渋沢栄一の基礎知識

渋沢栄一がかかわった会社 - 名古屋刀剣ワールド

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民部大蔵両省の官吏として日本の近代化に寄与してきた渋沢栄一ですが、1873年(明治6年)には大蔵省(現在の財務省)を辞して、実業家として企業の設立や人材育成に労力を割きます。その結果、日本で初めての銀行からガスなどの公共設備、製糸業、株式取引所といった様々な業種の会社を創設。約500社にも及び、数多くの偉業を残しました。渋沢栄一が起こした企業やゆかりのある会社、そしてその偉業についてご紹介します。

渋沢栄一が残した偉業 銀行

「近代資本主義の父」と称される「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の残した偉業のひとつに、日本で初めての銀行設立があります。1873年(明治6年)6月11日、渋沢栄一自らの手によって「第一国立銀行」が誕生。「国立」と名が付いていますが、実は民間の銀行です。第一国立銀行はのちに「第一勧業銀行」となり、そののち現在の「みずほ銀行」となります。

渋沢栄一は一生涯のうちに約500社もの企業を興し、近代日本の経済発展に力を尽くしましたが、その活動の中心は銀行業でした。渋沢栄一が銀行に思いを馳せた理由をご紹介します。

日本社会に経済基盤を整えるべく日本初の銀行を設立した渋沢栄一

欧州歴訪で西洋の合理的な金融構造を学ぶ

江戸時代末期、武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわぐんちあらいじまむら:現在の埼玉県深谷市)に、農家の長男として誕生した渋沢栄一は、尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士として活動していた時期がありました。

しかし奇縁により「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)に仕えることになり、一橋家では家政の改善などで活躍。しばらくして一橋慶喜が第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)となったことで幕臣になりました。そのあと渋沢栄一は、江戸幕府の「パリ万博使節団」の随行員のひとりに選ばれ、ヨーロッパ各地を周遊し、最先端の知識と技術に触れます。

特に欧州の合理的な金融構造に感銘を受けた渋沢栄一は、滞在中、使節団一行の案内役「フリュリ・エラール」から経済の基礎を教わりました。

明治政府で大蔵省の役人として活躍

渋沢栄一が訪欧中、徳川慶喜による大政奉還が行われ、明治政府が樹立。約2年ぶりに日本へと帰った渋沢栄一は、徳川慶喜が居た駿府(すんぷ:現在の静岡県)に滞在しますが、そのあと明治政府から誘いを受け、1869年(明治2年)11月、29歳で官僚となります。渋沢栄一が民部・大蔵両省で働いていた約3年半の間に、日本は近代国家となるために必要な法や制度の多くが作られましたが、そのほとんどに渋沢栄一がかかわっていました。

その取り組みの一例として、簿記法の整備、貨幣法の整備、租税制度や郵便制度の導入、国家予算の大綱設定、国立銀行条例の制定度量衡(どりょうこう:長さなどの物理単位)の統一、廃藩置県に伴う藩札引換等があります。

そして、1873年(明治6年)に大蔵省(現在の財務省)を辞した渋沢栄一は、民間に向けた実業家としての活動を開始。その始まりとなったのが、大蔵省時代の1872年(明治5年)に立案した国立銀行条例に基づく、日本初の銀行として創設した第一国立銀行の総監役(のちの頭取)でした。

第一国立銀行の創設

実は、渋沢栄一がまだ大蔵大丞(おおくらたいじょう:大蔵省における実務のトップ)のとき、江戸時代から両替商を営む豪商「三井組」や「小野組」が、それぞれ銀行設立に向け、大蔵省に働きかけていたのです。

しかし当時の渋沢栄一を含む大蔵省は、特定の組織による銀行業務の独占に反対。渋沢栄一は、自宅に三井組、小野組の両首脳を招き、合同資本による銀行運営を勧めます。また一般公募でも出資者を募って、第一国立銀行を設立しました。

官僚として第一国立銀行の創設を推し進めた渋沢栄一は、1873年(明治6年)、退官と同時に第一国立銀行の創立総会を開き、日本全体の近代化への下支えとなる民間経営の銀行を作り上げます。第一国立銀行は日本最古の銀行であると共に、日本で最初の株式会社でもあったのです。

渋沢栄一の銀行設立における理念とは

渋沢栄一が第一国立銀行を創立した理由のひとつは、企業を作るために必要な資金を融資するという仕組みを日本に取り入れるためでした。

「鹿島茂」(かしましげる)氏の著作「渋沢栄一 上 算盤篇」によると、第一国立銀行を創設したとき、渋沢栄一自身が株主布告において次のような言葉を残しています。

「そもそも銀行は大きな川のような物だ。役に立つことは限りがない。しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝にたまっている水や、ぽたぽた垂れている滴と変わりがない。

ときには豪商豪農の倉のなかに隠れていたり、日雇い人夫やお婆さんの懐にひそんでいたりする。それでは人の役に立ち、国を富ませる働きは現わさない。水に流れる力があっても、土手や丘にさまたげられていては少しも進むことはできない。

ところが銀行を立てて上手にその流れ道を開くと、倉や懐にあった金が寄り集まり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁盛するし、産物もふえるし工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての国の状態が生まれ変わったようになる。」

「渋沢栄一 上 算盤篇」より

この理念を持って、渋沢栄一は第一国立銀行をきっかけに、将来の日本に必要な企業についても自身が手を加えて順次設立していくこととなります。

また、日本の銀行業は第一国立銀行が設立されたあと、条例の改正に付随して全国に153の国立銀行が誕生。そののち、多くが普通銀行に転換しますが、「七十七銀行」(宮城県仙台市)や「百五銀行」(三重県津市)など、現在も当時の社名を残す銀行もあります。

1883年(明治16年)の国立銀行条例の改正に伴い、それまで国立銀行が発行した紙幣は「日本銀行券」に変換され、1899年(明治32年)には、政府紙幣と共に通用停止を決定。そして日本における流通紙幣は、日本銀行券に統一されました。

道徳経済合一説で日本の近代化を促進した渋沢栄一

渋沢栄一像

渋沢栄一像

渋沢栄一が、実業家の活動において銀行を核とした理由について、特に注目すべき事柄があります。渋沢栄一は「論語で一生を貫いてみせる」と宣言し、常に心の支柱としたのが「論語」でした。

この論語とは、中国の春秋時代後期の思想家でかつ教育者、そして政治家でもあった「孔子」(こうし)とその弟子達との会話を記した書物です。

渋沢栄一は、「仁義道徳に則らないと、利殖[会社の利益]を得ることはできない」、「個人の富は国の富であるから、自分だけが得をすれば良いという考え方では物事はうまくいかない」といった言葉も残しています。渋沢栄一の中核にあったこの考え方こそが、幕末からわずか数年の間に日本に資本主義を根付かせることができた要因だと言われているのです。

渋沢栄一の偉業を鑑みれば「渋沢財閥」という財閥が作れたはず、と周囲は考えていましたが、渋沢栄一はその道を選択しませんでした。三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)から、「2人で事業を経営すれば、日本の実業界を思うままに操作することができるぞ。ぜひやってみようではないか。」と誘われたときも、岩崎弥太郎の才覚には深い礼賛の意を表しつつもそれを固辞。岩崎弥太郎の「特定の組織が富を独占する」という思考は自身の考えとは真逆でした。

渋沢栄一が様々な事業を作ったのは、国民のすべてが利益をまんべんなく得ることができると共に、さらに国全体を豊かにしたいという思いがあったからです。

バンクを「銀行」と名付けた理由

「バンク」を「銀行」と訳そうとしたときのこと。渋沢栄一の残した伝記によれば、中国で同業承認組合の意味を持つ「洋行」の「行」の1字に「金」を加え、「金行」にしようと提案。しかし金行案に対して、「三井の大番頭」として活躍し三井財閥の中興の祖とも囁かれる「三野村利左衛門」(みのむらりざえもん)が、金銭の「交換」とはそもそも銀を含んでいるとして異を唱えたのです。そして、意見を交わして金行よりも発音しやすい銀行に決定しました。

渋沢栄一の残した偉業 公共設備を敷く

ガス灯

ガス灯

明治時代となる頃、かつて蝋燭や行灯(あんどん)の灯りしか知らなかった日本人に、迎えられたのが「ガス灯」です。

当時のガス灯の光量はほんの15W程度でしたが、夜の街は暗闇が支配した時代。ガス灯の眩しさに人々は驚愕し、一度で良いから見ようと、多くの見物人がガス灯を囲み集まったと言います。

このガス灯は、まさに時代の変革「文明開化の象徴」として人々の心にも明るい気持ちを灯しました。

渋沢栄一は、こうした生活に欠かせない公共設備の供給にも率先して取り組み、1885年(明治18年)に「東京瓦斯会社」(とうきょうがすがいしゃ:現在の東京ガス株式会社:東京都港区)を創立したのです。

1906年(明治39年)には、渋沢栄一自身も設立に尽力した「東京電灯会社」(1882年・明治15年設立)などを吸収する形で「東京電力株式会社」(現在の東京都千代田区)を設立しました。渋沢栄一がかかわった日本の公共設備について紹介しましょう。

人々に強く印象付けた「ガス灯」という「文明開化」

欧州式のガス灯は、1871年(明治4年)、現在の大阪府大阪市にある「造幣局」に日本で初めて設置されたと伝わります。機械の燃料として使用されていたガスを流用し、造幣局の工場敷地内で点灯。ロンドンで世界初のガス灯が誕生してから約60年後のことでした。

そして、日本の街中に初めてガス灯が設置されたのは、1872年(明治5年)の外人居留地(現在の神奈川県庁から馬車道付近)。数十基のガス灯が横浜の町を照らしました。

実は、横浜にガス灯が設置される前年の1871年(明治4年)、当時の東京府知事が新吉原にガス灯を整備するという計画が持ち上がります。そこで東京府(現在の東京都)の共有金を用いガス製造と供給のための機械一式を輸入。しかし、機械が日本に到着したときにはその計画は流れており、機械一式は東京都江東区深川にあった倉庫に一旦、据え置かれることになりました。

