渋沢栄一の基礎知識

渋沢栄一が現代に与えた影響とは - 名古屋刀剣ワールド

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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は日本経済や資本主義の近代化に尽力した人物として、現代においても、様々な分野に数多くの影響を与えています。2024年度(令和6年度)発行の新紙幣(お札)のなかで、10,000円札の肖像に渋沢栄一が採用されたことも、その一例です。この他にも渋沢栄一と同様、社会事業に尽力した企業経営者に贈られる賞として、「渋沢栄一賞」が設立されています。渋沢栄一の活動について学べる「渋沢資料館」を始め、渋沢栄一による名言や著作などについても、詳しくご紹介します。

渋沢栄一が残した金言あれこれ

「日本近代経済の父」と称され、日本の近代化に注力しながら91歳までその人生を駆け抜けた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、次代の人々にも役立つ多くの言葉を遺しています。それらの多くが日本国内の実業家や経済界はもちろんのこと、世界中のあらゆる人々にも大きな影響を与えたと言われているのです。

尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を尊び、外敵を追い払おうとする思想)の志士や幕臣にとどまらず、明治新政府の官僚や実業家などを経験したことで得た様々な視点を活かすことで、幕末期から明治時代という激動の時代を生き抜いた渋沢栄一が、自身の経験から語った名言の数々の中から厳選して解説します。

名言の宝庫!「渋沢栄一訓言集」

1986年(昭和61年)に出版された「渋沢栄一訓言集」は、渋沢栄一の講演などで語られた内容や言葉について、タイプ別にまとめられた渋沢栄一の名言録。同書は、様々な分野で経験を積んだ渋沢栄一だからこそ説得力のある名言に溢れた1冊です。

第1編「国家と社会」:経済に国境なし

本書ではこの言葉のあとに、「いずれの方面においても、わが知恵と勉強とをもって進むことを主義とする必要がある」と書かれています。民間の経済活動は、「国と国」の間で行われる政府の外交とは異なり、「人と人」の間で自由に行うことが可能。これは、官僚と実業家の両方を経験した渋沢栄一ならではの名言です。

また、この言葉からは民間の力で国境を越え、世界を相手に経済活動が行われることを切望した渋沢栄一の思いが込められていることが窺えます。

第1編「国家と社会」:すべて世の中のことは、もうこれで満足だというときは、すなわち衰えるときである

家業を手伝う渋沢栄一

家業を手伝う渋沢栄一

渋沢栄一は仕事に精を出していただけでなく、勉強熱心だった父の姿を見て育ちました。そのため、幼時から探求心を持ち、学問にも真面目に取り組んでいたと伝えられています。

家業を手伝うようになってからも、商人としての将来を見据え、より良い方向に進むにはどうすれば良いのか、その策を常日頃から思案していました。

やがて国の発展のみならず、民衆ひとりひとりの幸せのために働くようになった渋沢栄一は、ひとつのことをやり遂げてもそれに満足せず、さらなる良策を探し続ける日々を送っていたのです。

このように渋沢栄一は、成功のために努力し続けることができた、衰え知らずの人物だったと言えます。そんな渋沢栄一だからこそ、日本経済の成長を推し進められたのです。

第4編「学問と教育」:学問は一種の経験であり、経験はまた一種の学問である

このあとに続くのは、「老人も青年も、この辺の消息の了解を要する」という一文。渋沢栄一は幕臣として、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に仕えていた頃、最新技術の視察などを行うためにフランスへ渡っています。この経験は、渋沢栄一の人生にとって大きなターニングポイントになったと言っても過言ではなく、さらに勉学に励みたいという向上心を育む絶好の機会となったのです。

このときに渋沢栄一は「経験こそ学問の母」だと理解し、帰国後もその生涯を通じて様々な経験を積んで学び続けました。子どもの頃から学ぶ姿勢を常に持ち続けていた渋沢栄一だからこそ、自身でしか得られない経験が一番の学びになると実感したのかもしれません。そして渋沢栄一は、国全体で富を共有する目的を果たすために試行錯誤した結果、「会社制度」という合本組織を設立することができたのです。

第10編「一言集」:無欲は怠慢のもとである

家族と共に家業に勤しむ青年時代を送った渋沢栄一。その頃から、どんなときでも夢を持ち、それを叶えるために行動していました。渋沢栄一が「日本経済の成長」という偉業を達成できたのは、自分の夢を一途に追求した結果の表れだと言えるのです。

「夢」を持つことは「欲」を持つことに繋がり、それが何かを成し遂げるための原動力になります。夢は人間として成長するのになくてはならないと、渋沢栄一は説いているのです。実業家として名声を得た渋沢栄一は、商人が成功するためには、「正しい欲」を持つことが鍵になると考えました。

現代社会でも学ぶことが多い「論語と算盤」

1916年(大正5年)に出版された「論語と算盤」(ろんごとそろばん)は、多種多様な会社を創立した渋沢栄一の思想が詰まった書籍です。同書は、日本企業の原点が学べる1冊として、現代の起業家や経営者からビジネスマンに至るまで、多くの人々に読み継がれています。

第1章「処世と信条」:蟹は甲羅に似せて穴を掘るという主義で、渋沢の分を守るということを心掛けている

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という言葉は、「人は身の丈に合った思想をもって行動をするべき」という考え方を蟹が自分の大きさに合わせた穴を掘る様子に例えたことわざです。

渋沢栄一は、明治新政府において大蔵大臣に推挙されたのみならず、「日本銀行」の総裁への就任も依頼されていました。しかし、自分の身のほどを正しく理解していた渋沢栄一は、これらの申し出を固く断っていたのです。

渋沢栄一は自分への教訓として、実業界に自ら穴を掘って身を置いたからには、その穴の中で分をわきまえなければならないと考えていました。「持ち上げられたからと言って自分勝手に行動すれば、いつかは大きな失態をさらすことになる」ということを新政府や実業界を渡り歩き、そこで様々な経験を得たなかで学んでいたのかもしれません。

第10章「成敗と運命」:成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕

「糟粕」(そうはく)とは、良質な部分を除去した残りかすのこと。同章を締めくくる最後の一文であるこの言葉は、成敗とは単なる残りかすであり、結果よりも努力した過程が重要であることを意味しているのです。

どんな人生でも良いことだけが続くときもあれば、反対に悪いことばかり続くときもあります。その結果だけで喜んだり悲しんだりするのではなく、そのうちに与えられるチャンスをものにするために努力を継続して積み重ねること、さらには真摯に人事を尽くす姿勢を忘れなければ、やがて必ず道を切り開けると力強く語っていたのです。

成功や失敗、そしてお金などは、懸命に生きた結果にしかすぎません。それよりも渋沢栄一は、人生で一番大切なのは「人間としてどのように生きたのか」ということを、この名言を通じて教えてくれているのです。

分野を問わず学ぶことが多い「青淵百話」

本書は、渋沢栄一による談話を「井口正之」(いぐちまさゆき)が書きとめ、渋沢栄一自身が校正して出版された1冊です。タイトルにある「青淵」(あおぶち)は、渋沢栄一が文筆家として活動するときに用いていた、いわゆる「雅号」(がごう)です。

