大河ドラマ どうする家康 - 名古屋刀剣ワールド

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2023年(令和5年)1月より、62作目の大河ドラマ「どうする家康」が始まります。「どうする家康」はそのタイトル通り、「徳川家康」が主人公。後ろ盾のない弱き少年だった徳川家康がピンチを乗り越えていく様が描かれます。主役に抜擢されたのは、アイドルや俳優として活躍している松本潤さん。また、徳川家康に「どうする?」を突き付けていく戦国武将には、著名な俳優さん達が名を連ねています。なお、徳川家康のゆかりの地は愛知県や静岡県を中心に点在。城や合戦跡などで、往時の徳川家康に思いを馳せることができます。「どうする家康」のキャスト、そして徳川家康ゆかりの地についてまとめました。「誰がどの武将を演じるのか知りたい」「徳川家康ゆかりの地を巡りたい」という方におすすめです。

「どうする家康」のキャスト

徳川家康」には多くの関連人物がいます。「どうする家康」でも「織田信長」「豊臣秀吉」「武田信玄」といった武将、徳川家康の正室「瀬名/築山殿」(せな/つきやまどの)などが登場。徳川家康役の「松本潤」(まつもとじゅん)さんの他、織田信長役の「岡田准一」(おかだじゅんいち)さん、瀬名/築山殿役の「有村架純」(ありむらかすみ)さんなどの経歴をご紹介します。

松本潤さん(徳川家康役)

松本潤さん

松本潤さん

徳川家康を演じる松本潤さんは、人気アイドルグループ「嵐」(あらし)のメンバーとして1999年(平成11年)にCDデビュー。

多くのヒットソングをリリースする他、数々のバラエティーやコンサート、ドラマ・映画、CMなどに出演し、さらにはコンサートの演出も行っています。

俳優としては「ごくせん」「花より男子」で注目を集め、ドラマ「ラッキーセブン」「失恋ショコラティエ」「99.9 -刑事専門弁護士-」、映画「ナラタージュ」などを主演。演技の幅広さに定評があります。

大河ドラマの出演は初めて。出演にあたり、「戦国の世を平定させた人物を熱く演じられたら」と話されていました。

岡田准一さん(織田信長役)

岡田准一さん

岡田准一さん

「どうする家康」で徳川家康の目標となる織田信長を演じるのは、岡田准一さんです。

岡田准一さんは1995年(平成7年)、アイドルグループ「V6」(ぶいしっくす)のメンバーとしてCDデビューしました。

歌手としての活動以外にも、「木更津キャッツアイ」シリーズや映画「図書館戦争」「陰日向に咲く」などを主演。

また、2014年(平成26年)にNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で主演を務めた他、映画「蜩ノ記」(ひぐらしのき)「関ヶ原」、「散り椿」、「燃えよ剣」などの時代劇を主演しており、日本の時代劇に欠かせない存在と言えます。

有村架純さん(瀬名/築山殿役)

有村架純さん

有村架純さん

徳川家康の正室・瀬名/築山殿を演じるのは、大河ドラマ初出演の有村架純さんです。

有村架純さんは2010年(平成22年)からドラマに出演されており、2013年(平成25年)の朝の連続テレビ小説「あまちゃん」で注目を浴びました。

そののち、ドラマ「中学聖日記」「ひよっこ」、映画「ストロボ・エッジ」「前科者」など、バラエティーに富んだ数々のドラマ・映画で主演を務めています。

松本潤さんとの共演は3度目。出演にあたって有村架純さんは、「3度目の今回は、温かく楽しい夫婦漫才を演じる役なので楽しみ」という旨を話されていました。

ムロツヨシさん(豊臣秀吉役)

ムロツヨシさん

ムロツヨシさん

「どうする家康」における徳川家康最大のライバル・豊臣秀吉を演じるのは、名脇役として知られる個性派俳優・ムロツヨシさん。

ムロツヨシさんは1999年(平成11年)、大学在学中に俳優としての活動を開始。バラエティー色の強い作品から社会派の作品まで、幅広いドラマ・映画、舞台・ミュージカルに出演しています。

