武将一覧 武将一覧

武将一覧では、戦国時代を牽引した武将のエピソードや、歴史を動かすことになった数々の戦い(合戦)の内容を交え、日本の歴史を語る上で欠かすことのできない名高い武将を50音順でご紹介します。

武将の名馬一覧武将の名馬一覧
平安時代から戦国時代(安土桃山時代)に活躍した武将と、その武将にまつわる名馬を詳しく解説します。

武将一覧(50音順)

あ行

  • 明智光秀あけちみつひで 1528~
    1582年

    明智光秀

    明智光秀」は、三英傑のひとり「織田信長」から絶大な信頼を得て、低い身分から一国一城の主へと出世した戦国武将。織田信長に忠誠を誓っていたはずの明智光秀は、「本能寺の変」で織田信長を自害に追い込み、わずか10日余りの天下を取りました。忠義に厚い有力武将である一方で、謀反により天下人を葬った明智光秀の生涯は、謎に包まれています。

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  • 朝倉教景の武将・歴史人年表あさくらのりかげ 1477~
    1555年

    朝倉教景の武将・歴史人年表

    「朝倉教景」(あさくらのりかげ:法名[朝倉宗滴])は、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名「朝倉氏」の家臣として活躍した武将です。越前国の守護大名「朝倉孝景」(あさくらたかかげ:法名[英林宗雄])の八男でしたが、通称が父と同じ「小太郎」であったこと、諱(いみな)である「教景」を曽祖父などが用いていたことから、嫡男としての待遇を受けていたのではないかと推測されています。

    1503年(文亀3年)に、敦賀城(福井県敦賀市)城主「朝倉景豊」(あさくらかげとよ)が、仕えていた朝倉宗家に謀反を起こしました。このときに朝倉教景は、朝倉景豊一派に加わることを求められましたが、それを断るために出家。そして、朝倉教景は主君・朝倉貞景に対し、朝倉景豊による謀反の企てを密告します。この功績が認められ、朝倉景豊が務めていた「敦賀郡司」の座に就くことになりました。朝倉教景はこれ以降、朝倉氏の軍務を仕切っていくことになったのです。

    1506年(永正3年)には、朝倉氏と北陸一向衆の間で「九頭竜川の戦い」(くずりゅうがわのたたかい)が勃発します。朝倉教景は、朝倉軍の総大将となって激戦を繰り広げ、最終的には夜襲を掛けることに成功。朝倉軍の勝利に大きく貢献しました。

    1527年(大永7年)に朝倉教景は、室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)、及び管領(かんれい)「細川高国」(ほそかわたかくに)から援軍の要請を受けて上洛します。そして「川勝寺口の戦い」(せんじょうじぐちのたたかい)に、幕府軍として参戦。「三好元長」(みよしもとなが)率いる軍勢と対峙し、勝利を収めたのです。

    そのあと、1555年(天文24年/弘治元年)には、「上杉謙信」からの呼びかけに応じて「加賀一向一揆」の討伐に参加。しかし、陣中で病に倒れたことにより、朝倉氏の本拠地・一乗谷に帰還して療養生活に入りましたが、そのまま病死してしまったのです。

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  • 朝倉義景あさくらよしかげ 1533~
    1573年

    朝倉義景

    越前国(現在の福井県北東部)随一の名門大名家である「朝倉家」に生まれ、11代目にして最後の当主となった戦国武将「朝倉義景」(あさくらよしかげ)。「武田信玄」や「浅井長政」(あざいながまさ)ら、反織田信長勢力の武将達と「織田信長包囲網」を張り、「織田信長」を敗北寸前にまで追い詰める武功を挙げていた一方で、政治への関心は薄く、家臣達に任せきりであったことが実情。自身は文弱に流れ、遊芸に明け暮れていたとも伝えられているのです。ときに「凡将」(ぼんしょう)と揶揄される朝倉義景の生い立ちを紐解くと共に、天下人・織田信長との関係についても解説します。

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  • 浅野長政あさのながまさ 1547~
    1611年

    浅野長政

    浅野長政」(あさのながまさ)は、五奉行の筆頭として豊臣秀吉から重用された戦国武将です。武将と言えば、戦に優れた姿を思い浮かべがちですが、浅野長政は、戦よりも政治面で手腕を発揮していたことでも知られる豊臣政権に欠かせない人物でした。ここでは、主に浅野長政の「官」の側面に焦点をあてて、その生涯や功績を振り返ります。

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  • 浅井長政あざいながまさ 1545~
    1573年

    浅井長政

    浅井長政」(あざいながまさ)と言えば、「織田信長」の妹「お市の方」(おいちのかた)の夫。知勇に優れた美男子と評されていました。浅井長政は、一度は義兄・織田信長と同盟を結びましたが、朋友「朝倉義景」(あさくらよしかげ)との関係を優先したため敵対。一家離散、自害へと追い込まれることになりました。浅井長政はなぜ、そんな選択をしたのでしょうか。浅井長政の生涯に迫ります。

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  • 足利尊氏の武将・歴史人年表あしかがたかうじ 1305~
    1358年

    足利尊氏の武将・歴史人年表

    鎌倉幕府に続く武家政権・室町幕府を開いた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)。96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した「元弘の乱」(げんこうのらん)では、幕府側に従軍します。しかし、のちに足利尊氏は、幕府を裏切って後醍醐天皇側に付きました。

    そのあと、同天皇による「建武の新政」(けんむのしんせい)において、第一の功臣として忠義を尽くしたのです。そんな中、足利尊氏は、公家や天皇家にばかり目を掛ける後醍醐天皇に対し、徐々に不満を募らせていきました。最終的に足利尊氏は、同天皇に反旗を翻して「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)を起こします。

    同合戦では、後醍醐天皇が送った「新田義貞」(にったよしさだ)、及び「楠木正成」(くすのきまさしげ)の軍勢と対峙して勝利を収めました。そのあと、足利尊氏は「光明天皇」(こうみょうてんのう)を擁立し、室町幕府を設立したのです。これに伴って後醍醐天皇は、吉野(現在の奈良県吉野郡)へと逃亡。「南朝」と呼ばれる朝廷を自ら開き、足利尊氏を中心とした「北朝」と対立することとなったのです。

    1338年(延元3年/暦応元年)に足利尊氏は、室町幕府の初代征夷大将軍に就任。初めは弟「足利直義」(あしかがただよし)との二元政治を行っていました。しかし、1352年(正平7年/文和元年)には足利直義を暗殺。こうして足利尊氏は、自身への権力集中を成功させたのです。

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  • 足利義輝あしかがよしてる 1536~
    1565年

    足利義輝

    「剣豪将軍」と呼ばれた、室町幕府の第13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)は、壮絶な人生を送ります。足利義輝が誕生した当時の室町幕府は権力も、将軍の権威も停滞していました。そのような情勢の中、足利義輝は生き抜き、さらに幕府の政治を復活させたのです。ここでは、歴史的資料である「フロイス日本史」や「信長公記」、「日本歴史」をもとに、足利義輝の誕生から壮絶な最期までを詳しく解説しました。また、いかにして足利義輝は弱まっていた幕府の力を復活させたのか、具体的にエピソードを交え、お伝えします。

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  • 荒木村重あらきむらしげ 1535~
    1586年

    荒木村重

    荒木村重」(あらきむらしげ)は、地方豪族の家臣から立身し、織田家の重臣にまで上り詰めた武将です。しかし、突如として織田信長に反旗を翻したことで、数奇な運命をたどることになります。絶頂期からの転落や、重臣達の讒言(ざんげん:事実を曲げるなどして偽り、その人のことを目上の人に告げ口すること)と裏切りに翻弄された籠城戦、そして家族も名誉も失い、世捨て人として生きた晩年など、荒木村重の生き様には、戦国時代の不条理が凝縮されているのです。そんな荒木村重が参陣した戦いの数々や逸話などをたどり、その人物像を紐解いていきます。

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  • 井伊直虎いいなおとら 1535~
    1582年

    井伊直虎

    井伊直虎」(いいなおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江国(現在の静岡県西部)井伊谷(いいのや)を治めた領主です。井伊家は、江戸時代には30万石の彦根藩主となり、「井伊直弼」(いいなおすけ)などの大老職を数名輩出し、譜代大名筆頭の家柄となりました。そんな井伊家の礎を作ったのが、「女領主」であったと言われる井伊直虎です。井伊直虎の生涯には謎が多く、「女性説」や「井伊直虎=次郎法師説」も確実な史料が存在せず、信憑性に乏しいのですが、ここでは「井伊直虎=次郎法師=女性」という説に沿ってお伝えします。

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  • 井伊直政いいなおまさ 1561~
    1602年

    井伊直政

    井伊直政」は、「徳川家康」に仕え「徳川四天王」のひとりとして名を馳せた戦国時代の武将です。井伊直政が生まれた頃の井伊家は、駿河国今川家の支配下にあり、お家断絶の危機に晒されていました。井伊家の再興のため、そして徳川家康の恩義に報いるために信念を貫いた井伊直政の生涯をご紹介します。