「乾」(けん)と「坤」(こん)という2巻で構成された本書は合計1,000ページを超え、渋沢栄一が培ってきた人生観や宇宙観、処世観から人事百般(じんじひゃっぱん:数多くの様々な人間社会の事柄)に至るまで、それぞれに対する信条が綴られています。

1912年(明治45年)に初版本が出版されたあと、1986年(昭和61年)には復刻版として、「渋沢青淵記念財団竜門社」の解説付きで刊行され、現在でも多くの人々に読まれています。

ひとりだけ富んでそれで国は富まぬ

これは、同書において渋沢栄一が、日本初の会社制度を導入するきっかけについて話したときの言葉。渋沢栄一は「商工業の発展には、利益を得て発達する方法を熟慮することが必要」だと語り、才知に長けた者だけが利益を上げたとしても、国家全体が強くなることには繋がらないと断言したのです。

加えてこの頃の渋沢栄一は、「商工業全体の富」を叶えるために、「合本主義」(がっぽんしゅぎ)と呼ばれる考え方を提唱しています。これは、事業を拡大させるためには、公益を追求するのに適した人材を集めなければならないという思想のこと。

渋沢栄一は日本経済を発展させるには、当時弱かった商工業の立場を改善し、富をひとりに集中させるのではなく、人々が知恵やお金を持ち寄って、それで得た利益を分かち合うことが最善の方法であるとの考えに至ったのです。

渋沢栄一にまつわる書籍

ここまでご紹介した「金言」とも言える渋沢栄一が遺した言葉は、現代人にも多大な影響をもたらしています。現在まで出版されている渋沢栄一関連の書籍には、その金言が多く記されており、それらを読むことで、渋沢栄一が成し遂げた偉業の数々についてはもちろん、そこから得た教訓や考え方も学べるのです。

それらのなかでも、前述した渋沢栄一の著書・論語と算盤は、大正時代から100年以上続くベストセラーとなった1冊。現代で言うところの「ビジネス書」である同書を紐解きながら、渋沢栄一の経営術や思想について見ていきます。

現代にまで読み継がれる「論語と算盤」

本書は渋沢栄一の著作ではありますが、自身では執筆しておらず、渋沢栄一が講演の際に発した言葉を書き起こしてまとめた、口述筆記の書籍です。

論語と算盤は当初、「竜門雑誌」(りゅうもんざっし)に掲載されていました。同誌は1886年(明治19年)に、渋沢栄一を尊敬する経済人達が設立した「竜門社」(りゅうもんしゃ:現在の渋沢栄一記念財団)が発行していた雑誌。そちらに掲載されていた文章のなかからいくつか抜粋し、テーマ別にまとめて出版されたのが論語と算盤なのです。

タイトル「論語と算盤」に込められた意味とは

渋沢栄一による著名な名言に、「右手に算盤、左手に論語」という言葉があります。計算に用いられる「算盤」は「経済活動」を意味し、中国の思想家である「孔子」(こうし)の言行記録である「論語」は、「道徳」を表す言葉。つまり渋沢栄一は本書のタイトルに、お金と道徳、両極端の意味を持つ事柄を並べていたのです。

これらを踏まえると論語と算盤は、「お金と道徳はどちらも大切」という渋沢栄一の考えを軸にして、経済と道徳の関係性を解説した内容であることが窺えます。

論語と算盤の内容を徹底解説

全10章のテーマで構成される本書は、道徳と経済を両立するために渋沢栄一が唱えた持論について詳しく記載されています。内容について章ごとにご説明します。
第1章「処世と信条」
渋沢栄一が常日頃から、商売に不可欠な思想として提案していた「士魂商才」(しこんしょうさい)について解説されています。これは、商売を正しく行いたいのであれば、商才のみならず、武士の精神も忘れてはならないことを意味する言葉です。
第2章「立志と学問」
本章では、意志を持って学びを継続させることの重要性について語られています。そのなかで最も印象的なのが「自ら箸を取る」という言葉です。これは、何かを達成するためには、勉学に励むと同時に自ら積極的に行動を起こすことが大切であるということを、食事に見立てて表現した一文です。
第3章「常識と習慣」
智・情・意

智・情・意

社会生活を送るうえで重要な物事のひとつは、常識を理解して自分のものにしておくこと。

本章ではそんな常識について、「智」・「情」・「意」の3つの要素に分けて説明しています。

これらはそれぞれ、「知恵」・「情愛」・「意志」を意味しており、渋沢栄一は幼少の頃からの習慣によって、この3要素を身に付けられると提唱しました。

第4章「仁義と富貴」(じんぎとふうき)
本章では、道徳がなければ富を長期間に亘って継続させることはできない、さらには、個人の利益だけではなく、社会活動を主軸とした利益を追い求めることが何よりも大切だとする主張が書かれています。そして孔子の教えに基づき、道徳を踏まえた経済活動が、国家全体に幸福をもたらすという持論を展開していることも、本章において特筆すべき内容です。
第5章「理想と迷信」
本章でまず説かれているのは、仕事をしていくうえで自分の趣味を見付けることが大切であるということ。渋沢栄一は、趣味を通じて理想を持つことが、誠実な仕事に繋がると考えたのです。加えて本章では、道徳は時代を経るにつれて変化し、それに順応していくことの重要性も唱えています。
第6章「人格と修養」
本章で説明されているのは、富や社会における地位や身分では、人間としての価値を測ることは不可能であるということです。成功のみを高く評価するのではなく、その人の行動が社会にどのように貢献したのか、また、精神や教養などで構成される人格がもたらした効果についても、正しく評価すべきだと主張しています。
第7章「算盤と権利」
本章で解説されているのは、労働する中での個人の権利が法律だけで保障されるのではなく、人々の心配りによって重んじられるべきだとする渋沢栄一の持説です。すべての事柄を法律だけで裁断することが、対立を深めることに繋がると考えた渋沢栄一は、人々が互いに思いやりを持つことで、それぞれの権利が守られるという思想を示しています。
第8章「実業と士道」
古来日本で受け継がれてきた「武士道」と、商売に欠かせない「実業道」は似た性質であることが説かれている章です。経済界において、武士道が軽視されていた実態を憂い、それは誤りであると述べています。渋沢栄一は商人も武士道に邁進して生きることで、実業界において日本が世界相手に戦えることを確信していました。
第9章「教育と情誼」(きょういくとじょうぎ)
本章では、若者や子どもが受けるべき教育について説かれています。学問とは、知識を吸収することだけが目的なのではなく、社会に貢献できる人材になるために技術を修得することも目的のひとつなのです。また、明治時代に渋沢栄一は、女子にも教育を受ける権利を与えることを誰よりも早く提案しており、性別に関係なく道徳心を育み、人間性を磨く機会が必要であると主張しました。
第10章「成敗と運命」
人が生きていくには、運命に対して「恭」・「敬」・「信」という3要素がもたらす態度を守るべきだと提唱しています。これらの3要素は、「礼儀を尽くす」、「敬う」、「信頼する」という態度を意味しており、本章において渋沢栄一は、「人事を尽くして天命を待つ」の言葉を常に心に留めておいたほうが良いとする持論を展開したのです。

