渋沢栄一の基礎知識

渋沢栄一の重要人物 - 名古屋刀剣ワールド

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血洗島(現在の埼玉県深谷市)の豪農(富裕な農家)に生まれた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、一時期、京都で尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう:江戸時代末期に起こった反幕、外敵排除運動)に参加していましたが、一橋徳川家の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)との出会いから、一橋徳川家の当主「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に仕えることとなった人物です。その徳川慶喜が江戸幕府15代将軍となったことで、幕臣(将軍直属の家臣)となり、人生が拓かれました。明治時代を代表する実業家、渋沢栄一に関する重要人物について解説します。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)との出会い

NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)を主役にした物語です。渋沢栄一が発案した伝記「徳川慶喜公伝」に基づいて企画・制作されました。なぜ、明治の実業家として知られる渋沢栄一が、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の伝記を編纂したのでしょうか。

実は、渋沢栄一にとって徳川慶喜は、徳川慶喜が将軍となる前からの主君で、渋沢栄一こそが、徳川慶喜の意志を最も理解していた人物だったのです。明治の近代化で重要な役割を果たした徳川慶喜と渋沢栄一について、詳しくご紹介します。

徳川慶喜の家臣になった渋沢栄一

平岡円四郎に一橋徳川家への仕官を勧められる

徳川慶喜

徳川慶喜

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は、1837年(天保8年)生まれです。

徳川慶喜と渋沢栄一が初めて会ったのは、1864年(元治元年)。徳川慶喜が「徳川御三卿」(ごさんきょう)のひとつである「一橋徳川家」の当主を務めていた頃で、徳川慶喜は28歳、渋沢栄一は24歳でした。

徳川慶喜は、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の将軍後見職に就いており、将軍と共に天皇に拝謁(はいえつ:目上の人に会うこと)するため上洛していたのです。このとき、一橋徳川家の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の仲介によって、京都にいた渋沢栄一とも初対面を果たしました。

平岡円四郎は、渋沢栄一が江戸遊学の際に出会い、親しくなっていた人物です。平岡円四郎は、渋沢栄一が一橋徳川家にとって必要な人材だと確信し、渋沢栄一に一橋徳川家への仕官を勧めたのです。

しかし、幕末の慣習では、御目見(おめみえ:将軍に直接拝謁すること)の資格を持つ「上士」でなければ、一橋徳川家当主に会うことはできません。ましてや、当時の渋沢栄一は農民という身分。

それにもかかわらず、渋沢栄一は徳川慶喜にお目見えするだけでなく、「自分が天下を乱すほどの人間だということを知った上で仕官を認めて貰いたい」と言っています。これほど身分の差がありながら、渋沢栄一が大胆な行動を取ることができたのはどうしてなのでしょうか。

これは、渋沢栄一が平岡円四郎から一橋徳川家仕官を勧められた際、徳川慶喜に直接建言(けんげん:意見を申し立てること)することを条件としていたから。つい最近まで仲間と共に攘夷計画を立てていた自分が、御三卿である一橋徳川家に仕えることなど許されるのであろうかと自問自答した末に出した条件でした。

これに対して平岡円四郎は、到底受け入れることはできないと一旦は拒否。しかし、平岡円四郎は器が大きい度量のある男。渋沢栄一は一橋徳川家にとって必要であり、親しくなった際に渋沢栄一が攘夷計画に失敗し、京都へ逃げてきたことを知り、何とかして助けてあげたいという思いでこの条件を受け入れることを決めたのです。

初対面を果たした徳川慶喜と渋沢栄一

平岡円四郎のおかげで、徳川慶喜が馬に乗って遠出をするときに、渋沢栄一が傍らを駆けながら会話するという貴重な機会が設けられます。しかし、渋沢栄一当人は、徳川慶喜に建言することよりも、肥満気味な自身の体型を心配していたとのこと。それでも、渋沢栄一は、馬を走らせる徳川慶喜と並走しながら話すことに成功しました。

幕府を立て直す必要性について訴える渋沢栄一に対し、徳川慶喜は賛成も反対も述べず、あいづちを打ちながら耳を傾けてくれたのです。こうして渋沢栄一は、初対面で一橋徳川家当主・徳川慶喜に顔を覚えてもらうことに成功し、のちに、屋敷内で拝謁し、一橋徳川家への仕官を認められたのです。

幕臣となりフランスへ視察留学

一橋徳川家に仕官することになった渋沢栄一は、まず「奥口番」(おくくちばん)と呼ばれる最下級の役職を与えられました。しかし、渋沢栄一は財政難に陥っている一橋徳川家を再興するため、徳川慶喜に対して財政再建策を進言するなど、低い身分でありながら早々に頭角を現したのです。

そして、1866年(慶応2年)に徳川慶喜は、江戸幕府15代将軍に就任。渋沢栄一は思いも寄らない形で将軍直属の家臣、つまり「幕臣」となったのです。このとき、徳川慶喜の性格を理解していた渋沢栄一は、徳川慶喜のことは将軍を補佐する役目のほうが適任だと考えており、徳川慶喜の将軍就任に猛反対していたと伝えられています。

そんななか、15代将軍徳川慶喜は、欧州、フランス国の「パリ万国博覧会」に、使節団の派遣を決定。名代(みょうだい:ある人物の代わりを務める者)として弟の「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)を抜擢したのです。その随員として会計を得意とする渋沢栄一も指名されました。渋沢栄一は、もちろん快諾。

結果として、パリ万博の視察と欧州留学を経験したことが、渋沢栄一にとって人生の大きな分岐点となりました。渋沢栄一が海外の先進国で知り得たことが、日本の近代化の原動力となったのです。

一方、徳川慶喜もこの間に日本で「大政奉還」(たいせいほうかん:江戸幕府の統治権を朝廷に返上すること)という大きな決断を下します。

さらに、1868年(慶応4年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)が中心となった「新政府軍」と「江戸幕府軍」との内戦「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発するのです。

徳川慶喜は、この鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、徳川家の菩提寺「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)で謹慎する道を選びます。そして、新政府に対して恭順(きょうじゅん:命令に謹んで従う態度)の姿勢を示したのです。

徳川慶喜の名誉回復を願う

静岡藩で経営手腕を発揮した渋沢栄一

1868年(明治元年)に欧州から帰国した渋沢栄一は、静岡で謹慎している徳川慶喜のもとを訪れ、主君への最後の務めとして渡欧の報告をしました。

しかし、すっかりやつれた徳川慶喜の姿を見て、言葉を失ってしまったのです。そんな渋沢栄一に対して、徳川慶喜はフランス滞在中の様子を話してほしいと気丈にふるまって見せました。

そして徳川慶喜から、「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を掛けられます。しかし、渋沢栄一は、徳川慶喜のことをとても気にかけ、尊敬する徳川慶喜の傍でこれまでの恩義に報いたいと考え、静岡に留まり、静岡藩の財政立て直しに尽力することにしたのです。

渋沢栄一は、かつて路頭に迷う浪士であった自分を救ってくれた徳川慶喜には並々ならぬ恩義を感じていました。だからこそ、渋沢栄一は欧州で学んだ知識をもとに静岡藩で経営手腕を発揮し、徳川慶喜の役に立ちたいと考えたのです。

そののち、徳川慶喜は静岡と東京で隠棲生活を送り、趣味人として悠々自適な人生を送りました。一方、渋沢栄一は明治政府の官僚となったあと、近代日本を牽引する実業家として成功したのです。

幕末に出会った2人の人生は、明治という時代の中で全く別の道を歩んでいったかのように見えました。しかし、表舞台から去った徳川慶喜にとって、渋沢栄一は心を許して話せる数少ない相手であり、2人の交流は徳川慶喜が亡くなるまで続いたのです。

渋沢栄一が「徳川慶喜公伝」を編纂

徳川慶喜公伝(国立国会図書館ウェブサイトより)

徳川慶喜公伝
(国立国会図書館ウェブサイトより)

渋沢栄一は徳川慶喜の復権を願い、1893年(明治26年)から私財を投じて、徳川慶喜の真意や功績を伝える伝記編纂を開始しました。

編纂作業は一時中断されたものの、1907年(明治40年)から本格的に再開され、渋沢栄一は徳川慶喜から直接聞き取りを行うため「昔夢会」(せきむかい)を発足します。徳川慶喜は全17回にわたって行われた昔夢会に毎回出席していましたが、伝記が完成する前、1913年(大正2年)に病死したのです。

しかし、5年後の1918年(大正7年)、徳川慶喜公伝が刊行。渋沢栄一が約25年間を費やして完成させた傑作で、この書籍により徳川慶喜が再評価されることになったのです。

例えば、大正時代の教科書には、徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いで新政府軍を前に逃げ出したことや、その挙句に「江戸城」(現在の東京都千代田区)を明け渡した臆病者と記載されていました。

しかし、事実はそのような単純な話ではなかったのです。鳥羽・伏見の戦いのとき江戸へ撤退した徳川慶喜に対して、家臣は友好関係にあったフランス軍へ支援を要請するように提案しました。ところが、徳川慶喜が拒否。仮に支援を受けていれば、旧幕府軍が新政府軍に勝つ可能性もありましたが、戦場となった江戸の町は戦火に包まれ、多くの犠牲者を出してしまったに違いありません。

徳川慶喜公伝が刊行されたことにより、現代の教科書には、徳川慶喜はフランス軍からの軍事的支援を断ることで外国の介入を防ぎ、日本の独立を貫くと同時に、江戸市民100万人の命を守った名君と書かれています。

渋沢栄一は徳川慶喜について、「公は世間から徳川の家を潰しに入ったとか、命を惜しむとか、様々に悪評を受けられたのを一切顧みず、何の言い訳もされなかったばかりか、今日に至ってもこのことについては何も言われません。これは実にその人格の高いところで、私の敬慕にたえないところです」と偽りのない気持ちを述べているのです。また、徳川慶喜公伝では、「徳川慶喜は侮辱されても国のために命を持って顧みざる偉大な精神の持ち主」だとしめくくっています。

