渋沢栄一の基礎知識

渋沢栄一の歴史 - 名古屋刀剣ワールド

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「日本資本主義の父」、そして「実業界の父」とも呼ばれる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。2021年(令和3年)のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)や新紙幣の肖像としても話題の渋沢栄一とは、どんな人なのでしょうか。
渋沢栄一は日本初の銀行を設立しただけでなく、様々な業種の会社設立にも携わった人物です。ヨーロッパで学んだ先進的な資本主義の手法をベースに近代日本の経済を支え、明治財界のリーダーとして広く知られることとなりました。その人生は農民からはじまり、尊王攘夷の運動家、江戸幕府の幕臣、明治政府の官僚、そして財界を牽引する実業家へと躍進を遂げていくのです。
渋沢栄一はどんな人物だったのか、そのルーツから晩年までを詳しくご紹介。さらにかかわりの深い人物、子孫と家系図、ゆかりの企業や公的機関、執筆した本なども解説していきます。

渋沢栄一の生涯年表

近代日本の経済発展に大きく貢献し、現代では「日本資本主義の父」とも呼ばれる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)について、誕生から他界するまでの軌跡を生涯年表にまとめました。歴史的な偉人との出会いや渋沢栄一の多角的な活動について、時系列に沿って概要をご紹介します。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1840年
(天保11年)
0
武蔵国血洗島(ちあらいじま:現在の埼玉県深谷市)にて、豪農であった渋沢市郎右衛門(しぶさわいちろううえもん)の嫡男として誕生。
1847年
(弘化4年)
7
従兄の尾高惇忠(おだかあつただ/じゅんちゅう)のもとで、論語などの漢籍や日本外史などを学ぶ。
1858年
(安政5年)
18
尾高惇忠の妹・尾高千代(おだかちよ)と結婚。
1861年
(万延2年/
文久元年)
21
従兄の渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)別名・渋沢喜作(しぶさわきさく)と共に江戸に出て、2ヵ月に亘って遊学。儒学者、及び漢学者である海保漁村(かいほぎょそん)の門弟となる。
北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の剣士・千葉栄次郎(ちばえいじろう)の道場に入門する。
1863年
(文久3年)
23
再び江戸に出て、4ヵ月間遊学。一橋徳川家の家臣・平岡円四郎(ひらおかえんしろう)と出会う。
遊学中に尊王攘夷の思想に目覚め、尾高惇忠や渋沢成一郎らと倒幕計画を企てる。しかし、尾高惇忠の弟・尾高長七郎(おだかちょうしちろう)からの懸命な説得により断念する。
親族に累が及ぶのを懸念した渋沢栄一は、父に勘当された体裁を取り、渋沢成一郎と共に京都へ出奔する。
1864年
(文久4年/
元治元年)
24
江戸遊学中より交流のあった平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)のちの徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の家臣となる。
一橋家の命令で西郷隆盛と会見。薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩士で砲術家の折田要蔵(おりたようぞう)による洋式兵学塾に、内偵のために門下生として潜入。
1865年
(元治2年/
慶応元年)
25
渋沢栄一自ら、農民兵部隊の募集を一橋家に建白する。そののち、「歩兵取立御用掛」に命ぜられ、領内を巡歴。成功を収めたことで、徳川慶喜より褒美を受ける。
さらに藩財政改革案を徳川慶喜に提案したことにより、「勘定組頭」(かんじょうくみがしら)に就任する。
1866年
(慶応2年)
26
徳川慶喜が征夷大将軍となり、渋沢栄一は幕臣となる。
1867年
(慶応3年)
27
パリ万国博覧会へ出席する徳川慶喜の異母弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)に随行し、フランスへ出立する。
1868年
(慶応4年/
明治元年)
28
江戸幕府が倒れたことにより渋沢栄一は、明治新政府の命でフランスから帰国。同政府から謹慎を命じられ、静岡藩へ移されていた徳川慶喜に面会する。
主君であった徳川慶喜から受けた恩義に報いるため、静岡藩に留まって同藩に出仕する。
1869年
(明治2年)
29
静岡藩に日本初の株式会社となる「商法会所」を設立。
大蔵大輔であった大隈重信(おおくましげのぶ)の説得により、「民部省租税正」兼「民部省改正掛長」として、明治政府に仕える。(※民部省:明治政府における官庁のひとつ。土木や鉱山、通商など、民政関連の事務を担当した)
1872年
(明治5年)
32
大蔵省(現在の財務省)の三等官「大蔵少輔事務取扱」に就任する。
渋沢栄一の主導により、「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう)が事業開始。同じく「三井小野組合銀行」(のちの第一国立銀行)を設立。
1873年
(明治6年)
33
大蔵省を退官する。
第一国立銀行(のちの第一銀行)を開業、総監役を務める。
「王子製紙会社」の前身となる「抄紙会社」(しょうしがいしゃ)を創立。のちに取締役会長を務める。
1875年
(明治8年)
35
第一国立銀行の頭取に就任。
「商法講習所」(現在の一橋大学)を創立する。
1878年
(明治11年)
38
渋沢栄一をはじめとする有力財界人らが出願したことにより、「東京株式取引所」を設立。
渋沢栄一と実業家の大倉喜八郎(おおくらきはちろう)が発起人となり、「東京商法会議所」(のちの商工会議所)を発足する。
1882年
(明治15年)
42
妻の千代がコレラに罹って亡くなる。
渋沢栄一が発起人となり、「大阪紡績株式会社」(現在の東洋紡株式会社)を設立。のちに相談役となる。
1883年
(明治16年)
43
伊藤兼子(いとうかねこ)と再婚。
1885年
(明治18年)
45
「日本郵船会社」を創立。のちに取締役を務める。
「東京養育院」院長となる。
渋沢栄一が創立委員長となり、「東京瓦斯会社」(とうきょうがすがいしゃ:現在の東京ガス株式会社)を創立。のちに取締役会長を務める。
1887年
(明治20年)
47
渋沢栄一が発起人となり、「日本煉瓦製造会社」(にほんれんがせいぞうがいしゃ)を創立。
井上馨(いのうえかおる)の提唱により、大倉喜八郎と共に「帝国ホテル」を創立する。
大倉喜八郎、浅野総一郎(あさのそういちろう)らと「札幌麦酒会社」(現在のサッポロビール株式会社)を創立。のちに取締役会長を務める。
1888年
(明治21年)
48
伊藤博文(いとうひろぶみ)、勝海舟(かつかいしゅう)らと「東京女学館」を開校。
のちに館長を務める。
1890年
(明治23年)
50
貴族院議員に任ぜられる。
1901年
(明治34年)
61
「日本女子大学校」(現在の日本女子大学)を開校、のちに校長となる。
現在「飛鳥山公園」(あすかやまこうえん:東京都北区)内にあり、重要文化財に指定されている「飛鳥山邸」を本邸とする。
1909年
(明治42年)
69
実業界引退を表明。第一銀行、及び「東京貯蓄銀行」(第一銀行系の貯蓄銀行)を除く、61の会社役員を辞任。
1916年
(大正5年)
76
第一銀行の頭取などを辞職して、実業界を正式に引退する。
書籍「論語と算盤」(ろんごとそろばん)を著し、「道徳経済合一説」という考え方を提唱する。
1931年
(昭和6年)
91
11月11日永眠。

身分格差への怒りをバネに活躍!