ここまで見てきた解説からも分かるように、論語と算盤では、渋沢栄一が一番の理想として掲げていた、道徳と経済を両立する重要性が書かれています。本書が経済活動だけでなく、人生におけるすべての人々に役立つ指南書として、たくさんの読者に読まれてきた理由が窺えるのです。

渋沢栄一を知るのに役立つその他の書籍

渋沢栄一の人生が記された「雨夜譚」

現在、岩波文庫から刊行されている「雨夜譚」(あまよがたり)は、渋沢栄一の自叙伝のひとつ。渋沢栄一が座談の場所で自身の半生について、弟子達に向けて語った言葉がまとめられた書籍です。

幕末期に青春時代を過ごし、渋沢栄一が送った激動の人生を自らの言葉で語った本書は、渋沢栄一のことをよく知らない人でも、彼が生きた時代を身近に感じられる1冊になっています。もともと商人であった渋沢栄一が幕臣の地位にまで上り詰めたあと、明治新政府から実業界に入るまでの半生について綴られた本書は、渋沢栄一の生涯を窺い知れる貴重な資料です。

また本書では渋沢栄一の半生だけでなく、「維新以後における経済界の発展」についても説明されているため、維新後の日本における経済史を、渋沢栄一ならではの視点から知ることも可能になっています。

渋沢栄一について学ぶ、東京都北区の渋沢史料館

明治政府での在官中に製紙会社を興した渋沢栄一は、現在の東京都北区王子に当たる地域に工場を設立。そしてこの場所から渋沢栄一は、実業家としての第一歩を踏み出し、これ以降も渋沢栄一にとって思い入れのある大切な街となっていきました。渋沢栄一が実業家人生を始めた東京都北区と、晩年に住した旧邸跡にある「渋沢史料館」について見ていきます。

渋沢栄一が愛した「東京都北区」ってどんな場所?

東京都北区と渋沢栄一の関係性

渋沢栄一と東京都北区は、1873年(明治6年)2月に、現在の「王子製紙株式会社」の前身となった「抄紙会社」(しょうしがいしゃ)が設立されたときから繋がりを持つようになります。その3ヵ月後に渋沢栄一は、33歳で大蔵省(現在の財務省)を辞任。そして渋沢栄一は、抄紙会社の工場建設に着手したのです。

1875年(明治8年)12月には、現在の東京都北区に日本で初めて抄紙会社の工場を完成させました。このような経緯を経て渋沢栄一は、東京都北区を拠点として実業家人生を送ることになったのです。

さらに渋沢栄一は、王子の製紙工場付近にある「飛鳥山」(あすかやま)に、4,000坪ほどの土地を購入。これは「職住接近」と称される考え方に基づいて行われ、購入した土地に渋沢栄一は自身の別邸を建設します。飛鳥山に広大な土地を持った渋沢栄一は、その生涯を通じて東京都北区と深い関係を築いていくことになるのです。

1879年(明治12年)以降は、国内外を問わずたくさんの賓客をこの別邸に迎え、会議や民間外交などを行うための「賓客接遇の場」として開放しました。そののち、日本の実業界をリードする役割を担った渋沢栄一は、1901年(明治34年)61歳のときに本邸を飛鳥山に移します。こうして飛鳥山は、渋沢栄一にとって家族団らんの時間を過ごす憩いの場となり、91歳で没するまでの30年間に亘り、この地を離れることなく愛し暮らし続けたのです。

現在の東京都北区では2019年(平成31年)より、「東京都北区渋沢栄一プロジェクト」が行われています。このプロジェクトでは北区と観光協会が連携して、渋沢栄一と北区の歴史を伝えることはもちろん、同区の観光事業を推進するための様々な企画が開催される予定です。

東京都北区に位置する渋沢栄一の史料館とは

渋沢栄一の活動拠点であった東京都北区には、渋沢栄一の邸宅があった地域を中心とした「飛鳥山公園」があります。同公園内には、「旧渋沢庭園」と称する渋沢栄一ゆかりの建築物がいくつか現存しているのです。そのなかから「晩香廬」(ばんこうろ)と渋沢史料館、「青淵文庫」(せいえんぶんこ)について、それぞれの詳細をご紹介します。

飛鳥山公園で観られる渋沢栄一にまつわる史跡

旧渋沢庭園の茶室「晩香廬」
当時の姿がそのまま残されている晩香廬は、渋沢栄一の喜寿(きじゅ:77歳)を祝う際に贈られた西洋風茶室です。

晩香廬という名称は、渋沢栄一が自作した漢詩「菊花晩節香」が由来。これは、渋沢栄一がある園遊会に出席した際、「菊の花だけは晩節の香があり、少し遅れて節を守るような香がする」と述べたというできごとを詠んだ作品です。

またもうひとつの由来としては、西洋の言葉である「バンガロー」の響きに合わせて、この名称が付けられたとも言われています。頑丈な資材である栗材を使って建築されたこの茶室は、渋沢栄一の時代にレセプションルームとして用いられていました。

旧渋沢庭園にある書庫「青淵文庫」
青淵文庫

青淵文庫

青淵文庫は、渋沢栄一の傘寿(さんじゅ:80歳)と5段階ある爵位のうちの第4位に当たる、「子爵」(ししゃく)昇格のお祝いに贈呈された書庫です。

文筆に親しんでいた渋沢栄一は、そのペンネームと言える、いわゆる雅号に青淵という名前を使用していました。

これをその名称に冠した青淵文庫は、鉄筋コンクリートと煉瓦で建設されており、渋沢家が用いていた家紋のデザインを取り入れた装飾タイルや、きらびやかで華やかなステンドグラスなどから、渋沢栄一が西洋の趣を好んでいたことが窺えます。

1923年(大正12年)の関東大震災で大きな被害を受けた青淵文庫は、一時的に建設が中断される事態に見舞われましたが、1925年(大正14年)に無事竣工。完成してからは、賓客を迎えるための場としても使われていました。晩年の渋沢栄一が余生を送ったこの場所は、現在も多くの人々が訪れる観光スポットとなっているのです。

渋沢栄一の生涯を学ぶ「渋沢史料館」本館
渋沢史料館

渋沢史料館

渋沢史料館は、渋沢栄一の旧邸であった「曖依村荘」(あいいそんそう)跡にあります。渋沢栄一が歩んだ生涯を広く紹介することを目的に、1982年(昭和57年)に開館。館内には、渋沢栄一にまつわる史料が多数展示されています。

館内で掲げられているのは、渋沢栄一の日常や思い、そして言葉に「ふれる」、渋沢栄一の生涯を「たどる」、渋沢栄一の活動を深く「知る」という3つのテーマです。様々な側面から、渋沢栄一のことを学ぶことができます。

また同館は、2020年(令和2年)11月にリニューアルされ、デジタル画像を体感できるコーナーや渋沢栄一関連の書籍を自由に閲覧できる「青淵書屋」(せいえんしょおく)など、新しいスポットが設けられました。展示物の図録やオリジナルグッズの購入が可能な「青淵商店」も同時にオープンし、老若男女問わず楽しめる史料館となっています。

渋沢栄一のことを深く知りたい人だけでなく、明治時代から昭和時代の歴史に触れてみたい人にもぜひ訪れて頂きたい施設です。渋沢栄一が暮らし、愛した街の空気を肌で感じながら、渋沢栄一について学んでみてはいかがでしょうか。