そののち、1873年(明治6年)に、任意の経済団体「東京会議所」から、輸入した機械を使うことなく置いておくのはもったいないと言う声が上がり、これにより東京府内についに500基のガス灯を設置することが決定したのです。

ガス製造所の建設は、横浜にガス灯が設置されたときフランス人技師「アンリ・プレグラン」指導のもと、工事を請け負った「高島嘉右衛門」(たかしまかえもん)が引き受けました。以降、ガス灯は夜の盛り場に数多く設置されるようになり、東京の夜は格段に明るいものに変わっていったのです。

公益を重要視しつつ、民間のためのガス会社を設立

1876年(明治9年)に東京会議所が廃止されたため、ガス事業は東京府の直轄となり、「東京瓦斯局」(とうきょうがすきょく)が運営にあたります。しかし、当時のガス製造の能力はあまりに低く、さらにガス料金は割高。こうしたことがネックとなり利用者は増えることはなく、収支は赤字が続きました。

当時、すでに民間で活躍していた渋沢栄一は、その手腕を請われ、東京瓦斯局の局長を嘱託で任されることに。局長として様々な改良を行いますが、ガス製造の機能が低かったため、収支がなかなか好転しません。

さらに追い打ちをかけたのが、電灯の出現。東京府は、ガス事業をこのまま続ければ赤字は深刻な問題となること憂慮し、1881年(明治14年)にガス事業から撤退することを決め、民間へ払い下げをする方針を打ち出しました。しかもその払い下げ価格は、ほとんど捨て値であるばかりか、無利息、10年以上の割り賦という条件。民間企業側にとってみれば悪い条件ではありません。しかし、これに断固反対の異を示したのが渋沢栄一だったのです。

「事業の民間へ払い下げ自体は悪いことではないが、今はその時期ではない。東京府はガス事業に対し多くの金額を投じ、ようやく需要も増え、あと数年で黒字化のめどが付く。だと言うのに捨て値での払い下げは、国民の貴重な税金をすべて捨てたことになる。まだ数年間は東京府の事業とし、利益が出るようになってから払い下げれば、東京府は損失を被らずに済む」と主張。この意見は当時の府知事や府会にも承諾され、払い下げは中止しました。引き続き、渋沢栄一が東京瓦斯局長として事業を担当したのです。

そのあとも、東京府の瓦斯事業は渋沢栄一のもと基盤固めに努め、生産費の削減、需要の増加、利用方法の普及などにも取り組みます。その努力の甲斐あって、1884年(明治17年)には、わずかながらも利益を計上するまでになったのです。それを確認し、渋沢栄一は「今こそ民業に移す最適期である」と府知事に述べ、東京ガスは高値で民間への払い下げが実行されました。

さらに渋沢栄一は、自ら育てた事業であるガス事業が途中で頓挫することがないように、自身が委員総代となって事業を引き受け経営していく道を選びます。

こうして渋沢栄一は、1885年(明治18年)に240,000円で瓦斯局の払い下げを受け、東京瓦斯会社を創立。明治30年頃の1円は現在の約3,800円に相当します。事業譲渡の金額であるため正確な数値は分かりませんが、それでも当時の240,000円は、現在の9億円を超えるほどの価値になるため、渋沢栄一はかなりの高額で購入したことになるのです。

民間の利益を第一として、「公」を忘れない「民」

一般的な資本家であれば、好条件の「捨て値」のときにこれを拾おうとするもの。実は、1881年(明治14年)に東京府知事と府会は、払い下げを希望する業者が渋沢栄一と親しい間柄であることも含み、資本家・渋沢栄一が業者側にとっての好条件を良しとするだろうと考え、無料に近い金額での払い下げ方針を提案したのです。

しかし予想外のことに、この提案に反対した渋沢栄一に東京府側は心底驚いたと言われています。では渋沢栄一はなぜ、あえて高値で払い下げを受けることを選んだのでしょうか。

渋沢栄一は、懇意にしている間柄でも決して「官」を優遇する実業家ではありません。どちらかと言うと、「民」の方が官より優れた部分があると自信を持っていた人物です。なぜなら、「己の儲けにならなければ人は努力しない」という人間の心理をよく理解していたからです。だから渋沢栄一は、官営に民営で対抗するべく、民の育成に極限まで力を入れました。

そんな渋沢栄一でしたが、あくまで彼の心根にあったのは論語の教えで、実業家としても生涯、道徳と経済は両立させることが可能だとする「道徳経済合一説」の考えを抱き続けていたのです。渋沢栄一にとって、いくら民間に有利な話であっても払い下げを受ける者と許可する者が癒着してこれを行い、「公」に悪影響を与えてはいけないと考究していました。だからこそ安値ではなく、高値による払い下げに応じたのです。

名古屋に誕生した「名古屋瓦斯株式会社」

渋沢栄一は、1906年(明治39年)の「名古屋瓦斯株式会社」(なごやがすかぶしきがいしゃ:現在の東邦瓦斯株式会社:本社は愛知県名古屋市)設立の発起人としても名を連ねています。愛知県名古屋市では、「奥田正香」(おくだまさか)ら財界人が、日露戦争後の好景気でのガス事業に情熱を燃やし、ガス会社の設立を計画しました。そこに東京の渋沢栄一も名を連ねたのです。

電力会社設立にも大いに貢献

さらに渋沢栄一は、日本の電力事業発展にも大きく貢献しています。明治時代の初め、「工部大学校」(現在の東京大学工学部の前身)の英国人教師と学生らは、実業家に電気事業の創設を提案。渋沢栄一らはその提案を受け、1882年(明治15年)に東京電灯会社を設立し、東京に火力発電所を建設して電力供給を始めました。

そののち、各地の電力会社設立にも尽力した渋沢栄一は、1906年(明治39年)に東京電灯を吸収し、東京電力株式会社を設立することになるのです。

渋沢栄一の残した偉業 学校

渋沢栄一は、江戸時代末期から大正時代前期にかけて実業家として活躍し、「日本資本主義の父」と称される人物ですが、幼少期から論語を読み、それを心の要としたように教育支援にも強い想いを抱いていたのです。

渋沢栄一が創設にかかわった学校は、「東京高等商業高校」(現在の一橋大学:東京都国立市)や「日本女子学校」(現在の日本女子大学:東京都文京区)、「東京女学館」(東京都渋谷区)など。「公益財団法人渋沢栄一記念財団」の「渋沢栄一伝記資料」によると、渋沢栄一が終生、支援し続けた教育機関は合計で164校にも及びます。それでは渋沢栄一が教育にかけた想いを解説していきましょう。

学校支援における渋沢栄一はプロデューサー的役割を果たしていた

生涯に約500社もの会社の設立にかかわった渋沢栄一が、会社を興す際に最も意識した役割は「プロデューサー」として監督・指示すること。つまり、株主を募り資金を集め、会社を設立し、その経営に最適な人材を斡旋。そのため、常に幅広い人脈を持つように努め、そのつど事業にふさわしい人材を登用することを可能にしました。

渋沢栄一が官僚を辞めて最初に興した第一国立銀行は、日本初の銀行であり、かつ日本初の株式会社でした。この第一国立銀行でも渋沢栄一によって、年齢・身分などにかかわりなく抜擢された人達がその中心的存在となって活躍しています。こうした渋沢栄一のプロデュースやマネジメントの能力が大いに発揮されたのが、教育支援でした。

日本女子大学

日本女子大学

例えば、1901年(明治34年)に開校した「日本女子大学校」(現在の日本女子大学:東京都文京区)。

新しい時代にはそれにふさわしい女子のための教育が必要であると考えていた渋沢栄一は、日本女子大学校の設立者「成瀬仁蔵」(なるせじんぞう)の教育方針に強く共感したと言います。

成瀬仁蔵は、本格的な女子高等教育機関の設立を目標とし、「女子教育」と題した著書を上梓。そこに「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」という女子教育の方針を提示します。かつての女子教育とは、良妻賢母となり嫁として家政をやりくりできる女性を育成しようというものでした。

そこで渋沢栄一は、成瀬仁蔵の女子教育への熱い思いを支援しようと決意。もともと渋沢栄一自身が、国力を高めるためには国民の半分を占める女性の才能や、知恵を育む教育現場が必要だと考えていたからです。

渋沢栄一は、日本女子大学校の設立発起人のひとりに加わり、創立委員及び会計監査を担当しました。開校準備に際しては、建築委員や教務委員も一手に引き受け、開校後に財団法人に変更した折には学校の評議員になっています。

この上さらに特筆すべきは、学校の運営資金のために多額の寄付をしていること。渋沢栄一伝記資料によると、1899年(明治32年)、1904年(明治37年)、1907年(明治40年)の3回だけでも計27,500円を寄付しています。物価換算で、明治30年頃の1円が今の3,800円ぐらいであることを考えると、現在の1億円を超える額に相当し、渋沢栄一がいかに巨額の寄付をしていたかが分かるというものです。

また、渋沢栄一はプロデューサーとして、学生の生活を豊かにすることにも思いを馳せ、学生寮建設にも寄付していました。もっと言えば、渋沢栄一は自ら寄付するだけでなく、成瀬仁蔵らと共に資金集めのため地方へも足繁く通いました。渋沢栄一はとにかく驚異的なスピードで行動し、教育事業への尽力を惜しまない人物だったと伝わります。

女子教育について渋沢栄一は、まず1887年(明治20年)に初代内閣総理大臣でもある「伊藤博文」(いとうひろぶみ)や三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の弟「岩崎弥之助」(いわさきやのすけ)、英国聖公会主教「エドワード・ビカステス」、カナダ人宣教師「アレキサンダー・ショー」らと共に「女子教育奨励会」を創設しました。

これをもとに、1888年(明治21年)に開校したのが東京女学館です。開校後、渋沢栄一は会計監査や館長、理事長を務めました。

実業教育の創立に向けた熱い思い

また渋沢栄一は、日本近代化に向けて産業を盛り立てるためには、商工業で才能ある人材を育成しなければならないという強い信条を持ち、「実業教育」にも力を注ぎました。

そして、「東京商業学校」(現在の一橋大学:東京都国立市)、「大倉商業学校」(現在の東京経済大学:東京都国分寺市)、「工手学校」(こうしゅがっこう:現在の工学院大学:東京都新宿区)、「横浜商業学校」(現在の横浜商業高等学校・横浜市立大学:神奈川県横浜市)、「高千穂商業学校」(現在の高千穂大学:東京都杉並区)などの設立にも関与します。

