甲冑(鎧兜)の基本

有名な甲冑師と流派

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古来より武士達の戦に欠かすことのできなかった甲冑(鎧兜)は、着用する武士がいれば当然ながら制作をする「甲冑師」がいました。武士達の戦の方法が変化すれば、甲冑師達も武士達の注文に添うために創意工夫をし、甲冑(鎧兜)も同じように変化をし続けたのです。このように甲冑師は武士とは付かず離れずの関係でしたが、甲冑師が歴史の表舞台に出ることはほとんどありませんでした。甲冑師がどのように歴史を刻んで来たのか、また流派や甲冑師について見ていきましょう。

甲冑師の歴史

甲冑師(甲冑作りの様子)

甲冑師(甲冑作りの様子)

甲冑制作を生業とする人々のことを、甲冑師と呼びます。しかし、この甲冑師という呼称は、江戸時代の文献に現れる呼び名で、古来より甲冑制作者の呼称は様々でした。

古い書物では「続日本記」で「甲作」・「鎧匠」とされ、室町時代の「七十一番職人尽歌合絵」では「よろひさいく」(鎧細工)と表記されています。呼称も様々ですが、1領の甲冑(鎧兜)の制作者達や、具体的な制作方法や工程は、古墳時代から平安時代初期へと至るまで、朝廷や寺社の記録にわずか残るのみで、体系的な記録や史料はほとんど見つかっていません。

武士が台頭し、「大鎧」が作られるようになった平安時代後期から室町時代後期頃に至っても、こうした状況は変わらずでした。中世甲冑制作の最盛期でありながら、制作上の史料は空白のままの時代が続きます。

しかし「春日大社」(奈良県奈良市春日野町)で、「梅金物赤糸縅大鎧」(うめかなものあかいとおどしよろい)に添う「十六間八方白星兜鉢」(じゅうろっけんはっぽうしろほしかぶとばち)に刻印が入った兜が見つかっています。意図はいまだ不明だとされていますが、こうした刻印は、工房や流派を表す記号ではないかと考えられていました。

当時の甲冑師の身分はあまり高くないことと、注文を受けて制作していたため甲冑(鎧兜)に堂々と作り手の銘を刻むことはできなかったのです。

そして、最も甲冑(鎧兜)の需要が高まる戦国時代に、堅牢ながら簡素で動きやすい甲冑(鎧兜)「当世具足」が誕生。さらに「今川家」や「北条家」、「織田信長」などが打ち出した経済政策で、物流が円滑になります。流通機構が整ったことで、甲冑(鎧兜)は広い市場に出回ることに成功し、注文品だけでなく一般にも売買されるようになったのです。多くの人の手に渡ることで、甲冑師達の優れた鍛鉄技術や仕立技術は、武士はもちろん市井の人々の知るところとなりました。

こうして甲冑師達は、急速にその地位を上げることとなり、加えて自己の作品を誇示し宣伝する目的から、姓名や居住地について銘を刻むことがはじまったと伝わります。

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主な流派と甲冑師

現在、甲冑師の主な流派として知られているのは「春田派」・「妙珍派」(みょうちんは)・「早乙女派」(さおとめは)・「岩井派」・「雪下派」(ゆきのしたは)です。

これら5派は「御家流」と称され、江戸時代に「徳川家康」をはじめとした大名らに召し抱えられ、「御抱具足師」(おかかえぐそくし)となっています。そうして仕えた藩主の好みや、地方的特色を取り入れながら甲冑(鎧兜)の制作は代々受け継がれていきました。

前述した5派についてご紹介します。

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春田派

春田派は、大和国(現在の奈良県)を発祥の地とする甲冑師の系統です。朝廷とかかわりのあった工人だったと伝わり、室町時代末期に諸国に招かれ、京都・駿河国(現在の静岡県中部、北東部)・尾張国(現在の愛知県西部)・加賀国(現在の石川県南部)・出雲国(現在の島根県南部)などに分布しました。

阿阿古陀形筋兜

阿古陀形筋兜

この春田派の大きな特徴は、「阿古陀形筋兜」(あこだなりすじかぶと:アコダウリに似て丸く平らな形をして頂上がややくぼんでいる兜鉢)を作った一派であり、甲冑師各派のなかでも最も古くから活躍していた名流であることです。

現在、残っている銘の刻まれた作品として「厳島神社」(広島県廿日市市)の「黒韋肩紅縅大鎧」(くろかわかたべにおどしおおよろい)と揃いになる「八間総覆輪筋兜」(はちけんそうふくりんすじかぶと)が有名。

その鉢裏には「和州南都住春太光信作」(わしゅうなんとじゅうはるたみつのぶさく)の銘が刻まれており、春田派の代表的な甲冑師である「春田光信」(はるたみつのぶ)の作であることが分かります。

作品に銘を刻むようになったのは、春田派が先駆けであったとされており、これをきっかけに明珍派や早乙女派なども銘を刻むようになったと言います。

明珍派

明珍派は最も有名な甲冑師で、最も在銘品が多い一派です。

明珍派の発祥

筋兜

筋兜

明珍派の発祥は京都、あるいはその周辺だと伝わりますが、江戸時代になる頃に諸藩の御抱具足師となったことで経営手腕を発揮し、広く地方に分布しています。

これは江戸時代の元禄から寛永年間(1688~1711年)に活躍した「明珍宗介」(みょうちんむねすけ)の功績によるところが大きいと言われ、弟子を育て、その弟子らに「明珍」姓と名前に「宗」の字使用を許したことで、さらに勢力を拡大させました。