渋沢栄一にまつわる史跡「音無橋」と「旧醸造試験所」

渋沢栄一は実業家としての活動の傍ら、東京都北区への支援や事業展開にも力を注ぎ、地域の発展に大きく貢献した人物でもありました。これまでご紹介した建造物の他にも、渋沢栄一ゆかりの場所が数多く現存しています。
景観が美しい「音無橋」
音無橋

音無橋

「音無橋」(おとなしばし)は、「王子駅」前に流れる石神井川(しゃくじいがわ)に架かる橋です。

その真上には、「日本の都市公園100選」にも選出された「音無親水公園」(おとなししんすいこうえん)があります。この橋は、美しい景観を堪能できる観光スポットとして、高い人気を博しているのです。

音無橋は、晩年の渋沢栄一が支援して造られることになり、渋沢栄一が亡くなる1931年(昭和6年)に竣工されたと伝えられています。さらに渋沢栄一は、音無橋の開通式協賛会にも支援していました。

赤煉瓦が印象的な旧醸造試験所
旧醸造試験所

旧醸造試験所

王子駅から音無橋方面に向かう道中にある赤煉瓦の建物も、渋沢栄一にゆかりがあります。

1904年(明治37年)5月に完成したこの施設は、「旧醸造試験所第一工場」と呼ばれており、その当時には1ヵ所しかなかった醸造関連の国立研究機関でした。

この建物において一番の特徴である赤煉瓦は、渋沢栄一が1887年(明治20年)に設立した、「日本煉瓦製造株式会社」により作られた物です。この煉瓦は、渋沢栄一の故郷・埼玉県深谷市にあった上敷面工場で焼かれました。

ドイツのビール醸造施設をお手本にして、明治時代の著名な建築家によって建てられたこの旧醸造試験所は、2014年(平成26年)に、国の「重要文化財」に指定されています。

渋沢栄一賞の基本情報

明治時代から大正時代にかけて、約500社にも及ぶ企業の設立を手掛けた渋沢栄一は、実業界のリーダーとして、日本の近代化を最も推し進めた人物だと言えます。

現代でも「実業界の父」や日本近代経済の父と称賛されていますが、渋沢栄一の能力は、経営者としての手腕が優れていただけではありません。社会貢献活動にも積極的に参加し、国際交流でも自身の才能を大いに発揮。人々の幸福のためであれば、自分の持てる力で精いっぱい尽くす慈善家としての一面も持ち合わせていたのです。

「渋沢栄一賞」は2002年(平成14年)に埼玉県によって設立され、個人の利益より公益を重んじていた渋沢栄一のように、社会事業に尽力した企業経営者に贈られています。

渋沢栄一の精神を継承する経営者を表彰

渋沢栄一賞の選考基準とは

渋沢栄一賞は全国の経営者を対象とし、①「企業倫理にのっとり、健全で優れた経営を行っていること」、②「企業経営の他にも社会貢献や地域貢献を行っていること」という2つの選考基準を満たしている企業経営者の中から選出されます。

国や地方公共団体などからの推薦や提供された情報をもとに、「渋沢栄一賞選考委員会」が審査し、埼玉県知事によって受賞者を決定。初開催以降、革新的な企業活動を行うと共に、多種多様な支援活動を実施している経営者数名が、毎年受賞しています。この渋沢栄一賞は、現代における企業家の模範となる姿勢を示す役割も果たしているのです。

渋沢栄一の理念を受け継ぐ!渋沢栄一賞歴代受賞者

第6回(2007年度[平成19年度])受賞:中部ガス株式会社 元代表取締役会長「神野信郎」氏

神野信郎(かみののぶお)氏は長年に亘り、現在の「サーラエナジー株式会社」(愛知県豊橋市)の前身、「中部ガス株式会社」にて社長、及び会長を歴任。中部地方におけるガス事業発展に力を注ぎました。

さらには、代表を務めたサーラグループの経営基盤を固め、ガス事業のみならず、住宅関連など多方面での事業拡大を達成しています。

神野信郎氏はこうした本業以外にも、「日本青年会議所」や「豊橋商工会議所」の会頭、「中部経済連合」副会長などの要職に就いて中部地方の財界活動に励んでいた人物。加えてアマチュアオーケストラの援助や、ジュニアサッカー、ミニバスケットボールの大会を開催するなど、地域経済やスポーツ、文化や教育の振興にも尽力したことが高い評価を受けています。

第17回(2018年度[平成30年度])受賞:井村屋グループ株式会社 代表取締役会長「浅田剛夫」氏

あずきバー

あずきバー

井村屋グループ株式会社」(三重県津市)代表取締役会長・浅田剛夫(あさだたけお)氏は、「肉まん」や「あんまん」、「あずきバー」などを、同社の看板商品にまで押し上げ、グループ経営、海外への進出など幅広い事業展開を成し遂げた人物です。

この他にも幼児を対象とした食育活動や、グループで取り組む環境保全活動「アズキキングの森」(三重県津市)といった社会貢献活動も精力的に行っています。

第17回(2018年度[平成30年度])受賞:株式会社特殊衣料 代表取締役会長「池田啓子」氏

「株式会社特殊衣料」(札幌市西区)は、リネンサプライ業から始まった会社です。同社の代表取締役会長・池田啓子(いけだけいこ)氏は、同社の事業をリネンサプライ業のみならず、清掃業や福祉用具製造業にも拡大させています。

それと同時に池田啓子氏は、頭部保護帽「アボネット」の開発に取り組み、製品化を実現。このアボネットは、転倒しやすいお年寄りや子ども、さらには工場に勤務する人などの頭部を守るための製品として、様々な人々が愛用しています。

その一方で池田啓子氏は、社内に身体障がい者や知的障がい者を受け入れる小規模作業所を開設。障がい者雇用を推進するのみならず、2004年(平成16年)には、「社会福祉法人ともに福祉会」(札幌市西区)の設立資金を寄付し、同会の理事長に就任しています。このような障がい者の就職支援活動を継続的に行ったことが評価され、受賞に繋がりました。

第13回(2014年度[平成26年度])受賞:六花亭製菓株式会社 亭主「小田豊」氏

「六花亭製菓株式会社」(北海道帯広市)の菓子商品は、品質低下を防ぐために北海道内の店舗のみで販売されています。これは、受賞時は同社の代表取締役社長を務め、現在はその亭主である小田豊(おだゆたか)氏が考案した販売戦略です。

また小田豊氏は、同社を道内トップの菓子メーカーに成長させること、そして組織における一体感の醸成などを目的に社内新聞を発行しています。

これらに加えて小田豊氏は、レストランや美術館がある「中礼内美術村」(なかさつないびじゅつむら:北海道河西郡)などの観光施設も経営。さらには、児童詩誌「サイロ」の発行なども手掛けており、文化や芸術活動にも注力しています。

第13回(2014年度[平成26年度])受賞:株式会社バローホールディングス 代表取締役会長兼社長「田代正美」氏

株式会社バローホールディングス

株式会社バローホールディングス

株式会社バローホールディングス」(岐阜県多治見市)は食品スーパーを中核とし、東海地方を拠点にドラッグストアやホームセンター、スポーツクラブなど、様々な事業の多店舗展開を行っている企業です。