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  • 池田輝政の武将・歴史人年表いけだてるまさ 1564~
    1613年

    池田輝政の武将・歴史人年表

    「池田輝政」(いけだてるまさ)は1564年(永禄7年)に、「織田信長」の重臣「池田恒興」(いけだつねおき)の次男として、尾張国・清洲(現在の愛知県清須市)で誕生。元服後、池田輝政は、「織田信長」のもとで近習(きんじゅ:主君の側近くに仕える者)となって働いています。

    1579年(天正7年)、織田信長の家臣を務めていた「荒木村重」(あらきむらしげ)が反旗を翻し、「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)が勃発。同合戦に池田輝政は、父と共に参戦しています。その翌年に、荒木村重が「花隈城」(はなくまじょう:神戸市中央区)に籠ったことで始まった「花隈城の戦い」において池田輝政は、荒木軍の武士5~6人を自身で討ち取ったことが高く評価され、織田信長より感状を授けられました。

    そのあと、1582年(天正10年)の「本能寺の変」によって主君・織田信長が亡くなると、池田輝政は、「豊臣秀吉」に仕えることに。「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)や「九州平定」(別称[九州征伐])、「小田原の役」(別称[小田原征伐])など、豊臣秀吉による主要な合戦の大半に参陣し、武功を重ねていったのです。

    1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」において池田輝政は、「徳川家康」率いる東軍に従軍。同合戦での活躍によって池田輝政は、播磨国・姫路(現在の兵庫県姫路市)52万石を賜り、姫路藩初代藩主となったのです。

    そして池田輝政は、1601年(慶長6年)より8年の歳月を掛けて、姫路城の大規模な改修を行いました。現在観られる姫路城の姿は、この大改修によってできあがったと考えられています。

    こうして池田輝政は、姫路藩における藩政の基礎を築き上げ、「西国の将軍」と称されるようになったのです。

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  • 石田三成いしだみつなり 1560~
    1600年

    石田三成

    石田三成」(いしだみつなり)は、色白の美少年で「豊臣秀吉」に仕えた知的な武将です。アニメやゲームでも、その側面が描かれる傾向があります。石田三成と豊臣秀吉の出会いは、豊臣秀吉が偶然入った寺でのお茶のエピソード「三献の茶」が有名です。石田三成は、豊臣秀吉に気に入られて家来となり、事務方として外交を担当しました。その後、石田三成は「五奉行」となって、豊臣政権の中核を担い、太閤検地、朝鮮出兵などで活躍をみせます。そんな石田三成の生涯について、名言や功績とともにまとめました。

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  • 今川義元いまがわよしもと 1519~
    1560年

    今川義元

    今川義元」(いまがわよしもと)について、あなたはどのようなイメージをお持ちでしょうか。「公家かぶれの戦国大名」というイメージを持っている人も少なくないと思います。今川義元は「桶狭間の戦い」で、25,000以上の大軍を擁しながら、わずか2,000の「織田信長」に敗れたからです。しかし、そんな今川義元は、実は優れた領国経営能力と家臣・太原雪斎(たいげんせっさい)の後ろ盾によって、米の生産量が多いとは言えなかった駿河・遠江・三河を豊かな国にすると共に、軍事力・外交力を用いて領地拡大に成功した手腕の持ち主。「今川義元」はその実力から、「海道一の弓取り」と呼ばれていました。ここでは、一般的なイメージとはギャップのある今川義元の実像についてご紹介します。大河ドラマでも注目される戦国大名です。

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  • 上杉景勝うえすぎかげかつ 1556~
    1623年

    上杉景勝

    「卍」の字が書かれた特徴的な金色の兜をかぶり、戦国時代から江戸時代を生き抜いた武将「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)。大河ドラマでも、どの俳優が演じるか注目される人物です。そんな上杉景勝の人生は、叔父にあたる上杉謙信の後継者争いで、上杉景虎をはじめ、多くの親族を失った壮絶なものでした。上杉景勝はどのような経緯で上杉家の家督を継ぎ、そして、なぜ豊臣家の「五大老」と呼ばれるまでになったのでしょうか。ここでは、「名将言行録」(めいしょうげんこうろく)や「上杉家御年譜」、「上杉家文書」などの歴史的資料をもとに、上杉景勝の誕生から米沢城で死を迎える最後までを解説。養父である「上杉謙信」にならって寡黙だったと言われる上杉景勝の、数少ない名言や逸話についても順にご紹介し、人となりに迫ります。また、上杉家の家紋や愛用していた刀についてもぜひご覧下さい。

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  • 上杉謙信うえすぎけんしん 1530~
    1578年

    上杉謙信

    上杉謙信」は、越後国(現在の佐渡島を除く新潟県)山内上杉家16代当主の戦国武将です。長年内乱が続いていた越後国を治めて、繁栄させるために尽くした一方で、「武田信玄」や「織田信長」など、名だたる武将と合戦を繰り広げてきました。

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  • 宇喜多秀家うきたひでいえ 1572~
    1655年

    宇喜多秀家

    月のような形をした大きな立物が特徴的な兜と甲冑を身にまとい、安土桃山時代から江戸時代前期を生きた戦国武将「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)。わずか10歳で家督を継ぎ大きな権力を持った宇喜多秀家の人生は波乱万丈でした。一体どんな人生を送った武将だったのでしょうか。宇喜多秀家の輝かしい前半生と流罪で苦しんだ50年に亘る八丈島での後半生について、歴史的資料「宇喜多秀家年譜」や「百家系図」をもとに解説します。宇喜多秀家が「豊臣秀吉」に愛された理由や50万石の戦国大名となった半生、関ヶ原の戦いの敗北理由、妻である「豪姫」(ごうひめ)との強い絆など、宇喜多秀家の波乱に満ちた人生に迫ります。また、宇喜多秀家の家紋や刀についてもご紹介しているので、ご覧下さい。

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  • 大谷吉継おおたによしつぐ 1559~
    1600年

    大谷吉継

    大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、病と闘いながら戦国の乱世を生き抜いた武将として知られています。戦場では顔を白い布で覆い、類稀な才能を発揮。「小田原征伐」などで活躍しました。その才能は、豊臣秀吉からも認められたほど。ここでは、ミステリアスな部分も多い武将・大谷吉継についてご紹介します。

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  • 大友宗麟おおともそうりん 1530~
    1587年

    大友宗麟

    大友宗麟」(おおともそうりん)は、鎌倉時代から続く名族「大友氏」の最盛期を築いた戦国大名です。海外貿易によって得た経済力を背景に、巧みな外交や家臣団の奮戦により近隣諸国を席巻。一時は、北九州6ヵ国を支配下に治めるほど勢力を拡大しました。しかし、キリスト教への帰依や薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)に本拠を構える「島津氏」の台頭などがきっかけとなり、勢力は急激に縮小。晩年は、滅亡の危機に瀕するほど衰退してしまいました。大友宗麟の栄枯盛衰の歴史に注目しつつ、その人物像やユニークな逸話、ゆかりの刀剣などをご紹介します。

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  • 沖田総司の武将・歴史人年表おきたそうじ 1844~
    1868年

    沖田総司の武将・歴史人年表

    「新選組/新撰組」の一番隊隊長として知られる「沖田総司」(おきたそうじ)。1844年(天保15年/弘化元年)白河藩(現在の福島県)藩士「沖田勝次郎」(おきたかつじろう)のもとに生まれましたが、父は沖田総司がわずか2歳の頃に亡くなっています。

    そのあと、沖田総司は、剣術の新流派「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)を学ぶために、新撰組のメンバー「近藤勇」(こんどういさみ)の養父であった「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)に弟子入り。修行を積んで、同流派の道場「試衛館」(しえいかん)の塾頭を務めるほど優れた剣技の持ち主となった沖田総司は、「天才的剣士」と称されるようになったのです。

    1863年(文久3年)に近藤勇や「土方歳三」(ひじかたとしぞう)らと共に上洛を果たし、新撰組に加盟した沖田総司は、その幹部として大きな活躍を見せていました。しかし、1868年(慶応4年/明治元年)に勃発し、他の新撰組メンバーが従軍した「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)には、肺病のために不参加となったのです。

    沖田総司は同合戦後、江戸で療養生活を送っていました。しかし、1868年(慶応4年/明治元年)4月に、千駄ヶ谷(現在の東京都渋谷区)の植木屋・平五郎宅の納屋で亡くなったと伝えられています。

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  • 織田有楽斎(織田長益)おだうらくさい 1547~
    1622年

    織田有楽斎(織田長益)

    織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます])は、あの「織田信長」の弟という宿命で生まれてきた人物。他人を見る目の確かさで、激動の時代を生き延びました。武家茶道「有楽流」の開祖としても有名。屋敷があった場所は現在も「有楽町」と名前が残るなど、多くの人の心を惹き付ける魅力を持っていたのです。そんな織田有楽斎(織田長益)の生涯をご紹介します。