渋沢栄一と言えば、日本に株式会社形態の銀行や企業を創設し、近代日本経済の発展に尽くした「実業界の父」。そんな渋沢栄一の誕生から青年時代までを追い、商売人としての道を歩んだ渋沢栄一のルーツを見ていきましょう。渋沢栄一は身分の違いによる不当な扱いを体験し、その怒りを原動力にしたのです。

若くして商才に目覚める

家業で学んだ商売の基本

1840年(天保11年)2月13日に、武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわぐんちあらいじまむら:現在の埼玉県深谷市)で生まれました。父は農業と養蚕業、製藍業をかね営む豪農の「渋沢市郎右衛門」(しぶさわいちろうえもん)と母は「栄」(えい)。長男であった渋沢栄一の幼名は「市三郎」(いちさぶろう)です。

渋沢栄一の生家(中の家)

渋沢栄一の生家(中の家)

渋沢栄一の生家は渋沢家支流のひとつで「中の家」(なかんち)と呼ばれ、当主は代々「市郎右衛門」と名乗りました。

渋沢家の婿養子だった父・市郎右衛門は、実直な働き者と評判で、農業や養蚕業、製藍業という家業で暮らしを立てながら、村の人々に対する金貸業も手がけていたと言います。

渋沢栄一は幼い頃から、農業や工業、商業、そして金融業を兼業する父の姿を見ながら育ったのです。

勉学に励んだ少年期

渋沢栄一は、6歳になると母の名前をもらって「栄治郎/栄二郎」(えいじろう)と称することに。この頃、渋沢栄一は、中国の古典に造詣の深い父から学問の手ほどきを受け、幼いながら漢籍(中国の書物)にふれていきます。

渋沢栄一は幼少の頃から読書好きで、何ごとによらず熱心に取り組む性格でした。そのため、6歳から7歳までの1年ほどで、孝経(こうきょう:孔子と曽子の問答を記した古代中国の経書)や、特に貴重な経典(けいてん:仏教の教えを記した書物)とされる「四書」(ししょ)の中から、「論語」や「大学」、「中庸」(ちゅうよう)といった、中国の思想書や歴史書を数多く習得したと言われています。渋沢栄一少年は、好奇心のおもむくまま、これらの学問を通して、とりわけ優れた教養と記憶力を培っていったのです。

さらに7歳のときには、となり村で私塾を開いていた従兄「尾高惇忠」(おだかあつただ/おだかじゅんちゅう)のもとへ通い、中国古典はもとより、「日本外史」(にほんがいし:武家の歴史書)や「国史略」(こくしりゃく:江戸時代後期の歴史物語)など日本の歴史書も学び始めました。尾高惇忠も幼少の頃から学問に通じた人物と言われ、17歳で「尾高塾」を開き、大勢の弟子に学問を教えていたとのことです。

このように、少年時代の渋沢栄一は、広く学問に通じた父や豊富な知識を誇る従兄・尾高惇忠の指導を受けて教養を身に付け、また知性を磨いていきました。

14歳で藍の葉の買い付けに成功

渋沢家が営んでいた家業のひとつである製藍業とは、着物などの染料として用いる藍の葉を育てて加工し販売する仕事です。渋沢家では、藍の葉を乾燥させ、発酵・熟成した物を突き固めて固形化した「藍玉」(あいだま)作りも行っていました。渋沢家で製造された藍玉は、直径約6寸(約18cm)ほどであったと伝えられています。

藍の葉

藍の葉

また、家の土地で藍を育てるだけでなく、他の農家が栽培している質の高い藍を買い取って藍玉を製造・販売することでも利益を上げており、渋沢栄一の父・渋沢市郎右衛門は、藍の目利き名人と評価されるほどの才人だったのです。

そんな父の背中を見て育ち、学問や読書にも熱心だった渋沢栄一少年に、ある転機が訪れます。

渋沢栄一が14歳のときのこと、留守だった父の代理として初めて藍の葉の買い付けを任されることになったのです。しかし、ひとりで買い付けにやってきた子どもである渋沢栄一を見て、藍農家の人々は相手にしてくれませんでした。ところが、渋沢栄一は摘み取られた大量の藍の葉を前にして、見事な選別能力を発揮。子どもだと侮っていた農家の人々を驚かせたのです。

こうして、生まれて初めての買い付けに成功した渋沢栄一は、商売の面白さを実感することとなりました。この逸話だけを見ても、渋沢栄一が少年時代からすでに商売人としての才覚を持っていたことが分かります。渋沢家の跡継ぎである息子の成長に、父・渋沢市郎右衛門もたいそう喜んだと伝えられているのです。

渋沢栄一青年の心に生じた反骨精神

身分制度の理不尽を知る

黒船来航で世の中が混乱する1856年(安政3年)、17歳の渋沢栄一に自身の思想を決定付けるできごとが起こります。

渋沢栄一は体調を崩した父の代わりとして、武蔵国岡部藩(現在の埼玉県深谷市)の藩庁である岡部陣屋に呼び出され、御用金(ごようきん:幕府や藩が財政困窮対策のため、臨時に豊かな商人などに課した借用金)を課されました。

このとき、一方的な要求を突き付ける代官の高飛車な態度に反感を持った渋沢栄一は、その場では承諾せず「風邪の父に相談してから決めます」と答えたのです。代官の命令は絶対で拒否など考えられない当時からすれば、渋沢栄一青年ができるせめてもの反抗だったと言えます。

渋沢栄一青年の予期せぬ対応に激怒した代官は、農民の身分を侮辱するような言葉を投げ付けました。これを聞いた渋沢栄一は、「学問を修めて商売に成功しても、農民というだけでこんな屈辱に耐えなければならないのか」と抑えがたい怒りが胸に渦巻いたのです。

父の背を追いながら、商売の面白さも、商売人としての誇りも感じ始めていた渋沢栄一は、この御用金の要求で初めて権力からの抑圧に晒され、身分制度に激しい反感を抱くこととなります。渋沢栄一がこのときに感じた悔しさを、忘れることは生涯ありませんでした。

1858年(安政5年)には、本名を「栄一」と改め、同じ年の12月には学問の師である尾高惇忠の妹「尾高千代」(おだかちよ)と結婚。人生の伴侶を得た渋沢栄一は、父と一緒に家業に精を出しながら、これまで通り読書を続けました。

また、剣術の鍛錬にも励み、多くの志士との交流にも力を入れるなど、幕末の混乱をよそに充実した青年時代を送っていたものの、身分制度に対する反抗心を抱き続けていたのです。

尊王攘夷思想から受けた影響

幼い頃から学問を好み、14歳にして商売人の才能を発揮した渋沢栄一は、20歳頃から家業の合間を縫って度々江戸へ出かけるようになります。江戸で学問と剣術に精進しながら、様々な志士と交流していくなかで、反骨精神を胸に秘めた渋沢栄一青年は、「尊王攘夷」(そんのうじょうい)と呼ばれる思想と出会うことに。

尊王攘夷とは、天皇を敬い、外敵を撃退しようとする思想のことです。これにより、渋沢栄一はどのような行動に出るのでしょうか。

日本の開国が渋沢栄一青年の人生を変える

1853年(嘉永6年)のペリー来航を契機として、日本の鎖国体制は崩壊。1858年(安政5年)に、江戸幕府とアメリカの間で「日米修好通商条約」が締結されました。そして、5つの港が開港されると、日本経済は自由貿易によって変革を迫られ、混乱をきたすことになったのです。

開国を決定した江戸幕府に対して、不信感を募らせた国民のなかには、天皇を最高位として尊ぶ「尊王論」(そんのうろん)を唱える者が増え、この思想に外国との通商に反対する外国排斥思想の「攘夷論」(じょういろん)が結び付き、いわゆる尊王攘夷の思想が、過激化することとなりました。

このような混乱の只中にあった1861年(万延2年/文久元年)、渋沢栄一は農閑期を利用し、江戸に赴き、儒学者「海保漁村」(かいほぎょそん)の門下生となります。同じ時期に剣士として名高い「千葉栄次郎」(ちばえいじろう)の道場へも入門。江戸に滞在した2ヵ月の間に、学問の見識を広め、より高度な剣術を身に付けました。