同社の代表取締役会長兼社長を務める田代正美(たしろまさみ)氏は、社長就任時より売上や利益を大幅に拡大。同社の株式を市場に上場させています。

また田代正美氏は、同社の創業者が設立した財団法人を介し、奨学金の支給などを実施。業績を大幅に上げたことに合わせて、奨学金への拠出額を年々増加させていることも、高く評価されました。

第16回(2017年度[平成29年度])受賞:伊那食品工業株式会社 最高顧問「塚越寛」氏

「伊那食品工業株式会社」(長野県伊那市)の最高顧問・塚越寛(つかこしひろし)氏は、日本における伝統的な寒天作りを企業化した人物。寒天産業を発展、近代化させるために独自の製造技術を開発しました。創業時から掲げている企業理念は、社員の幸せを追求する「年輪経営」。その成果として、2006年(平成18年)には48年間連続の増収増益を果たしています。

2014年(平成26年)には、地元・長野県の老舗酒造会社を支援するため、清酒事業を展開。そして塚越寛氏は、酒造会社を子会社化することで、村において伝統的な造り酒屋に受け継がれる文化の継承や、雇用存続の促進活動に尽力しているのです。

この他にも、伊那市で鑑賞できる能と狂言「伊那能」(いなのう)の開催や、「春の高校伊那駅伝」の協賛など、地域への貢献活動も積極的に行っています。

第16回(2017年度[平成29年度])受賞:浜松ホトニクス株式会社 名誉会長「晝馬輝夫」氏

浜松ホトニクス株式会社」(浜松市中区)の名誉会長・晝馬輝夫(ひるまてるお)氏は、創業以来同社における中心メンバーのひとりとして、その事業拡大などに尽力しています。

また、同社を世界的な光技術専業メーカーに成長させただけでなく、「梶田隆章」(かじたたかあき)氏や「フランソワ・アングレール」といった、国内外で活躍する物理学者のノーベル物理学賞受賞にも貢献しました。

それらと共に晝馬輝夫氏は、1988年(昭和63年)に「光科学技術研究振興財団」を発足させ、研究助成や研究表彰などにも取り組んでいます。さらに2004年(平成16年)には、「光産業創成大学院大学」(浜松市西区)の創立を援助し、同校の初代理事長に就任しました。

渋沢栄一、新紙幣(お札)の「顔」に選ばれる

日本の紙幣は2024年度(令和6年度)発行分より、そのデザインが刷新されます。つまり、お札に印刷される「顔」が変わることになったのです。1,000円札には「北里柴三郎」(きたざとしばさぶろう)、5,000円札には「津田梅子」(つだうめこ)、そして10,000円札に採用されたのが渋沢栄一です。この新紙幣には、世界初となる偽造防止技術が施されており、これが最大の特徴になっています。

また実は渋沢栄一は、1963年(昭和38年)に発行された1,000円札に載せる肖像の最終候補にまで残っていました。しかしそのときは、残念ながら「伊藤博文」(いとうひろぶみ)が採用されたのです。渋沢栄一だけではなく、その他に新紙幣の顔となった北里柴三郎、津田梅子についてもご説明します。

紙幣に肖像画を描く理由

日本のみならず、多くの外国で発行されている紙幣に印刷されているのが、偉人の肖像画です。その理由のひとつとして挙げられるのが、知人かどうかを簡単に識別できる能力が、生まれつき人間に備わっていること。現在様々なところで使われている、いわゆる「顔認識システム」は、映し出された人の顔から自動的にその特徴を抽出し、誰であるかを識別するデジタル技術です。人が元来持つ顔を識別する能力は、これと同じ仕組みであると考えられます。

紙幣においては、この人間の「知的センサー」とも言える能力を応用し、肖像画が描かれているのです。私達には、実際の人間を識別できるのと同様に、見慣れた肖像であれば、偽物かどうかを咄嗟に見分ける、勘のような能力があると言われています。すなわち紙幣に肖像を描くことが、基本的な偽造防止にと繋がっているのです。

さらに日本の紙幣に用いられる印刷技術は、「すき入れバーパターン」や「マイクロ文字」、「特殊発光インキ」、「超細密画線」、インクを高く盛り上げる「深凹版印刷」(ふかおうはんいんさつ)、「ホログラム」、肉眼では見え辛い「潜像模様」、「識別マーク」、「パールインキ」など、その種類は多岐に亘っています。日本の紙幣には偽造防止のために、世界でも類も見ないほど優れた印刷技術が施されているのです。

新10,000円札の顔-「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一

これまで日本のお札は、およそ20年ごとに新しいデザインに変更されてきました。財務省の発表によれば、2024年(令和6年)を目途に刷新される紙幣の肖像には、明治以降に活躍した文化人の中から、①鮮明な写真が残っている、②品格が備わっている、③国民に人気があるという3つの条件を満たした人物が選ばれています。

それでは、渋沢栄一が新10,000円札の顔に選ばれた具体的な理由は、どのようなところにあったのでしょうか。それは、日本資本主義の父と呼ばれるほどに、数多くの企業の設立を支援したこと。

渋沢栄一が成長させた企業の数は、約500社にも上ると言われており、その多くは、現在も日本経済を牽引する大企業として発展し続けています。加えて渋沢栄一は、約600もの社会公益事業に参加し、慈善活動にも貢献。このような渋沢栄一の功績が高く評価され、新紙幣の肖像に採用されたのです。

また渋沢栄一は、2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)の主人公にも選ばれ、注目度が一気に高まっています。そんな渋沢栄一は、どのような人物だったのでしょうか。

渋沢栄一の半生

渋沢栄一は1840年(天保11年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の裕福な農家の長男として誕生。

幼少時より家業である養蚕(主に製糸用の繭を生産する産業)と、藍の葉を発酵させた染料である蒅(すくも)を突き固めて作った藍玉の製造や販売を手伝い、また父から学問の指導を受けたと伝えられています。そして7歳の頃には、論語や「日本外史」などを習得するため、従兄の「尾高惇忠」(おだかあつただ/おだかじゅんちゅう)のもとへ通っていたのです。

渋沢栄一が生まれた当時、日本にはまだ鎖国政策が敷かれていましたが、1853年(嘉永6年)の「ペリー来航」が契機となり、江戸幕府によって開国。日本は正面から、外国と立ち向かうことになったのです。それは、渋沢栄一にとっても同じことでした。

青年へと成長し、江戸へ遊学した渋沢栄一は尊王攘夷思想の影響を受け、尾高惇忠や「渋沢喜作」(しぶさわきさく)らと連れ立って、「高崎城」(群馬県高崎市)の奪取と「横浜外国人商館」の焼き討ちを企てます。

ところが、尾高惇忠の弟で従兄の「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)に反対されたため、この計画は諦めることに。一族が巻き込まれることを心配した渋沢栄一は京都を訪れ、江戸遊学がきっかけとなって親交を深めていた「一橋徳川家」の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の仲介により、「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜)に仕えることとなったのです。