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  • 織田信長おだのぶなが 1534~
    1582年

    織田信長

    戦国時代、天下布武を目指し、その後の歴史を大きく変えた織田信長。400年経った今でも織田信長のリーダー像に惹かれる人は多く、人気は衰えません。歴史的史料である「信長公記」や「名将言行録」をもとに、天下人となった織田信長の生涯をご紹介します。

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  • 織田信秀おだのぶひで 1511~
    1552年

    織田信秀

    天下人「織田信長」の父であり、「尾張の虎」と称された武将「織田信秀」(おだのぶひで)。室町時代末期、尾張国(現在の愛知県西部)の下級武士だったにも関わらず、織田信長が天下を取る基盤としても重要な役割を果たしたと言われています。尾張国の周辺は、美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤道三」(さいとうどうさん)や、三河国(現在の愛知県東部)の「松平清康」(まつだいらきよやす)、駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の「今川義元」(いまがわよしもと)など、強敵揃い。織田信秀は、下級武士からどのように成長し、覇権を広げていったのでしょう。織田信秀の出自や人生、そして織田信長へと受け継がれた愛刀などについてもご紹介します。

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か行

  • 勝海舟の武将・歴史人年表かつかいしゅう 1823~
    1899年

    勝海舟の武将・歴史人年表

    江戸時代末期の幕臣として、江戸無血開城という大きな功績を残した「勝海舟」(かつかいしゅう)。1845年(弘化2年)頃より、福岡藩士「永井青崖」(ながいせいがい)のもとで蘭学を学んだあと、兵学、及び蘭学を教える私塾「氷解塾」(ひょうかいじゅく)を開いています。

    そして勝海舟は、江戸幕府が設立した「長崎海軍伝習所」に1期生として入所。

    1860年(安政7年/万延元年)には遣米特派使節に「咸臨丸」(かんりんまる)で随行し、同船の艦長を務めたのです。 アメリカから帰国すると、勝海舟は「軍艦奉行並」に就任します。

    さらには、自身の弟子であった「坂本龍馬/坂本竜馬」らの助けを得て、「神戸海軍操練所」を開設。海軍軍人の育成に注力しました。 1868年(慶応4年/明治元年)に「陸軍総裁」に任命された勝海舟は、西郷隆盛との間で江戸城開城の協定を結び、大政奉還によって政権が朝廷に返上されたあとも、明治新政府と徳川将軍家の仲介役として、その手腕を発揮。

    明治政府の成立以降、「海軍大輔」(かいぐんたいふ)や「参議兼海軍卿」、「外務大杼」(がいむたいじょう)などの重要ポストを歴任しました。 1899年(明治32年)に勝海舟は自宅にて病死。その際、「これでおしまい」との言葉を残して亡くなったという逸話が良く知られています。

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  • 加藤清正かとうきよまさ 1562~
    1611年

    加藤清正

    「加藤清正」(かとうきよまさ)は、勇猛果敢で戦国武将の名にふさわしい猛将というイメージですが、実は武芸だけでなく、築城や領地統治などにも手腕を発揮しました。また、一時は「石田三成」(いしだみつなり)との対立から「徳川家康」に与しましたが、亡くなる直前まで豊臣家の行く末を案じていた義に厚い武将です。
    ここでは、現在も人気のある加藤清正という武将の生涯と、その名言を通して魅力に迫っていきます。

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  • 蒲生氏郷がもううじさと 1556~
    1595年

    蒲生氏郷

    「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。

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  • 楠木正成の武将・歴史人年表くすのきまさしげ 1294~
    1336年

    楠木正成の武将・歴史人年表

    「楠木正成」(くすのきまさしげ)は、その出自には不明な点が多くありますが、一説によると、河内国(現在の大阪府東部)で栄えた豪族の家系に生まれたと言われています。

    1331年(元徳3年/元弘元年)、96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に召し出された楠木正成は、鎌倉幕府を討伐するために「赤坂城」(大阪府南河内郡)で挙兵。そのあと、「千早城」(大阪府南河内郡)を築いた楠木正成は、鎌倉幕府軍からの猛攻に耐えて籠城戦を繰り広げました。これによって楠木正成は、諸国の反幕府勢力に蜂起を促したのです。

    赤坂城、及び千早城で挙げた武功が高く評価された楠木正成は、後醍醐天皇が始めた「建武の新政」のもとで、「河内守」(かわちのかみ)に任ぜられました。さらに楠木正成は、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)・河内国(現在の大阪府東部)・和泉国(大阪府南西部)3ヵ国の守護職にも就いています。

    1335年(建武2年)に楠木正成は、後醍醐天皇に反旗を翻した「足利尊氏」を九州に敗走させましたが、その翌年に再起した足利尊氏を摂津国湊川(現在の神戸市中央区、及び兵庫区)で迎え撃って敗死しました。

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  • 黒田官兵衛くろだかんべえ 1546~
    1604年

    黒田官兵衛

    黒田官兵衛」(別名:黒田如水・黒田孝高)は、大河ドラマ『軍師官兵衛』で天才軍師として描かれた戦国武将です。攻城戦で相手の食糧補給手段を絶つ「兵糧攻め」や備中高松城(現在の岡山県)を浮城にした「水攻め」など、戦術に長けた武将でした。それゆえ、主君からは信頼以上に恐れられることもあったとか。また軍師とは別に、加藤清正、藤堂高虎と共に「三大築城名手」と称される築城の名手としての顔や、一夫多妻制の時代にひとりの妻のみを生涯愛した「愛妻家」の顔も持っていました。こちらのページでは、軍師・築城の名手として活躍していた黒田官兵衛の戦歴や人物像だけでなく、黒田官兵衛が残した名言や家紋、愛用していた日本刀についてご紹介します。

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  • 黒田長政くろだながまさ 1568~
    1623年

    黒田長政

    黒田長政」(くろだながまさ)は、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)という偉大な父を持ち、父と同様に武勇を轟かせた武将です。父親の黒田官兵衛は、「黒田孝高」(くろだよしたか)や「黒田如水」(くろだじょすい)という別名がありましたが、黒田長政も同様に「喜兵衛」(きへえ)という別名がありました。黒田長政は、戦国三英傑である「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕えた人物です。幼少時には有岡城の一件で織田信長に命を奪われそうになったり、家督を継いだあとは豊臣秀吉の命のもと朝鮮出兵したり、天下分け目の「関ヶ原の戦い」では東軍の徳川家康を勝利に導いたりと波乱万丈の時代を生き抜き、ついには52万石の領土を持つ初代福岡藩主になりました。そんな「黒田長政」について、生涯や名言などをご紹介します。

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  • 小早川隆景こばやかわたかかげ 1533~
    1597年

    小早川隆景

    戦国時代、中国地方の知将として名を馳せた「毛利元就」(もうりもとなり)の三男「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)は、父と同様に物事を熟考して決断する、知略に優れた武将でした。「豊臣秀吉」の臣下となってからは、絶対的な信頼を得て、西国制覇の急先鋒として活躍したのです。乱世の中で毛利家の屋台骨を支え続けた、小早川隆景の生涯と数々の戦歴を辿っていきます。

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  • 小早川秀秋こばやかわひであき 1582~
    1602年

    小早川秀秋

    小早川秀秋」(こばやかわひであき)は、「関ヶ原の戦い」で西軍敗北の原因のひとつを作った武将です。小早川秀秋の裏切りで形勢が徳川家康が率いる東軍に傾いたことは間違いありません。しかし、小早川秀秋ほど、運命に縛られた武将はいないと言えます。そこで、小早川秀秋の生涯や人物像をご紹介します。

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さ行

  • 西郷隆盛の武将・歴史人年表さいごうたかもり 1828~
    1877年

    西郷隆盛の武将・歴史人年表

    激動の幕末期における志士のひとりとして、日本に変革をもたらすべく奔走した「西郷隆盛」。その家格は、もともと薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級藩士でしたが、やがて同藩11代藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)に才能を認められ、徐々に頭角を現します。

    そのあと、西郷隆盛は、島津斉彬からの密書を水戸藩(現在の茨城県)藩主などに届ける重要な任務を担うなど、その右腕となるほど成長しますが、島津斉彬の逝去により事態は一変。薩摩藩において実権を握っていた「島津久光」(しまづひさみつ)と微妙な関係にあったことから流刑に処されるなど、不遇な扱いを受けることになったのです。

    そんな中でも西郷隆盛は、倒幕を決意して長州藩(現在の山口県)と薩長同盟を結んだり、最終的には江戸幕府側の「勝海舟」(かつかいしゅう)との会談により、いわゆる「江戸無血開城」を成功させたりと、明治維新に向けての立役者と言えるほどの活躍を見せています。

    明治政府の成立後も西郷隆盛は、日本の近代化を進めるため、積極的に国政へ携わっていました。しかし、政府内部の分裂が原因となって起こった政変により下野(げや:官職を辞め、民間に下ること)し、鹿児島へ戻ることに。そして、明治政府に不満を募らせていた九州の士族達により、大将に擁されて「西南戦争」を起こすも最終的には賊将と見なされ、非業の死を遂げることになったのです。