徳川慶喜と渋沢栄一は、幕末に主君と家臣、将軍と幕臣という関係に変化し、明治維新後には尊敬し合う理解者となりました。時代と共に関係が変化しても、聡明な2人はそれぞれの意志を尊重しながら徳川慶喜の最期の時まで親交を深めたのです。

徳川慶喜と渋沢栄一の逸話

徳川慶喜が大政奉還をしたとき、パリに滞在していた渋沢栄一はどう考えたのでしょうか。また、帰国した渋沢栄一に、徳川慶喜が掛けた言葉とは?大きな歴史のうねりの中で生まれた渋沢栄一と徳川慶喜の逸話をお伝えします。

想定内の大政奉還と予想外の慶喜謹慎

徳川慶喜の将軍就任に渋沢栄一は猛反対したと言われますが、徳川慶喜の推薦によって、欧州パリ万博への随員に指名されました。「ぜひお遣わし下さい」とパリ行きを快諾したものの、渋沢栄一はこのときすでに江戸幕府が長くないことを見通していたのです。

そんなパリで見聞を広める渋沢栄一ら使節団のもとへ、衝撃的な報告が飛び込んできます。それは「日本の将軍が政権を返上した」というもの。この大政奉還の知らせには使節団の誰もが動揺し、信じられずにいるなか、事態を見通していた渋沢栄一だけは動じることなく、周囲に「真実に違いない」と語っています。

しかしその後、渋沢栄一達は、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、江戸城が無血で新政府側に明け渡され、徳川慶喜が謹慎したことを知らされます。渋沢栄一もこれは予想外だったようで、幕府が見せたふがいない凋落ぶりに憤慨したのです。

パリ滞在中に投資をして利益を得る

新政府からの命令を受けて、渋沢栄一は徳川昭武/民部公子とともに帰国することになりました。帰国後、外遊中の旅費すべての決算を行った渋沢栄一は、パリ滞在中に鉄道債投資などで手にした利殖分を含めて16,000両ほどあった残金から、一個小隊分のスナイドル銃を購入。水戸藩(現在の茨城県)への土産として水戸へ戻る徳川昭武/民部公子に贈ったと言われています。

そののち、渋沢栄一は静岡の地にて、官民合同の出資を募り、株式会社制度を取り入れた「商法会所」を設立。その頃、静岡藩には多くの旧幕臣が移り住んできたため、人口が増加していました。この需要を的確に捉えた渋沢栄一は、商法会所の頭取格として指揮を執り、収益を上げることに成功。静岡の産業振興に大きく貢献したのです。

徳川昭武/民部公子(とくがわあきたけ/みんぶこうし)との出会い

渋沢栄一がフランスへ渡った目的は、1867年(慶応3年)に開催されたパリ万国博覧会に名代として出席する徳川昭武/民部公子のお供として、参加すること。このときの経験が、のちに「日本の資本主義の父」と呼ばれるほどの偉業に繫がったのです。渋沢栄一と徳川昭武/民部公子との関係について、詳しくご紹介します。

徳川慶喜の弟「徳川昭武/民部公子」とは

将軍名代としてパリ万国博覧会に出席

徳川昭武/民部公子は、1853年(嘉永6年)生まれ。水戸藩9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の十八男で、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の弟。1866年(慶応2年)に、徳川御三卿のひとつである「清水徳川家」の当主となり、のちに水戸藩最後の藩主となった人物です。

徳川御三卿とは、徳川将軍家に嗣子がない場合に、将軍を世に送り出す資格を有していた「田安徳川家」と一橋徳川家、そして清水徳川家のこと。「徳川御三家」と呼ばれる「水戸徳川家」と「尾張徳川家」、「紀州徳川家」に次ぐ地位がありました。大名のように独立した領地を持つことがない代わりに、江戸城内に屋敷があり、家臣は江戸幕府から派遣され、将軍家とは家族のような関係だったのです。

その徳川昭武/民部公子は、1867年(慶応3年)、日本を背負う大きな役割を任されます。欧州フランス国のパリにおいて、春から秋にかけてかつてない規模で開催されるパリ万国博覧会に、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の名代として派遣されることになりました。

このパリ万国博覧会への日本の参加は、幕末期における列強諸国の間で起こっていた覇権争いが絡んだもの。駐日フランス公使の「レオン・ロッシュ」が、日本もフランスと通商条約を結んでいる以上、皇帝ナポレオン3世主催のパリ万国博覧会へ代表使節を派遣することが国際的儀礼であると、江戸幕府に対して熱心に進言したのです。これを聞いた徳川慶喜は、すぐに了承。団長として、弟の徳川昭武/民部公子を抜擢しました。このとき、徳川昭武/民部公子は、まだ14歳という若さでした。

渋沢栄一もパリ万博使節団に選ばれる

勘定方として力を発揮

徳川昭武/民部公子率いるパリ万博使節団には20数名が随行することになりました。そのひとりとして、経済に明るい渋沢栄一が指名されたのです。

このとき、渋沢栄一は27歳。渋沢栄一が「尊王攘夷」論者の一農民から、一橋徳川家に仕官する武士となり、さらには幕臣になってわずか4年。驚くべき急展開でしたが、渋沢栄一のフランス行きは徳川慶喜直々のお声掛けでした。

一橋徳川家の中でも出世した渋沢栄一は、今で言う財務省の事務方トップに当たる、「勘定組頭」(かんじょうくみがしら)に就任。藩札を刷って世の中に流通させる構想を打ち立て、実際に藩札引き換えの会所も設立したのです。荷為替手形(にがわせてがた:輸出代金の決済のために、買主を支払人として、売主である輸出者が振り出した為替手形)に関する貸金の手続きをしたり、お金の貸付業務をしたりなど、現代の日本経済における「造幣局」(大阪市北区)や「日本銀行」(東京都中央区)、そして「民間金融機関」が担う役割を、自ら築き上げました。

パリ万国博覧会のあと、そのまま現地での留学も予定されていた14歳の徳川昭武/民部公子が、長期のフランス滞在を滞りなく行うためには、勘定方(かんじょうかた:江戸幕府や各藩において、金銭の出納を担当した役職)が十分に務められ、徳川昭武/民部公子の身の回りにおける雑事も扱う者が必要。渋沢栄一は、まさに適任だったのです。

さらに、徳川昭武/民部公子のお付きとして、水戸藩から7人の藩士を要望。外国人を敵対視する頑固な水戸藩士と、他の随行者との仲介役も必要だったことから、徳川慶喜は、「渋沢栄一を派遣するのが良い。渋沢栄一ならば思慮があり、臨機応変の対応が取れる。学問の心得もあり、人間性もしっかりしている。それに前途有望な人物だから、渋沢栄一自身が海外を知ることも大事だ。」と語り、渋沢栄一を指名しました。

このパリ万博使節団の派遣がなければ、渋沢栄一の運命は大きく変わっていたかもしれません。なぜなら、このとき渋沢栄一は、自身が仕える「一橋慶喜」が江戸幕府15代将軍の座に就いたことで、例えようのない大きな悩みを抱えていたからです。

のちに渋沢栄一は、「自分は実に逆境の人となった。」と語っていますが、これは、「もともと倒幕を志していた自分が、一橋徳川家に仕官しただけでも自己矛盾なのに、徳川慶喜が将軍になることで自動的に幕臣にまでなってしまった。これほど初志に反することはない。」という意味。

しかし、その思い以上に渋沢栄一を悩ませていたのは、様々な状況から判断して、いずれ江戸幕府は、倒れる運命にあることに強い確信を抱いている自分がいたからなのです。江戸幕府を延命させるため、倒幕派の征伐に乗り出す立場にならざるを得ないことなど、一時は農民に戻ることを考えたほど苦悩していました。

そんな思いを抱えたまま、渋沢栄一は心ならずも幕臣として、「陸軍奉行支配調役」(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)に任命されます。こうして、京都の屯所(とんしょ)に勤務していた渋沢栄一のもとに舞い込んだのが、パリ万博使節団への要請だったのです。渋沢栄一は、「慶んでフランスに行かせて頂きます」と、ふたつ返事で承諾。のちに渋沢栄一が果たした活躍を考えると、パリ万博使節団への参加を決めたこのときが、渋沢栄一にとって、道が一気に拓けた瞬間だったと言えるのです。

渋沢栄一は、「私はもう攘夷論者ではありません。今は、外国のことを知りたいと強く願っております。」と答えています。さらに、この要請が徳川慶喜直々のものであると聞かされると、その期待に応えようと、徳川昭武/民部公子の洋行(欧米への旅行、または留学)に、心魂(しんこん)を傾けることを約束しました。

明治新政府から突然の帰国命令

留学の経験を活かして活躍

パリ万博使節団一行が訪れた地

パリ万博使節団一行が訪れた地

徳川昭武/民部公子率いるパリ万博使節団一行は、1867年(慶応3年)1月に横浜港を出港。

上海や香港、ベトナムのサイゴン、シンガポール、スリランカなどに立ち寄り、当時、掘削(くっさく)工事が進められていたスエズ運河なども見聞しつつ、フランスのマルセイユ、リヨンを経てパリに入ったのです。

そして彼らは、パリ万国博覧会への参加を終えたのち、欧州各地を視察しました。

スイスやオランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどを訪れ、欧州列強のすさまじい産業の発展や軍事力に驚嘆。近代国家の社会や経済の仕組み、様々な分野における最新技術など、多くのことを習得しました。

そして渋沢栄一は、日本がこれらの列強諸国に追い付くためには、欧州各国などの海外で、すでに始められていた新しい社会構造や経済活動の仕組みなどを、早急に取り入れなければならないと確信したのです。