商業学校の大学への昇格は、文部省(現在の文部科学省)が賛成せずあまり進みませんでしたが、1920年(大正9年)に東京商業学校が「東京商科大学」への昇格。これが現在の一橋大学へとつながるのです。

渋沢栄一の没後にようやく結実し、かかわった実業教育を主にした商業学校のいくつかは大学に昇格しています。

渋沢栄一も重役を担った早稲田大学

早稲田大学 大隈記念講堂

早稲田大学 大隈記念講堂

「早稲田大学」(東京都新宿区)は、「大隈重信」(おおくましげのぶ)が創設した大学として周知のものですが、実は渋沢栄一なくしては「私学の雄」と讃えられるまでには至っていなかったとも言うのです。

渋沢栄一は、早稲田大学設立の際、自らも多額の寄付をしていますが、それだけに留まらず、先頭に立って寄付金を集める活動をしました。

さらに、早稲田大学の基金管理委員長や維持員、校規改正調査委員会長、終身維持員、故大隈侯爵記念事業後援会会長、校規改正審議委員長といった重要な役職を長年に亘り引き受けていたのです。

文運を重要視した教育

日本資本主義の父と称される渋沢栄一ですが、実業の世界だけではなく教育にも心を燃やしたのは、単に産業の振興だけを考えただけではありません。

渋沢栄一は、明治維新を成就させた日本がまず進めるべきは、学問や芸術が盛んな状態のこと「文運」(ぶんうん)を重要視していました。教育を振興すると共に、情報を流通させて国民に新たな見識を行き渡らせ、日本に新しい文化が生まれる基盤を整えたいと考えていたのです。

成瀬仁蔵を大きく支援したのも、その思想と共に成瀬仁蔵が女子教育を出版し、世論を奮い立たせようと行動していたところにも共感を覚えたからでした。「小貫修一郎」(こぬきしゅういちろう)編の「渋沢栄一自叙伝」には、次のような言葉が記されています。

「私の考える処[ところ]では、維新の大業が成就した当時において、第一に進むべきものは文運であると思い、かつ文運の発達には製紙事業を興して、廉価な洋紙を供給し、図書及び新聞雑誌等の出版を盛んならしめることも重要な要素のひとつである。」

「小貫修一郎 編 渋沢栄一自叙伝」より

渋沢栄一は、この考えを実行するべく「抄紙会社」(しょうしがいしゃ)現在の「王子ホールディングス株式会社」(東京都中央区)の創立にも尽力。新聞・出版を盛んにするため、印刷に最適となる安い紙を製造することを目指し、製紙事業を興しました。教育や文化をしっかりと育てるという渋沢栄一の心意気が感じられます。

渋沢栄一の残した偉業 飲料メーカー

設立当初のジャパン・ブルワリーの醸造所

設立当初のジャパン・ブルワリーの醸造所

渋沢栄一は第一国立銀行を皮切りに、生涯で500社に近い企業を興し、日本の近代化、そして経済発展に力を注ぎ続けました。

渋沢栄一が手掛けた事業のひとつに、ビール事業がありますが、もっと具体的に言えば2つの麦酒(ビール)会社の設立にかかわりがあります。

それは「札幌麦酒会社」(現在のサッポロビール株式会社:東京都渋谷区)と「ジャパン・ブルワリー・カンパニー・リミテッド」(現在のキリンビール株式会社:東京都中野区)です。両社共、現在はそれぞれグループ経営を行い、ビール会社の枠を越え、日本有数の飲料メーカーに成長しています。その発端となった日本のビール事業と渋沢栄一とのかかわりを紹介しましょう。

渋沢栄一が築いた日本のビール事業・飲料事業の礎

渋沢栄一が終生に亘り重要視したのは、一企業の隆盛よりも産業全体の発展でした。だからこそ今日の渋沢栄一は、日本資本主義の父と呼ばれるほどに大きく成長したのです。その証拠に渋沢栄一は、紡績業や海運業などでも競合関係にある複数の会社を同時に支援しており、それは麦酒醸造業においても同じことでした。

ジャパン・ブルワリー・カンパニー・リミテッドには、中堅財閥である大倉財閥の創始者「大倉喜八郎」(おおくらきはちろう)らと共に、1885年(明治18年)の創立当初から出資を開始。株主理事員を務め、1889年(明治22年)には重役にも就任していました。

一方で、1887年(明治20年)には「開拓使麦酒醸造所」(かいたくしびーるじょうぞうしょ)を継承した札幌麦酒会社の発起人に参加し、委員長として経営に携わります。この通り渋沢栄一は、設立当初の両社をそれぞれに支援し、麦酒醸造業の発展に尽力していたのです。

大日本麦酒株式会社の設立に関して

現在、飲料メーカーの大手3社とされるのは、キリンビール株式会社、「アサヒビール株式会社」(神戸市中央区)、「サントリーホールディングス株式会社」(大阪市北区)ですが、渋沢栄一はキリンビール株式会社の他に、アサヒビール株式会社にもかかわりを持っています。

このアサヒビール株式会社の原点は1889年(明治22年)に誕生した「大阪麦酒会社」(おおさかびーるがいしゃ)。創立時点で結び付きはありませんが、1906年(明治39年)年に札幌麦酒会社は、大阪麦酒会社と現在の「エビスビール」のルーツでもある「日本麦酒」(にっぽんびーる)と合併し、「大日本麦酒株式会社」(だいにっぽんびーるかぶしきがいしゃ)として再度、産声を上げました。

渋沢栄一は合併後の大日本麦酒株式会社で、1909年(明治42年)まで取締役を歴任。そして、この大日本麦酒株式会社は、1949年(昭和24年)に「日本麦酒株式会社」(にっぽんびーるがぶしきがいしゃ)と「朝日麦酒株式会社」(あさひびーるがぶしきがいしゃ)の2社に分かれ、現在のサッポロビール株式会社とアサヒビール株式会社へと規模を広げました。

明治時代のビールとはどんな味?

明治20年代、日本で初めて醸造されたビールとは、どのような味だったのでしょう。明治時代初期に輸入されていたビールのほとんどはイギリス産でした。しかし、最初に造られた国産ビールの多くは、なんとドイツ風ビール。1890年(明治23年)5月の日刊新聞「時事新報」にこんな記事が掲載されています。

「一口に評すれば英国ビールは濃くして苦味十分に含み、独逸[ドイツ]ビールは淡くして呑口さらさらと好し」。

日刊新聞「時事新報」より

当時の日本人は、イギリス風ビールに比べて、淡白で苦味が少なく飲みやすいドイツ風ビールに魅力を感じていたとする内容です。輸入業においても、当初はイギリス産ビールが主流でしたが、日本人好みの飲みやすさから、だんだんとドイツ産ビールへと移行していきます。その流れがあったからこそ、最初の国産ビールもドイツのビール醸造法を参考に造られました。

北海道開拓の一貫として誕生した「札幌麦酒」

国産のドイツ風ビールの製造について、札幌麦酒会社を例にすると、札幌麦酒会社の前身であった開拓使麦酒醸造所は、1869年(明治2年)に明治政府が北海道開拓のため「開拓使」(かいたくし)を設置したことに端を発します。

同年、それまで「蝦夷地」(えぞち)と呼ばれていた北の大地を北海道と改称しました。開拓使とは、1869年(明治2年)~1882年(明治15年)の間、北海道の開拓経営のために置かれた日本の行政機関のこと。主に北海道の気候や資源などの調査をもとに事業を展開しました。開拓使が廃止されるまで30以上の事業が実を結び、そのなかにビール醸造も含まれていたのです。

開拓使によるビール醸造事業では、本場のドイツで修業した日本人「中川清兵衛」(なかがわせいべえ)を迎え入れ、1876年(明治9年)に開拓使麦酒醸造所を開設しました。翌年1877年(明治10年)に生まれた北海道初のビールは、「冷製札幌ビール」と命名され、東京で発売。この「冷製」と言うのがドイツビール醸造の特徴のひとつで、低温で発酵・熟成させたビールという意味を持ちます。

1882年(明治15年)3月に開拓使が廃止されると、開拓使麦酒醸造所は農商務省工務局所管の「札幌麦酒醸造所」に、そのあと1886年(明治19年)に設立された北海道庁に移管。続いて北海道庁では、本土資本の取り入れを奨励するため、札幌麦酒醸造所を民間へと払い下げました。

こうして1886年(明治19年)、北海道道庁から札幌麦酒醸造場の払い下げを受けたのが、大倉組の大倉喜八郎だったということです。大倉喜八郎は日本のビール事業が大きく成長する基盤を固めたいと考え、翌年の1887年(明治20年)に渋沢栄一、そして1代で浅野財閥を築いた実業家「浅野総一郎」(あさのそういちろう)らと一緒に新会社・札幌麦酒会社を設立しました。

そののち、大倉喜八郎が思案したように、渋沢栄一達の力添えによって日本のビール事業は大きく躍進し、現代も人々から支持される会社へと進化を遂げました。

渋沢栄一の残した偉業 倉庫業

日本経済の未来を見据えていた渋沢栄一が、積極的に導入を推奨した事業が「倉庫業」です。渋沢栄一は、なぜ倉庫業を伸ばそうと考えたのか。渋沢栄一の倉庫業へ馳せる想いと共に、設立にかかわりのある倉庫会社について見ていきましょう。

渋沢栄一が唯一、社名に名を入れた「澁澤倉庫株式会社」

倉庫業の重要性を見抜いていた渋沢栄一

渋沢栄一は、1873年(明治6年)に大蔵省を辞したあと、日本初の銀行を創設して金融業を引っ張っていきます。そののち、日本の近代化を推し進めるため、ヨーロッパ留学で得た知識をもとに、あらゆる分野の事業設立にかかわっていきました。