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  • 斎藤道三さいとうどうさん 1494~
    1556年

    斎藤道三

    斎藤道三」(さいとうどうさん)と言えば、戦国時代に美濃国(現在の岐阜県南部)を乗っ取った、成り上がり武将として有名です。権謀術数(けんぼうじゅっすう:他人を巧みに欺く策略)に長け、親の腹を食い破って生まれるとの迷信がある「マムシ」のようだと恐れられましたが、皮肉にも息子「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)と対立し、討死します。「下剋上大名」と呼ばれた斎藤道三は、どのような生涯を送ったのでしょうか。

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  • 酒井忠次さかいただつぐ 1527~
    1596年

    酒井忠次

    酒井忠次」(さかいただつぐ)は、徳川四天王のひとりに数えられる名将です。徳川家康の父親「松平広忠」(まつだいらひろただ)の時代から徳川家の家臣として仕えていた人物で、のちの「徳川家康」となる幼い頃の「竹千代」が、今川家の人質になる際にも同行しました。徳川家康からの信頼が厚く、最後まで徳川家に仕えた忠義の人としても知られる、酒井忠次の生涯とエピソードに迫ります。

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  • 榊原康政さかきばらやすまさ 1548~
    1606年

    榊原康政

    榊原康政」(さかきばらやすまさ)は、「徳川家康」に見出され、陪臣(ばいしん:家臣の家臣)の身分から小姓となり、「徳川四天王」のひとりと呼ばれる重臣にまでに大出世した人物です。学問と武勇に長け、徳川家康から「康」の一字を賜ったほどでした。ところが、1592年(文禄元年)から徳川家康の3男「徳川秀忠」付となり、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に遅刻するという大失態を起こしてしまうのです。ここでは、波乱万丈な榊原康政の一生をご紹介します。

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  • 坂上田村麻呂の武将・歴史人年表さかのうえのたむらまろ 758~
    811年

    坂上田村麻呂の武将・歴史人年表

    「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代初期に活躍した武将です。50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)が行っていた事業のひとつである蝦夷(えみし/えぞ)討伐において、その優れた武勇を存分に発揮しました。

    791年(延暦10年)に坂上田村麻呂は、「征東副使」(せいとうふくし)に任ぜられています。そして794年(延暦13年)には、征夷大将軍「大伴弟麻呂」(おおとものおとまろ)の軍勢に加わり、蝦夷を討つことに成功したのです。

    そのあと、坂上田村麻呂は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)の「按察使兼陸奥守」(あぜちけんむつのかみ)や「鎮守府将軍」(ちんじゅふしょうぐん)を歴任。そして797年(延暦16年)には、遂に征夷大将軍にまで上り詰めます。 801年(延暦20年)に3度目となる蝦夷討伐を実行。

    その翌年には「胆沢城」(いさわじょう:岩手県奥州市)を築き、当時の軍事機関であった「鎮守府」を同城に移したのです。 このように蝦夷の平定に大きく貢献した坂上田村麻呂は、810年(大同5年/弘仁元年)に起こった「薬子の変」(くすこのへん)の鎮圧でも武功を挙げ、「正三位・大納言」(しょうさんみ・だいなごん)に任ぜられました。

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  • 坂本龍馬の武将・歴史人年表さかもとりょうま 1836~
    1867年

    坂本龍馬の武将・歴史人年表

    「坂本龍馬/坂本竜馬」(さかもとりょうま)は、幕末の志士として倒幕/討幕運動のために奔走し、様々な業績を残した人物。土佐藩(現在の高知県)郷士(ごうし:武士の身分でありながら農業にも従事していた者)の家に生まれた坂本龍馬は、剣術修行のために江戸に出たことで、ペリー来航を背景にして高まりを見せていた「尊王/尊皇攘夷論」(そんのうじょういろん:天皇を尊び、外敵を排除しようとする思想)に傾倒するようになったのです。

    脱藩と帰藩を繰り返していた坂本龍馬は、江戸幕府の軍艦奉行であった「勝海舟」(かつかいしゅう)の門下に入ると、師が進めていた「神戸海軍操練所」の開設に尽力します。勝海舟のもとで航海術を学ぶ一方で、薩摩藩(現在の鹿児島県)の支援を受けて、貿易商社「亀山社中」(かめやましゃちゅう)を長崎に設立。同社では、主に洋式鉄砲の取引を行っていました。

    そのあとは、対立していた薩摩と長州藩(現在の山口県)の仲を坂本龍馬が取り持って「薩長同盟」を成立。また、土佐藩参政の「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)と共に新国家体制の構想を「船中八策」(せんちゅうはっさく)にまとめ、土佐藩がその内容を江戸幕府に建白したことで、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が、「大政奉還」を実行することとなるのです。このように、倒幕運動に大きく貢献した坂本龍馬でしたが、京都にて刺客に暗殺され、明治新政府の設立を見ることなく、志半ばでその生涯の幕を閉じました。

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  • 佐竹義宣さたけよしのぶ 1570~
    1633年

    佐竹義宣

    徳川家康に「律義者」(りちぎもの)と評された「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)。 豊臣秀吉のもとでは、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県)に54万5,000石余を領し、「豊臣政権の六大将」と呼ばれた戦国大名です。「関ヶ原の戦い」においては、徳川家康に味方しなかったため、のちに出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)へ国替えとなりますが、地元豪族の勢力を排除し、久保田藩(秋田藩)の礎を築きました。ここでは、佐竹義宣の人となりに焦点をあて、ゆかりの刀剣や家紋、興味深い逸話について触れながら、その生涯に迫っていきます。

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  • 佐々成政さっさなりまさ 1539~
    1588年

    佐々成政

    10代の頃から「織田信長」に仕え、持ち前の武勇を発揮し、頭角を現した「佐々成政」(さっさなりまさ)は、「黒母衣衆」(くろほろしゅう:織田信長の親衛隊)の筆頭として数々の戦場で戦功を挙げた人物です。特に鉄砲への造詣は深く、「織田家」の鉄砲部隊は、佐々成政によって鍛え上げられたと言っても過言ではありません。やがて重臣「柴田勝家」の与力(よりき:侍大将や足軽大将に付属した騎馬の武士)となり、越中国(現在の富山県)の大名にまで出世を果たしますが、「本能寺の変」をきっかけに状況が暗転。「豊臣秀吉」と敵対し、やがて領地のほとんどを没収されてしまうのです。戦いに明け暮れた佐々成政の生涯について、数々の逸話や伝説と共に振り返り、剛胆かつ実直な人物像をご紹介します。

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  • 真田昌幸さなだまさゆき 1547~
    1611年

    真田昌幸

    戦国時代に活躍した真田家の武将では「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])が有名です。NHK大河ドラマ「真田丸」で取り上げられ、多くの現代人がその生きざまを知ることとなりました。ここでは、その真田幸村(真田信繁)の父親で、同じく大河ドラマにも登場した「真田昌幸」(さなだまさゆき)についてピックアップ。真田幸村(真田信繁)という有名な戦国武将を育てた真田昌幸が、どのようにして真田家を導いていったのか必見です。

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  • 真田幸村(真田信繁)さなだゆきむら 1567~
    1615年

    真田幸村(真田信繁)

    真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将です。その勇敢な活躍と華々しい最期が、のちの史料において「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評されたことから、英雄として庶民の間に浸透し、高い人気を誇っています。真田幸村(真田信繁)は、一体どのような生涯を送ったのか、出生から最期まで見ていきましょう。

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  • 柴田勝家しばたかついえ 1522~
    1583年

    柴田勝家

    柴田勝家」(しばたかついえ)と言えば、「織田信長」の筆頭家老。戦上手で勇猛果敢、情に厚いが武骨なためか59歳まで独身でした。ところが60歳のときに、織田信長の妹「お市の方」(おいちのかた)の再婚相手に選ばれます。天下人「豊臣秀吉」の好敵手と目された男の「人生の分岐点」とは? その生涯に迫ります。

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  • 島左近しまさこん 1540~
    1600年

    島左近

    島左近」(しまさこん)は、「石田三成」(いしだみつなり)の右腕として活躍した武将です。「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」と言われるほど、優れた武将として有名でした。ここでは、島左近の生涯、家紋、名言をご紹介します。

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  • 島津豊久しまづとよひさ 1570~
    1600年