渋沢栄一達が帰国したのは、1868年(慶応4年/明治元年)の終わり。1867年(慶応3年)に大政奉還が行われ、明治新政府から突然帰国の命令を受けました。洋行は約2年間。渋沢栄一は予測していたこととは言え、パリの空の下で「江戸幕府が倒れた」との報を受け取った際の驚きは、言語に絶するような思いだったとのちに話しています。

徳川昭武/民部公子は帰国後、水戸藩最後の藩主に就任。1876年(明治9年)には、アメリカ大博覧会の御用掛(ごようががり)として渡米し、そののち、再びフランスに留学しました。帰国後は、長年に亘って「明治天皇」に奉仕したのです。

また、渋沢栄一は明治政府に招かれ、欧州で学んだことを存分に活かし、大蔵省(現在の財務省)の一員として新しい国づくりに深く介入。1873年(明治6年)に大蔵省を辞したあとは、民間経済人として成功したのです。

フリュリ・エラールとの関係

渋沢栄一は、日本の資本主義の父と呼ばれる人物です。驚くのは、生涯に500もの会社を設立したこと。渋沢栄一の才能が大きく開花するきっかけとなったのが、明治維新前後の約2年間、パリ万博幕府使節団の一員として欧州各国を訪問したことでした。特に、パリの銀行家・フリュリ・エラールとの出会いは、「近代日本経済の発展に一生を捧げよう」と誓った渋沢栄一の意思を力強く後押ししたのです。

フリュリ・エラールとは

フリュリ・エラールとの出会い

フリュリ・エラールは、フランスの銀行家で、幕末期に在仏日本名誉総領事を務めた人物です。

渋沢栄一がフリュリ・エラールに初めて出会ったのは、1867年(慶応3年)。この年の4月に、フランスのパリでパリ万国博覧会が開催され、日本はフランスから出展品と将軍親族の派遣を求められました。そこで、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、これを快諾。当時まだ14歳だった弟の徳川昭武/民部公子を名代として派遣することを決定します。パリ万博使節団にはその他20数名が随行し、渋沢栄一もそのひとりとして指名されました。

渋沢栄一がパリ随行で任されたのが、得意としていた庶務・会計です。パリ滞在中、庶務・会計という雑務を一手に処理するにあたり、最も頼りにしたのが、日本名誉総領事のフリュリ・エラール。パリで銀行家としての経歴を持つフリュリ・エラールは、様々な経済知識を渋沢栄一に伝授したのです。渋沢栄一はフリュリ・エラールと知り合ったことで、近代日本経済の発展に一生を捧げる人物へと成長しました。

渋沢栄一に金融知識を教授

パリ万博使節団に徳川昭武/民部公子が抜擢されたのは、ヨーロッパにおいて積極的な幕府外交を繰り広げるため、また、パリ万博が終了したあとも徳川昭武/民部公子にフランスで留学経験を積ませようとしたためです。

渋沢栄一は、厳しい財政事情のなかで徳川昭武/民部公子に学問を続けさせ、使節団の生活を営むために資金運用を行います。そのときのアドバイザーがフリュリ・エラールだったのです。

渋沢栄一は、近代国家における金融のプロであるフリュリ・エラールから、銀行の仕組みや業務内容、株式会社の設立要件や組織を習得。さらに、フリュリ・エラールはフランス流の日々の細かい会計上の処理方法や資金運用方法を、実際の現場を見せながら渋沢栄一に教えたのです。渋沢栄一は、実務を通じて、西欧の経済や金融に関する知識をどんどん蓄えました。

実際、渋沢栄一は20,000両で、フランスの公債や鉄道会社の株を購入しています。これは、徳川昭武/民部公子の留学費用や生活費を工面するためでしたが、その渋沢栄一が購入した公債は、何と銀行よりも高い利息が付きました。このように、購入した会社の営業成績が良ければ株価が上がり、配当金が多くなることを実体験として学んだのです。

欧州での実務も含めた経験によって、明治維新後すぐに、渋沢栄一は日本における銀行や株式取引所などの金融機関を設置します。そして、数多くの会社の創設にかかわったのです。

渋沢栄一に影響を与えたフランス文化

対等な人間関係に感銘

渋沢栄一にはフリュリ・エラールとの交流を通して、経済だけでなくもうひとつ、日本の社会にぜひ取り入れたいと思うものがありました。それは人と人の対等な関係です。徳川昭武/民部公子の教育係を担当したフランスの軍人「ヴィレット中佐」とフリュリ・エラールとの間には、上下の格差が全くないようでした。

この2人はいわゆる「士」と「商」の関係にあたり、当時の日本にはこの2つの身分の間には、決定的な格差があったのです。しかし、渋沢栄一がこの2人を見ていると、ヴィレット中佐がフリュリ・エラールに対して一目置いていることが分かりました。渋沢栄一は、ヴィレット中佐とフリュリ・エラールが接する姿から、身分や職業が違っていても対等な関係を築ける社会作りを行うことの重要性を強く感じたのです。

そして、のちに官僚となった渋沢栄一は、実際に四民平等や士族の解体を進め、身分解放の実施に動きました。特に、日本の商工業を発展させるためには、根強く残る「官尊民卑」(かんそんみんぴ:官民格差、政府や役人を尊び、庶民を卑しむこと)の打破こそが、自分に課せられた大きな役割だと考えたのです。

日仏親交が育てた日本の資本主義・民主主義

フリュリ・エラールは、渋沢栄一が「民主主義の父」と呼ばれる礎となり、幕末の日仏交流史に大きな足跡を残した人物です。しかし、裕福な銀行家で大の親日家であったこと以外には、全くと言っていいほど、日本における公式記録は残されていません。そこで、「渋沢栄一 算盤篇」の著者「鹿島茂」(かしましげる)氏は、フランスに訪問して調査。その結果について、ご紹介しましょう。

フリュリ・エラールの正式な名前は、「ポール・フリュリ・エラール」。フリュリ・エラールが経営していた銀行は、彼の親あるいは祖父の代から受け継いだ物で、まさに家名のままの「フリュリ・エラール銀行」と言いました。フランスの外交官は皆、この銀行に口座を持っていたと言っても過言でないほど、外務省の御用達銀行だったのです。フリュリ・エラールが在仏日本名誉総領事に任命された背景には、外務省との深いかかわりがあったと考えられます。

最後に、鹿島茂氏はフリュリ・エラールと渋沢栄一が親しくなった理由を、こう推察しています。フリュリ・エラールが渋沢栄一に経済を教えた人物と聞くと、かなり年上の人物と想像しますが、フリュリ・エラールは、1836年(天保7年)にパリで誕生し、1867年(慶応3年)のパリ万博時には31歳。まだ青年と言ってもいい年齢でした。

一方、1840年(天保11年)生まれの渋沢栄一は、フリュリ・エラールより4歳年下で、27歳。年が近くて若々しい日仏の才能が出会い、また大いに気が合ったことで、日本の資本主義、そして民主主義は開かれたのではないでしょうか。

渋沢平九郎(しぶさわへいくろう)との関係

「渋沢平九郎」(しぶさわへいくろう)は、渋沢栄一の従兄弟であり義弟、のちに「見立養子」(みたてようし)となった人物です。渋沢栄一がパリに留学している間、幕臣の子として江戸で文武の修行に励み、大政奉還後も幕臣の子として誇りを持って「彰義隊」(しょうぎたい)に参画し、新政府との戦いに挑みました。幕末の動乱に巻き込まれた、渋沢平九郎の生涯についてご紹介します。

養子・渋沢平九郎とは

渋沢平九郎の出自とは

渋沢平九郎は、1847年(弘化4年)、武蔵国榛沢郡下手計村(現在の埼玉県深谷市)の尾高家に生まれました。渋沢平九郎の母は渋沢栄一の父と姉弟。渋沢平九郎にとって、渋沢栄一は7歳上の従兄弟です。また、姉の「尾高千代」(おだかちよ)が渋沢栄一の妻となったので、渋沢栄一は義兄ともなりました。

尾高家も名主(江戸時代の村役人)を務めるほどの豪農で、渋沢平九郎は6、7歳のときに学問を、10歳頃には渋沢栄一も通った「神道無念流」の剣術を習い始めます。特に剣術の腕が良く、非凡。18歳頃には人に教えるほどの腕前に成長しています。しかも背が高く、かなりの美男子と言われていました。また、幼少時は父の浄瑠璃を聞いただけで周囲の大人が驚くほど上手に謡ったというエピソードも残っています。

兄の「尾高惇忠」(おだかあつただ/おだかじゅんちゅう)や「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)、従兄弟の「渋谷栄一」や「渋沢喜作」のちの「渋沢成一郎」(しぶさわせいいちろう)などの影響もあり、「尊皇攘夷」の思想を抱いて、自身も国事に奔走することを夢見たのです。

渋沢栄一の見立養子になる

1867年(慶応3年)、渋沢平九郎は渋沢栄一の見立養子となり、渋沢姓を名乗りました。見立養子とは、当時、幕臣が海外へ出向く際、万一に備えて自分の後嗣(こうし:あとつぎ)を指名するというもの。渋沢栄一は、パリ万博使節団の一員となった際、渋沢平九郎を見立養子としたのです。

また、渋沢平九郎の兄・尾高惇忠は、渋沢栄一より5歳上。幼少期から学問に秀で、17歳で自宅に私塾「尾高塾」を開講しました。渋沢栄一も、尾高塾で教えを受けたひとりだったのです。尾高惇忠は、明治時代に入ると実業家として活躍し、世界遺産「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:現在の群馬県富岡市)の初代所長も務めました。