澁澤倉庫株式会社

澁澤倉庫株式会社

そんななか、渋沢栄一は日本経済を飛躍させるためには、物流業の充実が必要であると思案。そして、物流業を発達させるには、近代的な倉庫業が必要であるというビジョンを持っていたのです。

こうして渋沢栄一は、日本の商工業を育てるためには、銀行や保険といった事業と共に、運送業や倉庫業の発達が肝要であるという理念を掲げ、1877年(明治10年)頃から倉庫業の創設運動を開始しました。

渋沢栄一は、政府や財界関係者に倉庫業の重要性を説明し続け、1897年(明治30年)3月30日に東京深川区(現在の東京都江東区)の渋沢家別邸の倉庫を使い「澁澤倉庫部」を発足。渋沢栄一本人が事業主となり、長男の「渋沢篤二」(しぶさわとくじ)が倉庫部長に就任しました。

そして、1905年(明治38年)に別邸の敷地を澁澤倉庫部専用地として広げると、1907年(明治40年)に日本初の鉄筋コンクリート造の倉庫を建設したのです。1909年(明治42年)には、現在へ続く「澁澤倉庫株式会社」(東京都江東区)に再編されました。

渋沢栄一の意志を受け継ぐ

渋沢邸の倉庫から開始した澁澤倉庫株式会社は、1915年(大正4年)に深川を本店として地方にも展開し、さらに業務を拡大しました。この背景には銀行業務に伴う担保品を保管するための倉庫が必要になったことから、地方銀行からも近代的倉庫の設置が求められていたという事情があったのです。

こうして、澁澤倉庫株式会社は北海道の小樽と福岡県の門司(もじ)に支店を設置しました。しかし、深川に設置されていた倉庫は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって、甚大な被害を受けます。そのあと、澁澤倉庫株式会社は本店を深川から南茅場町(現在の東京都中央区日本橋)へ移転し、再建をスタートさせました。

渋沢栄一の没後も、澁澤倉庫株式会社は渋沢栄一の企業理念をもとに、事業を拡大。1933年(昭和8年)関西地方への進出を図り、兵庫に本店を置く鈴木商店経営の「浪華倉庫株式会社」と吸収合併。これを機に、神戸や横浜などの主要港へと踏み出し、全国に支店を拡大させることになるのです。

そののちは、戦後の艱難辛苦(かんなんしんく)を越え、日本の高度経済成長期を通じて倉庫業の供給が高くなると、陸上運送業・港湾運送業・航空国際運送業に業務を拡大します。澁澤倉庫株式会社は、総合物流業企業として日本の経済発展と共に進化を遂げていったのです。

2009年(平成21年)、澁澤倉庫株式会社はルーツである江東区永代(えいたい:かつての深川)に本拠を戻し、創業者・渋沢栄一が表掲していた道徳経済合一説や、倉庫業の「信用」の重要性を説いた「信為万事本」(信を万事の本と為す)という信念を継承しながら、現在も事業のさらなる躍進を遂げています。

「澁澤倉庫株式会社」の社章は渋沢栄一に由来する

澁澤倉庫株式会社は、多数の企業に関与してきた渋沢栄一が唯ひとつ「シブサワ」という名前を付けた会社。澁澤倉庫株式会社の社章には、渋沢栄一の生家と結び付きのある記章が採用されているのです。

澁澤倉庫株式会社が示す赤い記章は、糸巻や鼓を立てて、横から見た形状であると言われており、別名「りうご」や「ちぎり」と言われる記章。これは、渋沢栄一の生まれた家が染料である藍の葉を固めた藍玉(あいだま)の製造及び販売をしていたときに使われた記章です。澁澤倉庫部を創設した際、渋沢家が用いていたこの記章を継承し、印半纏(しるしばんてん)や倉庫の壁に張り出していました。

なお、この記章に関連付けて、当初の澁澤倉庫部は「りうご蔵」とも呼ばれているのです。本記章は、澁澤倉庫株式会社に再編してから現在に到達するまで、社章として使用されていました。

「東陽倉庫株式会社」の相談役を務めた渋沢栄一

名古屋の倉庫業拡大を掲げて設立

倉庫業の全国展開を目標としていた渋沢栄一は、商業が活動的な名古屋の倉庫会社設立にもかかわっていたと言います。

現在、愛知県名古屋市中村区に本社を据える「東陽倉庫株式会社」もそのひとつです。1906年(明治39年)12月5日、渋沢栄一は東陽倉庫株式会社のもととなった「東海倉庫株式会社」の創立に株主として援助していました。名古屋商業会議所(現在の名古屋商工会議所:愛知県名古屋市)で行われた創立総会で相談役を委任された渋沢栄一は、1909年(明治42年)6月までその職に就きます。

この東海倉庫株式会社は、名古屋銀行(現在の三菱UFJ銀行:東京都千代田区)を作り頭取を務める実業家「滝兵右衛門」(たきへいえもん)と、同様に名古屋銀行を作って取締役を務める実業家「瀧定助」(たきさだすけ)が共同で、名古屋天王崎町(現在の愛知県名古屋市中区栄)に設立した会社でした。

このとき、名古屋には「名古屋倉庫株式会社」という倉庫会社がありましたが、1社では仕切ることができないほどの委託貨物を抱えていたのです。そこで、名古屋の倉庫業発展のために、渋沢栄一を筆頭に財界人によって東海倉庫株式会社が設立されました。

東海倉庫株式会社は、創立当初、名古屋倉庫株式会社と競い合う間柄でしたが、1926年(大正15年)に2社は合併し、これにより東陽倉庫株式会社となったのです。

こうして東陽倉庫株式会社は、愛知県を中核に倉庫会社として規模を拡大させ、現在は国内から海外まで物流業や不動産業に参与しながら、社会を援護する総合物流企業として進化をし続けています。

渋沢栄一の残した偉業 海運・陸運

渋沢栄一は、明治時代の始まりとともに、欧米列強の企業に並ぶことができるように日本の近代化を進めた実業家。しかし、本格的な開港によって国際的な競い合いが始まると、日本は大変な貿易赤字に苦悶することになるのです。

そこで、渋沢栄一は国内の海運業育成に力を添え、日本の海運業の発展に勤しみました。また渋沢栄一は、当時日本になかった地下鉄道路線の建設にもかかわり、日本の陸運業にも大きく貢献したのです。渋沢栄一が関与した海運・陸運の物流業について解説しましょう。

渋沢栄一と三菱の共同による海運業「日本郵船株式会社」

日本郵船株式会社

日本郵船株式会社

渋沢栄一が設立にかかわった海運業と言えば、やはり日本を代表する海運会社「日本郵船株式会社」(東京都千代田区)でしょう。

日本郵船株式会社の原点には、渋沢栄一と財界における最大のライバルである岩崎弥太郎が深くかかわっており、開国後の苦しい時代を共に乗り越えたという逸話があります。

はじめに、日本郵船株式会社の前身で、明治時代前期に日本最大の海運会社となった、岩崎弥太郎率いる「郵便汽船三菱会社」の歴史について。江戸時代末期の開港後、明治新政府によって再度、正式に開国が承認されてからも、日本は不平等条約による採算の取れない貿易のため、激しい赤字に苦悶し続けていたのです。

そんなとき、政府は外国との貿易競争攻略のため海運会社や商社の育成計画を立て、軍事輸送を進めていた岩崎弥太郎の「三菱商会」を保護会社に認定。こうして、三菱商会の海運部門は郵便汽船三菱会社として、日本が誇る最大の海運会社へと成長することになるのです。

岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社は、アメリカやイギリスの海運会社との競争にも勝つほど大きな力を持つ海運会社となり、日本の海運業を独占してしまいます。しかし、1881年(明治14年)に三菱の重要な支援者であった大隈重信が政府から放逐されると、打って変わって政府は三菱抑圧へと乗り出しました。

これには、すでに大蔵省を辞して実業界で名を挙げていた渋沢栄一が、独裁的に事業を展開する岩崎弥太郎の存在を懸念していたという背景もあったのです。

この政変が勃発する3年前の1878年(明治11年)、渋沢栄一は岩崎弥太郎に招かれて、向島の料亭で面会をしました。すると、岩崎弥太郎は「才覚ある者だけで独占経営を推進すべきだ」と渋沢栄一に協力を求めます。しかし、渋沢栄一は「道徳と経済の合一」を志していたため、岩崎弥太郎の独裁的な意見を唾棄して誘いに応じませんでした。

こうして政府は、岩崎弥太郎と対照的だった渋沢栄一と連携して、1882年(明治15年)に郵便汽船三菱会社に対抗するべく「共同運輸会社」を設立したのです。

未来の海運業のため三菱と手を取り合う

政府から支援を受けた渋沢栄一の共同運輸会社は、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社の独占を防ぐために、顧客の獲得を巡って価格を下げるなど、凄まじい争いを繰り広げます。

ところが激烈な対抗を続けるうちに、両社とも経営危機に直面。そののち、1885年(明治18年)に岩崎弥太郎が胃がんにより病没すると、郵便汽船三菱会社は弟の岩崎弥之助に相続されます。そして、政府と渋沢栄一は海運業の未来のために、岩崎弥之助と助け合うことを決意。こうして、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社は合併統合し、1885年(明治18年)10月1日に両社の資産を受け継いだ「日本郵船会社」を設立しました。

また、1893年(明治26年)には日本郵船会社は日本郵船株式会社になり、そののち、日本初の遠洋定期航路となるボンベイ(現在のムンバイ)航路を結成する際には、渋沢栄一がその調整役として手助け。日本郵船株式会社は日本を代表する海運業として拡大を続け、近年では新たな事業を次々と展開しています。

現在、日本郵船の象徴として著名な「二引の旗章」は、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併統合した際に生み出された社旗。白地に引かれた2本の赤い線は、2社が手を取り合ったことを伝え、「これから日本郵船株式会社の航路が地球を横断する」という強い気持ちも込められているのです。