    島津豊久

    戦国時代後期、怒濤の勢いで九州を席巻した島津氏。その勢力拡大を牽引したのが、無類の戦上手として知られた「島津家久」(しまづいえひさ)と、その嫡男「島津豊久」(しまづとよひさ)の親子です。島津豊久は父の死後、若くして「佐土原城」(さどわらじょう:現在の宮崎県宮崎市)の城主となり、「文禄・慶長の役」(ぶんろく・けいちょうのえき)などで奮戦。そして「関ヶ原の戦い」では、伯父である「島津義弘」(しまづよしひろ)と共に「石田三成」を中心とした「西軍」へ加勢。戦局が東軍にとって優位になると、西軍に属していた武将達が「徳川家康」率いる「東軍」に次々と寝返ります。しかし島津豊久は、戦後の困難を乗り切るためには、島津義弘の存在が不可欠であるとして戦場からの脱出を促し、自身は敵陣突破を図ることを目的に、のちに「島津の退き口」(しまづののきぐち)と称される捨て身の作戦を敢行。これにより島津豊久は、壮絶な戦死を遂げることになりましたが、その勇名は全国にとどろき、島津氏の面目を施したのです。ここでは、そんな島津豊久の人となりが分かる逸話や、武功を立てた歴戦の数々を辿りながら、その生涯をご紹介します。

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  • 島津義弘しまづよしひろ 1535~
    1619年

    島津義弘

    島津義弘」(しまづよしひろ)は、武勇において名を轟かせた武将です。1572年(元亀3年)の「木原崎の戦い」では、「釣り野伏せ戦法」で3,000にも及ぶ敵の大軍をわずか300の兵で打ち破り、1592年(文禄元年)の朝鮮出兵では、敵から「鬼石曼子」(グイシーマンズ)と恐れられるほど勇敢に戦いました。また、「関ヶ原の戦い」での撤退の際、正面突破を決行した戦いぶりは、のちに「島津の退き口」として語り継がれています。そんな戦国大名として活躍していた島津義弘の戦歴や人物像だけでなく、島津義弘が残した名言や家紋、愛用していた刀について解説します。

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  • 仙石秀久せんごくひでひさ 1552~
    1614年

    仙石秀久

    「豊臣秀吉」の家臣団のうち、最古参の武将として知られる「仙石秀久」(せんごくひでひさ)は、自らの腕と勇敢さを武器に、大名へと上り詰めた人物。戦場では危険を顧みず突進し、主君のためなら死も厭わない覚悟で数々の修羅場をくぐり抜け、やがて一国一城の主にまで昇進したのです。そんな波瀾万丈な仙石秀久の生涯を、数々の逸話や戦歴と共に振り返りながら、その人物像に迫っていきます。

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た行

  • 高山右近たかやまうこん 1552~
    1615年

    高山右近

    高山右近」(たかやまうこん)は、人生のほぼすべてを、キリスト教に捧げた戦国武将です。「キリシタン大名」と呼ばれた人物は数多くいますが、家や領地を犠牲にしてまで信仰を貫いた大名は、高山右近ただひとり。その強烈な信仰心と影響力から、「伴天連の大旦那」(ばてれんのおおだんな)と呼ばれ、当時の日本におけるキリシタンの中で、中心的役割を担っていました。キリシタンの第一人者として、自身の勢力を拡大することよりも、信仰の道を選んだ高山右近の生涯を、逸話や戦いの数々を交えてご紹介します。

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  • 滝川一益たきがわいちます 1525~
    1586年

    滝川一益

    「織田四天王」のひとりに数えられた「織田信長」の重臣、「滝川一益」(たきがわいちます/かずます)。前半生に関しては記録が乏しく、甲賀(現在の滋賀県甲賀市)の出身であることから、一説には忍者だったとも言われている人物です。調略が得意で、鉄砲の名手。水陸どちらの戦いにも高い能力を発揮した滝川一益は、織田軍が遠征したあらゆる戦地で重用され、目覚ましい活躍を見せました。ところが「本能寺の変」をきっかけに、滝川一益の立場は一変。不遇の晩年を強いられて、ひっそりと生涯を閉じることになるのです。 優れた才覚を駆使して織田信長の快進撃に貢献した、滝川一益の謎めいた生涯と人物像に迫ります。

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  • 武田勝頼たけだかつより 1546~
    1582年

    武田勝頼

    武田勝頼(たけだかつより)は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名で、戦国時代から安土桃山時代を駆け抜けるように生きた人物です。武田信玄を父に持ち、諏訪領主の娘・諏訪御料人を母に持つ、武田勝頼。諏訪氏と武田氏両方の名跡を継いだのち、長篠の戦いで織田軍や徳川軍と戦い、仲間に裏切られて最後を迎えました。そんな「武田勝頼」は、織田信長より強い武将であったと言われていますが、名将、愚将どちらの説もあります。実際のところ、武田勝頼はどんな性格で、どんな人物だったのでしょうか?ここでは、歴史的資料「新府城の歴史学」や「三河物語」、「大日本古文書」をもとに武田勝頼の生涯や武将としての評価、家紋、逸話について詳しく解説します。

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  • 武田信玄たけだしんげん 1521~
    1573年

    武田信玄

    武田信玄」(たけだしんげん)は、甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。「甲斐の虎」と呼ばれた彼の率いる武田軍は当時最強と言われ、その武勇はのちの天下人「織田信長」の耳にも届き、恐れさせるほどでした。天下を目指していた武田信玄が、上洛を前に病に倒れることがなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれないとも評されています。

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  • 竹中半兵衛たけなかはんべえ 1544~
    1579年

    竹中半兵衛

    竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)と言えば、主君や将軍の戦略・戦術の指揮を補佐する役割を担った戦国時代を代表する「名軍師」。最終的に「豊臣秀吉」に仕えた竹中半兵衛は、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と共に、豊臣秀吉が天下人になるまで支えて活躍します。竹中半兵衛の生涯、そして軍師とは何かを見ていきましょう。

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  • 立花宗茂たちばなむねしげ 1567~
    1642年

    立花宗茂

    立花宗茂(たちばなむねしげ)は、九州勢の中で非常に活躍した戦国武将のひとりです。「九州征伐」で武勲を立てた立花宗茂は、豊臣秀吉より所領を授かり大名に出世。一介の家臣だった者が大名に出世することは、当時では異例の出来事でした。その後も、朝鮮出兵に参加するなど、豊臣秀吉が亡くなるまで、活躍を見せています。豊臣秀吉が生前、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評していたことから、徳川家康も立花宗茂を警戒していたようです。立花宗茂は、豊臣秀吉が亡くなったあとも、豊臣秀吉に対する恩義を重んじる人物でした。そんな立花宗茂の生い立ちや立花宗茂が残した名言など、立花宗茂の人となりが分かるエピソードを交えてご紹介します。

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  • 伊達政宗だてまさむね 1567~
    1636年

    伊達政宗

    伊達政宗」は、「独眼竜政宗」の異名で知られる出羽国(でわのくに:現在の山形県と秋田県)出身の戦国武将。17歳で奥州伊達氏の家督を継ぐと、19歳で南奥州を支配し、仙台藩初代藩主となって東北の繁栄を築きました。あと10年、20年生まれるのが早ければ天下人となっていたかもしれないと言われる伊達政宗は、謝罪と処世術の達人でした。

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  • 長宗我部元親ちょうそかべもとちか 1539~
    1599年

    長宗我部元親

    長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)は、戦国時代の武将。土佐国(現在の高知県)の豪族だった長宗我部氏を戦国大名にまで成長させ、四国を制覇したことから「土佐の出来人」と呼ばれていました。

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  • 東郷平八郎の武将・歴史人年表とうごうへいはちろう 1848~
    1934年

    東郷平八郎の武将・歴史人年表

    「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)は、明治時代から大正時代にかけて活躍した海軍軍人です。1863年(文久3年)に、薩摩藩とイギリス艦隊の間で勃発した「薩英戦争」(さつえいせんそう)で初陣を飾り、1868年(慶応4年/明治元年)の「戊辰戦争」では、薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)を中心とした旧幕府軍に従軍しました。

    そのあと、東郷平八郎は、イギリスのポーツマスへ官費留学して国際法や海軍技術などを学んでいます。この留学で得た知見を活かし、「日清戦争」や「日露戦争」では大日本帝国海軍の勝利に大きく貢献。特に日露戦争では、当時世界最強と評されていたロシアのバルチック艦隊を「日本海海戦」において撃破し、アメリカやイギリスといった列強諸国を驚嘆させたのです。

    日露戦争が終結したあと、海軍大将となった東郷平八郎は、「軍司令部長」や「軍事参議官」を歴任。さらには、1913年(大正2年)に「元帥」(げんすい)となっただけでなく、1915年(大正4年)には、日本最高の勲章「菊花章頸飾」(きっかしょうけいしょく)を賜っています。

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  • 藤堂高虎とうどうたかとら 1556~
    1630年

    藤堂高虎

    藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、戦国時代から江戸時代初期に活躍した戦国武将。藤堂高虎と言えば、「加藤清正」(かとうきよまさ)や「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と並ぶ築城の名人であることと、主君を次々に変えたことで有名です。

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  • 土岐頼芸ときよりのり 1502~
    1582年