主な出演は、「勇者ヨシヒコ」シリーズやドラマ「重版出来!」(じゅうはんしゅったい)「大恋愛~僕を忘れる君と」、映画「新解釈・三國志」「ヒメアノ~ル」など。特に「福田雄一」(ふくだゆういち)監督作品には欠かせない存在となっています。

大河ドラマは「平清盛」「おんな城主 直虎」に出演しており、3度目です。

野村萬斎さん(今川義元役)

野村萬斎さん

野村萬斎さん

「どうする家康」で徳川家康が尊敬する人物として描かれる「今川義元」(いまがわよしもと)は、狂言師の野村萬斎さんが演じます。

野村萬斎さんは3歳で初舞台を踏み、1994年(平成6年)に「野村萬斎」を襲名。狂言の普及に大きく貢献しています。

また、映画「花戦さ」(はないくさ)「のぼうの城」をはじめとした時代劇だけでなく、ミステリードラマ「オリエント急行殺人事件」「黒井戸殺し」なども主演しています。

野村萬斎さんは出演にあたって、「徳川家康を鍛え上げるという魅力的な役になるようなので、大変期待しております」という旨をコメントしました。

阿部寛さん(武田信玄役)

阿部寛さん

阿部寛さん

「どうする家康」で「戦国最強のレジェンド」として描写される武田信玄は、阿部寛さんが演じます。

阿部寛さんは大学在学中にモデルとしてデビュー。また、大学卒業と同時に「はいからさんが通る」で映画デビューも果たしています。

そののち、ドラマ「TRICK」「ドラゴン桜」「結婚できない男」、映画「テルマエ・ロマエ」「護られなかった者たちへ」などに出演。コミカルなキャラクターからシリアスな人物まで、幅広い役柄を演じられています。

大河ドラマへの出演は、2009年(平成21年)の「天地人」以来14年ぶり。6度目の出演です。

広瀬アリス(於愛の方役)

徳川家康の側室「於愛の方」(おあいのかた)を演じるのは、女優の広瀬アリスさんです。広瀬アリスさんは、2008年(平成20年)に女優デビュー。

2010年(平成22年)には、ドラマ「明日の光をつかめ」でフジテレビ系昼ドラの主演を史上最年少で務め、注目を集めました。そのあとも、連続テレビ小説「わろてんか」をはじめ、「探偵が早すぎる」シリーズ、「ラジエーションハウス」シリーズ、ドラマ「知ってるワイフ」、映画「地獄の花園」など、数々の作品に出演。

また、2009年(平成21年)からは約6年半、女性ファッション誌「Seventeen」のモデルとしても活躍しました。大河ドラマは初出演。静岡県出身の広瀬アリスさんは、「自分の演じる役が地元とゆかりのある役で、とても縁を感じています」と話されていました。

山田孝之(服部半蔵役)

「どうする家康」で「忍者ではないが、忍者の代表」として描かれる「服部半蔵」は、山田孝之さんが演じます。1999年(平成11年)に俳優デビューした山田孝之さんは、2003年(平成15年)にドラマ「WATER BOYS」で初主演を果たしました。

そののち、「世界の中心で、愛をさけぶ」、「白夜行」で人気となり、そのあとも、映画「クローズZERO」や「闇金ウシジマくん」シリーズ、「勇者ヨシヒコ」シリーズなど、数多くの作品に出演。様々な役柄を演じられる「カメレオン俳優」、また主演としても助演としても活躍する俳優として、日本の映画・ドラマ界で欠かせない存在です。

新キャスト発表の記者会見で山田孝之さんは、「同じ年生まれで、デビュー年も同じ松本潤さんと、やっと芝居で共演できるので嬉しい」と言う旨を語られました。

大森南朋(酒井忠次役)

個性豊かな家臣団をまとめる「酒井忠次」役を演じるのは、演技力が高いと評価されている大森南朋(おおもりなお)さんです。大森南朋さんは、1996年(平成8年)から本格的に俳優活動を始め、2003年(平成15年)公開の映画「ヴァイブレータ」では、キネマ旬報日本映画助演男優賞を受賞。