兄とともに「彰義隊」に入隊

1867年(慶応3年)の夏以降、渋沢平九郎は、渋沢栄一の見立養子になり、江戸で幕臣の子弟として文武の修行に励むのです。

しかし同年10月、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったことで、自身の進退に迷い、郷里に戻ることを決意。実家に戻った渋沢平九郎は、兄・尾高惇忠に「開国し、海外の文明を取り入れて国を富ますことが大事で、徳川慶喜公の決断は国家を思っての行為。この徳川慶喜公に尽くし、男子の本懐を全うしよう」と叱咤激励されたと伝えられています。

ところが1868年(慶応4年)、新政府軍と江戸幕府との内戦・戊辰戦争の初戦、鳥羽・伏見の戦いが勃発するのです。しかし徳川慶喜は、その鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れて謹慎。新政府に対して恭順の態度を示しました。

そして同年3月15日、江戸幕府側の「勝海舟」(かつかいしゅう)と新政府軍の「西郷隆盛」は膝を突き合わせて会談し、同年4月11日に江戸城は無血開城となったのです。これにより、江戸時代は完全に終焉しました。

この頃、徳川慶喜の護衛を目的に旧幕臣らにより軍事組織・彰義隊が結成。頭取は渋沢栄一の従兄弟・渋沢成一郎です。旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗れたあとも、あくまで江戸幕府に忠義を貫き幕府を再興することを目論んでいました。兄である尾高惇忠の言葉を深く胸に刻んでいた渋沢平九郎は、兄と共に彰義隊に入隊したのです。

一方で、フランスにいた渋沢栄一に書簡を送り、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れたこと、早く徳川昭武/民部公子と共に帰国して欲しいといった、切実な思いを綴っています。

彰義隊を離れ「振武軍」を結成

明治維新が進むと、彰義隊内部で意見の対立が起こり、渋沢平九郎は兄・尾高惇忠と従兄弟・渋沢成一郎と共に彰義隊を離れ、別組織「振武軍」(しんぶぐん)を結成します。振武軍は江戸を出て組織の立て直しを図りました。

一方、彰義隊は1868年(慶応4年)5月15日、上野で新政府軍と衝突し「上野戦争」(うえのせんそう)が勃発。衝突の知らせを受けた渋沢平九郎達は、もとは同志の彰義隊を援護しようと、夜を徹して上野へ向かいました。しかし、田無(現在の東京都西東京市田無町)まで来たところで、彰義隊はすでに敗れ壊滅状態だと知ったのです。

渋沢平九郎の最期とは

5年間消息不明の果てに

能仁寺

能仁寺

彰義隊の残党を吸収して総勢1,000~1,500人とも言われた振武軍は、再び江戸を離れ、一橋徳川家の領がある飯能(はんのう:現在の埼玉県飯能市)に入り、「能仁寺」(のうにんじ:埼玉県飯能市)に本陣を構えました。

しかし、1868年(慶応4年)5月23日、新政府軍は飯能まで侵攻し、「飯能戦争」(はんのうせんそう)が開始したのです。

渋沢平九郎は、振武軍隊長の渋沢成一郎らと共に150人ほどで出陣しますが、最新装備の新政府軍を前に勝敗は明らかで、振武軍はあっという間に敗れて離散。兄とも離れた渋沢平九郎は、落ち延びて故郷を目指しました。

そんな、ひとりで郷里を目指す渋沢平九郎に、運命の分かれ道が訪れるのです。峠の茶屋で、束の間の休憩を取った渋沢平九郎は、茶屋の主人から落ち延びやすい道を勧められます。しかし、一刻も早く故郷に帰りたかったからなのか、渋沢平九郎はその提案を聞かず、黒山村(現在の埼玉県入間郡越生町)に降りる道を選びます。その結果、道中で新政府軍の兵と遭遇してしまうのです。そこで、「もはやここまで」と観念し、渋沢平九郎は自刃。わずか20歳の命でした。

渋沢平九郎は自刃したあとに斬首され、「法恩寺」(ほうおんじ:埼玉県入間郡越生町)門前でさらし首になり、弔われました。胴体は黒山村の人々によって「全洞院」(ぜんどういん:埼玉県入間郡越生町)に埋葬されますが、このことは誰にも知られないまま、5年間消息不明となっていたのです。

渋沢平九郎自決の地

渋沢平九郎自決の地

しかし、1873年(明治6年)、渋沢平九郎の最期を知る黒山村の人々からの情報が入り、ようやく渋沢平九郎の遺骨がある場所が判明。

渋沢平九郎は、渋沢栄一達によって谷中(やなか:現在の東京都台東区)にあった渋沢家の墓地に改葬されました。渋沢平九郎が最期を迎えた場所には、自刃碑も建てられたのです。

渋沢平九郎が若い命を捧げた彰義隊や振武軍は、「徳川慶喜の汚名をそそぐ」ことを掲げていました。現代では、徳川慶喜の大英断とも言われる大政奉還ですが、当時は江戸幕府が自ら負けを認めたのだと、徳川慶喜は逆賊の扱いを受けていたのです。

しかし、徳川慶喜の英断は、「いたずらに権勢を慕えば、世を騒乱に陥れることになる。戦いは断固避けねばならぬ」と熟考の末に至ったもの。渋沢栄一はフランスにいながら、幕末期に徳川慶喜の側近だった経験から、徳川慶喜の思いを十分に理解していました。そして渋沢栄一の養子となった渋沢平九郎も、徳川慶喜の名誉挽回のために立ち上がったのです。

一族から将来を有望視されていたことが窺える渋沢平九郎の夭逝は痛ましい限りですが、渋沢平九郎は渋沢栄一の思いと共に戦ったのです。

近藤勇(こんどういさみ)と渋沢栄一

幕末の歴史に名を刻む、剣豪集団「新選組」(しんせんぐみ)。江戸幕府の京都守護職「松平容保」(まつだいらかたもり)の配下で結成され、尊王攘夷派の弾圧を行い、京都の治安を守りました。その新選組の局長が「近藤勇」(こんどういさみ)です。渋沢栄一と近藤勇は、実は同じ武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、神奈川県の一部)の農家の出身。近藤勇と渋沢栄一の関係について、詳しくご紹介します。

近藤勇とは

近藤勇の出自とは

近藤勇は1834年(天保5年)、農家の家系である「宮川久次郎」の三男として、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)で誕生しました。幼名は「勝五郎」。

近藤勇が生まれた多摩周辺は、江戸幕府の直轄地。農民達のなかにも「幕府のため、将軍のために戦う」という意識が自然と芽生え、豪農家庭では剣術を学ぶ農民も多く、勝五郎もそのひとりだったのです。

1848年(弘化5年/嘉永元年)勝五郎が15歳のときに、江戸の甲良屋敷(こうらやしき:現在の東京都新宿区)にあった、天然理心流剣術道場「試衛館」(しえいかん)の門を叩きます。その創設者「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)に剣術の腕を認められた勝五郎は、近藤家の養子となり、近藤勇と名を改めて天然理心流を引き継いだのです。

新選組の局長に就任した近藤勇

1863年(文久3年)、江戸幕府14代将軍・徳川家茂の上洛が決定します。将軍の上洛は、およそ230年ぶり。そこで江戸幕府は、徳川家茂の上洛を警護するための組織「浪士組」(ろうしぐみ)を企画し、隊員を募集したのです。試衛館からは近藤勇のみならず、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)達を含む8名が参加。これにより、近藤勇達は京都へと向かいました。

このようにして、京都には約200人もの志士が集合。その目的は前述した通り、徳川家茂の警護です。しかし、これは表向きの理由。真の目的は、浪士組の発案者である「清河八郎」(きよかわはちろう)が、尊王攘夷派の先鋒(せんぽう:主張や運動などの先頭に立つ者)となることだったのです。これを知った近藤勇達は、「自分達はあくまで江戸幕府のために働きたい」と考え、浪士組は2つに分かれました。

江戸幕府のために働くことを希望した近藤勇達は、京都守護職を務める松平容保が藩主を担っていた会津藩(現在の福島県)の預かりとなり、京都守護職の配下に「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を結成。尊王攘夷運動を弾圧し、京都の治安維持活動を開始しました。壬生浪士組は、のちに新選組の名を賜り、近藤勇はリーダーである局長に就任します。こうして新選組は、最盛期には200人を超える集団となり、活躍しました。

尊王攘夷運動に失敗した渋沢栄一

「日本資本主義の父」と称され、明治時代の大実業家として知られる渋沢栄一もまた、近藤勇と同じ武蔵国の農民から武士になった人物です。渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農に生まれ、幼い頃から家業を手伝う一方で、父からは学問の手解きを受け、従兄弟からは本格的に「論語」などを学びました。

このような教育と家業で得た知識や経験を以って、権力者である江戸幕府が極端な身分制度を制定するなど、理に外れた行いをしていることを知り、22歳で従兄弟と共に江戸へ行くのです。

江戸では、儒学者の「海保漁村」(かいほぎょそん)に入塾し、「千葉道場」で「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の剣術を習い、尊王攘夷思想に傾倒し、倒幕の思いを強くしていきました。

「幕政の腐敗を洗濯したうえでなければ、とうてい国力を挽回することはできない。我々は農民とはいいながら、いやしくも日本の国民である以上は、わが本分の務めでないからと言って傍観してはいられない」

渋沢栄一自伝「雨夜譚」(あまよがたり)より

このような熱い思いのもと渋沢栄一は、幕府を混乱させて倒してしまおうという考え、1863年(文久3年)、塾や道場などで知り合った70人ほどの集団で、「高崎城」(たかさきじょう:群馬県高崎市)の乗っ取りと横浜の焼き討ちを計画します。

しかし、この計画は決行直前に、尊王攘夷派が起こした「天誅組の変」(てんちゅうぐみのへん)などが失敗に終わったことなど、京都の情勢に基づき、同志のなかで最も急進派と思われていた尾高長七郎の「残念ながら犬死するだけだ」との説得を受けたことにより、やむなく中止したのです。