    土岐頼芸

    「土岐頼芸」(ときよりのり)は、美濃国(現在の岐阜県)に栄えた土岐家の次男として生まれ、実兄「土岐頼武」(ときよりたけ)との熾烈な家督争いに打ち勝ち、美濃国守護(しゅご:鎌倉・室町幕府が置いた地方官)に上り詰めた戦国武将です。しかし、時は下剋上の時代。自身が守護代に任命した「斎藤道山」(さいとうどうさん)に裏切られ、美濃国を追われることとなります。土岐頼芸は、天下人「織田信長」の父で、「尾張の虎」と称された「織田信秀」(おだのぶひで)を頼り、斎藤道三と和睦しますが、最終的には11代続いた美濃国守護の地位を手放し、流浪の人生へと転落。81歳にして美濃国へ戻りますが、直後にその生涯を終えた人物です。激動の戦国時代を生きた土岐頼芸についてご紹介します。

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  • 徳川家康とくがわいえやす 1542~
    1616年

    徳川家康

    戦国乱世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた「徳川家康」。天下人として名高い家康ですが、幼い頃は「織田家」と「今川家」の人質として扱われ、家臣共々不遇な生活を送っていました。しかし、そののちは三河平定、そして天下分け目の「関ヶ原の戦い」を経て征夷大将軍となったのです。その生涯と共に、「徳川紋」と言われる徳川家の家紋、そして徳川家康が残した名言をご紹介します。

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  • 徳川秀忠とくがわひでただ 1579~
    1632年

    徳川秀忠

    江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と言えば、「関ヶ原の戦い」に遅参したことで有名な人物。初代将軍「徳川家康」、3代将軍「徳川家光」に比べると地味なイメージがあるでしょうが、徳川秀忠は決して凡庸な人物ではありませんでした。今回は、知られざる徳川秀忠の生涯や、後世に繫がる幕府の支配体制を確立させた徳川秀忠の大きな功績についてご紹介していきます。

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  • 豊臣秀吉とよとみひでよし 1537~
    1598年

    豊臣秀吉

    豊臣秀吉」は、「織田信長」や「徳川家康」と並び戦国三英傑の1人に数えられている戦国武将です。豊臣秀吉は農民の出身でしたが、数々の武功を挙げた上に本能寺で織田信長を暗殺した「明智光秀」を討ち取ります。その後、清洲会議で対立した「柴田勝家」に勝利すると、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)らを取り込み勢力をさらに拡大し、ついには天下人・関白まで上り詰めました。「墨俣一夜城」(すのまたいちやじょう)や「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)など様々な逸話を残した豊臣秀吉の生涯をご紹介します。

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  • 豊臣秀頼とよとみひでより 1593~
    1615年

    豊臣秀頼

    安土桃山時代から江戸時代前期を生きた戦国武将「豊臣秀頼」(とよとみひでより)。大河ドラマでも、どの俳優が豊臣秀頼を演じるか注目を集める人物です。豊臣秀頼の父は、天下人「豊臣秀吉」。母は織田信長の姪にあたる「淀殿」(よどどの)、「茶々」(ちゃちゃ)です。「豊臣秀次」の自刃により、豊臣秀吉の後継者となりましたが、4歳のときに父・豊臣秀吉が病没。そのため、「五大老」や「五奉行」の権力闘争に翻弄される数奇な運命を辿りました。サラブレッドでカリスマ性もあったという豊臣秀頼の、幼名「拾丸」の頃から、大坂夏の陣で徳川家康に追い詰められて滅亡する最後まで、波乱に満ちた人生をご紹介します。また、豊臣秀頼の刀についてもぜひご覧下さい。

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な行

  • 直江兼続なおえかねつぐ 1560~
    1620年

    直江兼続

    兜に「愛」の文字を掲げた武将「直江兼続」(なおえかねつぐ)は、幼少の頃から仕えた「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)と共に、上杉家を導いていきます。その能力の高さは、「豊臣秀吉」から米沢30万石を与えられたほど。ここでは、「義」(ぎ:公共のために尽くすこと)に生きた直江兼続の生涯や、彼にまつわる名言をご紹介します。

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  • 那須与一なすのよいち 1169~
    1189年

    那須与一

    鎌倉幕府の「御家人」(ごけにん)として、同幕府初代将軍「源頼朝」に仕えていた「那須与一」(なすのよいち)。いわゆる「源平合戦」における一連の戦いのひとつである「屋島の戦い」(やしまのたたかい)にて、「扇の的」に矢を見事命中させたほどの「弓の名手」として知られています。しかし、その逸話と那須与一の名前は、軍記物の「平家物語」などに登場するのみであるため、それらの真偽のほどは謎に包まれた部分が多いのです。平家物語や「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)などに伝わるところから、那須与一の生涯について紐解きつつ、人物像にも迫っていきます。

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  • 長束正家なつかまさいえ 1562~
    1600年

    長束正家

    戦国時代に活躍した「長束正家」(なつかまさいえ)は、「豊臣秀吉」に重用された五奉行のひとりです。同時期に活躍した武将達が、武力、知略、統率力など、合戦で活かす能力を武器にして生きた中で、長束正家は「算術」の能力を武器にして立身出世を果たした武将でした。官僚タイプの長束正家は、戦国の風雲急を告げる時代にあって、合戦の能力に頼らなかった一風変わった武将なのかもしれません。

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  • 新田義貞の武将・歴史人年表にったよしさだ 1301~
    1338年

    新田義貞の武将・歴史人年表

    「新田義貞」(にったよしさだ)はもともと、上野国(現在の群馬県)の豪族「新田氏」の惣領であった武将です。 1331年(元徳3年/元弘元年)に、96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の勢力と鎌倉幕府の間で「元弘の乱」(げんこうのらん)が勃発。同乱で新田義貞は当初、鎌倉幕府方に付き、後醍醐天皇方の「楠木正成」(くすのきまさしげ)との包囲戦「千早城の戦い」(ちはやじょうのたたかい)に従軍しました。

    しかし、その翌年に新田義貞は、同合戦の途中で帰国。その後、後醍醐天皇の皇子「護良親王」(もりよししんのう)の綸旨(りんじ:蔵人[くろうど]が天皇の意を奉じて発する命令文書)を受け、鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵します。同幕府を裏切ることになった新田義貞でしたが、最終的には滅亡させることに成功。

    この功績が高く評価された新田義貞は、後醍醐天皇による「建武の新政」(けんむのしんせい)下で、越後守(えちごのかみ)や上野介(こうずけのすけ)などを兼任。同天皇から重用されるようになったのです。そのあと、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が建武政権に背くと、その討伐のために各地を転戦。

    「箱根・竹ノ下の戦い」などに敗れた新田義貞は、後醍醐天皇の皇子「恒良親王」(つねよししんのう)、及び「尊良親王」(たかよししんのう)らを奉じて、北陸へと下りました。そして新田義貞は、1338年(延元3年/暦応元年)に「足利高経」(あしかがたかつね:別称斯波高経[しばたかつね])の軍勢と対立した「藤島の戦い」にて、戦死することとなったのです。

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  • 丹羽長秀にわながひで 1535~
    1585年

    丹羽長秀

    青年期から「織田家」に仕え、宿老「柴田勝家」(しばたかついえ)と並ぶ双璧として、「織田信長」の天下統一事業を支えた「丹羽長秀」(にわながひで)。戦いでは勇猛果敢な活躍を見せる一方、造船や築城などの行政面にも優れた手腕を発揮し、文武両道を実践して、主君の厚い信頼を獲得しました。また、血気盛んな武将が揃う織田家の家臣団の中にあって、温厚な性格だったことでも有名です。今回は、派手な武勲こそ少ないものの、誠実な人柄と多彩な才覚で天下人の腹心となった丹羽長秀の生涯と、その人物像についてご紹介します。

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は行

  • 服部半蔵はっとりはんぞう 1542~
    1597年

    服部半蔵

    服部半蔵」(はっとりはんぞう)とは何者か?と問われたとき、皆さんはどのように答えるでしょうか。多くの人は「忍者」と答えるかもしれませんが、それは半分正解で半分不正解。服部半蔵とは、服部家の当主が代々世襲する名前なのです。初代は忍者だった服部半蔵ですが、世襲し徳川家に仕えた武士でもあります。忍者として実在したとされる服部半蔵や伊賀流の同心達にストライキを起こされたとされる服部半蔵など、有名な服部半蔵は数多くいますが、そんな歴代の服部半蔵の中でも大きな功績を残しているのが、2代目「服部正成」(はっとりまさしげ)です。こちらのページでは、徳川家に仕え、武士としても活躍していた2代目服部半蔵の戦歴や人物像だけでなく、服部半蔵が残した名言や家紋、愛用していた刀についてご紹介します。

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  • 土方歳三の武将・歴史人年表ひじかたとしぞう 1835~
    1869年

    土方歳三の武将・歴史人年表

    「土方歳三」(ひじかたとしぞう)は、もともとは農家の出身でしたが、剣術の新しい流派「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)を「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)に学び、優秀な剣の使い手となりました。その剣術の上手さが買われ、1863年(文久3年)に江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が上洛する際、警護役として編成された「浪士組」のひとりに選ばれています。