1862年(文久2年)の2月には長男「渋沢市太郎」(しぶさわいちたろう)が誕生。しかし当時流行していた麻疹(はしか/ましん)にかかり、早世(そうせい:若くして世を去ること)してしまいますが、翌年1863年(文久3年)8月に長女「渋沢歌子」(しぶさわうたこ)が生まれています。

1863年(文久3年)、尊王攘夷運動が激しくなるなかで、渋沢栄一はふたたび江戸を訪れました。父は家業に専念するように言い引き止めましたが、渋沢栄一はこれを説得。そして海保漁村の私塾と千葉栄次郎の道場へもう一度足を運び、今度は4ヵ月間にわたって江戸に留まります。

このときの渋沢栄一が最も求めていたのは、尊王攘夷について議論できる仲間だったのです。塾と道場で出会った志士達と世間の情勢を語り合ううちに、渋沢栄一は日増しに尊王攘夷の思想へと深く傾倒していきました。

故郷へ戻ったのち、学問の師である従兄の尾高惇忠や、幼馴染で従兄の「渋沢喜作」(しぶさわきさく)とも尊王攘夷について意見を交わし、ついに渋沢栄一は、農民としての人生をなげうって、国のために行動を起こす決意を固めるのです。

仲間と企てた大胆不敵な焼き討ち計画

1863年(文久3年)8月、渋沢栄一は従兄達と仲間を集め、横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を企てます。計画の賛同者は70名ほど。銃器を持たない同志達で実行するためには、入念に計画しなければなりません。

高崎城

高崎城

そこで渋沢栄一らは、まず「高崎城」(群馬県高崎市)を乗っ取って武器を奪い、さらに同志を募ったあとで鎌倉街道を利用して横浜へ出陣。横浜港近くの外国人居留地を焼き払ったのち、長州藩(現在の山口県)と連携して倒幕を目指すという計画を立てたのです。

計画の実行を決意した渋沢栄一は、国のために殉ずる覚悟を決めていたため、家督を継がないことを父に告げます。そして仲間と共に、夜を徹して焼き討ち計画の作戦会議を行い、戦いの準備を進めていきました。

その頃京都では、尊王攘夷運動の中心にあって、政局に影響を及ぼしていた長州藩が、佐幕派の会津藩(現在の福島県)と同盟した薩摩藩(現在の鹿児島県)から追われる事態になっていたのです。朝廷から長州藩の過激派を引き離すために、政変が勃発していました。

京都の情勢を聞き計画を断念

焼き討ち計画の実行を控えた渋沢栄一らは、京都に滞在している尾高淳忠の弟「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)へ帰郷を働きかけます。

ところが、1863年(文久3年)10月に故郷へ帰った尾高長七郎は、攘夷運動に意気込む仲間達に計画を中止するよう説いたのです。尾高長七郎から、京都では攘夷派が追われる状況であることを聞き、計画中止の説得に耳を傾けた渋沢栄一らは仲間と話し合った結果、焼き討ち計画を断念します。

夜通しで尾高長七郎より京都の詳しい情勢を聞くにつれ、渋沢栄一らは自分達の立てた計画が、いかに無鉄砲であったかを思い知らされることとなりました。国のために命すら懸ける覚悟であった青年達の大望は一夜にして形を失い、渋沢栄一は代官所で身分による屈辱を受けて以来、大きな挫折を味わうこととなったのです。

渋沢栄一の侍時代

渋沢栄一の侍時代

計画を断念した翌月、倒幕の嫌疑をかけられたことで家族に累が及ぶことを懸念した渋沢栄一は、父より勘当されたという体裁を取って、従兄の渋沢喜作と共に江戸へ出奔。

そこで以前遊学していたときに、親交を結んでいた「一橋家」(ひとつばしけ)の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)を頼ると、家来ということにしてもらい京都へ渡ります。

渋沢栄一と渋沢喜作は、逃げた先の京都で攘夷派の志士達との交流を図りましたが、すでに攘夷派が劣勢にあった京都では、2人が理想としていたような活動はとてもできません。さらには、渋沢栄一らが焼き討ち計画を記した手紙を尾高長七郎が持っていたため、罪人として捕縛されてしまったのです。

渋沢栄一と渋沢喜作は、追っ手の影に警戒しながら京都に潜伏することとなりました。

先進的なヨーロッパの社会・文化を実感

開国と同時に混乱が生じた幕末期、渋沢栄一は攘夷計画を謀るも、仲間の説得によって志半ばで中止。国のために自分には何ができるだろうかと自問する日々を送りながら、焼き討ちを計画したことが露見するのを恐れ、従兄の渋沢喜作と共に京都に身を隠していました。

そんななかで、渋沢栄一の人生を一変させる運命的なできことが起こるのです。果たして何が起きたのか、攘夷派であった渋沢栄一が幕臣となり、近代日本経済の基盤を築く一大転機となったヨーロッパ視察までの歴史を紐解いていきます。

友人の口利きで一橋家へ仕官

1864年(文久4年/元治元年)2月、京都に逃亡していた渋沢栄一と渋沢喜作のもとに、江戸遊学中に親しくしていた平岡円四郎から、ある誘いが舞い込みます。それは、平岡円四郎の主君である「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)への仕官に、2人を推挙するという提案でした。

倒幕運動に身を投じようとしていた者が、徳川御三卿(とくがわごさんきょう)のひとつである、一橋家に仕えることなど許されるのか、渋沢栄一と渋沢喜作は思いがけない提案に戸惑うものの、この機会を逃したら未来は開けないと悟った渋沢栄一は渋沢喜作を説得し、一橋家へ仕官することを決めたのです。

1865年(元治2年/慶応元年)、仕官が決まり江戸へ渡った渋沢栄一は、一橋家での誠実な働きぶりが評価され、一橋領内を巡回する農兵募集の役目を担い、手腕を見せます。家業で鍛えた洞察力に元来の社交性を活かし、いくつかの役割を兼任して勤しみ、上司からの信頼を獲得していきました。この、ひとつの思想に固執せず、自ら行うべき役割に対して真摯に取り組む柔軟な精神こそ渋沢栄一の本領と言えます。

高い評価を受けた渋沢栄一は、一橋家の財政を管理する「勘定組頭」(かんじょうくみがしら)に就任。幼い頃より培った商才を活かして領内の産業振興に尽力し、一橋家の財政再建の一翼を担うのです。

主君・徳川慶喜が15代将軍に!幕臣となる渋沢栄一

1866年(慶応2年)7月、一橋家の家臣として目覚ましい働きぶりを見せた渋沢栄一に、再び転機が訪れます。

江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の死去により、御三卿のひとつ一橋家の養子となっていた一橋慶喜が、徳川将軍家の跡を継ぎ、15代将軍・徳川慶喜となることになったのです。

こうして、主君の将軍就任によって、渋沢栄一は徳川家の家臣としての人生を送ることになりました。しかしこの頃には、敵対関係にあったはずの薩摩藩と長州藩の間で「薩長同盟」(さっちょうどうめい)が結ばれ、第2次長州征伐において、幕府軍は敗北を喫することになります。こうした戦況を受け、徳川家の先行きに不安を抱えていた渋沢栄一は、実際には主君の将軍就任を喜んではいなかったのです。

同年8月、将軍・徳川慶喜に従って長州へ出征するため、渋沢栄一も軍に同行するよう命じられます。そして、江戸幕府の役職である「陸軍奉行支配調役」(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)に任命されたことで、渋沢栄一は幕臣(ばくしん:旗本や御家人など、将軍直属の家臣)となります。

さらに、渋沢栄一は京都で新選組の「近藤勇」や「土方歳三」と協力して、謀反の疑いがあった幕臣を捕らえたことで、武勇においても評価を得ることとなりました。

ヨーロッパ視察で外国を知る機会に恵まれる

渋沢栄一は幕臣となって間もなく、パリ万国博覧会に出席する将軍・徳川慶喜の弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)の随員に選ばれ、フランスへ渡航することが決まります。