幕臣となった近藤勇と渋沢栄一

近藤勇は江戸幕府側「尊王攘夷派を弾圧する」役目、一方で、渋沢栄一は尊王攘夷派でした。一見すると、まったく正反対の思想を持っていた2人に思えますが、幕末における近藤勇と渋沢栄一の動きは実はとてもよく似ていたのです。

当時、人々の思いは、幕府存続派と尊王攘夷派との真っ二つには分けることができず、非常に入り組んでいました。近藤勇も渋沢栄一も、日本の世を良くしていきたいという思いのもと、どちらも武蔵国の田舎から江戸へ、さらには江戸から京都へ上った結果、京都の地で出会ったのです。

近藤勇はもともと清河八郎と同じ尊皇攘夷派であったものの、清河八郎が江戸幕府よりも朝廷を優先する意を強く持っていたのに対し、近藤勇は江戸幕府と朝廷を一体化させ、政局を安定させる「公武合体論」(こうぶがったいろん)的な思想を持っていたと伝えられています。

「尊王攘夷派、倒幕派」に対し、江戸幕府側に味方をする人達を「佐幕派」(さばくは)と呼びますが、佐幕派のなかにも公武合体の意向があり、近藤勇率いる新選組も、江戸幕府が政権を握っていた、現状の体制を良しとする集団ではなかったのです。

平岡円四郎

平岡円四郎

一方、渋沢栄一は横浜焼き討ち計画を断念したあと、大きな転機を迎えます。江戸遊学の際に出会っていた一橋徳川家の家臣・平岡円四郎の推挙により、25歳のとき、一橋徳川家に仕官して武士となったのです。

しかし、一橋徳川家はいわゆる御三家と同様に、将軍の跡継ぎを世に送り出すことを目的に創設された徳川御三卿のひとつ。倒幕を考えていた渋沢栄一が、その家臣になったのはどうしてなのでしょうか。

その理由のひとつには、横浜焼き討ちに失敗して京都へ逃亡し、江戸幕府に追われる可能性があったこと。また、仕官に推挙してくれた平岡円四郎は、相手が農民の身分であっても「見込みのある若者だ」と胸襟(きょうきん)を開き、議論するような広い視野を持つ人物だったためです。

とは言え、渋沢栄一にとって仕官を決めるには大きな葛藤がありました。しかし、世の中を良くするために意見を出したい、また、京都で「一橋慶喜」(のちの徳川慶喜)への拝謁をしたいことを条件に、仕官を決意したのです。

ところが、1866年(慶応2年)8月、一橋慶喜が江戸幕府15代将軍に就任。その家臣団は自動的に幕臣となり、渋沢栄一と近藤勇は、どちらも江戸幕府に仕える身となったのです。

渋沢栄一が見た近藤勇とは

温厚で物事がよく分かる人

渋沢栄一と近藤勇は、年齢で言うと近藤勇が渋沢栄一よりも6歳上です。渋沢栄一と近藤勇の最初の出会いは、1866年(慶応2年)10月。陸軍奉行支配調役として京都に赴任していた渋沢栄一は、幕臣のひとりに薩摩藩との内通疑惑があるという情報により、その捕縛に向かいます。その際、助っ人として行動を共にしたのが新選組・近藤勇でした。

渋沢栄一は自著「実験論語処世談」の中で、近藤勇について次のように語っています。

「幕末の末路に勇名を轟かした[とどろかした]新選組の近藤勇は、世間では非常に無鉄砲な向こう見ずの猪武者のように見られているが、実際には、存外温厚な人物で、無鉄砲な人ではない。よく物事の分かる人であった。」

そんな近藤勇は、1868年(慶応4年/明治元年)、戊辰戦争において新政府軍に捕らえられ、斬首刑にされたのです。享年は35でした。このとき渋沢栄一は、徳川慶喜の弟・徳川昭武/民部公子の随行者のひとりとして、フランスのパリに視察留学中。まさに、渋沢栄一と近藤勇の運命は、明治新政府樹立の際に、大きく分かれたのです。

井上馨(いのうえかおる)と渋沢栄一

「井上馨」(いのうえかおる)は明治新政府の大蔵省で、「大蔵大輔」(おおくらたいふ)と言う実務のトップを務め、大蔵大丞(おおくらだいじょう)となった渋沢栄一の直属の上司となった人物です。2人は、財政政策を巡って「大隈重信」(おおくましげのぶ)と対立し、共に大蔵省を辞めています。井上馨と渋沢栄一に何があったのでしょうか。井上馨と渋沢栄一について、詳しくご紹介します。

井上馨とは

井上馨の生涯

井上馨は、1836年(天保7年)、長州藩藩士の子として誕生しました。当初は、「松下村塾」(しょうかそんじゅく:山口県萩市)の門下生と尊王攘夷運動に参加。「高杉晋作」(たかすぎしんさく)達と「イギリス公使館襲撃」なども共謀しました。しかし、1863年(文久3年)に「伊藤博文」(いとうひろぶみ)らとイギリスへの留学したのち、開国論に転向。

1871年(明治4年)、明治新政府では大蔵省の大蔵大輔(現在の財務省事務次官)となり、大蔵大丞の渋沢栄一達と共に、国の金融システムを大きく変える一大プロジェクト「貨幣制度改革」に取り組んだのです。

しかし、1873年(明治6年)に大蔵省を辞職。一旦、実業界に身を置きますが、2年後には伊藤博文の強い要請もあって、政界に復帰しました。また、1885年(明治18年)の第1次伊藤内閣では外務大臣に就任したのです。

のちも、各種大臣職を歴任。突出した理財の才能があった井上馨は、大蔵省時代から三井財閥をはじめ、実業界とも深いかかわりを持ち、「三井物産」(東京都千代田区)の前身となった会社を設立。その他、「日本郵船」(東京都千代田区)の設立にも尽力し、鉄道事業などにもかかわりました。

大蔵省を辞めた井上馨と渋沢栄一

大隈重信と対立

渋沢栄一は、大蔵省で井上馨を直属の上司として新しい制度を創り、様々な改革を実行していきました。2人は大蔵省内でそれぞれ大きく出世。しかし、井上馨が大蔵省の実質的なトップである大蔵大輔、渋沢栄一が大蔵大丞として実務トップ(ナンバー4)を担っていた1873年(明治6年)、2人は共に大蔵省をすっぱりと辞めてしまったのです。井上馨が37歳、渋沢栄一が33歳のときでした。

財政政策を巡る対立

財政政策を巡る対立

この要因となったのが、前大蔵大輔であった大隈重信との財政政策を巡る対立です。

大隈重信は財源を無視して積極財政を推し進めようとしましたが、井上馨と渋沢栄一は緊縮財政を主張していたのです。

その結果、大蔵省にあった予算編成権が正院(内閣)に移されることになり、これに抗議する形で井上馨と渋沢栄一は辞職。

具体的に言うと、新政府首脳陣は、学校制度や司法制度の整備など、急激な近代化に着手するため、全国に学校や裁判所などを設置する予算を大蔵省に要求。

これに対して、反対の意を示したのが、井上馨と渋沢栄一です。反対の理由は明白で、1871年(明治4年)の廃藩置県により明治政府は旧藩士の家禄や藩債を引き継ぎ、さらに1873年(明治6年)1月の徴兵制により軍事費も増大していたから。

当時、日本の財政は非常に厳しく、井上馨と渋沢栄一らは、地租(土地を対象に賦課された租税)による安定した税源の確保と家禄処分による歳出カットを目指すことなどで奮闘しており、「入ヲ量リテ出ヲ制スル」という立場は、どうしても譲れなかったのです。財政を鑑み、早急な近代化のための出費は受け入れられませんでした。

結果的に、大隈重信らの主張に敗れ、井上馨と渋沢栄一は、大蔵省を辞任。このできごとは、現在の日本政府が毎年の予算を公表する予算公表制度のきっかけにもなっています。

井上馨と渋沢栄一は、辞表を提出すると共に、政府の方針には1,000万円もの歳出超過があることを指摘。政府財政に関する「建言書」(けんげんしょ:官庁などに対して意見をまとめた文書)を連名で提出したのです。

新聞にも公表したことから大きな物議を醸し、政府はこれを鎮静化させるために、1873年(明治6年)の歳入出見込会計表を発表。ここから我が国の予算公表制度が始まりました。

渋沢栄一が見た井上馨とは

見識が高く度量が広い人

1840年(天保11年)生まれの渋沢栄一と、1835年(天保6年)生まれの井上馨は、井上馨の方が5歳年上。井上馨は非常に弁が立ち、ガミガミ屋としても有名でした。また、大蔵大輔のときには、事実上の大蔵省のトップとして「今清盛」(いまきよもり)と呼ばれるほどの権勢を振るったとも伝えられています。井上馨と大隈重信は、大隅重信の仲介で結婚するような間柄でしたが、井上馨はその大隈重信とも、真っ向から対立。信念を曲げない気性の持ち主であったことが分かるのです。

渋沢栄一自身は井上馨のことを、感情家で失敗に対して容赦がなく、人や物事の良いところではなく、悪いところを見る面があると評価。著書のなかで、井上馨との関係について「井上候はすこぶる機敏の人で、見識も高く、よく私を諒解[了解]して下されたのみならず、また至って面白い磊落[らいらく:度量が広く、小事にこだわらないこと]なたちで、私と一緒になって楽しむいわゆる遊び仲間にもなられたので、井上候と私とは肝胆[かんたん:心の奥底]相照らす親しい間柄にまで進んだ」と記載しています。

また、財政政策の方針では2人の意見は一致しており、渋沢栄一が大蔵省を辞める決意をしたとき、井上馨は「下野[げや:官職を辞め民間に下ること]して好きなようにするのも良い」と言っています。渋沢栄一は井上馨に対し、同志としての思いを強く抱いていたと考えられるのです。