渋沢栄一、ヨーロッパで知見を広める

このとき、渋沢栄一は平岡円四郎より、攘夷について議論する前に世界をもっと知る必要があると諭されます。そこで渋沢栄一は心を入れ替え、一橋家のために懸命に働きました。すると、さらなる活躍の機会が渋沢栄一に訪れたのです。

1866年(慶応2年)に主君・徳川慶喜が江戸幕府15代将軍に就任すると、翌年、徳川慶喜の異母弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)が、「パリ万国博覧会」(通称:パリ万博)に視察へ行くことに。渋沢栄一は、そのお供として付き従うことになったのです。

ヨーロッパに赴いた徳川昭武一行は、パリ万博を視察したあと各国の都市を訪れ、西欧諸国の革新的な科学技術やインフラのみならず、金融や紙幣制度といった経済活動についても深く学びました。そのなかで渋沢栄一は、日本も近代化を早急に進めなければならないと痛感したのです。

日本初の株式会社「商法会所」を創設した経緯

渋沢栄一がヨーロッパに滞在していた間、日本では徳川慶喜により、政権を天皇へ返上する「大政奉還」が実施されました。

渋沢栄一は1868年(慶応4年/明治元年)、徳川昭武と共に帰国。謹慎中の徳川慶喜との面会を果たすために静岡を訪れた渋沢栄一は、そのまま静岡に残って「商法会所」を創立。同所は、フランスで学んだ株式会社制度の知識を活かして作られました。
この商法会所は、輸出入貿易を中心に商品販売を行う商社の業務と、商品を担保に融資を行う銀行業務をかねる、日本初の株式会社となったのです。

快調に商法会所の業績を伸ばした渋沢栄一は、その力量が見込まれ、のちの総理大臣「大隈重信」(おおくましげのぶ)より明治新政府で働くことを打診されます。これを受けて渋沢栄一は、現在の財務省と金融庁に当たる大蔵省へ出仕しましたが、存分に力を発揮できなかったことから退官。民間の実業家として、日本経済の発展に人生を捧げる意志を固めたのです。

渋沢栄一が繁栄に寄与した企業の数とは

渋沢栄一が実業家として最も大切にしていた信念は、前述した著書・論語と算盤の一文から窺い知ることができます。それは、「営利のみを求めるのではなく、社会の役に立つことを心掛ける」という記述。渋沢栄一が、少年時代に学んだ論語が根本となっているこの考え方は、「道徳経済合一説」と称して自ら提唱しました。

そんななか渋沢栄一は、自身が設立から携わった「第一国立銀行」(現在の「みずほ銀行」)の監査役に就任。全国の国立銀行に対して支援や指導を行っただけではなく、株式会社制度を基盤とした新興企業の育成に尽力。生涯を通じて、約500社に及ぶ企業の立ち上げにかかわったのです。加えて渋沢栄一は、「日本赤十字社」の設立に関与するなど、生涯でおよそ600もの社会公益事業や教育機関を援助し、民間外交にも注力しています。

渋沢栄一は、こうした公益事業や慈善活動にも「そろばん勘定」、すなわち「経済性」が不可欠であると考えていました。それは私利を追求するという意味ではなく、長期に亘ってこれらの活動を維持させるために経済性を重視し、計画的な運営が必要であることを意味しているのです。このような渋沢栄一の信念は、今もなお多くの組織に受け継がれ、人々のために活動を続けています。

渋沢栄一がお札の肖像にふさわしい理由

渋沢栄一が存在しなかったとしたら、日本における資本主義の進歩は、欧米諸国にもっと後れを取っていたかもしれません。そんな風に思わせるほど、渋沢栄一は日本経済の発展へ多大な功績を残したにもかかわらず、自分の名を企業名に付けることは一切しませんでした。これは、渋沢栄一が私利私欲のみを満たそうとせず、日本における資本主義の推進に奔走した人間性の表れです。そのような渋沢栄一は、まさしくお札の肖像に適した人物であると言えます。

前述した通り渋沢栄一は、1963年(昭和38年)に発行された1,000円札の最終候補に選ばれていましたが、結局は伊藤博文に決定しました。その理由のひとつになったと考えられているのが、肖像における髭の有無です。髭を細かく描き込むことが偽造防止に繋がるとみなされたため、お札の肖像には、立派な髭をたくわえた男性の絵が、多く採用されていたのです。

しかし現代では偽造防止の技術が進んでおり、お札(日本銀行券)には、髭の有無や性別に関係なく、適した人物の肖像を使用するようになっています。

新5,000円札肖像-「津田塾大学」の創立者・津田梅子

日本初の女子留学生になったのはわずか6歳の頃

新5,000円札の肖像に選ばれたのは、「津田塾大学」(東京都小平市)の創立者であり、日本初の女子留学生となった津田梅子です。

「ヘレン・ケラー」や「ナイチンゲール」などの偉人達とも親交を結び、その生涯を通じて女子高等教育に力を注ぎました。

津田梅子は、1864年(文久4年/元治元年)に、江戸の牛込(現在の東京都新宿区)にて、明治時代前期の西洋農学者「津田仙」(つだせん)の次女として生まれます。

父の津田仙は、下総佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の藩士出身。藩主「堀田正睦」(ほったまさよし)が「蘭癖」(らんぺき)との異名が付くほどの開明派であったことが背景となり、津田仙はオランダ語と英語を学んでいました。そして1861年(万延2年/文久元年)に津田仙は、江戸幕府外国奉行の通訳に任じられます。

このような父の影響を受けたためか、津田梅子は1871年(明治4年)、欧米列強との間に締結した不平等条約の改正を目的に、明治政府が欧米視察に派遣した「岩倉使節団」に随行して渡米しました。北海道開拓使が募集した日本最初の女子留学生5人のうちのひとりとなった津田梅子は、当時わずか6歳で最年少だったのです。

アメリカに渡った津田梅子は、「日本弁務使館」(のちの公使館)に務める書記官であり、ワシントンD.C.近郊にあるジョージタウン在住「チャールズ・ランマン」の家に預けられました。そののち津田梅子は、11年間の長きに亘ってアメリカに滞在したのです。

このランマン夫妻は高い教養の持ち主であっただけでなく、非常に温厚な人柄であったため、津田梅子とランマン夫人は、実の母娘のように仲が良かったと言われています。しかし津田梅子は、ランマン夫人を「ママ」と呼ぶことはせず、最後までミセス・ランマンと呼んでいました。幼くして渡米した津田梅子の胸中には、常に実母の面影があったのだろうと考えられているのです。

帰国後は女子教育の推進に力を注ぐ

アメリカにおいて初等、及び中等教育を受けた津田梅子は、1882年(明治15年)に日本へ戻りました。帰国後は、伊藤博文の呼びかけで新設された「華族女学校」(のちに学習院[東京都豊島区]へ併合)に英語教師として勤務しますが、上流階級における女子限定の教育方針に落胆してしまうことに。アメリカと異なる日本の現状に、逆のカルチャーショックを受けた津田梅子は、1889年(明治22年)、再度アメリカ留学へと出発したのです。