また、2007年(平成19年)のドラマ「ハゲタカ」で主演を務め、作品とともに高い評価を得た他、2010年(平成22年)の大河ドラマ「龍馬伝」での「武市半平太」役での演技も話題を集めました。

この他、ドラマ「コウノドリ」、「サイン -法医学者 柚木高志の事件-」、「私の家政夫ナギサさん」、映画「笑う警官」、「この道」など、歴史を描いた作品からサスペンス、ヒューマンドラマ、コメディまで、あらゆるジャンルの作品に出演されています。

山田裕貴(本多忠勝役)

戦国最強の武将のひとり「本多忠勝」を演じるのは、俳優集団「D-BOYS」のメンバー・山田裕貴さんです。山田裕貴さんは2010年(平成22年)、映画「私の優しくない先輩」でデビュー。

翌年には、「海賊戦隊ゴーカイジャー」のゴーカイブルー(ジョー・ギブケン)役で注目を集めました。そのあとも「HIGH&LOW」シリーズや「特捜9」シリーズ、ドラマ「ホリデイラブ」、連続テレビ小説「なつぞら」をはじめ、デビュー年から2022年(令和4年)までの約10年の間に、非常に多くの作品に出演。

売れっ子の「若手イケメン俳優」でありながら、演技の幅広さに定評があります。大河ドラマの出演は、「おんな城主 直虎」以来2回目です。

徳川家康のゆかりの地

天下人として名高い徳川家康ですが、その人生は順風満帆ではありません。三河国(現在の愛知県東部)で生まれた徳川家康は、6歳で織田氏、8歳のときには今川氏の人質となりました。

桶狭間の戦い」で今川義元が亡くなってからは、今川氏から独立。織田信長と同盟を結び、数々の戦いに参加しました。織田信長の死後、豊臣秀吉と「小牧・長久手の戦い」で戦うも、最終的に和議を結びます。そのあとは豊臣秀吉政権下の大名となり、豊臣政権の最高権威である五大老(ごたいろう)にも任じられました。

そして1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」で勝利。江戸幕府を開き、約260年続く江戸時代の基礎を築きました。そんな徳川家康ゆかりの地をご紹介していきます。

岡崎城

岡崎城

岡崎城

岡崎城」(愛知県岡崎市)は徳川家康が生まれた城。人質時代は他の場所で過ごしていましたが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後、徳川家康は岡崎城に戻り、三河国の平定を始めました。

江戸時代に入ってから岡崎城は「神君出生の城」と言われ、神聖化されるようになります。

そんな岡崎城の起源は15世紀前半。「西郷頼嗣」(さいごうよりつぐ)が築城しました。当時は別の地に築かれていましたが、1531年(享禄4年)、徳川家康の祖父にあたる「松平清康」(まつだいらきよやす)が現在の地に移しました。徳川家康が拠点を浜松に移してからは、息子の「徳川信康」(とくがわのぶやす)が城主となります。

なお、岡崎城は明治時代に取り壊されましたが、天守は1959年(昭和34年)に復元されました。内部は歴史資料館になっていて、岡崎藩(現在の愛知県岡崎市)や城下町、歴代岡崎城主などについて紹介しています。

三河武士のやかた家康館

三河武士のやかた家康館

三河武士のやかた家康館

岡崎城を中心とした「岡崎公園」のなかには、「三河武士のやかた家康館」が位置しています。

こちらは、徳川家康の生涯と徳川家康を支えた武将について紹介している施設です。貴重な資料はもちろん、直径約7mにもなる関ヶ原の戦いの模様を再現したジオラマなどを展示。

また、火縄銃(やり)の模型の重さを体感したり、甲冑を試着したりすることもできます。

浜松城/三方ヶ原

浜松城

浜松城

徳川家康は1570年(元亀元年)、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄の侵攻に備えるために「浜松城」(静岡県浜松市中区)を築城しました。