ただし、井上馨と渋沢栄一が大蔵省を去ったあとの2人の道は異なりました。再び政府に戻った井上馨に対して、渋沢栄一は民間人として経済界への道を歩むのです。

渋沢栄一著「論語と算盤」(ろんごとそろばん)には、「もちろん私も井上さんと同じく、内閣と意見は違っていたけれど、私の辞したのは喧嘩ではない。主旨が違う。当時の我国は、政治でも教育でも着々改善すべき必要がある。しかし、我が日本は商売が最も振るわぬ。これが振るわねば、日本の国富を増進することができぬ。」と記載されています。渋沢栄一はこうした思いから政界に戻らず、経済界から日本の近代化に貢献したのです。

勝海舟(かつかいしゅう)との関係

勝海舟は、江戸城無血開城の立役者で、最後まで徳川家に連れ添った人物です。一方、「実業界の父」と呼ばれたのが渋沢栄一。この2人は、どちらも幕臣として、徳川家に忠誠を誓いながらも、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜を巡っては、意見が対立していたと言われています。渋沢栄一と勝海舟の関係について、詳しくご紹介します。

勝海舟とは

勝海舟の出自と軌跡

勝海舟は、1823年(文政6年)に下級幕臣の長男として江戸に生まれました。名は「義邦」(よしくに)。のちに「安芳」(やすよし)。海舟は号です。蘭学、兵学を修得し、長崎の海軍伝習所に入学してオランダ人から海軍諸術を学んだ人物。

1860年(安政7年/万延元年)「咸臨丸」(かんりんまる)の艦長として太平洋横断に成功。帰国後は軍艦奉行となり、「坂本龍馬」達を育成しました。1868年(慶応4年)に陸軍総裁となり、戊辰戦争では旧幕府側を恭順に導き、西郷隆盛と交渉して江戸無血開城を実現したのです。

勝海舟と渋沢栄一の出会い

初対面で関係がこじれる

勝海舟と渋沢栄一が初めて会ったのは、明治維新後のことでした。勝海舟と渋沢栄一は、年齢で言うと勝海舟が渋沢栄一よりも20歳以上年上です。巧みな交渉術で江戸城無血開城を実現させ、徳川家を存続させるために心血を注いだ勝海舟を、渋沢栄一は高く評価していました。

しかし、功績の差により渋沢栄一は初対面で勝海舟から「小僧」扱いされてしまったのです。意志が強く、自信家であった渋沢栄一は、ひどくプライドを傷付けられたとのこと。このあと2人は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜を命懸けで守っていく者同士となりますが、初対面でその関係はひび割れてしまったのです。

お互いに意志が強く、自信家であったと伝えられている勝海舟と渋沢栄一。主君を共にする幕臣でありながら、仲が良くなかったと伝えられています。

徳川慶喜に対する思いとは

渋沢栄一は、攘夷志士でありながら自分を取り立ててもらい、さらには世間を見る目を広げてくれた徳川慶喜に多大な恩を抱いていました。

一方、勝海舟は徳川慶喜とは反りが合わず、微妙な関係を築いていたと言われています。2人とも頭の回転が速く、時勢を読むことに優れていたものの、根本的な思想が合わなかったことから、勝海舟は徳川慶喜に裏切られる場面が何度もあったのです。勝海舟の最大の功績である江戸城無血開城の際も、勝海舟は徳川慶喜の信用をなかなか得ることができず、ひと悶着を起こしています。

明治維新後の活躍

勝海舟は海軍大輔と渋沢栄一は大蔵大輔

徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を朝廷に返上し、江戸城を明け渡したことで、およそ260年間続いた江戸幕府は終焉しました。

当時フランスにいた渋沢栄一は、明治新政府の命令により帰国。一方、徳川慶喜は家督を当時6歳の「徳川家達」(とくがわいえさと)へと譲り、徳川家古来の領地である静岡で謹慎生活を送ることになったのです。そこで渋沢栄一は、主君の恩義に報いるために静岡に赴き、静岡藩士となりました。

なお、勝海舟は、江戸城無血開城に尽力した元幕臣「大久保一翁」(おおくぼいちおう)と共に、静岡藩の藩政を担当。勝海舟はここから30年もの年月を、明治政府に徳川慶喜を赦免させることに費やすこととなります。

のちに渋沢栄一は、明治政府の要請により大蔵大輔、勝海舟は海軍大輔に任命され、それぞれ政府の役職へ就くこととなりました。しかし、2人とも2~3年で辞職。渋沢栄一は、かねての夢であった殖産興業の実現に向かって邁進するのです。

徳川慶喜の復権を目指す

1871年(明治4年)、廃藩置県が行われたことで静岡藩は消滅し、徳川宗家の謹慎が解除され、当主・徳川家達は東京へ転居。徳川慶喜も朝廷から従四位に叙せられ、「朝敵」の汚名はそそがれました。

しかし、徳川慶喜は勝海舟の助言にしたがって東京へは転居せず、自発的に静岡での謹慎生活を続けたのです。明治政府はこの頃、旧幕府軍の主導者的立場にあった元会津藩主・松平容保や「榎本武揚」(えのもとたけあき)を次々に赦免。また、徳川家達が東京へ転居する際には、旧静岡藩士達が護衛を名目に次々とお供していたのです。

勝海舟は、明治政府が徳川家やその旧臣をいまだ危険視していることをよく分かっていました。上記の流れによって、徳川家が「徳川家康の再来」とまで言われた徳川慶喜を担ぎ、反乱を起こすのではないかと明治政府が考えることに危機感を抱いていたのです。そのため、勝海舟は徳川慶喜を静岡に押し留めておくという策に出ました。

そのため、徳川慶喜はその後20年にわたって静岡で生活。勝海舟は徳川家の後見人として、徳川慶喜だけでなく、徳川宗家を継いだ徳川家達にも、明治時代において公職に就くなどの動きを見せてはならないと示唆しました。

渋沢栄一は、大恩ある徳川慶喜をいつまでも静岡に押し込めていることに憤り、そのような境遇にいる徳川慶喜を頻繁に見舞っています。

勝海舟と渋沢栄一は、互いに徳川慶喜を思っていたものの、その考えや行動に相違があったのです。渋沢栄一は、主君を思うあまり勝海舟の行動に不満を持つようになりましたが、2人の行動の根源は徳川家の復権を願うところにありました。勝海舟の死後、渋沢栄一は徳川慶喜の名誉挽回に務め、徳川慶喜公伝を編纂したのです。

渋沢栄一が見た勝海舟とは

リーダーとしての器ではない男

当時、勝海舟は江戸幕府を終わらせる引き金を将軍・徳川慶喜に引かせたとして、元幕臣からは幕府を売った裏切り者であると、多くの嫌がらせを受けていました。

しかし渋沢栄一は、徳川宗家を武力で打倒しようとする動きを見事に抑えた勝海舟を、正しく評価。その一方で、渋沢栄一は自身と交流があった、維新三傑である西郷隆盛や「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「木戸孝允」(きどたかよし)別名は「桂小五郎」(かつらこごろう)などを「一芸一能に収まらない人物である」と評価したことに比べ、勝海舟のことは「一芸一能に限りなく近い人物で、人を動かせるようなリーダーとしての器ではない」と辛口の評価をしています。

幕末の動乱期に己の手腕を発揮し、生き抜いた人物として見ているものの、一方で辛口の評価をしている背景には、初対面での小僧扱いや、徳川慶喜への示唆が大きく影響していたのではないかと思われるのです。

伊藤博文(いとうひろぶみ)との関係

初代内閣総理大臣・伊藤博文は、明治維新時には大蔵省の大蔵少輔(おおくらしょうゆう:現在の大蔵省事務次官である大蔵大輔の次席)をしており、大蔵大丞をしていた渋沢栄一の直属の上司にあたりました。この2人の間にはどのような秘話があるのでしょうか。伊藤博文と渋沢栄一の関係について、詳しくご紹介します。

初代総理大臣「伊藤博文」とは

伊藤博文の生涯

伊藤博文は、日本の初代内閣総理大臣です。1841年(天保12年)、江戸時代の周防国(現在の山口県)にて、農家の長男として生まれました。のちに父が長州藩の下級武士の養子となり、武士の身分を得ています。

吉田松陰」(よしだしょういん)が開校した松下村塾で学び、先輩である高杉晋作達と共に尊王攘夷運動を起こしますが、藩命によりイギリスに留学し、開国論者となって討幕運動に参加。明治維新後は、大蔵省の大蔵少輔に就任するなど重職を歴任しました。

1871年(明治4年)に政府から欧米に派遣された「岩倉具視」(いわくらともみ)を正史とする「岩倉使節団」に大久保利通や木戸孝允らと共に参加。そののち、伊藤博文は大久保利通の信頼を得て彼を支えていくのです。

工部省(こうぶしょう)の初代工部卿となった1873年(明治6年)から1878年(明治11年)においては、日本の近代国家建設の社会基盤整備と殖産興業を推進。自由民権運動が高まると、政府内で立憲政治への移行が浮上し、その方針をめぐって大隈重信と対立しました。

「明治14年の政変」では大隈重信を退け、1885年(明治18年)に内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任。憲法作成にも着手し、1889年(明治22年)に「大日本帝国憲法」(明治憲法)を発布します。伊藤博文は、計4度も内閣総理大臣を務めたのです。

また、「日露戦争」後、韓国を事実上の保護国とした際には初代韓国統監に就任。しかし、1909年(明治42年)、中国のハルピン駅で韓国人に暗殺されたのです。

伊藤博文と渋沢栄一の逸話

徳川慶喜について語った会話とは

伊藤博文と渋沢栄一は1歳違い。近代日本の経済と政治をそれぞれの立場から育てました。この2人の交流は様々ありますが、渋沢栄一は、晩年に伊藤博文と交わした会話が心に深く残っていると述べています。