    そのあと、「近藤勇」(こんどういさみ)を始めとする、天然理心流の道場「試衛館」(しえいかん)の仲間達と共に「新選組/新撰組」を結成。その副長として倒幕/討幕運動の統制に当たり、「池田屋事件」などで「尊王/尊皇攘夷派」(そんのうじょういは:天皇を尊んで、外敵を排除する思想)を徹底的に弾圧したことで、その名を轟かせました。

    1868年(慶応4年/明治元年)から始まった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、「榎本武揚」(えのもとたけあき)にしたがって、新政府軍に抗戦します。しかし、土方歳三は、「箱館戦争」(はこだてせんそう:別称[五稜郭の戦い])おいて、新政府軍からの流れ弾が腹部に命中し、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

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  • 福島正則ふくしままさのり 1561~
    1624年

    福島正則

    福島正則」(ふくしままさのり)と言えば、豊臣秀吉の家臣で勇猛果敢な「武断派」の武将。賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)・小田原の役・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いで武功を挙げ、51万石の大名に。「武勇に長けるが、大酒吞みで智謀に乏しい猪武者」とも呼ばれる、福島正則の生涯に迫ります。

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  • 北条早雲ほうじょうそううん 1456~
    1519年

    北条早雲

    北条早雲」(ほうじょうそううん)は、戦国時代に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)を統一した人物。小田原城の城主で、鎌倉幕府の執権・北条氏とは全く関係はありません。鎌倉時代に活躍した北条氏と分けるため、「後北条氏」や「小田原北条氏」と呼ばれます。なかでも北条早雲は、「戦国時代は北条早雲の下剋上から始まった」と言われるほどの戦国武将です。一介の浪人から戦国大名へと成り上がったと描かれることも多い、北条早雲の生涯を見てみましょう。

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  • 細川忠興ほそかわただおき 1563~
    1646年

    細川忠興

    若くして「織田信長」に仕え、数々の武功で名を上げた「細川忠興」(ほそかわただおき)は、「豊臣秀吉」や「徳川家康」などの天下人にも重用された人物でした。「本能寺の変」では、妻が「明智光秀」の娘である「明智玉子」(あけちたまこ:のちの細川ガラシャ)だったことで、明智光秀との内通を疑われる可能性もありましたが、主君・織田信長への追悼の意を表すなど、巧みな処世術によって見事切り抜け、やがて39万9,000石の大大名へと出世します。一方で、茶の湯に精通する文化人でもあり、「千利休」の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)にも数えられる茶人武将でもありました。ここでは、細川忠興が参加した合戦の数々や語り継がれている逸話、そしてゆかりの刀剣などをふまえつつ、その生涯に迫っていきます。

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  • 本多忠勝ほんだただかつ 1548~
    1610年

    本多忠勝

    本多忠勝」(ほんだただかつ)は、生涯をかけて「徳川家康」に奉公し徳川幕府250年の天下の基礎を築いた戦国武将です。「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」のひとりであり、徳川家臣最強の武将であったと語り継がれています。「日本三名槍」のひとつである「蜻蛉切」(とんぼきり)を愛刀としていた武将も本多忠勝です。単騎で朝倉軍に正面から突入した「姉川の戦い」や武田軍から徳川家を守った「一言坂の戦い」などで武功を上げた本多忠勝の強さはまさに別格。生涯で57回もの戦闘に参加したにもかかわらず、傷ひとつ負わなかったという逸話があります。こちらのページでは、戦国大名としても活躍していた本多忠勝の戦歴や人物像だけではなく、本多忠勝が残した名言や家紋、愛用していた槍「蜻蛉切」についてご紹介します。

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  • 本多忠刻の武将・歴史人年表ほんだただとき 1596~
    1626年

    本多忠刻の武将・歴史人年表

    「本多忠刻」(ほんだただとき)は、「徳川家康」の家臣を務めていた姫路藩(現在の兵庫県姫路市)初代藩主「本多忠政」(ほんだただまさ)の長男として、1596年(文禄5年/慶長元年)に生まれました。1601年(慶長6年)、徳川四天王のひとりであった祖父「本多忠勝」(ほんだただかつ)が、10万石で桑名(現在の三重県桑名市)に移封されたことに伴い、父と一緒に同地へ移っています。

    1615年(慶長20年/元和元年)に「豊臣家」と江戸幕府が対立して起こった「大坂夏の陣」には、江戸幕府方として父と共に参陣。同合戦における戦いのひとつ、「道明寺の戦い」(どうみょうじのたたかい)で本多忠刻は、敵の首を討ち取る武功を挙げたのです。

    1616年(元和2年)、本多忠刻は、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の娘「千姫」(せんひめ)と結婚しました。そのきっかけとして伝わる逸話は2つあり、ひとつ目は、大坂夏の陣後に江戸から戻る「七里の渡し」(宮宿[みやしゅく:名古屋市熱田区]から桑名宿[くわなしゅく:三重県桑名市]を結ぶ海路)での船中で、容姿端麗な本多忠刻に千姫がひと目惚れしたという逸話。

    もうひとつは、豊臣秀頼と政略結婚をさせられた上に、同合戦で夫・豊臣秀頼を失った千姫を気の毒に思った徳川家康が、亡くなる間際に本多忠刻のもとへ再嫁(さいか)させることを命じたという逸話です。

    どちらが真実なのかは定かではありませんが、いずれにしても、本多忠刻と千姫は仲睦まじく暮らし、2人の間には、長女・勝姫(かつひめ)と長男・「幸千代」(ゆきちよ)が生まれています。

    そのあと、1617年(元和3年)に本多忠刻は、父とは別に姫路新田藩(ひめじしんでんはん:姫路藩の新田分地として与えられた領地)10万石を賜って、姫路に移ったのです。そして1621年(元和7年)には、幸千代がわずか3歳で早世します。その5年後の1626年(寛永3年)に本多忠刻は、結核が原因でこの世を去りました。

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ま行

  • 前田慶次まえだけいじ 1541~
    1612年

    前田慶次

    前田慶次」(別名:前田慶次郎・前田利益)は「関ヶ原の戦い」のあと、「私の主は上杉景勝ただひとりだ」と言い放ったほど、主君に対して最後まで律儀であった戦国武将です。小説や漫画にも取り上げられる「前田慶次」とは、どのような人物だったのでしょうか。前田利家の弟の息子と言われる「前田慶次」ですが、彼の詳しい出生や功績を示す資料は少なく、「慶次」という名も、実は本名ではありません。今なお謎が多い「前田慶次」ですが、前田利家を騙して水風呂へ入れた隙に、前田家を出奔したり、愛馬である「松風」を贅沢に装飾したりするなど、破天荒な逸話が多数あります。ここでは様々な逸話から「傾奇者」(かぶきもの)と称されてきた、「前田慶次」にまつわる名言や逸話、家紋などをまとめました。

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  • 前田玄以まえだげんい 1539~
    1602年

    前田玄以

    戦国時代の英傑である「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の3人すべてに仕えた武将は多くありません。しかし、3人に器量を認められ、重用された人物のひとりに「前田玄以」(まえだげんい)がいます。英傑らは、それぞれまったく異なる性格ですが、共通して人物の器量を見抜く眼力は、優れていたに違いありません。そんな前田玄以は、豊臣秀吉に仕えた五奉行として、「石田三成」らと共に名を連ねていたことが有名です。ここでは、朝廷にも人脈を形成し、外交や内政で活躍した前田玄以についてご紹介します。

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  • 前田利家まえだとしいえ 1537~
    1599年

    前田利家

    「加賀百万石」の初代の大名として北陸を治めた「前田利家」(まえだとしいえ)。「そろばん好きの堅実な大名」、「愛妻家の武将」として有名ですが、大名としての成功を果たすまでには、どんな決断と苦悩があったのでしょうか。 ここでは、前田利家の生い立ちから、「織田信長」、「豊臣秀吉」との関係、そして加賀百万石に至るまでの功績について詳しく解説していきます。

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  • 増田長盛ましたながもり 1545~
    1615年

    増田長盛

    「豊臣秀吉」が死の直前、嫡男である「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を託した五奉行と言えば、内政や外交で能力を発揮する文官のイメージが強いと思います。「増田長盛」(ましたながもり)についても、甲冑を身に付けて戦場を駆け回る軍務を担当するのではなく、政務に突出している人物です。 ここでは、「石田三成」と並ぶ存在だった、五奉行のひとりである増田長盛をご紹介します。

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  • 松平信康まつだいらのぶやす

    松平信康

    「松平信康」(まつだいらのぶやす)は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」の長男で、第2代将軍「徳川秀忠」の異母兄にあたる人物です。徳川家康が今川氏の人質であった時代に誕生し、正室との間に生まれた跡継ぎでした。後継者として期待されていた松平信康ですが、謀叛(むほん)の疑いを掛けられたことで母とともに非業の死を遂げることに。勇将でありながら若くして亡くなった松平信康の生涯を振り返りながら、徳川家康にとって悲劇的な事件となった松平信康の死因について解説します。