「東京地下鉄道株式会社」はアジア初の地下鉄路線

「東京メトロ」の通称で誰もが知る「東京地下鉄株式会社」(東京都台東区)は、2004年(平成16年)に特殊会社として運営されることになった鉄道事業社。東京地下鉄株式会社のもととなった「東京地下鉄道株式会社」の創業にも、渋沢栄一はとある若い実業家の後ろ盾となる形で携わっていたと言います。

東京地下鉄道株式会社は、1920年(大正9年)8月に「早川徳次」(はやかわとくじ)によって創業した会社でした。当時の日本にはまだ地下鉄がなかったため、地下鉄道路線を建造することは非常に画期的な事業だったのです。

創業者の早川徳次は、1908年(明治41年)、早稲田大学を卒業したあとに「南満州鉄道株式会社」に入社し、1911年(明治44年)に「佐野鉄道」(現在の東武鉄道佐野線:東京都墨田区)に赴任して経営再建を成し遂げた人物。

1912年(明治45年)には「高野登山鉄道」(現在の南海電気鉄道高野線:大阪市浪速区)の再建にも関与し、鉄道事業の経営で才能を惜しみなく奮っていました。

しかし、1914年(大正3年)の欧州視察で辿り着いたイギリスで、早川徳次は地下を走る鉄道を見て衝撃を受けたと言います。「東京にも地下鉄が必要だ」と閃いた早川徳次は、帰国後にアイディアを実行しようと鉄道省や自治体に路線建設を呼びかけますが、早川徳次の未来を見据えた見識に理解を示す者はいなかったのです。

そんななか、私営での建造を呼びかけつつあった早川徳次に、賛成意見を持つ人物が出現。早稲田大学在学時代に世話になった政治家「後藤新平」や、早稲田大学創立者で当時の首相・大隈重信、そして実業界の先陣を切る渋沢栄一が、早川徳次の考えに共感。渋沢栄一は、イギリスの地下鉄に衝撃を受けた早川徳次の姿と、かつて幕臣時代にフランスの生活を見て、その経験や見識を活かして日本の近代化を推進してきた自身と姿を重ねたのかもしれません。

渋沢栄一らは地下鉄路線建設を推奨し、早川徳次の地下鉄道免許取得と事業創設を支援。こうして、1920年(大正9年)8月、東京地下鉄道株式会社が設立しました。1925年(大正14年)には地下鉄工事を始めます。決して少なくない災害や事故などの困難を越え、1927年(昭和2年)に現在の東京メトロ銀座線と同区間となる「浅草駅」から「上野駅」までの地下鉄を開設させたのです。

日本だけでなく、アジア初となる地下鉄路線を敷いて、地下鉄を取り入れた早川徳次は「地下鉄の父」と称されるようになりました。

渋沢栄一の残した偉業 造船・土木

渋沢栄一は多くの事業とかかわりを持ち、江戸時代から続く歴史ある会社や日本の未来を担う会社など、次々と企業をバックアップし続けました。渋沢栄一が経営危機を支えてきた会社のなかでも、特に絆の深い造船業と土木業について紐解いていきましょう。

「株式会社IHI」の会長を務めた渋沢栄一

株式会社IHI

株式会社IHI

東京都江東区に本社を置く「株式会社IHI」は、江戸時代末期の1853年(嘉永6年)に創業した「石川島造船所」を原点とする、日本の三大重工業のひとつです。

石川島造船所を設立したのは「平野富二」(ひらのとみじ)。「長崎製鉄所」(現在の三菱重工業長崎造船所:長崎県長崎市)で経験を重ね、若いながら経営責任者となった人物。

1876年(明治9年)、平野富二は海軍省から借りた石川島修船所跡地(現在の東京都中央区佃)に、「石川島平野造船所」を設立しました。そして、民間洋式造船所の黎明期を開拓した石川島平野造船所は、渋沢栄一の援助を受けることになります。

石川島平野造船所は、東京でただひとつ洋式ドックを使用して船舶修理を進めていたと言われていますが、造船業における巨額の投下資本に加え、豊富な運営資金が必要であったため、資金不足が常に悩みのタネでした。そんななか平野富二は当時、第一国立銀行頭取であった渋沢栄一に造船業がいかに重要であるかを訴え、協力を仰ぎます。

こうして、渋沢栄一と「第十八国立銀行」(現在の十八親和銀行:長崎県長崎市)頭取の「松田源五郎」から融資を受け、石川島平野造船所は見事、資金難に打ち克ちました。

1889年(明治22年)、石川島平野造船所は、個人会社から「有限責任石川島造船所」へと改名。すでに、渋沢栄一は委員会の常任委員に就いており、そののち、1893年(明治26年)に「株式会社東京石川島造船所」へ再編した際には、取締役会長に就任しています。

また、渋沢栄一は実業界から引退するまで、取締役会長として東京石川島造船所の経営を支援し続けたのです。なお、渋沢栄一の次男「渋沢武之助」(しぶさわたけのすけ)や三男「渋沢正雄」(しぶさわまさお)、孫の「穂積律之介」(ほづみりつのすけ)も、東京石川島造船所の役員に就いていました。

そののち、東京石川島造船所は海洋業にも事業を展開し、造船業以外にも多種多様な大型機械製品を製造する会社へと進化。さらに1945年(昭和20年)、総合機械メーカーとして名称を「石川島重工業株式会社」に変え、1960年(昭和35年)には、「株式会社播磨造船所」と合併して「石川島播磨重工業株式会社」となりました。また、航空エンジンや宇宙機器などの新事業にも挑戦し、2007年(平成19年)に現在の株式会社IHIの社名に改称したのです。

明治時代から渋沢栄一とともに日本の造船業を支えた株式会社IHIは、2013年(平成25年)に創業160年を迎えています。

近代建築を生んだ「清水建設株式会社」と渋沢栄一

「清水建設株式会社」(東京都中央区)は、1804年(文化元年)江戸の神田で大工棟梁「清水喜助」(しみずきすけ)が開業した日本を代表する大手総合建設会社のひとつ。

明治時代から大正時代にかけて渋沢栄一と共に実業界を歩み、良好な関係を築いています。清水建設株式会社の創業者である初代・清水喜助は、栃木県日光市にある「日光東照宮」や、東京都千代田区にあった「江戸城」の再建にかかわった人物でもあります。

初代・清水喜助から指名されて2代目・清水喜助となったのは、江戸城再建に連なっていた「藤沢清七」。2代目・清水喜助は、日本の近代化に進む流れを誰よりも早く理解した人物で、江戸時代末期に外国人のもとで西洋建築の教えを請い、和洋折衷の日本らしい近代建築様式を習得しました。

1872年(明治5年)に渋沢栄一が創業した日本で最初の銀行、第一国立銀行を手掛けたのも2代目・清水喜助です。第一国立銀行は、木造2層となる和洋折衷建築で、日本の城郭建築に倣った天守閣があるなど一見風変わりな外観をしていますが、近代化した日本のシンボルとなりました。渋沢栄一は、この建造物を見て「日本初の他には類を見ない銀行建築だ」と、2代目・清水喜助の仕事を称賛したと言われているのです。

2代目・清水喜助は第一国立銀行を造り上げたことで渋沢栄一から強い信頼を獲得し、渋沢栄一の邸宅造りのための棟梁にも選ばれました。2代目・清水喜助は、渋沢栄一の思いに応えるため、大工人生をかけて邸宅の建設に向き合い、1878年(明治11年)に深川区福住町(現在の東京都江東区永代)に渋沢邸を造り上げます。邸宅は地上2階建て、床面積1,810平方メートル。伝統的な日本の建築様式を基礎としながらも、玄関にはステンドグラスが使用されていたり、応接室には暖炉が設置されていたりするなど、和洋折衷の洋館となっているのです。

1887年(明治20年)、父の死去に伴い幼少ながら4代目「清水満之助」の代には、渋沢栄一を相談役として迎え、経営指導を教授しました。

晩香廬

晩香廬

1915年(大正4年)、清水組は個人事業から「合資会社清水組」へ再編します。

1917年(大正6年)には、渋沢栄一の喜寿を祝して洋風茶室「晩香廬」(ばんこうろ:東京都北区)を造設。晩香廬は、国内及び海外からの訪問客を招くための応接室として活用されました。

1937年(昭和12年)8月には、新たに「株式会社清水組」を作り、合資会社清水組と合併します。そして、1948年(昭和23年)に現在の清水建設株式会社に社名を変えました。

清水建設株式会社は、今なお渋沢栄一の教え「論語と算盤」(ろんごとそろばん)を社是に採用し、渋沢栄一が大事にしていた「道徳と経済の合一」をもとに、日本の経済発展・未来創造に尽力することを経営理念として進化を続けています。

渋沢栄一が残した偉業 放送・通信

渋沢栄一は、日本初となる事業を数多く興し、日本における情報通信業の創生期に貢献した人物。特に、大正時代には放送業の創立に関与し、晩年は自ら講演放送も行っていたと言います。渋沢栄一は電気通信網の進歩で通信業が発展していた欧米に追い付かねばならないと考え、日本の通信業発達にも自らかかわっていきました。

「日本放送協会」と顧問を務めた渋沢栄一

NHK放送センター

NHK放送センター

渋沢栄一は、日本の放送業を支援したことで知られていますが、「NHK」の公式略称で親しまれる「日本放送協会」の歴史にも深いかかわりを持っています。

現在、NHKという名前で誰もが知る日本放送協会は、総務省所管の団体として、日本の公共放送を担っています。現在のNHKは、放送法を土台として公共放送を行う特殊法人ですが、創立当初は、まだ社団法人として運営していたのです。

日本放送協会の創立は、渋沢栄一が海外との交流に尽力していた大正時代初期にかかわります。1926年(大正15年)8月6日、東京・大阪・名古屋に置かれていた3つの放送局が吸収合併し、3拠点の放送局の施設や従業員を引き継いだまま、社団法人日本放送協会が設立。当時、86歳だった渋沢栄一は、新たにひとつの社団法人として生まれた日本放送協会の顧問に就きました。

創業時の1926年(大正15年)11月11日には、当時、愛宕山(あたごやま:東京都港区愛宕)にあった東京中央放送局において「平和記念日について」と銘打つ講演放送を実施しています。以後、渋沢栄一は第一次世界大戦終結を祝って、世界平和記念日とされている11月11日に毎年、講演放送を行い続けるのです。