徳川家の行く末と自身の未来に不安を感じていた渋沢栄一にとって、ヨーロッパへの留学という、願ってもないチャンスが訪れたのです。そして、この任務は渋沢栄一の未来にとどまらず、近代日本の未来も大きく左右する重要なターニングポイントとなりました。

1867年(慶応3年)1月11日、徳川昭武率いる幕府使節29人を乗せたフランス商船「アルフィー号」が横浜港を出港。同年3月にパリに到着した徳川昭武は、フランス皇帝「ナポレオン3世」と会見しました。

同年5月にパリ万国博覧会を視察したのを皮切りに、渋沢栄一はオランダやベルギー、スイスなどヨーロッパ各国を訪問する徳川昭武に随行。その際、通訳として渋沢栄一に語学を教えてくれたのが、鎖国時代に日本で西洋医学の教育を行っていたドイツの学者「シーボルト」の長男「アレクサンダー」でした。

渋沢栄一とアレクサンダーはヨーロッパでの交流をきっかけに、のちのち、日本でも交友関係が続いていくこととなります。かつては攘夷思想に傾倒していた渋沢栄一は、このときのヨーロッパでの知見によって、攘夷を推し進めるのは不可能であったことを再認識したのです。

ヨーロッパで資本主義経済を学ぶ

蒸気機関車

蒸気機関車

ヨーロッパの各地を巡りながら、渋沢栄一は西洋の進歩的な科学技術に出会います。

整備の行き届いた水道設備や、蒸気機関車、エレベーターなど、どれもこれも日本にはない技術。

そして、これらの技術を活用しているヨーロッパの社会に比して、日本の技術力や社会そのものが遅れていることを痛感したのです。

それでも渋沢栄一が悲観するようなことはありませんでした。ヨーロッパの優れた部分を持ち帰り、ここで得た知識を応用すれば、日本も遠からず追い付けるに違いないと考えたのです。そこで渋沢栄一は、ヨーロッパ留学中にはどんなに些細なことでも詳しく記録していこうと心に決め、記録係としての任務に没頭しました。

ヨーロッパの先進的な社会構造のなかでも、特に渋沢栄一の心を掴んだのは、銀行を中心とする経済のシステムと株式会社による近代資本主義の仕組みです。たくさんの人々から集めた資金をもとに事業を行い、利益を分け合う資本主義の考え方に感銘を受けたのです。この経済構造を教えてくれたのが、パリ滞在中に経理面での相談役を引き受けてくれた、銀行家の「フリュリ・エラール」でした。

渋沢栄一が、フランス経済はどのような仕組みで動いているのか、疑問を発したところ、フリュリ・エラールは、どんな質問でも基本から丁寧に答えて解説したと言います。実際に渋沢栄一を銀行や証券会社などに案内し、実務の見学もさせてくれたのでした。

ヨーロッパ経済の仕組みを学んでいた渋沢栄一は、ある事実に衝撃を受けます。銀行家であるフリュリ・エラールが、徳川昭武に同行していたフランス陸軍大佐の「レオポルド・ヴィレット」と、対等な立場で交流していることを発見したのです。これを日本に置き換えてみると、商人が武士に対して堂々と物が言えるということ。当時の日本ではとても考えられない光景でした。

渋沢栄一はこの発見に驚くと同時に、国の発展のためには身分にこだわらない自由なビジネスが必要だと強く感じ、帰国後はすぐに、資本主義経済の構築を進めていこうと決意したのです。

日本で育んだ資本主義経済

ヨーロッパの先進的な産業や経済活動に刺激を受け、日本で自分がなすべきことを知った渋沢栄一。ところが、フランスで職務に専念する渋沢栄一のもとへ、日本から衝撃的なニュースが飛び込んできたのです。

長期にわたるヨーロッパ留学を終えた渋沢栄一が、帰国後に日本で取り組んだ仕事について、新政府での経済政策や事業を中心に振り返っていきます。

パリで大政奉還のニュースを受け取る

日本を出国してから1年が経った1868年(慶応4年/明治元年)1月、渋沢栄一らは、フランスの新聞記事に驚くべきニュースが掲載されているのを目にしました。

それは「将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府が瓦解[がかい:屋根瓦の一部が落ちるとその余勢で全体が崩れてしまうように、一部の崩れから組織全体が破壊されること]した」という一文。驚愕に色を失った徳川昭武や使節一行でしたが、そのようなことが起こるはずはないと、にわかには信じられなかったのです。

しかし渋沢栄一は、「ついに倒幕派が動いたのだ」と確信しました。幕臣になる以前、京都に滞在していたときから、倒幕を掲げた長州藩や薩摩藩が、強大な勢力となっていたことを知っていたためです。渋沢栄一は、遠く離れた外国で知った祖国の政変に驚きながらも、冷静に事態を受け止めようとしていました。

帰国後、静岡にて事業の立ち上げへ

1868年(慶応4年/明治元年)3月、明治新政府から帰国を命じられた渋沢栄一と徳川昭武一行は、自分達が急いで帰国したとしても、日本の状況は変わらないと判断。徳川昭武のフランス留学を延長し、渋沢栄一自身も当面はフランスに留まり、視察を続けることを決めています。

帰国命令があってから半年後の1868年(慶応4年/明治元年)9月4日、フランスのマルセイユを出港した一行は、11月3日に横浜港に到着。渋沢栄一は、その翌月に故郷である武蔵国榛沢郡血洗島村へ帰っています。この帰郷は、1863年(文久3年)に京都へ出奔して以来、実に6年ぶりのことでした。

徳川慶喜謹慎の地(宝台院)

徳川慶喜謹慎の地(宝台院)

身の回りの整理を済ませた渋沢栄一は、今後の人生をかつての主君・徳川慶喜のもとで送ることを決意。明治新政府からの命令により、「宝台院」(ほうだいいん:静岡市葵区)で謹慎していた徳川慶喜のもとへ向かいます。

渋沢栄一が徳川慶喜に留学の報告を終えると、徳川慶喜から「これからは、お前の道を行きなさい」という言葉をかけられました。

しかし旧恩に報いるため、フランスで学んだことを活かして、静岡で事業を始めることにしたのです。

1869年(明治2年)、渋沢栄一は静岡藩の資金と地元豪商から募った出資金をもとに、宝台院近くに「商法会所」(しょうほうかいしょ)を設立。フランスで学んだ銀行業務を手本として、農家に資金を貸し出す金融業と、米や肥料などを売買する商社をかね備えた、新しい事業を始めます。

また、地域の農業振興にも力を注ぎ、これからは徳川慶喜と静岡藩のために骨身を惜しまず尽くそうと考えていたのです。

大隈重信に強く勧められて新政府へ出仕

1869年(明治2年)3月、妻子を静岡に呼び寄せた渋沢栄一は、商法会所の頭取として経営を指揮していました。そこへ明治新政府からの呼び出しがかかり、財政や租税を扱う民部省(みんぶしょう:現在の財務省と金融庁)への出仕が要請されたのです。

渋沢栄一は同年10月に、東京へ赴くことになったものの、このとき静岡での事業を成功させるために尽力していた渋沢栄一は、新政府からの要請を辞退するつもりでした。かつて幕臣だった自分を、明治新政府が必要とすることなどあるだろうかと、東京へ向かう途上でもずっと疑念を抱いていたのです。

そんな渋沢栄一の胸の内を知ってか知らずか、新政府で実権を掌握していた「大隈重信」(おおくましげのぶ)より、大蔵省に統合された民部省への入省を強く勧められます。一度は辞退したものの、新しい日本をつくるためにと大隈重信に説得された渋沢栄一は、静岡に心を残しつつも、民部省において「租税正」(そぜいのかみ)の役職に就くことになりました。