アメリカの「ブリンマー大学」にて生物学を勉強した津田梅子は、1892年(明治25年)に日本へ帰って来ました。1894年(明治27年)には、カエルの卵の発生にまつわる共同研究の論文がイギリスの学術雑誌に発表されるなど、現代で言う「リケジョ」(理系女子)の元祖としても大いに活躍します。

また津田梅子は、1898年(明治31年)にアメリカのデンバーで開催された「万国婦人連合大会」に、日本代表として出席。日本における女子教育の必要性を堂々と述べました。そののち、津田梅子は日本の新しい女子教育の道を開拓するため、女子専門の私塾の準備に着手。そして、37歳になった1900年(明治33年)に「女子英学塾」を創立し、自ら塾長となったのです。

実はこの女子英学塾は、政府や財界などの支援を得ることなく始められた私塾であり、最初の入学者はわずか10名しかいませんでした。「男性と協力しながら同等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指した女子英学塾は、1948年(昭和23年)、津田塾大学に改称し日本を代表する女子大学へと成長。時代を支える女性達を、数多く世に送り出しています。

こうして津田梅子は女子教育にその人生を捧げ、1929年(昭和4年)、享年66で亡くなったのです。

凛とした風格が印象的な肖像

明治時代から大正時代にかけて、教育者として女子教育の道を開拓することに全精力を注いだ津田梅子。特に英語を学ぶことを重視し、国際的な教養と広い視野を持つ女性の育成に、持てる力のすべてを懸けて取り組みました。

新紙幣の顔として選ばれた3名の中でも、津田梅子は国際的な感覚を最も備えており、これは津田梅子の特筆すべき側面だと言えます。

お札に採用された津田梅子の肖像は、渋沢栄一や北里柴三郎と同様に品格があり、心が奪われるほどの凛とした佇まいも大きな特徴のひとつです。なお、この3人の中で津田梅子の肖像のみ、もととなった写真とは左右の向きが反対になっています。

新1,000円札肖像-「近代日本医学」の立役者・北里柴三郎

北里柴三郎は医者志望ではなかった

新1,000円札に選ばれた北里柴三郎は、近代日本医学の基礎を築いた人物として知られています。

同じ医学の分野で活躍し、すでに紙幣の肖像に採用された「野口英世」(のぐちひでよ)と比べると、日本における一般的な知名度は少し低くなりますが、ペスト菌の発見、破傷風の治療法の開発などで成功を収めた北里柴三郎は、「日本の細菌学の父」とも称されており、世界の医学界では非常に著名であり高く評価されています。

そんな北里柴三郎ですが、当初は「医者と坊主にだけはなりたくない」と常日頃から言っていたとも伝えられており、これにはやはり驚きを隠せません。

北里柴三郎は1853年(嘉永6年)、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇小国町北里)にて、代々庄屋を務めていた家に誕生。これは、ペリー来航のわずか半年前のことでした。母親が豊後国森藩(現在の大分県玖珠郡)の藩士の娘であった影響を受け、北里柴三郎は、少年時代は武士になる夢を持ち、熊本藩(現在の熊本県)の藩校「時習館」(じしゅうかん)の生徒となります。

ところが1870年(明治3年)、同校が廃校。そのため北里柴三郎は、自身の夢を武士から軍人に変更し、大阪に開校された「兵学寮」(陸海軍の士官学校の前身)への入学を希望しました。しかし、両親から猛反対されたため、北里柴三郎は仕方なく「熊本医学校」(現在の熊本大学医学部:熊本市中央区)に進学し、医学を学ぶことになったのです。

前述したように北里柴三郎は、医者と坊主にだけはなりたくないと考えていたため、ひとまず語学を習得し、それから兵学を学ぶことにします。このような経緯があったことから北里柴三郎は、オランダ語は懸命に勉強し突出して良い成績を残しましたが、医学についてはまったくと言って良いほど不出来だったのです。

医学を志すきっかけは、ある医師との出会いだった

そんな北里柴三郎に、医学を志す転機が訪れたのは、オランダ人医師「マンスフェルト」との出会いでした。熊本医学校に新任教師としてやって来たマンスフェルトは、オランダ語のみ得意としていた北里柴三郎に大きな関心を抱き、「なぜオランダ語だけに熱心なのか?」と質問します。北里柴三郎はこれに対し、「これから起こる文明開化に備えて学んでいる」と答えました。これが、正直者の北里柴三郎が心から話した、当時の偽らざる思いだったのです。

するとマンスフェルトは、「ヨーロッパでは、ペスト[黒死病]という細菌による伝染病で、何千万人も亡くなっている。今日、不治の病と言われる病気のなかには、細菌が原因となっているものがあり、治療が可能な伝染病もあるのです。君はそうした前人未到の新発見に尽力しなさい」と説いたのです。マンスフェルトは、この短時間の会話だけで、北里柴三郎の好奇心旺盛な性格と、やるならとことんやり尽くす姿勢を見抜いていたと言えます。

意欲が湧いてきた北里柴三郎は、1874年(明治7年)、「東京医学校」(現在の東京大学医学部:東京都文京区)に入学。予防医学を生涯の仕事にすることを決めました。卒業後、内務省衛生局に入局した北里柴三郎は、1886年(明治19年)から6年に亘ってドイツへ留学します。そこで北里柴三郎は、病原微生物学研究の最高峰であった「ローベルト・コッホ」に師事したのです。

そして北里柴三郎は留学中の1889年(明治22年)に、破傷風菌の純粋培養に成功。これに加えて、その毒素に対する免疫抗体を発見した北里柴三郎は、それを応用して、血清療法を確立。世界的な研究者として、躍進していくことになったのです。

帰国した北里柴三郎は、1892年(明治25年)、のちに国立となる「私立伝染病研究所」を設立。さらに1893年(明治26年)には、日本最初の結核専門病院も開設し、伝染病予防と細菌学の研究に励みます。そして1894年(明治27年)、ペストが蔓延した香港へ原因調査のために訪れ、ペスト菌を発見したのです。

そののち、北里柴三郎は1914年(大正3年)に「北里研究所」を創立。現在の「北里大学」(東京都港区)は同研究所の系譜から生まれました。さらに北里柴三郎は、1917年(大正6年)に「慶應義塾大学医学科」(東京都新宿区)を創設するなど、感染症の撲滅と科学の進展に心血を注いだのです。そして1931年(昭和6年)に北里柴三郎は、脳溢血(のういっけつ)により亡くなりました。

北里柴三郎がお札の肖像に採用された背景とは

お札の顔に選ばれるのには、それぞれの分野で並はずれた業績を残したと同時に、その業績が多くの国民に知られていることも重要。さらには鮮明な写真が残されており、日本の紙幣として非の打ちどころのない品格が溢れる肖像でなければなりません。

感染症医学の発展に多大な貢献を果たした北里柴三郎は、「近代日本医学の父」と称されるにふさわしい人物です。北里柴三郎の発見や功績なくしては、現代の日本人が受けられる医療も、十分なレベルにまで達していなかった可能性は否定できません。

そしてお札に採用された北里柴三郎の肖像は、貫録を醸し出している一方で、渋沢栄一と同じく、品のある親しみやすさをも感じさせてくれます。財務省が発表した、「毎日のように手に取り、目にする紙幣の肖像としてふさわしい」という理由にも、納得できる肖像だと言えるのです。

