教育を施すという校風に失望したと言います。

持ち上がった縁談もことごとく断り、津田梅子は「二度と結婚の話はしないで下さい。話を聴くだけでもうんざりします」と手紙に書くほど、日本の結婚観に否定的でした。1889年(明治22年)、津田梅子は再びアメリカへ渡り、「ブリンマー大学」で生物学を学習。

3年後の1892年(明治25年)に帰国すると、カエルの卵の発生について共同研究で出した論文がイギリスの学術雑誌に発表されるなど、元祖「リケジョ」(理系女子)として活躍しました。

津田塾大学

津田塾大学

その後、アメリカのデンバーで開催された「万国婦人連合大会」に日本代表として参加。

津田梅子は、日本における女子教育の必要性を演説し、日本の新しい女子教育の道を開くために、女子専門の私塾の開設を目指したのです。

1900年(明治33年)、アメリカ留学の経験を活かし、英語教育を通じて個性豊かな婦人を養成するという趣旨の「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を創立。

津田梅子の意志を受け継いだ津田塾大学は現在、時代を支える「新しい女性達」を輩出し、日本を代表する女子大学へと成長しました。

新1,000円札:北里柴三郎

新1,000円札の顔となった北里柴三郎は、1853年(嘉永6年)、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇小国町北里)の庄屋「北里惟保」(きたざとこれのぶ)の長男として誕生。母「貞」(てい)が豊後国森藩(現在の大分県玖珠郡玖珠町)藩士の娘であったことから、その影響を強く受け、幼少期から甘えを許されない、厳しい躾を受けたと言います。

1871年(明治4年)、北里柴三郎が18歳になった頃、北里柴三郎は「熊本医学校」(現在の熊本大学医学部)へ入学し、医学を学びはじめました。

じつはこのとき、北里柴三郎は「医者と坊主にだけはなりたくない」という気持ちがあったと言います。そのため、北里柴三郎は語学を身に付け、その後兵学を学ぶためにオランダ語の勉強に励み、結果、オランダ語に関してはずば抜けて良い成績を残しました。そして、オランダ語にだけ熱心だった北里柴三郎に関心を抱く人物が現れます。それが、オランダ人医師「コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト」でした。

熊本医学校に新たに赴任してきたマンスフェルトは、北里柴三郎に対して「ヨーロッパでは、ペスト[黒死病]という細菌が伝染する病気によって、何千万人もの人が亡くなっている。この他にも、不治の病と言われる病気は多く存在するが、細菌が原因の病気は、必ず治療することができる。だから、君はそうした前人未到の新発見をすると良い」と述べて、医学の面白さを北里柴三郎へ伝えました。その後、医学を学ぶ意義を見出した北里柴三郎は、東京やヨーロッパで医学を学びます。

ドイツ留学中は、病原微生物学研究の第一人者「ローベルト・コッホ」に師事し、1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功。さらに、その毒素に対する免疫抗体を発見したことで、それを応用して血清療法を確立。こうして北里柴三郎は、世界的な研究者として頭角を現したのです。

日本へ帰国後、北里柴三郎は「東京大学医科学研究所」の前身となる「私立伝染病研究所」を設立した他、日本最初の結核専門病院を開設し、伝染病予防と細菌学の研究に取り組みます。1894年(明治27年)、ペストが香港で蔓延した際には、これの原因調査のために現地へ赴き、ペスト菌を発見。

北里柴三郎はその後も、「北里研究所」(現在の北里大学の前身)や「慶應義塾大学医学科」を創設するなど、細菌学の分野で多大な功績を挙げただけではなく、日本の医学発展のために大いに貢献しました。