そして渋沢栄一は、まとまりを欠いていた民部省内を改革すべきと大隈重信に進言。この渋沢栄一の組織改革の提案によって、各部署から適正な人員を集めた「改正掛」(かいせいがかり)が設けられることになりました。このとき大隈重信は、改革案の立案者である渋沢栄一を改正掛のリーダーに任命しています。渋沢栄一は、当時まだ29歳の若手であったにもかかわらず大役を任されることとなったのです。

しかし初めから順風満帆とはいかず、渋沢栄一を中心とする組織改編に不満を持つ者もいたと言われています。ところが、次第に渋沢栄一の意欲的な仕事ぶりに感化され、省内は徐々にまとまりを見せるようになりました。こうして渋沢栄一は、租税正と改正掛長を兼任しながら、税制改革の企画立案などを担っていくのです。

大蔵官僚として活躍するも意見対立で退官

入省後の渋沢栄一は、税制改革に携わる一方で、いくつもの革新的な制度を打ち出しました。1870年(明治3年)3月には、正確な租税の決定や土地の測量のために、長さや体積、重さを示す「度量衡」(どりょうこう)の単位基準を国際統一制度に合わせて制定することを提案。さらに同年5月には、郵便制度の構築に力を注ぐなど、日本の新しい土台作りに取り組んでいったのです。

さらに1871年(明治4年)には、渋沢栄一は大隈重信と連携して貨幣制度の整備に取り掛かります。「円」が新たな通貨の単位として定められ、「新貨条例」が公布されました。これに伴い渋沢栄一は、紙幣の製造・発行・交換などを業務とする「紙幣寮」(しへいりょう)のトップに就任することになります。

そののち、「廃藩置県」など近代日本への変革に次々と携わった渋沢栄一は、入省からわずか2年で多方面の要職を兼任することとなったのです。

このように多くの案件にかかわった渋沢栄一は、「大蔵大丞」(おおくらだいじょう)に昇進します。しかし心では、政府で責務を果たす一方、民間事業の発展に寄与することを考え続けていました。

そんななか、政府では予算を取り仕切る大蔵省と経費増額を要求する各省の間で対立が起こり始めます。大蔵官僚としてこの問題の解決に手を尽くしていた渋沢栄一ですが、予算編成を巡り、大蔵省事務総裁参議であった大隈重信や、太政大臣「三条実美」(さんじょうさねとみ)との対立激化を避けることはできませんでした。

この対立が解決されないまま、1873年(明治6年)5月に大蔵大輔(おおくらたゆう/おおくらたいふ:大蔵省の次官)「井上馨」(いのうえかおる)が辞表を提出。渋沢栄一もこれに続き、大蔵省を退官することとなりました。大蔵官僚まで昇りつめた渋沢栄一ですが、辞職する際には政府に未練はなかったと言われています。「自分の力が発揮できるのは役人としてではない」との考えから、渋沢栄一は一民間人となり実業家として商業の発展に携わることを決めたのです。

銀行経営に乗り出した渋沢栄一

大蔵省を退官した渋沢栄一は、念願の実業界での仕事に挑戦していきます。渋沢栄一が民間人として最初に手掛けたのは、日本初の銀行を設立することでした。これは、大蔵省に所属していた頃から布石を打っていた事業であり、渋沢栄一にとって銀行経営は、フランス留学時代からの夢でもあったのです。

新しい日本の社会と未来のために、渋沢栄一が実業界に身を置いて銀行経営を支えた時代を見ていきます。

日本初の銀行設立を目指し困難な課題に挑戦

1871年(明治4年)、渋沢栄一は明治政府で要職に就きながら、民間に会社制度を普及させるため、自ら執筆した「立会略則」(りっかいりゃくそく)を大蔵省から刊行しました。渋沢栄一は、この冊子に民間事業を通じて国を豊かにするという信念を記し、商業を発展させることが社会全体の利益へ繋がることを説いたのです。

こうして、渋沢栄一が社会に「合本組織」(がっぽんそしき:現在の株式会社)による経営制度の導入を推進したことで、民間において会社設立の気運が高まっていったのです。

このような状況下で、明治政府の大蔵省御用達であった豪商「三井高福」(みついたかよし)と「小野善助」(おのぜんすけ)が、有力な資本家として台頭します。それぞれ「三井組」、「小野組」と呼ばれ、当時の国庫出納機関である「為替方」(かわせかた)も務めていました。そんな2人の仕事ぶりを見た渋沢栄一は、彼らなら自分が思い描く銀行経営が可能なのではないかと考えたのです。

そこで渋沢栄一は、井上馨と共同で、銀行の設立計画を立て、井上邸へ三井高福と小野善助を呼び出します。このとき、渋沢栄一は2人に対して、三井組と小野組が合本組織となって、銀行を設立するように提案しましたが、三井組と小野組は、以前から競争相手として対立していたため、両組をまとめて経営を指南することは簡単なことではありません。しかし渋沢栄一は、利益を独占しようとする三井組と小野組に、合本主義の重要性を説き懸命に説得を続けたのです。

日本初の株式会社を設立

渋沢栄一は三井組と小野組を説得するため、1872年(明治5年)8月に「三井小野組合銀行」の組織を編制し、為替方の仕事を移行させます。こうして両組は渋沢栄一の説得を受け入れ、共同経営で銀行を設立することを決定しました。

1872年(明治5年)11月、明治政府は渋沢栄一が立案した「国立銀行条例」を発布。そして、1873年(明治6年)6月に三井小野組合銀行は政府の許可を受け、「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)と改組し、日本で最初の国立銀行として設立されたのです。

渋沢栄一は、第一国立銀行が設立される前月の1873年(明治6年)5月に大蔵省を退官しました。そして銀行設立に合わせて、三井組と小野組の役員を指揮する総監役に就任。両組から選りすぐった従業員をひとつにまとめるため、引き続き指導にあたります。

第一国立銀行は、発足こそ大蔵省主導で行われた国立銀行ですが、資本家によって経営されている民間銀行であり、日本初の株式会社です。この株式会社の営業の仕組みを作り、その経営を軌道に乗せることは、民間人となった渋沢栄一が手掛ける初の大仕事でした。

渋沢栄一は、第一国立銀行の経営を安定させることが、これから日本が経済成長を遂げる第一歩だと確信していたのです。渋沢栄一は、この間にも銀行だけでなく製茶業や養蚕業、土木事業、そして小野組と合同で手掛けた貿易業務など、多くの事業に携わっていました。

ところが1874年(明治7年)11月、三井組と共に第一国立銀行の経営を担ってきた小野組が破綻してしまいます。事態を収束させるために奔走する渋沢栄一は、1875年(明治8年)8月に第一国立銀行の取締役となり、さらには取締役会議によって頭取へ就任することになったのです。

銀行設立を支援し実業界を支える

渋沢栄一は頭取就任後、第一国立銀行の経営を立て直すために役員の人数を減らし、月給や経費を減額するなど様々な改革を行います。そして民間銀行としての経営基盤を強化しつつ、東北地方に支店を開設するなど、地方における銀行経営も開拓していきました。

1876年(明治9年)10月、国立銀行条例改正に伴って金禄公債(きんろくこうさい:廃止された禄の代償として華族や士族に交付された公債)での銀行設立が可能になると、各地で国立銀行の経営志望者が増加します。

渋沢栄一は、頭取として第一国立銀行の経営に関与しながら、意欲の高い志望者による、新たな国立銀行の開業支援にも積極的にかかわっていきました。経営者達に対しては、書面や面会で経営手法を指南するだけでなく、第一国立銀行での実務研修なども取り入れて、日本の未来を担う経営者を育てていきます。また渋沢栄一は、設立した銀行を地方に根付かせることで、地方の発展にも繋げたいと考えていたのです。