また、渋沢栄一は1931年(昭和6年)の7月から8月にかけて発生した中国大水害のときは、「中華民国水災同情会会長」に就任し、9月6日に「中華民国の水害について」という題目の講演放送を実施しています。渋沢栄一の晩年における民間のための外交は、こうして日本放送協会を通して国民に知られていったのです。

さらに、このときの放送は、東京都北区西ヶ原にあった渋沢栄一の本宅「飛鳥山邸」の病床より放送されました。そしてこの放送が伝えられた2ヵ月後の1931年(昭和6年)11月11日に、渋沢栄一はこの世を去ります。

そののち日本放送協会は、1950年(昭和25年)に放送法が施行され、特殊法人の日本放送協会となりました。1951年(昭和26年)には「NHK紅白歌合戦」の第1回が放送され、1953年(昭和28年)には日本で最初のテレビを活用した放送が開始。こうして、日本放送協会は国内外の様子を伝えながら、国民に今もなお愛される放送局として現代まで進歩し続けているのです。

渋沢栄一が支援した「日本電報通信社」

日本における通信社の歴史は実は江戸時代中期から開始しますが、本格的にその役目を果たし始めたのは明治時代以降のことでした。そして、日本の通信社の発展は、現在、日本最大手の広告代理店である「株式会社電通」のもととなる「電報通信社」の誕生と渋沢栄一の尽力によって進展したのです。

1901年(明治34年)7月、従軍記者として経験を積んだ「光永星郎」(みつながほしお)は、通信事業の資金収集のため「日本広告株式会社」を創立しました。渋沢栄一は、この日本広告株式会社の賛助員となり広告業を支えたのです。

そして、4ヵ月後の1901年(明治34年)11月、光永星郎はこの広告代理店に連結する形で電報通信社を設立しました。光永星郎は日清戦争で記者として中国に行った際、通信に欠損があり記事掲載が甚だしく遅れたことを契機に、自ら通信社を作ることを決意したと言われています。

1906年(明治39年)12月には、電報通信社を再構成して「株式会社日本電報通信社」となり、1907年(明治40年)8月に日本広告株式会社と合併。ついに通信業と広告業を併設した会社となったのです。渋沢栄一は、日本電報通信社の賛襄員(さんじょういん)となり、引き続き支援を続けました。

そして1908年(明治41年)12月3日、創立7周年記念式典を日本で最初の洋風劇場となる「有楽座」(現在の東京都千代田区有楽町2丁目付近)で開催。このとき、逓信省(ていしんしょう:郵便や通信を管轄していた中央官庁)通信局長であった「小林謙二郎」と共に、渋沢栄一も式典に参加したと言います。

そのあとの1921年(大正10年)4月7日の「日本電報通信社20年記念祝賀会」にも渋沢栄一は出席。このときも、賛襄員として日本電報通信社の行事に参加していたことが記録として残っているのです。

対外的通信社と電通の競争に支援した渋沢栄一

日本電報通信社が日本でのシェアをどんどん獲得していくなか、渋沢栄一は1914年(大正3年)2月に設立された「国際通信社」の支援にも尽力していました。この国際通信社設立の背景には、渋沢栄一の日本における対外的通信社の確立という強い気持ちが込められていたと言います。

1909年(明治42年)、渋沢栄一が渡米実業団の団長として、アメリカとの民間外交を行った際のことです。アメリカでは、日本を侮蔑していると思われる悪意がある記事が報じられていました。渋沢栄一は、「対外的通信社を設立しなければならない」と痛感し、アメリカで長年研究を行っていた「高峰譲吉」(たかみねじょうきち)に力を借り共に対外発信の必要性を主張。こうして、1914年(大正3年)に日本のことを世界に発信する国際通信社が設立されました。

渋沢栄一が相談役に就いた国際通信社は、1926年(大正15年)に「東方通信社」と合併して「日本新聞聯合社」(にっぽんしんぶんれんごうしゃ)となり、日本の有力通信社として頭角を現してきた電報通信社と競合関係となります。次いで1931年(昭和6年)10月、渋沢栄一の容態が悪化すると、日本電報通信社を通じて各新聞社に渋沢栄一の病状を発表。そののち、電報通信社は1936年(昭和11年)に通信部門を日本新聞聯合社の後身である「同盟通信社」に移譲して、広告代理店専業へ躍進します。

本社を京橋区(現在の東京都中央区銀座)に置き、1955年(昭和30年)に株式会社電通と改名、さらに創立100周年を迎えた2001年(平成13年)に東証一部に上場しました。こうして株式会社電通は、渋沢栄一と共に日本に通信社の礎を築き、現代に続く広告業の発展に尽力したのです。

渋沢栄一が残した偉業 病院・帝国ホテル

渋沢栄一は、近代日本経済の中心を担いながら、保護施設を設立するなど、近代日本における福祉事業の成長にも大きく尽力した人物です。渋沢栄一が官僚時代から実業家時代にかけて行った福祉事業は、現代では誰もが知る事業となっています。また、外国人とのかかわりが増えた明治時代には、外国人を奉仕するために必要な近代的ホテルの建設にも深くかかわりました。近代国家として日本が進化していくために、渋沢栄一が舵取りして設立にかかわった代表的な病院とホテルについて見ていきましょう。

渋沢栄一と「地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター」

「養育院」の原点とは?

東京都板橋区にある地方独立行政法人「東京都健康長寿医療センター」は、病院と研究所が一体となって高齢の患者を中心に、高度医療を提供している大規模総合病院です。東京都健康長寿医療センターの前身を「養育院」(よういくいん)と言い、渋沢栄一はこの運営に深いつながりを持ちました。

養育院は、1872年(明治5年)に生活困窮者や病人、孤児、老人、障がい者などを保護するための施設として開設したと言います。現在における福祉事業の屋台骨ともなる養育院設立の原点は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」の御世に、「小石川養生所」(こいしかわようじょうしょ:現在の東京大学大学院理学系研究科附属植物園:東京都文京区)という無償の医療施設が江戸に設置されたことに端を発します。

小石川養生所は、貧民救済施設としての役目を持ち、江戸時代中期に設置されてから江戸時代末期まで、約140年もの長い年月を幕府によって運営されていました。この仕組みを作ったのが、徳川吉宗の孫にあたる「松平定信」(まつだいらさだのぶ)。松平定信は、老中在任中に打ち出した「寛政の改革」のなかで「七分積金」(しちぶつみきん)という積立制度を構築した人物でもあります。

この制度は、江戸の町費倹約を命じ、節減分の7割を積立して貧民救済などに割り当てた積金政策のこと。この積金政策によって、小石川養生所は長期間運営することができたのです。

そののち、明治維新によって小石川養生所は閉鎖してしまいます。七分積金による積立金を市民のために有効活用することが決定し、小石川養生所のような救済施設である養育院が設立されました。そして、養育院の設立当時に七分積金の管理を任されていたのが渋沢栄一だったのです。

松平定信の想いを継いだ渋沢栄一

渋沢栄一は、名君であった松平定信を尊敬していました。1874年(明治7年)、松平定信の思いを受け継いだ渋沢栄一は、養育院の運営にかかわることになり、1876年(明治9年)には養育院事務長に任命されます。

しかし、養育院の運営は苦労の連続でした。養育院は当初、上野に設置しましたが、その後転々と移転を繰り返し、関東大震災後に現在の板橋に定着したのです。その間、度々東京府の議会では廃止論が議題に挙がっていただけではなく、やがて公費支出も停止されてしまいます。

渋沢栄一は、運営資金を得るため「鹿鳴館」(ろくめいかん:現在の東京都千代田区)でバザーを開催するなど、養育院を存続させるために奮闘し続けました。そののち、1890年(明治23年)に養育院は東京市営となり、渋沢栄一は養育院長に就任。院長として約50年間、養育院で多くの人々を救うことに尽力したのです。

晩年になると渋沢栄一は、銀行や証券をはじめとする様々な事業から引退。けれどこの養育院長だけは、亡くなる最期まで役職を全うしたのです。そして、松平定信の命日にあたる13日には養育院を毎月訪れ、入所する子供や患者を励ましたと言われています。

1986年(昭和61年)、養育院は「東京都老人医療センター」となり、2009年(平成21年)に研究所と統合されて現在の東京都健康長寿医療センターへと改名しました。現在、病院入口近くに建つ渋沢栄一の銅像は、養育院長として分院・専門施設を開設して事業を軌道に乗せ、多くの研究者を世に生み出したことを記念して1925年(大正14年)に建立。銅像の除幕式には渋沢栄一本人も出席していたと言います。

「株式会社帝国ホテル」と渋沢栄一

財界人の理想を込めた「日本の迎賓館」

東京都千代田区に建つ「帝国ホテル」と言えば、東京都港区の「ホテルオークラ」、及び東京都千代田区の「ニューオータニ」と共に、ホテル界の「御三家」のひとつに数えられる、日本を代表する老舗ホテルです。明治時代に誕生した帝国ホテルもまた、渋沢栄一によって手掛けられた事業のひとつでした。

帝国ホテルは、渋沢栄一をはじめとする財界人の手によって設立され、近代日本における外交の場として、約150年という長い歴史を刻んできた由緒ある場所。帝国ホテルの誕生は、明治維新による混乱が落ち着いてきた時期のことです。明治新政府は、諸外国と対等な外交関係を築く場所を作るために、ホテルの建設計画を立てていたのです。

渋沢栄一は閣僚・井上馨からの誘いで、実業家・大倉喜八郎と共に、国家の威信をかけた一大計画に挑戦することになりました。渋沢栄一らは、1888年(明治21年)に「有限責任帝国ホテル会社」(設立当初は、有限責任東京ホテル会社)を設立し、当時外国人との重要な社交場であった鹿鳴館に隣接する場所でホテルの建設を開始します。こうして、着工から2年後の1890年(明治23年)11月3日、接遇所をかねた「日本の迎賓館」として、帝国ホテルが開業したのです。