渋沢栄一が主人公!NHK大河ドラマ「青天を衝け」

60作目となる2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ・青天を衝けでは、幕末から明治時代における日本の動乱期を舞台に、主人公・渋沢栄一の生涯が描かれています。本作は他の大河ドラマではあまり見られなかった、「明治の財界人」である渋沢栄一が活躍した頃の近代史を題材にしているため、放送前から注目を集めていました。同ドラマをもっと楽しむために、あらすじなどの基本情報について解説します。

タイトル「青天を衝け」に込められた意味とは

「新紙幣の顔」として注目されるようになった渋沢栄一。そんな中で、2019年(令和元年)9月に制作発表されたのが、渋沢栄一が主人公に選ばれた、NHK大河ドラマ・青天を衝けです。このタイトルは、渋沢栄一が詠んだ漢詩の一節「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」(青空を突き刺す勢いで肘をまくって登り、白雲を突き抜ける気力で手に唾して進む)が由来となっています。

藍玉

藍玉

これは青年時代の渋沢栄一が、家業である「製藍業」(藍植物を収穫し、藍染めの原料を製造、または販売する業者)に勤しんでいた当時に、藍玉を売るために信州へと出向き、険しい渓谷である内山峡(うちやまきょう:現在の長野県佐久市)を登った際に詠んだと伝えられています。

青天を衝けというタイトルからも分かるように、このドラマは渋沢栄一の故郷・武蔵国榛沢郡血洗島村を舞台に、若き渋沢栄一を描く「血洗島・青春編」から始まりました。

そののち、同ドラマのストーリーは、激しい動乱が繰り返される幕末期の日本において、身分制度に立腹した渋沢栄一が、尊王攘夷論に心酔していく青年期へ突入。幕臣として徳川慶喜に仕えてパリへと渡った転換期、明治新政府の官僚となり、日本の改革を大きく進めた成人期まで、詳細に描いていきます。

このように青天を衝けは、渋沢栄一の人生を辿りつつ、視聴者も日本の変革期を体感できる物語になっているのです。

豪華なキャストが勢揃い!「青天を衝け」の登場人物

青天を衝けでは、NHK大河ドラマ初主演となった「吉沢亮」(よしざわりょう)さんが、渋沢栄一役に躍動感溢れる演技で扮しています。そして、渋沢栄一に商売の重要性を教える父「渋沢市郎右衛門」(しぶさわいちろうえもん)役には「小林薫」(こばやしかおる)さん、渋沢栄一に深い愛情を注ぐ母「渋沢ゑい」(しぶさわえい)役を「和久井映見」(わくいえみ)さんが演じているのです。

渋沢栄一の商才や慈悲深い性格の基盤となった、「渋沢家」こと「中の家」(なかんち)での場面は、青天を衝けで一番はじめに注目したいポイント。

また、渋沢栄一と青春時代を過ごし、一緒に前へ進んでいく幼馴染の渋沢喜作役には、「高良健吾」(こうらけんご)さんが起用されているのです。のちに妻となる渋沢栄一の幼馴染「尾高千代」(おだかちよ)役には、2018年(平成30年)放送のNHK大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)でも、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)の妻役を演じた「橋本愛」(はしもとあい)さんが扮しています。幼馴染で気心が知れた関係にある渋沢喜作・尾高千代とのシーンは、血洗島・青春編における大切な見所です。

そして、渋沢栄一の人生における転換期にかかわる登場人物も、ぜひ注目しておきたいところ。渋沢栄一の師となる従兄・尾高淳忠役には、NHK大河ドラマ3作目の出演となる「田辺誠一」(たなべせいいち)さんを起用しています。尾高淳忠は、若き渋沢栄一に多大な影響を与えた人物。明治維新後も、渋沢栄一と一緒に日本を発展させようと尽力していました。

また、渋沢栄一と幕末期に出会い、のちに江戸幕府最後の将軍となる徳川慶喜役は、「草彅剛」(くさなぎつよし)さんが演じています。このような演技派俳優陣が、渋沢栄一の生涯に欠くことができない重要人物として登場するシーンも、同ドラマにおける見所のひとつです。

知れば楽しさ倍増!青天を衝けの制作秘話とは

精巧なオープンセットで再現!渋沢栄一の故郷・血洗島

青天を衝けでは、渋沢栄一が家族や幼馴染と青春時代を過ごす血洗島を、群馬県安中市に建てられたオープンセットで表現しています。

広々としたロケ地に建設された血洗島村の巨大セットは、幕末期に農民達が暮らしていた村そのものと言える仕上がりになっており、ロケに参加した俳優陣からも、感嘆の声が上がったと言われています。

このように巨大なセットを建てた理由は、渋沢家があった血洗島村と、尾高千代や従兄の尾高淳忠らが生活する尾高家の「下手計村」(しもてはかむら)との距離を表現するためでした。渋沢家と尾高家は近所に住んでいたとは言っても、実際の距離は徒歩で30分もかかったと伝えられています。この距離感と当時の農民による暮らしを現実感を持って表現するために、全長約1kmにも及ぶ広大なオープンセットが建設されました。

また、渋沢栄一が論語を学んでいたことに因み、尾高淳忠に師事した渋沢栄一が行き来した道は、「論語の道」と呼ばれています。両家を結んだこの道もまた、オープンセット内にも再現されているのです。

さらには、渋沢家と尾高家の間に位置し、若き渋沢栄一と幼馴染が集まっていた大木「ひこばえの木」も、彼らの関係性を表す象徴的な場所のひとつ。ひこばえの木にぴったりな大木が植えられていたことも、オープンセットの建設地に選ぶ決め手になったと言われています。

スタッフの技術が光る!渋沢栄一が育った「中の家」

桑畑

桑畑

広大な村を建設したオープンセットと同じく、青天を衝けの世界観を表現しているのが、中の家と称された渋沢家のセットです。

なかでも、当時の中の家を忠実に表現しているポイントが「桑の木」です。製藍業のみならず、養蚕業を営んでいた渋沢家では、蚕の餌である桑を多く栽培していました。

オープンセットを担当した美術チームは、この桑畑を再現するために2020年(令和2年)1月頃から約3,000本もの桑を植えて、撮影に向けて準備を始めたと言われています。そして地元農家の協力を仰ぎ、渋沢家の周囲に広大な桑畑を完成させたのです。またスタジオに作られた中の家母屋の内部セットには、養蚕業に不可欠な蚕(かいこ)数万匹を育てる養蚕部屋も設置。養蚕部屋での撮影には、本物の蚕も登場しています。

さらに注目したいのは、渋沢栄一の父・渋沢市郎右衛門が藍染めの場所として用いていた土蔵(どぞう:火災や盗難に備え、四面を土や漆喰で固めた倉庫)のセット。スタッフが独自に作ったこの土蔵は、勉学に励み、研究熱心でもあった渋沢市郎右衛門を表現するために制作された特別なセット。渋沢栄一は、この土蔵にて藍染め研究を行っていた父に多大な影響を受け、商売への道を自ら開いていったのです。

青天を衝けを鑑賞する際には、スタッフのこだわりが随所に見られるスタジオセットの細部にまで注目してみると、さらに深く楽しめるかもしれません。