そんな渋沢栄一から経営指導を受けた豪商「中尾喜平」(なかおきへい)が、1876年(明治9年)12月、大分県に「第二十三国立銀行」(現在の大分銀行:大分県大分市)を開業。これに続き、長野県の「第十九国立銀行」(現在の八十二銀行:長野県長野市)、青森県弘前の「第五十九国立銀行」(現在の青森銀行:青森県青森市)、岐阜県の「第十六国立銀行」(現在の十六銀行:岐阜県岐阜市)などが開業。渋沢栄一は地方における多くの国立銀行の開業に力添えしていきました。

1878年(明治11年)12月には、経営指南を受けるために仙台から訪れた「河田安照」と「渡邊幸兵衛」(わたなべこうべえ)によって、宮城県仙台に「第七十七銀行」(現在の七十七銀行)が開業され、渋沢栄一は設立資金として30,000円(現在の金額で約1億5,000万円)を出資して大株主になりました。東北地方の開発に心を砕いていた渋沢栄一にとって、仙台での銀行開業は自身の夢でもあったことから、開業時の手厚い支援に繋がったと言われています。

このように、明治時代前期に各地で国立銀行が設立された背景には、渋沢栄一と第一国立銀行による会社組織を超えた丁寧な指導と支援があったのです。このとき、渋沢栄一の胸にあったのは、目先の利益の追求ではなく、日本全国に国立銀行を発展させ、国民全体を豊かにするための利益を生み出すことでした。

こうして渋沢栄一は、銀行設立を軸として日本の実業界を支え、さらなる日本経済の発展のために、新たな事業に挑戦していくこととなります。

公益を追求した実業界の父

渋沢栄一は銀行頭取を務めながら、起業家や若手経営者に「合本主義」(がっぽんしゅぎ)を唱え、多くの事業を支援していくことになりました。こうして、近代日本の経済を支えた渋沢栄一は、実業界の父と称される存在になっていきます。私益を求めず、公益を追求し続けた渋沢栄一が最期にたどり着いた場所はどこなのか、携わってきた事業と共に、晩年まで続けた活動について見ていきます。

製糸業・紡績業に海外の技術を導入

1873年(明治6年)2月、渋沢栄一は、豪商の三井組や小野組、「島田組」と共同出資をして、製紙業を営む「抄紙会社」(しょうしがいしゃ)現在の「王子製紙株式会社」(東京都中央区)を設立します。製紙業は、銀行と共に渋沢栄一が携わった最初の事業です。

それまで輸入に頼っていた紙よりも上質で安価な紙を国内で製造することは、日本経済の成長にとって重要な課題でした。抄紙会社の設立から3ヵ月後、渋沢栄一は大蔵省を退官し、銀行経営のかじ取りを行いながら、抄紙会社の工場建設にも挑んだのです。

1875年(明治8年)6月、東京府下王子村(現在の東京都北区)に抄紙会社の工場が完成。ヨーロッパから最新機械を導入すると共に、機械技師「フランク・チースメン」と製紙技師「トーマス・ボトムレー」を雇い入れました。

しかし、何もかもが日本初の試みだったため、最新機械を導入して外国人技師の指導を仰いでも、工場を順調に稼働させることは簡単ではなかったのです。工場は赤字続きでしたが、渋沢栄一は諦めることなく、従業員を励まし続けたと言われています。そして、工場開設から約2年経った頃、渋沢栄一の熱心な指導の甲斐があって、事業は軌道に乗り始めました。

そののち、渋沢栄一は紡績業にも携わります。1882年(明治15年)5月、渋沢栄一は、大阪財界の重鎮「藤田伝三郎」(ふじたでんざぶろう)らとの共同出資で、日本初の民間経営による紡績会社「大阪紡績会社」(現在の東洋紡株式会社:大阪市北区)を設立。

紡績業は江戸時代からあった産業でしたが、欧米で大量生産される安価な輸入品に日本の綿製品は勝つことができません。そこで渋沢栄一は、大坂紡績会社初代社長の「山辺丈夫」(やまのべたけお)をイギリスに派遣し、コストを抑えながら大量生産する方法を調査させたのです。

1883年(明治16年)7月、大阪紡績会社の工場を完成させると、原料として安価な中国製綿花の導入や夜間操業などを行い、事業を軌道に乗せていきました。こうした渋沢栄一の才知に富んだ施策によって、日本の紡績業は輸出が輸入を上回るまでに成長を遂げていくこととなります。

事業で手にした財産は社会貢献に活用

そののちも渋沢栄一は、日本の近代化を進めるため国内初となる事業の創設に積極的にかかわっていきました。

1887年(明治20年)に、日本初の機械式レンガ工場を持つ「日本煉瓦製造会社」や、日本初の化学肥料製造会社である「東京人造肥料会社」(現在の日産化学株式会社:東京都千代田区)、日本初のビール醸造所を備えた「札幌麦酒会社」(現在のサッポロビール株式会社:東京都渋谷区)を設立します。

そして、1890年(明治23年)には、外国人向けのサービスを充実させた「帝国ホテル」(東京都千代田区)を開業しました。このように渋沢栄一は、多岐にわたる事業の設立に携わり、その数は生涯で500社を超えると言われています。こうして、明治財界のリーダーとしてのポジションを手にした渋沢栄一ですが、事業の成功によって得た財産そのものには興味がありませんでした。

1909年(明治42年)、70歳の古希(こき)に達した渋沢栄一は、金融業以外の60社に及ぶ事業・団体の役職をすべて辞任することになります。さらに、1916年(大正5年)には、創設から長年携わってきた「第一銀行」の頭取も辞め、喜寿(きじゅ:77歳)を契機に、実業界から引退しました。しかし、なおも休むことなく以後は社会貢献活動に尽力していくこととなります。

東京都健康長寿医療センター

東京都健康長寿医療センター

そのなかでも、渋沢栄一が特に力を注いだ活動が、東京都板橋区の「養育院」(現在の東京都健康長寿医療センター)の運営でした。

養育院は、1872年(明治5年)に、東京の生活困窮者などを支援するために設立された施設です。渋沢栄一は、まだ大蔵官僚だった1874年(明治7年)から、養育院の運営に関与し続けていました。

そして、渋沢栄一は事業で得た財産を、養育院を通して病人や孤児などの社会的弱者救済に活用しています。1890年(明治23年)、養育院の院長に就任した渋沢栄一は、実業界引退後も亡くなるまでその職務をまっとうしました。

人生に幕を閉じた渋沢栄一は、かつての主君の側へ

渋沢栄一の社会貢献活動は、福祉以外にも教育や復興支援、国際交流など様々な公共社会事業で行われ、その数は実業界で携わった事業数を超える600ほど。1923年(大正12年)に発生した関東大震災では、「大震災善後会」(だいしんさいぜんごかい)の副会長に就任し、災害復興にも力を入れています。このような実績から渋沢栄一は、実業界のなかでも、最も社会貢献活動に寄与した人物だったと言われているのです。

また、1904年(明治37年)に勃発した「日露戦争」後、日本とアメリカの間で国民の対立感情が高まっていたことを危惧した渋沢栄一は、アメリカ人宣教師の「シドニー・ギューリック」が提唱した「世界の平和は子どもから」というスローガンに共感。これを受けて、1927年(昭和2年)に「日本国際児童親善会」の会長として日米間での「人形交流」を主催することになります。

この人形交流では、ひな祭りを祝う日本の子ども達のもとへ、アメリカの子ども達から「友情の人形」(通称:青い目の人形)が贈られ、対する日本からアメリカへは「日本人形」が贈られました。このように渋沢栄一は、世界平和のために親善活動にも尽力していたのです。

そして1931年(昭和6年)11月11日、渋沢栄一は92歳で大往生を遂げました。当時、弔問客は引きも切らず渋沢栄一が住んでいた、東京都北区飛鳥山の自宅から斎場へ向かう道には、100台もの車が列を作ったと伝えられています。また、沿道には渋沢栄一を悼んで30,000人もの葬列者が集まりました。