そののち、渋沢栄一は理事長就任を経て、1893年(明治26年)に帝国ホテル初代会長に就任しました。1909年(明治42年)に会長職を退いたあとも、渋沢栄一はよく帝国ホテルに通い、従業員へ言葉をかけたと言われています。

渋沢栄一伝記資料によれば「ホテルは一国の経済にも関係する重要な事柄。外来の客を接伴して満足を与えるようにしなければならない」という言葉が残されており、渋沢栄一のこの言葉通り、帝国ホテルは開業以来、ランドリーサービスやホテルウェディングといった日本初のサービスを導入。さらに、ホテル直結のショッピングアーケードの設置や、バイキングスタイルのレストランなど、先駆的なサービスを次々と提案し、顧客の満足度をいかに向上できるかをモットーとしているのです。

帝国ホテルの先進的なサービス展開は、まさに渋沢栄一が掲げる「道徳経済合一」の理念と重なりました。帝国ホテルは現在も、渋沢栄一が築いた歴史と共に「日本の顔」である一大ホテルグループとして世界に通じるサービスを提供し続けています。

渋沢栄一の残した偉業 絹織・製紙・印刷

2014年(平成26年)に世界文化遺産に登録された群馬県富岡市の「旧富岡製糸場」は、渋沢栄一によって明治時代前期に設立された工場施設です。当時の日本には大規模な工場はまだなかったため、富岡製糸場の設立は渋沢栄一が政府の人間として立ち向かった一大プロジェクト。渋沢栄一が明治新政府と手掛けた絹織業の富岡製糸場と共に、官僚退官後に携わった製紙業や印刷業についてご紹介します。

国民の未来のために作られた「富岡製糸場」

日本初の官営大規模工場の設立

富岡製糸場

富岡製糸場

明治新政府は、当時、日本を代表する輸出品であった生糸を大量に作るために、官営の模範工場を群馬県富岡に建設することを計画。

ときを同じくして渋沢栄一は入省してすぐに民部省(のちの大蔵省:現在の財務省)租税正(そぜいのかみ)に任じられ、税制改革などに立ち向かっていた頃のことです。

このとき明治政府は、農家出身で藍玉作りに加え養蚕業を営んでいた渋沢栄一に目を付け、「富岡製糸場」設立の担当となりました。こうして、富岡製糸場設置主任となり渋沢栄一を中核に据え設立計画は前進し、1872年(明治5年)9月に富岡製糸場は操業を開始しました。

富岡製糸場の初代場長には、渋沢栄一と共に力を尽くした民部省の「尾高淳忠」(おだかあつただ)が就任。工場建設にあたって現場を取り仕切っていた尾高淳忠は、渋沢栄一の従兄であり幼い頃からの学問の師でもある人物でした。渋沢栄一は、長年にわたって信頼し続けた尾高淳忠となら、この計画を成功させられると考えていました。尾高淳忠はその熱い思いに応えるように、初代場長となってからも工女の教育に熱心に取り組み、1876年(明治9年)に場長を退任するまで富岡製糸場の労働環境の整備に努めたと言います。

富岡製糸場は、操業時にフランス人技師の「ポール・ブリューナ」を指導者として迎え入れると、日本初の大規模な機械工場として日本に技術革新を起こしました。富岡製糸場で生産された生糸は欧米で大変評価され、日本の生糸輸出量が増えたことで、富岡製糸場に続いて日本各地で製糸工場が設立されたのです。

こうして、富岡製糸場は日本における機械工業の先駆けとなり、渋沢栄一は大規模工場の導入を手掛けたひとりとして名前を残しました。そののち、官営工場だった富岡製糸場は、民間に払い下げられることとなりましたが、1987年(昭和62年)までの115年間稼働し続けたのです。

渋沢栄一が基盤を整えた「王子グループホールディングス株式会社」

富岡製糸場を設立して製糸工場を成功させた渋沢栄一が、次なる経済発展のため構想を練っていたのが製紙業の発達。当時、大蔵省で「紙幣寮」となる現在の国立印刷局(東京都港区)の初代紙幣頭となっていた渋沢栄一は、紙幣印刷用の国産洋紙や国民のための新聞・書籍に使われる印刷物用の洋紙が必要だと強く感じていたと言います。

そこで、安くて質の良い紙を大量に作るために、渋沢栄一は三井組などと共に製紙業の合本組織設立を計画。そして1873年(明治6年)に抄紙会社を設立する運びとなりました。この抄紙会社は、のちの「王子製紙株式会社」であり、現在製紙業界では国内最大手のグループとなった王子ホールディングス株式会社の前身となります。

国内トップの売上を誇るまでに成長した王子グループですが、創業当時の抄紙会社は非常に辛い道のりを歩んでいたのです。抄紙会社の設立直後、渋沢栄一は大蔵省を辞して製紙工場を下王子村(現在の東京都北区)に建設。渋沢栄一はヨーロッパから最新機械を取り入れて、フランス人技師を迎え入れたものの機械は思ったように動かず、また技師達との意思疎通も困難を極めました。

長い間、苦慮した渋沢栄一ですが、根気よく人材と技術の育成を続けていきます。そして、渋沢栄一の指導と共に多くの苦難を乗り越えた抄紙会社は、日本の製紙業界を牽引する存在へと成長を遂げました。

抄紙会社は、1893年(明治26年)に創業地の名を冠して王子製紙と改称し、そののち、多数の製紙会社との吸収合併を経て、2012年(平成24年)に純粋持株会社制に移行し、王子グループホールディングス株式会社と改名。現在も創業時、渋沢栄一が志していた「道徳と経済の合一」の精神を受け継ぎ、王子グループは資源環境ビジネスなどの事業拡大や、グローバル展開を行いながら常に進化し続けているのです。

「秀英舎」は渋沢栄一が印刷業発展のために支援した会社

日本を中心に全世界に拠点を置き、印刷・情報の技術を中核とし多種多様な事業を展開する「大日本印刷株式会社」(東京都新宿区)。その原点にも、渋沢栄一はかかわっていました。

大日本印刷のもととなった「秀英舎」(しゅうえいしゃ)は、江戸時代末期に渋沢栄一と同じく幕府の家臣であった「佐久間貞一」(さくまていいち)と仏教学者の「大内青巒」(おおうちせいらん)らによって、明治時代前期に設立されたのです。

佐久間貞一は、1873年(明治6年)に大教院(教部省が設置した教導職の機関)で宗教新聞発行にかかわったことを契機とし「人々の知識や文化の向上に貢献したい」と考え、1876年(明治9年)に共同で出資し東京銀座に活版印刷の秀英舎を設立しました。この頃は、印刷設備を整えるためには巨額の資金が必要不可欠だったため、渋沢栄一が支援し第一国立銀行内にあった製紙会社「東京分社印刷工場」の印刷機械を借りて操業開始したのです。

秀英舎という社名は「英国より秀でるように事業を伸ばせ」という思いを込めて「勝海舟」が命名。そして、設立直後には英国の著述家「サミュエル・スマイルス」の「Self-Help」を翻訳した「中村正直」(なかむらまさなお)の「改正西国立志編」の印刷を行いました。

西国立志編は、明治三大名著のひとつに挙げられる大ベストセラーで、本書の再販本印刷は秀英舎にとって初めての大仕事となります。秀英舎は日本初の活版印刷を行い、国産洋装本として出版された本書は世間の話題をさらいました。

そののち秀英舎は、1886年(明治19年)に東京市ヶ谷にある5,000坪の敷地に印刷工場を建設。1894年(明治27年)に「株式会社秀英舎」へ改称すると、京橋区に本舎を構えました。

1928年(昭和3年)には日本で最初の本格的なグラビア印刷を始動し、新聞や雑誌の活版印刷と共に高度な印刷技術を向上させるなか、1935年(昭和10年)には「日清印刷」と合併して大日本印刷株式会社となります。そののち、時代の変化に合わせて、マルチメディア分野やソリューション事業へと手広く展開し、日本を代表する総合印刷会社として現在も進化し続けているのです。

渋沢栄一の残した偉業 経済団体・取引所

渋沢栄一は大蔵省を3年半ほどで辞して、日本で最初の銀行や大規模工場の設立に力を尽くしながら日本の近代化を推進。欧米と互角に貿易交渉するために必要なものは何か、渋沢栄一はかつて訪れたヨーロッパで得た知識や経験を頼りに、日本の商工業の発展を目指して考えを巡らせていました。渋沢栄一が日本実業界のために設立した経済団体と、日本初の公的取引所についてご紹介します。

世論をまとめるために組織された「東京商法会議所」

東京商工会議所

東京商工会議所

明治時代前期、政府は開国後に欧米との間で結ばれた不平等条約を撤廃するために、欧米との交渉に勤しんでいました。

その際「不平等条約は日本の世論が許さない」と論議していた政府でしたが、イギリス公使の「ハリー・パークス」が言うには「日本には多数が協議する組織がないから、世論というものがない」と異議を唱えられてしまいます。

欧米と互角に交渉を進めるためには、まず世論をまとめる場を作らなくてはいけないと内務省長官・伊藤博文と大蔵省長官・大隈重信は痛感。そこで渡欧経験のある渋沢栄一に見解を求められ、渋沢栄一は商工業者達の意見を集約する団体の設立を提案しました。

1877年(明治10年)12月、渋沢栄一は三井財閥の「益田孝」(ますだたかし)や、記者である「福地源一郎」(ふくちげんいちろう)、海外視察経験を持つ実業家の大倉喜八郎などと一緒に経済団体の設立準備を進め、東京府知事に請願します。

この翌年、1878年(明治11年)3月に認可され「東京商法会議所」(現在の東京商工会議所)が設立されたのです。同年8月1日には、東京の日本橋駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町)の「三井銀行」(現在の三井住友銀行)で初集会が開催され、その発起人となる渋沢栄一は初代会頭と内国商業事務委員に就任します。10月7日に会議所規則・議事規則を申し合わせ、伊藤博文と共に東京府知事に提出しました。

1879年(明治12年)8月には、アメリカ合衆国前大統領の「ユリシーズ・グラント」将軍の来日に合わせて、渋沢栄一をはじめとする東京商法会議所の一員が中心となって歓迎会を開催。手厚く接待をして将軍夫妻をもてなしたと言われています。