それは、1901年(明治34年)頃。渋沢栄一は神奈川県の大磯から帰る汽車のなかで伊藤博文と偶然出くわしたのです。このとき伊藤博文は、「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえておられますが、実は私は立派な大名のひとりくらいに思っておりました。しかし最近、徳川慶喜公は非常に優れた立派な方であることを知りました。」と話しはじめたのです。

渋沢栄一は、なかなか人を信用せず認めない伊藤博文が、なぜ今このような話をするのか疑問に感じ、そう思った理由を尋ねました。すると、2人が汽車に乗り合わせる一昨夜、有栖川宮家でスペインの王族を迎えた晩餐会があり、伊藤博文は共に招かれた徳川慶喜と次のような会話をしたと教えてくれたのです。

伊藤博文は徳川慶喜に、維新の初めの頃、尊王を大事に考えていた動機について尋ねました。すると徳川慶喜は迷惑そうに、「水戸家の教えを守ったに過ぎない」と答えたのです。水戸家は義公(ぎこう:水戸光圀[みとみつくに]の尊称)の時代から皇室を尊ぶことをすべての基準にしていました。徳川慶喜の父・徳川斉昭も同様の志を持ち、徳川慶喜は、常々「今後、朝廷と徳川本家との間で戦争という大変なことにもなったとしても、水戸家は朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない」と教えられて育ったのだと語ったのです。

徳川慶喜は、幼いとき、この言葉をそれほど重要に捉えていなかったそうですが、20歳になり、再度父から念を押されたとのこと。「黒船が来航するなどし、こののち、世の中はどのように変わるか分からない。先祖代々受け継がれてきた水戸家の家訓を忘れるではないぞ」と。徳川慶喜は、「この言葉がいつも心に刻まれていたので、ただそれに従ったまでです。」と伊藤博文に話したと言うのです。

この返答に感銘を受けた伊藤博文は、徳川慶喜を奥ゆかしく、本当に偉大な人物だと、渋沢栄一に語りました。渋沢栄一は、伊藤博文が徳川慶喜の真の思いを深く理解してくれたことに心を熱くしたと伝えられています。

しかし、1909年(明治42年)、伊藤博文はハルビン駅で暗殺され、帰らぬ人となりました。訃報をアメリカで受け取った渋沢栄一は、当初は信じられず、「もし事実とするなら」と伊藤博文の功績を話しながらも、哀哭(あいこく:声を上げて泣き悲しむこと)して言葉に詰まったことが語られています。

渋沢栄一が伊藤博文に負けた理由

伊藤博文には髭があったから

1963年(昭和38年)11月に新しく発行された1,000円札の肖像には、明治天皇、伊藤博文、岩倉具視、「野口英世」、渋沢栄一、「内村鑑三」(うちむらかんぞう)、「夏目漱石」、「西周」(にしあまね)、「和気清麻呂」(わけのきよまろ)という9人が候補に挙がりました。

そのなかから、最終的に絞られたのが、伊藤博文と渋沢栄一の2人。その結果、1963年(昭和38年)の新1,000円札の肖像には伊藤博文が選ばれました。

実は、この決定の裏にあったのは、「髭」(ひげ)の存在だったのです。当時の技術では偽造防止のために、髭をたくわえた人物の方が良いと言うこと。残念ながら髭がなかった渋沢栄一が、伊藤博文に敗れました。しかし、現在は偽造防止の技術が向上し、渋沢栄一は髭がなくても令和における10,000円札の肖像に採用されるに至ったのです。

大隈重信(おおくましげのぶ)と渋沢栄一

1898年(明治31年)に8代内閣総理大臣となったのが大隈重信です。大隈重信は、明治維新時に、大蔵省の大蔵大輔を務めており、渋沢栄一を大蔵大丞へと熱心に誘い、直属の上司となった人物です。渋沢栄一がともに働きたいと願った、大隈重信とはどういう人なのでしょうか。大隈重信と渋沢栄一について、詳しくご紹介します。

8代内閣総理大臣「大隈重信」とは

大隈重信の生涯

大隈重信は、佐賀藩(現在の佐賀県)出身の武士で、幕末期には尊王攘夷派志士として活動した人物です。明治維新後は外国事務局判事などを経て、1870年(明治3年)参議(太政官に置かれた官名のひとつ、政府の要職)になり、そののち大蔵大輔、大蔵卿(おおくらきょう:大蔵省の長官)、外務大臣、農商務大臣などを歴任しました。

1898年(明治31年)には、「板垣退助」(いたがきたいすけ)と共に、初の政党内閣を組織し、8代内閣総理大臣に就任。1914年(大正3年)には2度目となる、17代内閣総理大臣に就任しています。

他にも、大隈重信が今日に残す功績は数多く、グレゴリオ暦の導入、鉄道の敷設、貨幣制度の整備、東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校など、日本の近代化のために様々なことに取り組んだのです。

渋沢栄一が見た大隈重信とは

浩然の気に満ちた、ものすごく元気な人

明治新政府は、フランスから帰国し静岡の地で奔走していた渋沢栄一に、大蔵省の役人になるよう声を掛けます。しかし、渋沢栄一としては、商法会所の経営がようやくうまく行き始めたところ。パリで思い描いた「株式会社による社会改造の実現」も夢ではないと思えてきた矢先だったのです。

大蔵省の役人になるということは、江戸幕府を倒した敵側に奉仕するということ。やはり、自分は静岡にいようと考え、この申し出を正式に断るために、大蔵省を訪問しました。そこで初めて、当時の大蔵大輔だった大隈重信と対面したのです。

大隈重信は、渋沢栄一に「あなたは元々新政府を創るという希望を抱き、苦労に苦労を重ねた人ではないか。私達は同志なのだから一緒にやろう」と、熱弁します。渋沢栄一は、辞退するつもりであることを伝えることができず、結果、大蔵省の役人となることを引き受けたのです。

北風と太陽

北風と太陽

まさに、大隈重信が渋沢栄一に施した論法は、童話「イソップ物語」の「北風と太陽」で言う「太陽の論法」。

意志の強い渋沢栄一のような人物は、行動しない場合に起こりうるマイナス面について脅しをかける「北風の論法」を用いても、比較的耐えることができびくともしません。そこで、一転して行動した場合に作用するプラス面を説く太陽の論法で押しまくります。その結果、説得に成功したのです。

渋沢栄一は2歳年上の大隈重信の印象を「ものすごく元気な人」と評価。勢いある熱弁と太陽の論理で、渋沢栄一は大蔵省の役人になることを承諾しました。これはある意味、大隈重信が渋沢栄一をいち早く日本社会全体のために活躍するきっかけを作ったと言えるのです。

渋沢栄一はさらに大隈重信のことを「まさに中国の孟子が言う浩然の気に満ちた人物」だと語っています。浩然の気とは、天地にみなぎっている万物の生命力や活力の源となる気のこと。中国では浩然の気が全身に満ちていると、志を高く持ち立派なことも成し遂げると言われていました。

渋沢栄一は大隈重信のなかにある浩然の気を感じ取り、ともに歩みたい人物と思ったに違いないのです。

大久保利通(おおくぼとしみち)と渋沢栄一

大久保利通は薩摩藩の出身で、「薩長同盟」を締結するなど、討幕や明治維新において活躍した人物です。渋沢栄一が大蔵省で大蔵大丞として働いていたときに、大蔵卿をしていたのが大久保利通。そんな大久保利通のことを渋沢栄一は「お互いに相手が嫌いだった」と言っています。大久保利通と渋沢栄一の関係性について詳しくご紹介します。

鹿児島の雄・大久保利通とは

大久保利通の生涯

大久保利通は、1830年(文政13年/天保元年)、薩摩藩の下級藩士の子として誕生しました。青年になると、囲碁を通じて薩摩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)の目に留まるようになり、幼馴染だった西郷隆盛と共に、幕末の表舞台に登場するのです。

薩摩藩では尊王攘夷を唱える、若手藩士のリーダー的存在に成長。31歳という若さで島津斉彬の異母弟「島津久光」(しまづひさみつ)の側近に抜擢され、公武合体策を進める藩政にかかわるのです。

また、大久保利通は西郷隆盛と共に薩長同盟締結に奔走し、倒幕の中心人物として活躍。ついには王政復古により徳川の世を終焉させました。さらに、明治新政府でも中枢を担い、西郷隆盛や木戸孝允、岩倉具視などと政治を主導。「廃藩置県」など明治時代前期における大改革を成し遂げたのです。

1871年(明治4年)、41歳のときには、「岩倉遣外使節団」の副使として欧米を視察。西洋の進んだ技術や文化に圧倒され、「富国強兵」(ふこくきょうへい:資本主義化と近代的軍事力創設を目指した政策)の必要性を確信したと語っています。

帰国後は初代内務卿に就き、現在、世界遺産に認定されている「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)の創始など、殖産興業による日本の近代化に向けて尽力しました。

しかし活躍の最中、1878年(明治11年)に、東京の紀尾井坂で不平士族「島田一良」(しまだいちろう)に暗殺されたのです。享年49でした。

渋沢栄一が見た大久保利通とは

大久保利通に激昂された渋沢栄一

渋沢栄一と大久保利通は、年齢で言うと大久保利通が渋沢栄一よりも10歳年上です。渋沢栄一はかなり上の立場だった大久保利通について、自著で「大久保利通に嫌わる」と見出しを付けて記述しています。

1869年(明治2年)から大蔵省で大蔵大丞として働いていた渋沢栄一に対して、大久保利通は1871年(明治4年)、大蔵卿に就任した人物。就任早々、大久保利通は、渋沢栄一を同列の大蔵大丞(実務上の最高位)と共に呼び出したのです。