谷中霊園 徳川慶喜墓所

谷中霊園 徳川慶喜墓所

渋沢栄一が埋葬された上野谷中(うえのやなか:現在の東京都台東区)にある渋沢家墓地のすぐ近くには、若き日に仕えた旧主・徳川慶喜の墓所もあります。

こうして実業界の父、そして日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一は、数えきれないほどの功績を挙げ、近代日本の歴史に名を残したのです。

渋沢栄一と徳川慶喜のかかわり

江戸幕府最後の将軍として知られる徳川慶喜。渋沢栄一は幕末期に、将軍に就任する以前からこの徳川慶喜に仕えていました。

徳川慶喜に信頼を寄せ、家臣としての忠誠を誓っていた渋沢栄一は、1893年(明治26年)頃に自身で企画し、25年もの年月を費やして編纂(へんさん)した著書「徳川慶喜公伝」のなかで、徳川慶喜を慕っていた理由や、徳川慶喜に対する尊敬の念を綴りました。2人の関係性や、渋沢栄一が徳川慶喜にどのような思いを抱いていたのかについて述べていきます。

徳川慶喜が将軍へ就任した時代背景

徳川慶喜は、江戸幕府15代将軍にして、最後の将軍となった人物です。1837年(天保8年)、「徳川御三家」のひとつ「水戸徳川家」が領していた水戸藩(現在の茨城県)9代藩主、「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として誕生しました。

幼い頃から聡明と言われた徳川慶喜は、御三家と同じく将軍の跡継ぎを送り出すことを目的に創設された御三卿のひとつ、「一橋徳川家」の跡継ぎとして望まれ、1847年(弘化4年)に同家の家督を相続しています。

1858年(安政5年)には、実際に徳川慶喜の名前が14代将軍候補として挙がったものの、結局は紀州藩(現在の和歌山県)13代藩主の徳川家茂が将軍に就任。徳川慶喜は、これを不満に思うどころか、「骨が折れる将軍になって失敗するより、最初から将軍にならなくて良かった」という旨を徳川斉昭に宛てた手紙にしたためています。

徳川慶喜は将軍職への願望はないものの、幕政には積極的にかかわっていました。尊王思想(君主、すなわち天皇を尊ぶ思想)に傾倒し、1858年(安政5年)の日米修好通商条約への調印に関しては、大老の「井伊直弼」(いいなおすけ)が天皇の許可を得ずに進めたため、その勝手な行動を批判したほどです。

1862年(文久2年)には14代将軍の後見役となり、黒船来航以来、大きく動揺していた江戸幕府の体制を立て直すべく、「文久の改革」(ぶんきゅうのかいかく)を実行します。

1866年(慶応2年)に14代将軍・徳川家茂が急病により死去すると、徳川慶喜の将軍待望論が再燃することになります。しかしこのとき江戸幕府は、倒幕派の薩摩藩・長州藩連合軍と対立していた最中にあって、危機的状況を迎えていました。

このような背景もあり、徳川慶喜の胸中には「このまま徳川家がなくなっていくのも忍びない」という思いが芽生え、再三にわたる将軍職就任要請への固辞から一転、1866年(慶応2年)12月、15代将軍に就任します。

それから日本は、明治維新へと動き出しました。薩長連合軍の勢いが日に日に増していくなか、徳川慶喜は政権を朝廷に返上することを決め、世に言う大政奉還の実行に踏み切ったのです。

徳川慶喜と京都で会った渋沢栄一

徳川慶喜が、まだ将軍後見役を務めていた1863年(文久3年)のこと。江戸幕府の将軍としては230年ぶりに、徳川家茂が上洛することになると、徳川慶喜がひと足先に京都へ入ります。そして1864年(文久4年/元治元年)に、徳川慶喜は江戸幕府公認の禁裏(きんり:京都御所)を警護する「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)に就任し、京都における幕府勢力の中心的な存在となったのです。

渋沢栄一は、徳川慶喜とこの京都で出会います。幼い頃から父親に本を与えられて学問に精を出していた渋沢栄一は、尊王攘夷思想に従兄達と共に心酔。そして尊王攘夷運動を起こすために、従兄や同志達と連れ立って江戸に出ました。

江戸で数々の刺激を受けた渋沢栄一達は、ますます「江戸幕府の腐敗を一掃せねば」という思いを強くします。1863年(文久3年)には、倒幕のためにクーデターを目論見ますが実行目前にとん挫。江戸幕府の追及を恐れ、京都への逃亡を考えたとき頼りにしたのが、一橋徳川家の家臣で、渋沢栄一達が江戸で交流していた平岡円四郎でした。平岡円四郎は、徳川慶喜のお供で京都に出向いていた人物です。

平岡円四郎の引き立てにより、一橋徳川家に仕官した渋沢栄一は、1864年(文久4年/元治元年)、徳川慶喜への拝謁が実現したのです。

徳川慶喜と親しく話す間柄に

渋沢栄一は一橋徳川家で努力を重ねて出世し、勘定組頭の座に就きます。勘定組頭は、現代で言うなら財務省における事務方のトップに相当する役職。藩のレベルではありましたが、経済システムの取り扱い責任者のような役割を担ったのです。

渋沢栄一が提案した財政改革構想は特に画期的な政策でした。一橋徳川家の藩札であれば、世の中に流通させることが可能なら立派に通用するはずだと考えたのです。そして、現在の日本において、「造幣局」(大阪市北区)と「日本銀行」(東京都中央区)、そして「民間金融機関」が行っているような、通貨発行の仕組みを実践します。

徳川慶喜は、この渋沢栄一の卓越した能力を認め、2人は直に語り合う懇意な間柄になりました。

主君の名誉のために編纂した「徳川慶喜公伝」

渋沢栄一は、1893年(明治26年)頃から25年の歳月をかけ、1918年(大正7年)に全8巻から成る徳川慶喜公伝の編纂を成し遂げます。これは渋沢栄一自身が企画したもので、そこには「徳川慶喜公の名誉を回復しなければいけない」という思いがありました。

1868年(慶応4年/明治元年)3月14日、徳川慶喜の命によって、「勝海舟」が薩摩藩の「西郷隆盛」と会談し、戦うことなく「江戸城」(現在の東京都千代田区)を新政府に明け渡すことが決定します。

「江戸無血開城」と呼ばれるこの一大事は、江戸幕府が新政府に対して敗北を認めたことを意味していました。そのため徳川慶喜は、世間から「逆賊」とまで言われるほどの悪評を残すことになったのです。

江戸城跡

江戸城跡

しかし現在では、徳川慶喜のこの決断こそが東京(江戸)を守る結果になったと評価されています。徳川慶喜は、江戸市民およそ100万人が戦火に巻き込まれるようなことだけはしないという信念のもとに、江戸無血開城を決めたのです。

渋沢栄一は、徳川慶喜の胸の内を誰よりも深く理解していた家臣のひとりでした。徳川慶喜公伝では、徳川慶喜について「侮辱されても、国のために命を以って顧みざる、偉大なる精神の持ち主」と評し、最高の敬意を表しています。

渋沢栄一の家族と子孫、その家系図

近代日本を代表する実業家となった渋沢栄一。2人の妻との間に7人の子どもに恵まれ、多くの子孫を残しました。その子孫達の多数は渋沢栄一の遺志を受け継ぎ、各方面の事業で活躍して功績を残したのです。ここでは渋沢栄一の家系図と共に、現在の日本社会にも影響を与え続けている、渋沢一族の子孫をご紹介します。

妻と子ども達の略歴紹介

渋沢栄一は、故郷で尊王攘夷思想に傾倒していた頃の1858年(安政5年)に、学問の師である従兄・尾高淳忠の妹・尾高千代と18歳で結婚します。

最初の妻・千代

ひとり目の妻である千代との間には、1863年(文久3年)に長女の「渋沢歌子」(しぶさわうたこ)、1870年(明治3年)に次女「渋沢琴子」(しぶさわことこ)を儲け、また1872年(明治5年)には長男の「渋沢篤二」(しぶさわとくじ)を授かりました。