明珍派の特徴は、兜作りに特化しており、その鉄の鍛えは品質の良い「筋兜」(すじかぶと:鉄板をつなぎ留める鋲を見せず、鉄板の片側を折り返して筋状に見せた物)が多く残ります。形状についても前方がやや高めの「前勝山形」(ぜんしょうざんなり)で、極端な誇張のない穏やかな物。

この「明珍」の号については、平安時代に活躍した轡鍛冶(くつわかじ)であった始祖「増田出雲守紀宗介」が「近衛天皇」(このえてんのう)より賜ったと室町時代末期の書物「御随身三上記」に記されています。

「明珍三作」とは

明珍派は著名な甲冑師を多く輩出していますが、なかでも17代目「信家」が有名。信家銘の作品は「メトロポリタン美術館」(アメリカ/ニューヨーク市)に収蔵されている「六十二間筋兜鉢」(ろくじゅうにけんすじかぶと)に「文明四年三月日 明珎信家作」(明珍の銘は[明珎]と刻まれることもあった)などに見られます。

「文明四年」は1472年ですが、さらに古い作品に「天文23年」(1554年)と記されている場合もあり、その差はゆうに80年あまり。同じ人物の作だとは考えにくいことから、後世の「後銘」(あとめい:無銘の作品にあとになって銘を刻むこと。[追銘]とも言う)であると言われています。

信家の在銘品は全国に数百あり、これは信家自身が有名になり過ぎたため無銘の作品に後銘する偽作が相当数あると言われています。そのため信家作の甲冑(鎧兜)は、十分な検討が必要とされているのです。この信家と「高義」、「義通」の3名は、在銘の作品が多く残っていることから「明珍三作」(みょうちんさんさく)と称されています。

全国に分布した明珍派は、「脇明珍」(わきみょうちん)と呼ばれ「相州明珍」・「上州明珍」・「仙台明珍」と居住した国名や地名を名付けて称しました。その他、「越前明珍」・「加賀明珍」・「水戸明珍」などがいます。

早乙女派

早乙女派の始祖である「信康」は、明珍派・信家の弟子であると言われた人物です。また早乙女派の甲冑師は常陸国(現在の茨城県)出身が多いことから、在銘品には「常州住」([常州]は常陸国の別称)と切る作品がよく残っています。しかし常陸国以外の銘を切った国名はなく、また年紀を切った作品が少ない派閥でもありました。

小星兜

小星兜

早乙女派の作品は、筋兜も見られますが、「小星兜」(こぼしかぶと:兜鉢表面の鋲を星と呼ぶことから付けられた)が比較的多く、形状は後頂の高い「後勝山形」(こうしょうざんなり)。特に早乙女派の兜の鋲は「早乙女鋲」(さおとめびょう)と呼ばれる独特な配置をしています。そして早乙女派で在銘の多い甲冑師は、「家忠」・「家成」・「家貞」・「家親」です。

岩井派

徳川家康 甲冑写し

徳川家康 甲冑写し

岩井派は、大和国(現在の奈良県)に興った甲冑師の一派。前述した春田派・明珍派・早乙女派が甲冑鍛冶を主に行なったことに対し、岩井派は縅と仕立を主とした一派でした。

室町時代末期にはすでに活躍していたと言われますが、文献が乏しいことから詳細な家系図が残されていないのです。

そんな岩井派が甲冑師として格式高い地位を得ることができるようになったのは江戸時代でした。大和国に住んでいた「岩井与左衛門」(いわいよざえんもん)が徳川家康の御抱具足師として登用され、徳川家康の甲冑(鎧兜)を作ることになったからです。

現存している甲冑(鎧兜)のうち、「久能山東照宮」(静岡市駿河区)が所蔵する「伊予札黒糸縅胴丸具足」(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく:別名[歯朶具足])は岩井与左衛門の作と伝わります。

赤糸威鎧(御嵩神社)

赤糸威鎧(御嵩神社)

岩井派は、将軍の代替わりに際しても、恒例である将軍の甲冑(鎧兜)を新調する役目を代々賜り、その他の保存・修理を請け負っていました。「御嵩神社」(東京都青梅市)に奉納されている徳川家ゆかりの大鎧「赤糸縅鎧」(あかいとおどしよろい)や「紫裾濃縅鎧」(むらさきすそごおどしよろい)を修理したことなどが「武蔵名勝図会」に記されています。

岩井派も他派と同様に、京都や江戸に続き、尾張国、越前国(現在の福井県北東部)、加賀国、安芸国(現在の広島県西部)などの各地に分布し、大きな勢力を誇りました。

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「徳川家康 甲冑写し」のYouTube動画

徳川家康の甲冑の写しを
YouTube動画でご覧頂けます。

徳川家康 甲冑写し

雪下派

雪下派は、「北条早雲」(ほうじょうそううん)を始祖とする後北条氏の領地「雪下」に居住した一派です。

雪下派の「久家」・「政家」親子は当時すでに有名で、後北条氏が滅亡したあとは「伊達政宗」に仙台へと招かれ、仙台藩の御抱具足師となっています。そんな雪下派が得意としたのは、5枚の鉄板を蝶番でつなぎ合わせた形状で、防御力にすぐれた堅固な作りの胴「雪下胴」(ゆきのしたどう)です。

これは防御に優れていた反面、重量がかなりあったと言います。しかし雪下胴については、江戸時代の書物「中古甲冑製作辨」に「久家、政家親子の作は絶品なり」というように記されていることから、どれほど伊達家で重用されていたかについては明白です。このあとも雪下胴は、土佐藩の山内家、肥前藩の鍋島家など諸藩でも好まれ活用されるようになりました。

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