話の内容は、陸軍省の歳費額を8,000,000円、海軍省の歳費額を2,500,000円とする政府の決議について、「大蔵省としては受けるつもりだが良いか」と尋ねるもの。しかし、可否を尋ねるのは形式上のことで、大久保利通のなかではすでに決定事項でした。

ところが渋沢栄一は、明確に反対の異を唱えたのです。渋沢栄一は政府の方針に沿うことが希望ではあったものの、当時、大蔵省は全国の歳入額の把握に努めている最中。まだ正確な額が掴めておらず、現状から考えて政府が巨額な軍事費を安易に定めるのは財政上危険だと考えていました。

また、陸軍と海軍が額を決めてしまうと他の省からも予算要求が舞い込み、そうなれば国家財政が破綻しかねません。渋沢栄一は論理的な理由から歳費額は歳入額に応じて決めるしかなく、今回の決定はしばらく見合わせて欲しいと返答しました。

ところが、自分の意に反する主張をした渋沢栄一に大久保利通は大激怒。色を帯びた顔と激しい口調で「渋沢は我が国の陸海軍がどうなっても構わないのか」と激昂したのです。しかし、渋沢栄一も負けず、「我が国の陸海軍の早急な近代化が必要であることは十分に承知している。しかし歳入額が明らかでない今、巨額の支出を決めるのは会計の理に反している。ご質問があったゆえ、意見を述べたまで。」と答えます。結果的には渋沢栄一以外の反対がなかったため、この件は大久保利通の思惑通りに進められました。

腹の虫が治まらなかった渋沢栄一は、ただちに辞表を提出しようと直属の上司であった井上馨のもとを訪問。このときは井上馨に慰留され大蔵省に残ったことが、渋沢栄一の著書「渋沢、大久保に反抗す」に記載されています。

また、渋沢栄一はのちにこの件を振り返り、大久保利通について大蔵省の主権者でありながら財政が分かっていないという不信が芽生えたこと。さらに「なんだか嫌な人だと感じたものである。大久保公もまた、私を嫌な男だと思われたと見え、私は大変、公に嫌われたものである」とも書いています。

しかし、渋沢栄一は大久保利通との「嫌い嫌われる関係」を語るなかで、「私などは特にそうだが、若いうちは遠慮なく思ったままを言ってしまい、人に嫌われたりすることにもなる。しかし、長いうちには結局、本当のところが人にも知られるようになるから、青年諸君はこのあたりを心得ておくことが大事だ」とも記しているのです。

虫は好かぬが器ならずな人

渋沢栄一は歳費案の一件で辞任も考えるほど大久保利通に憤慨しつつ、著書「実験論語処世談」で「大久保公は、私にとって虫の好かぬ嫌な人であったにしろ、公の達識には驚かざるを得なかった。私は大久保卿の日常を見るたびに、器ならずとは、公のような人を言うのだろうと、感嘆の情を禁じえなかった」と綴っています。

「器ならず」とは、論語の言葉で、「君子は器ならず」と言う特定のことだけで役立つのではなく、様々な方面で自由に才能を発揮できることが望ましいという意味。渋沢栄一にとって大久保利通は全く底の知れない人であり、素直に偉大だと思うのと共に、何となく気味悪く、それが大久保利通を嫌な人だと思う一因だと考えていたのです。

なお、大久保利通が暗殺された理由のひとつに、「国の金を無駄遣いしている」との糾弾がありました。しかし、死後の調査で、大久保利通の銀行口座に預金はほぼなく、逆に現在の価値で1億円以上もの債務を負っていたことが判明。実は、大久保利通は改革を進めるなかで、必要な資金が足りなかった場合に、身銭を切っていたのです。

しかし、大久保利通の死後、その債権を取り立てる者は現れませんでした。大久保利通は、私利私欲のためではなく、新しい日本のために尽くすことだけを考え、周囲にもその想いが伝わったと考えられるのです。

西郷隆盛(さいごうたかもり)と渋沢栄一

渋沢栄一が西郷隆盛に初めて会ったのは、1871年(明治4年)です。明治新政府の「参議」という高い地位に就いていた西郷隆盛が、突然、一官僚に過ぎなかった渋沢栄一の自宅を訪ねてきました。驚く渋沢栄一に西郷隆盛は一体何を言いたかったのでしょうか。またこの訪問により、西郷隆盛のことを尊敬したという渋沢栄一の本意とは。渋沢栄一と西郷隆盛について、詳しくご紹介します。

西郷隆盛とは

西郷隆盛と渋沢栄一の出会い

西郷隆盛は、1827年(文政10年)生まれ。薩摩藩の出身で大久保利通や木戸孝允と共に江戸幕府を倒し、明治維新に尽力した「維新の三傑」(いしんのさんけつ)のひとりです。

この3人のなかでも明治維新の最大の功労者と言われているのが、西郷隆盛。江戸城を無血開城に導いたことがいちばんの要因です。このことが現代において、明治維新が好意的に捉えられている理由のひとつとなっています。

西郷隆盛は、1871年(明治4年)、明治新政府の参議に就任。参議とは、当時の政府首脳が務めていた役職で、その重職を担ったのが、西郷隆盛、大隈重信、木戸孝允、板垣退助の4名でした。

西郷隆盛が渋沢栄一の自宅を訪ねてきたのは、参議に就任したちょうどこの年。「ある頼みごと」を抱えて、西郷隆盛はその渋沢栄一の勤め先にではなく、渋沢栄一の自宅までわざわざ訪ねてきたのです。

二宮尊徳の興国安民法とは

参議・西郷隆盛が突然、一官僚に過ぎない自分の自宅を訪ねて来たため、渋沢栄一は非常に驚きました。その理由は、西郷隆盛が渋沢栄一に対して、ある相談があったから。それは、「興国安民法」(こうこくあんみんほう)のことでした。

興国安民法とは、江戸時代末期に関東から南東北の農村復興に尽力した「二宮尊徳」(にのみやそんとく/にのみやたかのり)が、相馬藩(現在の福島県)に提案した財政や産業などに関する施策のこと。これにより相馬藩は繁栄しましたが、当時の大蔵省では廃止の議論がなされていました。それを知った相馬藩は、西郷隆盛に興国安民法の廃止の阻止を頼んだのです。その結果、西郷隆盛は渋沢栄一のもとへ相談に訪れました。

渋沢栄一は著書・論語と算盤の中で、西郷隆盛が当時、事実上の大蔵省の長官だった井上馨ではなく、一官僚にすぎない渋沢栄一のもとを訪れたのは、おそらく次のような理由だったと書いています。

「今清盛と呼ばれるほどの権勢を振るっていた井上馨の性格では、興国安民法の廃止を阻止する提案は受け付けて貰えずにガミガミと言われ、はね付けられて終わり。そこで、直属の部下である渋沢栄一を口説けば、廃止せずに継続できると考えたのではないか」と。

また興味深いのは、同書に掲載されている興国安眠法を巡る2人のやり取り。

(西郷隆盛) 「せっかくの良い法を廃止してしまうのも惜しいから、渋沢の取り計らいでこの法が廃止されないように、相馬藩の力になってくれないか」
(渋沢栄一) 「あなたは、二宮尊徳先生の興国安民法が、どのような内容なのかご存じでしょうか」
(西郷隆盛) 「それはまったく知らない」

渋沢栄一は相手がどんな権力者であっても忖度せず、是是非非(ぜぜひひ)の態度で問いかけをしているのが見事ですが、その一方で頼みに来たにもかかわらず、自身はどんな法なのか内容をまったく知らないと言い切る西郷隆盛も、ある意味すごいと言わざるを得ません。

渋沢栄一は、「まったく知らない要件のことを、頼みに来るとは分からない話だ」と思いながらも、「知らないのなら仕方ない」と西郷隆盛に興国安民法の内容について解説。「確かに良い法ではありますが」と前置きしたうえで、「相馬藩は、それで引き続き上手くいくかもしれません。しかし、一国をその双肩[そうけん]に担い、国政の采配を振るう大任にあたっているあなたが、相馬藩一藩のために奔走するだけで、この国の興国安民法をいかにすべきかのお考えがないのは、理解に苦しみます。本末転倒ではないでしょうか。」と諭したのです。

西郷隆盛は、この渋沢栄一の直言(ちょくげん:思っていることをありのまま言うこと)に対して何も言わず、静かに帰っていったと言われています。

渋沢栄一が見た西郷隆盛とは

素晴らしい豪傑

論語

論語

渋沢栄一は著書・論語と算盤のなかで、この逸話を紹介したあと、西郷隆盛について、尊敬の念を持って「素晴らしい豪傑である」と称しました。

よく知らないことを頼みに来た西郷隆盛を、滑稽な人物だと評価しなかった理由は、論語の存在があったからなのです。

論語とは、「孔子」(こうし:儒教の祖であり、春秋時代における中国の学者)の言行を、孫弟子や曾孫弟子らがまとめた書物のこと。

「日本における資本主義の父」と評され、生涯に約500もの会社を設立し、商工業の発達に尽力した渋沢栄一は、経済のことを学び、考えていくうえで論語をバイブルとしていました。その過程で何より重要視したことが、「現代語訳 論語と算盤」にも書かれています。

「国の富をなす根源は何かと言えば、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ。そうでなければ、富は完全に永続することができない。」

「現代語訳 論語と算盤」より

渋沢栄一は、「算盤[経済]は、論語によって支えられる」とする独自の考えを持ち、「論語の教えに基づいて、商売を成功させてみせる」との有言実行を果たしたのです。

また論語のなかには、「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」という言葉があります。これは簡単に言うと、「知らないことは知らないと自覚する。これが本当の意味での知るということである」という言葉があります。

渋沢栄一は興国安民法にまつわるできごとを通して、「明治維新の豪傑のなかで、誰よりも知らないことは知らないと素直に言え、ほんの少しも虚飾のなかった人物が西郷さんだ」と、西郷隆盛のことを心から尊敬していたということです。