長女・渋沢歌子

長女・渋沢歌子は、日本初の法学博士でのちに枢密院(すうみついん:憲法の番人とも呼ばれた諮問機関)議長となる「穂積陳重」(ほづみのぶしげ)と結婚。6人の子どもに恵まれ、父や夫のことを綴った著書「穂積歌子日記」(ほづみうたこにっき)を出版しています。

次女・渋沢琴子

次女の渋沢琴子は、大蔵官僚でのちに大蔵大臣、東京市長を歴任した「阪谷芳郎」(さかたによしろう)に嫁ぎ、4人の子どもに恵まれました。

長男・渋沢篤二

渋沢一族の間では当初、渋沢栄一の後継者とされていた長男の渋沢篤二。父・渋沢栄一の跡継ぎとして実業界に入り、「澁澤倉庫株式会社」の会長を務めていた渋沢篤二ですが、1913年(大正2年)に廃嫡(はいちゃく:法定の相続権を除くこと)されてしまうことに。

この廃嫡の理由は明確には分かっていませんが、渋沢篤二が芸者と不倫問題を起こしたことや、芸術家肌だった渋沢篤二が一族を束ねる実業家には向いていないと渋沢栄一が危惧したことなどが理由として考えられているのです。

後妻・兼子

1882年(明治15年)に妻の千代がコレラで亡くなると、翌年の1883年(明治16年)に渋沢栄一は2人目の妻「伊藤兼子」(いとうかねこ)と結婚しました。後妻となった兼子は、幕末の豪商「伊藤八兵衛」(いとうはちべい)の次女です。実は、渋沢栄一はかつて伊藤家に丁稚奉公(でっちぼうこう:少年が住み込みで下働きすること)していたという縁がありました。

次男・渋沢武之助、三男・渋沢正雄、三女・渋沢愛子、四男・渋沢秀雄

後妻・兼子との間には、次男「渋沢武之助」(しぶさわたけのすけ)、三男「渋沢正雄」(しぶさわまさお)、三女「渋沢愛子」(しぶさわあいこ)、四男「渋沢秀雄」(しぶさわひでお)という4人の子どもに恵まれています。

また渋沢栄一は、女性関係が派手であったことでも有名で、複数人の愛人と関係を持っており、先妻・千代と後妻・兼子の7人の嫡子以外にも、愛人との間に数人の庶子が生まれていたことが明らかになっているのです。

最晩年の渋沢栄一と家族

最晩年の渋沢栄一と家族

渋沢栄一には、妻と愛人を自宅で同居させ、別宅にも愛人を住まわせるといった奔放な一面もあったと言われています。

しかし渋沢栄一は、子ども達に朗読してもらうことを日課にしていました。家族みんなを愛する気持ちに変わりはなかったと考えられているのです。

晩年の渋沢栄一は、昔のように息子の朗読を聞くことを楽しみにしていたというエピソードも語られています。

自身の後継者として孫を指名

渋沢篤二の長男・渋沢敬三

渋沢一族は一時、長男の廃嫡騒動を起こし後継者問題を抱えました。しかし渋沢栄一は、異母兄弟の間で起こる一族の家督争いを危惧し、すぐさま廃嫡した渋沢篤二の長男「渋沢敬三」(しぶさわけいぞう)を跡取りにするよう指名したのです。

当時、渋沢敬三はまだ18歳でしたが、祖父のこの切実な願いを受け入れ、後継者になることを決めました。こうして渋沢栄一の迅速な決断で、一族は骨肉の争いを起こさずに済んだのです。

後継者に指名された孫の渋沢敬三は、渋沢家当主として祖父の期待に応えるように、学問と仕事を両立させながら実業家の道を歩んでいきました。1926年(大正15年)には第一銀行)取締役、澁澤倉庫株式会社取締役を歴任することになります。

渋沢栄一の死後、渋沢敬三は1934年(昭和9年)11月に「日本民族学会」を設立。翌年の1935年(昭和10年)に「民族学博物館」(現在の国立民族学博物館:大阪府吹田市万博公園内)を開設しました。

また、第2次世界大戦中には、日本銀行総裁を務め、戦後は大蔵大臣に就任。渋沢敬三は、政財界で成功を収めながら民俗学者としても功績を残し、祖父の理念を受け継いで後進の育成にも励みました。

渋沢栄一の志を継いだ子ども達と子孫

渋沢栄一の孫・渋沢敬三以外にも、渋沢栄一の子孫の多くが実業界で活躍しています。まずは、廃嫡となった長男・渋沢篤二以外の息子達を見ていきましょう。

次男・渋沢武之助

次男の渋沢武之助は、「石川島飛行機製作所」(現在の株式会社立飛ホールディングス)社長をはじめ、様々な企業の取締役や監査役を歴任し、「帝国飛行協会」(現在の日本航空協会)理事も務めています。

三男・渋沢正雄

三男の渋沢正雄は第一銀行へ入社後、渋沢一族系各企業の重役を歴任。渋沢栄一亡きあと、1932年(昭和7年)に製鉄業以外の関係会社をすべて辞め、「日本製鐵株式會社」(にほんせいてつかぶしきがいしゃ:現在の日本製鉄株式会社)副社長に就任しました。

四男・渋沢秀雄

四男の渋沢秀雄は海外で住宅地開発を学び、渋沢栄一が発起人に名を連ねた「田園都市株式会社」(現在の東急グループの母体)の取締役に就任。また、絵画や俳句などを嗜む文化人でもあった渋沢秀雄は、「東京宝塚劇場」(現在は東京宝塚ビル:東京都千代田区有楽町)会長、「東宝株式会社」取締役会長も務めています。

次に、渋沢栄一の跡を継いだ渋沢敬三以外の孫達を見ていきましょう。

長女・渋沢歌子の長男・穂積重遠

長女・渋沢歌子の長男「穂積重遠」(ほづみしげとお)は、渋沢一族のなかでは珍しく、実業家としての道へは進まず、法学者として専念した人物です。学問好きで勉強熱心だった渋沢栄一の遺伝子を受け継いだ穂積重遠は、「日本家族法の父」と呼ばれ、最高裁判所判事を務めました。

長女・渋沢歌子の次男・穂積律之介、四男・穂積真六郎

長女・渋沢歌子の次男「穂積律之介」(ほづみりつのすけ)は、「株式会社播磨造船所」(現在の株式会社IHI)取締役、四男の「穂積真六郎」(ほづみしんろくろう)は朝鮮総督府官僚に就き、退官後に「京城電気株式会社」(現在の韓国電力公社)取締役、「朝鮮商工会議所」会頭を務めました。

長男・渋沢篤二の次男・渋沢信雄

長男・渋沢篤二の次男「渋沢信雄」(しぶさわのぶお)は、ドイツ書を輸入する書籍商として「福本書院」を経営。渋沢栄一が経営再建に尽力した「秩父鉄道株式会社」や、渋沢栄一が初代会長を務めた「東京製綱株式会社」で取締役に就任するなど、渋沢一族の関係会社で取締役や重役を歴任しました。

渋沢篤二の三男・渋沢智雄

渋沢篤二の三男「渋沢智雄」(しぶさわともお)は、兄の渋沢敬三が設立援助した「日本ワットソン統計会計機械株式会社」(現在の日本アイ・ビー・エム株式会社)取締役に就任したのち、澁澤倉庫株式会社の常務取締役や、渋沢栄一が設立を推し進めた「朝鮮興業株式会社」で取締役を歴任しています。

このように、渋沢栄一から非凡な才能や聡明さを受け継いだ子どもや子孫達は、実業界、そして学問の分野で「渋沢」の名を轟かせたのです。