徳川家康は29~45歳の17年間を浜松城で過ごしています。この間、徳川家康は数々の戦いに参加していますが、なかでも「徳川家康最大の敗戦」として知られるのが「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)です。

三方ヶ原の戦いは、三方ヶ原台地で行われた徳川家康と武田信玄との戦い。1572年(元亀3年)、武田信玄は、当時徳川家康が進出していた遠江国(現在の静岡県西部)を侵攻しました。これを知った徳川家康は、織田信長からの援軍とともに浜松城から出発し、武田軍を背後から襲おうとします。しかし、徳川軍は兵力、戦法ともに武田軍に劣り、徳川家康は浜松城に敗走。城に戻った徳川家康は、意気消沈した自分の顔を描かせて、この敗北を自戒したと言われています。

この戦いの夜、徳川家康は三方ヶ原台地にいた武田軍を奇襲。布を崖にかけて橋に見せかける作戦に出て、武田軍は次々に崖下に落ちていったと伝わっています。三方ヶ原の戦いが行われた場所は、三方ヶ原台地であること以外は詳しく判明していません。三方ヶ原台地の一角には、碑が建立しています。

なお、1586年(天正14年)12月、徳川家康は浜松城から駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、1590年(天正18年)、豊臣秀吉家臣の「堀尾吉晴」(ほりおよしはる)が入城。江戸時代になってからは徳川家とゆかりのある大名が入っており、多くの城主が幕府の要職に就いていることから、「出世城」と言われるようになりました。

明治時代に入り壊された浜松城ですが、天守と天守門が再建されています。

犀ヶ崖資料館

「犀ヶ崖資料館」(さいががけしりょうかん)の名にある「犀ヶ崖」(さいががけ)は、三方ヶ原古戦場として指定されている史跡です。三方ヶ原の戦いの夜に徳川軍が武田軍を奇襲し、崖に落としていったのは、この犀ヶ崖だと伝えられています。

犀ヶ崖資料館では、三方ヶ原の戦いのジオラマを展示。また、館内のビデオで三方ヶ原の戦いや、三方ヶ原の戦いと犀ヶ崖での奇襲の犠牲者を弔うために行われるようになったと伝わる「遠州大念仏」などについて紹介しています。

駿府城

駿府城・巽櫓

駿府城・巽櫓

駿府周辺を治めるようになった徳川家康は、1585年(天正13年)から「駿府城」(静岡県静岡市葵区)の築城を始めました。

4年後の1589年(天正17年)には二ノ丸以内が完成しましたが、徳川家康は豊臣秀吉の命によって関東を治めることになり、江戸に移ります。

そして関ヶ原の戦いを経て、1603年(慶長8年)、江戸幕府を開きました。しかし、徳川家康はわずか2年で将軍職を息子に譲り、1606年(慶長11年)から駿府城の修築を開始。本丸御殿や天守を建てた他、町割りにも着手し、現在の静岡市の原型を作ります。

なお、徳川家康は駿府に移り、「大御所」となってからも依然として権力を持ち続けていました。数々の政策を打ち出したり、外交を行ったりしていたと伝わります。そのため、駿府は江戸をしのぐほどの政治や経済、文化の中心地として栄えていました。

1616年(元和2年)、徳川家康は病になり、駿府城には諸大名や公家らが見舞いに訪れます。祈祷も行われましたが回復せず、駿府城にて75年の人生に幕を下ろしました。

駿府城は戦後より公園として整備され、天守こそ残っていないものの、復元された巽櫓(たつみやぐら)や坤櫓(ひつじさるやぐら)、東御門(ひがしごもん)などを見ることができます。

江戸城

江戸城・桜田巽櫓

江戸城・桜田巽櫓

江戸城」(東京都千代田区)は、徳川15代将軍の居城。江戸城入城前、徳川家康は三河国や遠江国をはじめとした5つの国を領地としていました。

しかし1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原征伐(小田原の役)で北条氏を滅亡させたあと、北条氏の領地だった関東6ヵ国を治めることになり、江戸城に入ります。