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  • 松平広忠まつだいらひろただ

    松平広忠

    偉大な天下人「徳川家康」の実父である「松平広忠」(まつだいらひろただ)が、どのような戦国武将であったかご存知でしょうか。戦国時代に西三河の岡崎城(愛知県岡崎市)を拠点に勢力を伸ばし、東の今川氏・西の織田氏からの侵攻を受けるなかで領土を守るため奮闘していた武将です。徳川家康と言えば、幼少期から父母と離れ離れで生活していましたが、なぜ松平広忠は正室の「於大の方」(おだいのかた)と離縁し、6歳の徳川家康を人質に差し出すという選択をしたのでしょうか。戦乱の世に生き残るため家族と離れ、若くして命を落としてしまった松平広忠について見ていきます。

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  • 松永久秀の武将・歴史人年表まつながひさひで 1508~
    1577年

    松永久秀の武将・歴史人年表

    「松永久秀」(まつながひさひで)は、その出自に不明な点が多く、山城国(現在の京都府南部)、もしくは摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)出身であったと伝えられています。当初は摂津国守護代「三好長慶」(みよしながよし)のもとで、右筆(ゆうひつ:文書や記録の作成を司った役職)として仕えていました。

    そのあと、松永久秀は「弾正忠」(だんじょうちゅう)に任官し、和泉国(大阪府南西部)の堺代官を務めていたのです。 1559年(永禄2年)、大和国(現在の奈良県)に入った松永久秀は、「筒井順慶」(つついじゅんけい)が拠点としていた「筒井城」(奈良県大和郡山市)を陥落。翌年には「興福寺」(奈良県奈良市)勢力を破り、大和国を平定しました。

    これ以降、同国において松永久秀は、「多聞山城」(たもんやまじょう:奈良県奈良市)や「信貴山城」(しぎさんじょう:奈良県生駒郡)などを築きます。そして、松永久秀は「三好氏」の家老となって権勢を振るい、大和国を支配するようになったのです。

    さらに松永久秀は、主君・三好長慶が1564年(永禄7年)に亡くなると、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を殺害。大和国を含む畿内にまで、その実権が及ぶ範囲を拡大しました。1567年(永禄10年)には、三好氏を主導していた「三好三人衆」、及び筒井順慶軍との間で「東大寺大仏殿の戦い」が勃発。松永久秀は同合戦に勝利しますが、同寺の大仏殿は焼失してしまいました。

    そのあと、松永久秀は、上洛してきた織田信長の家臣となりますが、1572年(元亀3年)に謀反を起こし、15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が統率していた「信長包囲網」に加わります。しかし、1577年(天正5年)の「信貴山城の戦い」で、松永久秀は織田軍に追い詰められ、同城に火を放って自害。68歳で亡くなってしまったのです。

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  • 水野勝成みずのかつなり 1564~
    1651年

    水野勝成

    うつけ、婆娑羅(ばさら)、傾き者(かぶきもの)。戦国の世には、個性豊かな武将や大名が数多く登場します。「織田信長」しかり、「佐々木道誉」(ささきどうよ)しかり、「前田慶次」(まえだけいじ)しかり。魅力的な武将をたくさん挙げることはできますが、「水野勝成」(みずのかつなり)ほど「型破り」の言葉が似合う人物はなかなかいません。藩主の息子に生まれながら、腕一本を頼りに諸国を放浪し戦いに明け暮れ、「徳川家康」の側近となっても、なお先頭で戦い続けた武将です。そのどこを切ってもエネルギーに満ちあふれた水野勝成の生涯を追い、数多く残る逸話から、戦国自由人・水野勝成の魅力を探っていきます。

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  • 源義経みなもとのよしつね 1159~
    1189年

    源義経

    源義経」(みなもとのよしつね)と言えば、鎌倉幕府の将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の弟。「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で平家を滅ぼした最大の功労者であったにもかかわらず、兄・頼朝からの信頼を得ることができず、悲劇的な最期を遂げました。剣術に優れ、戦術も天才的。そんな義経に一体何が起こったのでしょうか。その生涯を見ていきましょう。

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  • 源頼朝みなもとのよりとも 1147~
    1199年

    源頼朝

    源頼朝」(みなもとのよりとも)と言えば、鎌倉幕府の初代将軍。圧倒的なリーダーシップで源氏・東国御家人をひとつにまとめ上げ、「平家滅亡」を成し遂げました。また、政治の実権を朝廷から奪って、武家政権を確立。容姿端麗・頭脳明晰・武術に優れたスーパーヒーローです。「組織作りの天才」と尊敬を集めた、源頼朝の生涯に迫ります。

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  • 三好長慶みよしながよし 1522~
    1564年

    三好長慶

    一時は畿内のほぼ全域を掌握し、「三好政権」と呼ばれる独裁政権を樹立した「三好長慶」(みよしながよし)は、下克上の代名詞とも言える戦国武将です。若くして頭角を現し、室町幕府の管領(かんりょう:将軍を補佐して政治を統括していた役職)を務めていた「細川晴元」(ほそかわはるもと)のもとで勢力を拡大。やがて主家をしのぐ力を付けて反旗を翻すと、近隣諸国を次々と支配していきます。しかし晩年は、家中の権力争いや敵対勢力の反発により優秀な弟達や嫡男を失い、徐々に衰退。三好長慶も失意の中、病没してしまうのです。そんな三好長慶の栄枯盛衰をたどりながら、その人物像を掘り下げていきます。

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  • 毛利輝元もうりてるもと 1553~
    1625年

    毛利輝元

    毛利輝元」(もうりてるもと)は、偉大な祖父「毛利元就」(もうりもとなり)を持つ名門武将です。「織田信長」とは敵対したものの、「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」と和解し、「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。しかし、豊臣秀吉が亡くなったことで、運命の歯車が狂い始めるのです。「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将に担がれた、名門・毛利家に育った毛利輝元の一生についてご紹介します。

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  • 毛利元就もうりもとなり 1497~
    1571年

    毛利元就

    毛利元就」(もうりもとなり)は、安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の国人領主から、中国地方全域を統一した戦国時代の豪傑。幼少期に両親を失い、19歳で兄を失い、さらに甥までをも亡くしたことで、次男にして毛利家の家督を相続します。権謀術に長け、稀代の策略家としても有名な武将です。一代で中国地方統一を成し遂げた、毛利元就の生涯を見ていきましょう。

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  • 最上義光もがみよしあき 1546~
    1614年

    最上義光

    最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。

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  • 森蘭丸もりらんまる 1565~
    1582年

    森蘭丸

    森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。

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や行

  • 山内一豊やまうちかずとよ 1545~
    1605年

    山内一豊

    山内一豊」(やまうちかずとよ)と言えば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の名著「功名が辻」(こうみょうがつじ)の主人公としても知られる戦国武将です。妻の「千代」(ちよ)による内助の功などにより大出世を果たし、やがて土佐国(現在の高知県)202,600石の大名へと出世を遂げました。伝記によれば、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていたのです。 そんな山内一豊の生涯を追いながら、妻と共に果たした立身出世の道のりを辿っていきます。

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  • 山本勘助やまもとかんすけ 1500~
    1561年

    山本勘助

    山本勘助」(やまもとかんすけ)は戦国時代の武将で、「武田信玄」の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。

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  • 結城秀康ゆうきひでやす 1574~
    1607年

    結城秀康

    結城秀康」(ゆうきひでやす)は「徳川家康」の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。元服前には「豊臣秀吉」の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を後継者に定めると、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部、茨城県南西部)の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられました。天下人の家に生まれながら不遇な目に遭い、それでも道を切り開いた結城秀康にまつわる数々の逸話をご紹介すると共に、その生涯を辿っていきます。

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戦国武将
日本の歴史に登場する戦国武将をイラスト付きでご紹介します。
武将・歴史人の日本刀
武将・歴史人のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。
戦国武将アクセスランキング
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戦国武将の生没年と戦国時代の歴史的な合戦・出来事が年表でご覧頂けます。
武将(大名)の家紋イラスト集
武将や大名の家紋をイラストでご紹介します。

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(メーハク)は、愛知県名古屋市中区栄にある刀剣の博物館です。
「武将一覧」のページでは数々の戦い(合戦)が起きた戦国時代を生き抜いてきた戦国武将についてご紹介します。「名前は知っているけれど何をした人物なのかよく知らない」という方はぜひ、各武将の生き様をご覧下さい。武将達が残した名言やそれにまつわるエピソード等、詳しく紹介しております。
博物館は最大200振の刀剣が展示可能。国宝や重要文化財、重要美術品、特別重要刀剣といった貴重な刀の数々をご覧頂けます。さらに、甲冑は約50領、浮世絵は約150点を常設展示。日本刀、鎧兜、浮世絵、武具といった歴史に関する様々な美術品を楽しむことができる博物館です。
また、博物館や美術館の魅力のひとつである企画展示会もございます。テーマに沿った刀や剣、甲冑、浮世絵を展示し、ここでしか観ることができない特別な展示会を開催。名古屋にお越しの際は、名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(メーハク)へのご来館をお待ちしております。

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