そののち、東京商法会議所は60名ほどの会員で存続され、商工業の近況報告や様々な話し合いをしながら「商人の世論」を取りまとめたのです。

1883年(明治16年)10月に一時に解散したあと、翌月11月に「東京商工会」を創設し、1890年(明治23年)9月の商業会議所条例の公布に合わせて「東京商業会議所」に改めることになりました。そのどれもが、渋沢栄一が発起人となり、会頭に就いています。1911年(明治44年)には、設立当初に目標として掲げていた条約改正が一部行われ、欧米諸国との間で互角となる国際関係が築かれ始めることとなったのです。

そして、1928年(昭和3年)1月から現在の名称となる東京商工会議所となり、1999年(平成11年)には会員数100,000件を突破しました。現在も東京商業会議所は、商工業を向上させるため経営支援や地域振興などの活動を中心に行っています。

兜町に夢を描いた渋沢栄一による「東京株式取引所」

渋沢栄一は東京商業会議所設立を企画していた頃、同時に取引所制度の整備を推進していました。当時、明治新政府は公債発行を行い、国立銀行と士族による公債売買が盛んになったことで、取引所設立の需要が高まっていたのです。

東京証券取引所

東京証券取引所

渋沢栄一はこの情勢に誰よりも早く対応し、横浜から東京日本橋堺町(現在の東京都中央区日本橋人形町)に打って出て来た両替商「今村清之助」(いまむらせいのすけ)と共に取引所設立を計画します。

当初、渋沢栄一と今村清之助は反りが合わず、設立計画は難航を極めました。しかし、今村清之助の情熱のこもった説得に負けた渋沢栄一は、1877年(明治10年)に合同で取引所の創立出願をすることとなったのです。

このような渋沢栄一の支援によって、1878年(明治11年)6月1日、日本初の公による株式取引所「東京株式取引所」(現在の東京証券取引所)が日本橋兜町に開業しました。当初は東京株式取引所の他に、兜町に渋沢栄一が設立した第一国立銀行と「東京兜町米商会所」、日本橋の「東京蛎殻[かきがら]町米商会所」の4銘柄が上場しましたが、仲買人と取引所職員を合わせても100人に満たない小さな市場だったと言われているのです。

こうして起業ブームにより、次第に兜町には企業や銀行、証券市場が密集するようになり、兜町は「商業の街」へと大躍進を遂げていきました。

東京株式取引所の大株主であった渋沢栄一は、1886年(明治19年)に同所株式をすべて放棄し、新しい企業設立支援の道を模索し始めます。そして、1888年(明治21年)にはベネチア風の建築様式となる家屋を建て、渋沢栄一自身も兜町に居を構えることにしました。渋沢栄一はこの頃、兜町を中核とした東京の商業都市にすることを理想としていたのです。

そののち、1943年(昭和18年)に戦時統制機関へと再編され、東京株式取引所をはじめとする全国の11取引所が「日本証券取引所」に統合。戦後、日本証券取引所は解体し、1949年(昭和24年)4月1日に東京株式取引所は、証券業者を会員とする東京証券取引所として始動し、2001年(平成13年)に株式会社になったのです。

設立した当時は、たった100人ほどの人数で始まった取引所でしたが、現在はアメリカの「ニューヨーク証券取引所」とイギリスの「ロンドン証券取引所」と共に「世界三大市場」のひとつに挙げられるほど大規模な取引所となりました。

こうして、東京証券取引所がある兜町は日本経済を象徴する場所となり、渋沢栄一が若かりし頃に見た夢のように、東京は日本最大の商業都市へと成長を遂げたのです。

渋沢栄一の残した偉業 製薬・電気機器製造

渋沢栄一が実業家として走り続けた明治期は、富国強兵を掲げ、医学・薬学の発展と、多くの物や人を迅速に運ぶ交通網の発展は急務の課題でした。日本を近代国家へ進化させるため、渋沢栄一が若者らに託した製薬業との交流や、鉄道電化に伴う事業の発展を目標とした渋沢栄一による電気機器製造業創立の歴史を見ていきましょう。

「三共株式会社」の若手実業家を指導した渋沢栄一

三共株式会社の原点とは?

渋沢栄一は、1867年(慶応3年)にフランスのパリで行われた万国博覧会に、江戸幕府使節団の一員として随行。このときに化学試験所で得た知見や経験を活かして、日本に帰ったあとに日本国内の医薬品製造業の発展に尽力したのです。

第一三共株式会社

第一三共株式会社

1887年(明治20年)に設立された「東京薬品会社」の顧問を務めた他、現在、製薬大手である「第一三共株式会社」(だいいちさんきょうかぶしきがいしゃ:東京都中央区)の前身会社のひとつ「三共株式会社」(さんきょうかぶしきがいしゃ)の設立にも携わっていました。

三共株式会社のルーツは、1899年(明治32年)に実業家の「塩原又策」(しおばらまたさく)、「西村庄太郎」(にしむらしょうたろう)、「福井源次郎」(ふくいげんじろう)の3名により設立された医薬品販売業「三共商店」です。

この三共商店は、アメリカで「バイオテクノロジーの父」と呼ばれている科学者・高峰譲吉が見付けた消化酵素「タカヂアスターゼ」の輸入販売権を獲得。1902年(明治35年)には、高峰譲吉による副腎髄質ホルモン剤「アドレナリン」の輸入販売権も得て事業を広げると、1909年(明治42年)に「三共合資会社」へと社名を変更しています。そして、1913年(大正2年)に三共株式会社として改名し、開発者である高峰譲吉を初代社長に据えました。

日本の将来のために努力する者達を応援する渋沢栄一

この株式会社への改名と、高峰譲吉が社長として歓迎された背景には、渋沢栄一が関与しています。著名な科学者であった高峰譲吉は、三共株式会社初代社長就任前の1886年(明治19年)に、渋沢栄一の支援を受けて「東京人造肥料会社」(現在の日産化学株式会社:東京都中央区)を設立。そこで、塩原又策は事業を発展させるための援助を求めて、かねてより関係のあった高峰譲吉に依頼し、渋沢栄一を紹介して貰うことになりました。

こうして渋沢栄一は、塩原又策の意見に賛同し、当時の政府や財界関係者、有力者達を集めて、三共株式会社への援助を行います。また、株式会社改組による初代重役の推挙にもかかわり、渋沢栄一は塩原又策のような若い実業家を意欲的に指導したと言います。塩原又策は、このときの渋沢栄一の対応を、自分のような若者にも熱く指導してくれて非常に嬉しかったとのちに語りました。

そのあとも三共株式会社は、医薬品開発以外にも事業の多様化に乗り出し、農業・自動車販売代理店・モーターサイクル事業・ベークライト(石炭酸樹脂)事業にも尽力しました。しかし事業は再度、製薬業に集約され、2005年(平成17年)に「第一製薬株式会社」との共同持株会社である第一三共株式会社を創業し、2007年(平成19年)に完全統合したのです。

こうして、渋沢栄一の後援を受けながら、第一三共株式会社は製薬会社業界の大手企業として現在も活躍の場を広げています。

「東洋電機製造株式会社」は渋沢栄一が創立した会社

鉄道車両用電機品の国産化計画を発起した渋沢栄一

東洋電機製造株式会社

東洋電機製造株式会社

東洋電機製造株式会社」(とうようでんきせいぞうかぶしきがいしゃ)は、東京都中央区に本社を構える東証一部上場企業で、鉄道車両用電機品のリーディングカンパニーです。渋沢栄一は、この会社の創業にも深くかかわりを持ちます。

東洋電機製造株式会社の歴史は、渋沢栄一と「京阪電気鉄道」(現在の大阪市中央区)の役員に就いていた「渡邊嘉一」(わたなべかいち)、衆議院議員の「久保田与四郎」(くぼたよしろう)らによって、鉄道車両用電機品の国産製造が企画されたことが始まりでした。

1907年(明治40年)に発案者として、渋沢栄一は渡邊嘉一と共に計画を公表、「東洋電機」を創立したのです。そののち、1918年(大正7年)に東洋電機製造株式会社へと改名され、渋沢一族が株主となり、長い年月に亘り会社経営に腰を据えていくことになります。

東洋電機製造会社の設立経緯には、1914年(大正3年)に起きた第一次世界大戦によって、欧米からの電気機器の輸入が難しくなり、多様な機械類の急速な国産化の需要が高まったことが理由でした。渋沢栄一らはそこに注視し、電車用及び一般の電気機器、器具の制作・販売・輸入輸出を行う企業として、東洋電機製造会社を始動させたのです。

初代社長の渡邊嘉一は、イギリスの総合電機メーカーであり、当時世界の電機産業を先導していた「ディック・カー・アンド・カンパニー」こと、通称「デッカー社」の技術を取り入れ、鉄道電化の国産化を推進します。

会社設立にあたり、渡邊嘉一が作った東洋電機製造株式会社の設立趣意書によれば、「日本初の製品を生産することで、第一次世界大戦による輸入が途絶えた我が国の需要窮乏を補い、諸外国からの輸入を阻止することで、資金の流出を防ぎ、さらには国産化した製品を東洋各国へ輸出して外貨を獲得し、国家を助けるために会社を設立する」とあり、この「東洋各国へ」の部分が社名の由来です。そして、渋沢栄一はこの設立趣意書に賛成し、支援を決めたと言います。

東洋電機製造株式会社は、1921年(大正10年)に国産初の鉄道用パンタグラフを開発しました。1926年(大正15年)にはトロリーバス電機品、1936年(昭和11年)にディーゼル電気電車を作り上げるなど、数多の日本初となる電機製品や装置を開発。1964年(昭和39年)にオープンした東海道新幹線用のパンタグラフも仕入れています。

そののち、ヨーロッパとアメリカをはじめ、中国、タイ、インドにも多種多様な電機品を輸出する企業に進化しました。2018年(平成30年)には創立100周年を迎え、現在も発案者である渋沢栄一が築き上げた歴史と共に歩み続けているのです。