そのあと、徳川家康は江戸城の改修に着手。本格的な改修は徳川家康が征夷大将軍に命じられてからだと言われており、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の頃に一応の完成をみます。

なお、江戸城の天守は、徳川家康が築いたあと、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)・徳川家光それぞれの時代に築き直されました。徳川家光の時代に築かれた天守は焼失。再建されなかったため、現存はしていません。天守台や、様々な印が刻まれた石垣などが残っています。

二条城

二条城・二の丸御殿

二条城・二の丸御殿

二条城」(京都府京都市中京区)は、京都御所の守護と、将軍上洛時の宿泊所にするために徳川家康によって築城されました。

1611年(慶長16年)には、徳川家康が豊臣秀吉の息子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)と会見。豊臣秀頼が徳川家康に礼をするという形の会見でした。

この会見は、徳川家康が豊臣秀頼を二条城で迎え、挨拶を行わせたことで、世間に徳川幕府が豊臣政権より上であると知らしめる目的があったと言われています。また、当時豊臣秀頼は19歳。立派な大人に成長していた豊臣秀頼を見て、その才能を感じた徳川家康は、豊臣一族滅亡を決定したとも伝わります。

なお、二条城は徳川家の盛衰を見てきた城。「大坂冬の陣夏の陣」は二条城から出陣している他、「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)の行幸のため、3代将軍・徳川家光によって大改修されて、壮麗な城へと生まれ変わっています。また、1867年(慶応3年)には、政権を朝廷に返上する「大政奉還」がなされました。

二条城では、天守台や国宝指定の「二の丸御殿」などが現存。なかでも二の丸御殿は、美しい障壁画や彫刻などが見られる、豪華絢爛な建物となっています。また、極彩色の彫刻が美しい「唐門」、特別名勝に指定されている「二の丸庭園」なども見どころです。

小牧・長久手

長久手古戦場(古戦場公園)

長久手古戦場(古戦場公園)

小牧・長久手は、1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いの舞台となった場所。

1582年(天正10年)に織田信長が亡くなってから、豊臣秀吉が頭角を現します。豊臣秀吉の勢力拡大を警戒した織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)は、徳川家康に助けを求めました。

徳川家康は織田家を助けるという名目のもと、挙兵。3月、豊臣方の「池田恒興」(いけだつねおき)は「犬山城」(愛知県犬山市)を占拠、徳川軍は犬山の羽黒(はぐろ)で豊臣方の「森長可」(もりながよし)と戦い、勝利します。なお、徳川・織田軍の本陣は小牧山、豊臣軍の本陣は楽田(がくでん)でした。

4月になると豊臣方の池田恒興・森長可らは徳川家康の本拠だった岡崎城を奇襲するため、長久手方面に向かいます。この作戦を聞いた徳川家康は長久手に進み、池田・森軍を迎えました。両軍は激戦を繰り広げましたが、池田恒興・森長可が死亡。これを知った豊臣秀吉は長久手に向かいますが、徳川家康はすでに小牧山に帰っており、豊臣秀吉も撤退します。

そして同年11月、豊臣秀吉と織田信雄が和睦。豊臣秀吉と徳川家康も和解し、小牧・長久手の戦いは終焉を迎えます。

古戦場公園/色金山歴史公園

勝入塚

勝入塚

小牧・長久手の戦いの主戦場は、「古戦場公園」として整備されています。

園内にあるのは、池田恒興の戦死地を示す塚「勝入塚」(しょうにゅうづか)や古戦場の位置・地形を表現した広場、長久手の戦いや長久手市の資料を展示している「長久手市郷土資料室」など。小牧・長久手の戦いの激戦に思いを馳せることができます。

また、古戦場公園周辺には「色金山歴史公園」(いろがねやまれきしこうえん)が立地。色金山(いろがねやま)は徳川家康が陣を張った場所と言われている場所で、徳川家康が軍議の際に腰掛けたと言われる「床机石」(しょうぎいし)があります。

関ケ原

関ケ原・決戦地

関ケ原・決戦地

岐阜県不破郡にある関ケ原町は、天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の戦いが行われた場所です。

関ヶ原の戦いは豊臣秀吉の死が原因。次代のリーダーと目されていた徳川家康と、豊臣秀吉の跡取りである豊臣秀頼を立てるべきと主張する「石田三成」が対立します。全国の大名達は徳川家康と石田三成、どちらに味方するのかの選択を迫られました。

そして1600年(慶長5年)、石田三成は「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将にして挙兵。「岐阜城」(岐阜県岐阜市)や「安濃津城」(あのつじょう)別名「津城」(三重県津市)での戦いなどを経て、9月15日、関ヶ原にて徳川家康方の東軍約70,000人と、石田三成方の西軍約80,000人が激突。初めは西軍が優勢でしたが、離反者が出たことから東軍の勝利に終わりました。

関ケ原町には、この関ヶ原の戦いに関する史跡が多数存在。徳川家康・石田三成や諸大名の陣跡、関ヶ原の戦いで最も激しい戦いが繰り広げられた「決戦地」などで歴史が感じられます。

岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜関ケ原古戦場記念館

関ケ原町には、関ヶ原の戦いについて学べる「岐阜関ケ原古戦場記念館」があります。

岐阜関ケ原古戦場記念館1階では、巨大な床面スクリーンで関ヶ原の戦いまでの流れやスケールの大きさを実感できる他、大迫力のシアターと風や音・光などの演出で関ヶ原の戦いを再現しています。

2階部分では資料を交えながら関ヶ原の戦いを紹介。さらに360度ガラス張りの5階展望室からは、関ケ原の町を一望することができます。

岐阜関ケ原古戦場記念館
決戦の地「関ヶ原」ならではの体験型記念館「岐阜関ケ原古戦場記念館」をご紹介します。

徳川家康のゆかりの神社

久能山東照宮

久能山東照宮・御社殿

久能山東照宮・御社殿

久能山東照宮」(くのうざんとうしょうぐう:静岡県静岡市駿河区)は、徳川家康を祀った最初の神社。

徳川家康は死の直前、家臣達に自分の遺体は久能山に納めるよう遺言を伝え、亡くなるとその日のうちに久能山に埋葬されました。

そして2代将軍・徳川秀忠の命により、久能山東照宮が建てられます。

徳川家康を祀る霊廟として建てられた御社殿は、当時最高の建築技術・芸術が使われました。大工棟梁に任じられたのは「中井正清」(なかいまさきよ)。駿府城や江戸城などの建築に携わった人物です。また、2001~2009年(平成13~21年)には大修復が行われ、創建当時のきらびやかな美しさと匠の技がよみがえりました。2010年(平成22年)、国宝指定を受けています。

なお、久能山東照宮には「久能山東照宮博物館」が付属。こちらの博物館では、徳川家康と徳川15代将軍に関する品々を展示しています。

日光東照宮

日光東照宮・陽明門

日光東照宮・陽明門

栃木県日光市にある「日光東照宮」は、徳川家康が祀られている神社です。正式名称は「東照宮」。

日光東照宮を含む日光山内にある建物群とそれらを取り巻く文化的景観は、日光の社寺として「世界遺産」に選ばれています。

徳川家康は、「自分の遺体は久能山に納めて欲しい」ということだけでなく、葬儀を行う場所や位牌を安置する場所、また「一周忌が過ぎたら日光に小さなお堂を建てて、神として祀ること」も遺言として残しました。そして遺言通り、徳川家康を神として祀るための建物として日光東照宮が建てられたのです。なお、徳川家康の遺体は日光に移されたとも、徳川家康の御霊だけを日光に移しただけとも言われています。

1617年(元和3年)、社殿が完成しましたが、現存している主な社殿は徳川家光の命による「寛永の大造替」(かんえいのだいぞうたい)で造営されました。境内には国宝含む55棟もの建造物が並んでいます。500以上もの彫刻が施された豪華絢爛な「陽明門」(ようめいもん)、「見ざる・聞かざる・言わざる」を現した彫刻「三猿」(さんざる/さんえん)など、見どころが盛りだくさんです。