甲冑(鎧兜)の基本

甲冑(鎧兜)の種類

文字サイズ

甲冑(鎧兜)は、特別な機会がなければ日常的に目にすることのない道具かもしれません。それぞれの名称も、長々としていて覚えにくく、漢字ばかりでややこしい。そういった感想を持つ方も多いことでしょう。けれども近年で言えば、各地で行なわれるお祭りの大名行列や、テレビ番組に登場する武士など、甲冑(鎧兜)自体への関心は高まってきているとも言えます。
かつて甲冑(鎧兜)は、戦う者に必要な身を守る道具で単なる消耗品でしたが、江戸時代から現代にかけて、美術工芸品として認識されるようになります。各時代に生み出された甲冑(鎧兜)の種類について紐解いていきましょう。

  • 甲冑(鎧兜)写真
    歴史的に価値の高い甲冑(鎧兜)や面頬などを名前や種類から検索することができます。
  • 甲冑(鎧兜)の基礎知識
    甲冑(鎧兜)に関することを検索することができます。

朝鮮半島から伝来した「短甲」と「挂甲」

日本で最初に用いられた甲冑(鎧兜)は、朝鮮半島から伝わり4世紀頃から使われていた「短甲」(たんこう)と「挂甲」(けいこう)があります。4世紀頃と言えば、古墳時代の前期でもあり大和朝廷の支配体制が整いつつある時代でした。

政治闘争や、大和朝廷に従わない豪族との大規模な戦が勃発。そうした戦に使用された短甲と挂甲について見ていきましょう。

短甲

短甲

短甲

短甲は、胴を守る丈の短い甲冑(鎧兜)のことで、革か布製の2本の紐を肩にかけて着用しました。

肩への負担をなくすため、腰に当たる部分は細く作られるなど工夫がされています。

着用方法は、前引き合わせの革綴じで、甲冑各部も同じく革で綴られていたためあまり丈夫とは言えませんでした。5世紀になる頃には各部を鋲で留める鋲留技法が用いられるようになり、少しずつ丈夫な作りになっていきました。

当時は鉄や革は貴重だったので、一般の兵士は木・籐製の短甲を使用していたのではないかと言われています。

しかし、木・籐製は腐食しやすいため発掘例が少なく、当時の状況は明らかではありません。鉄や革製の短甲は、首長やそれに次ぐ身分の者が用いたと考えられます。

挂甲

5世紀中頃の古墳時代中期には、挂甲が誕生。挂甲は、渡来人の影響を受け、革や鉄の小札(こざね:長方形の小さな板)を紐で綴じて構成する甲冑(鎧兜)です。

形式には、胴全体を巻いて体の前で合わせるコートのような「胴丸式挂甲」(どうまるしきけいこう)と、肩紐が付いているエプロンのような「裲襠式挂甲」(うちかけしきけいこう)があります。挂甲は、短甲のように胴を固定されることがなく、小札で柔軟性を持たせることができることから体を自由に曲げ伸ばしできる利点がありました。

挂甲(胴丸式挂甲・裲襠式挂甲)

挂甲(胴丸式挂甲・裲襠式挂甲)

綿襖甲

綿襖甲

しかし、制作に資金や手間暇がかかることから大量生産ができず、使用できたのは支配者層の豪族だけだったと言われています。

一般兵士はそれよりも安価な材料で作ることのできる「綿襖甲」(めんおうこう)を着用。

綿襖甲とは、コート状の布に小さな鉄や革の板を綴じ付けた唐風の甲冑(鎧兜)で、防寒性に優れていましたが、耐久性が低いことから遺物は現存していません。

日本独自の甲冑

平安時代は、「遣唐使」の廃止をしたことで唐風の文化や技術が日本へ入って来なくなりました。代わりに日本独自の「国風文化」が育まれ、政治体制や服装、仮名文字など色々な文化が成長。その中で、先述した裲襠式挂甲から日本式の甲冑(鎧兜)が生まれました。「平将門の乱」や「藤原純友の乱」が地方で起きたことで、京都に住む武士達は戦に赴きます。

そうした戦を重ねるうちに、甲冑(鎧兜)や戦い方にも変化が見られるようになりました。騎馬で戦う者は「大鎧」を、徒歩で戦う者は「胴丸」を着用。大鎧と胴丸について見ていきましょう。

  • 歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!

  • 甲冑(鎧兜)に関する基礎知識をご紹介します。

大鎧

大鎧(鉄錆地二十四間二方白大円山厳星兜 白糸縅大鎧)

大鎧(鉄錆地二十四間二方白
大円山厳星兜 白糸縅大鎧)

大鎧を使用したのは、主に騎馬に乗った武者だったと言われています。馬に乗り、名乗りながら戦う相手へと互いに馳せ寄り、擦れ違う瞬間に矢を射掛ける「騎射戦」が主流でした。

武芸の基本であった弓術が騎馬武者の武器となり、矢から身を守るために機能性と防御性を追求したのが大鎧です。

弓矢以外にも、直刀の剣が、湾刀という長大で反りのある日本刀へと変化。これも馬上から相手を攻撃する武器として、敵を薙ぎ払うのに特化させた結果です。

大鎧は、防御力が高く箱のように体を覆ってくれますが、重量があり身動きなどはしづらかったと言います。また、小札を彩色の施された糸や細い革紐で縅して構成する手法が使われていました。この場合の「縅し」とは甲冑(鎧兜)の製造様式で、小札を革や糸で結び合わせることです。

結び合わせる糸は「糸縅し」(いとおどし)と言い、その代表格に茜草の根で染めた「緋糸縅」(ひいとおどし)、藍で染めた「紺糸縅」(こんいとおどし)などがあります。他には「白糸縅」(しろいとおどし)や「黄櫨匂縅」(はじにおいおどし)など。こうした手法を使うことで、大鎧は防御性と彩色の美しさもかね備えることになります。

そして、「草摺」(くさずり)と呼ばれる腰から上脚を防御する部位も大鎧には設置されました。草摺は4間(4枚)に広がって付いており、着用者が馬に乗ると下半身が覆われるので安心して戦いに集中することができます。

また、肩から腕上部を覆う「大袖」や膝下から臑までを防御する「臑当」などが作られ、矢や日本刀からの攻撃を防ぎやすくなりました。兜には、首全体を守る「しころ」と、顔の左右には視界を良くする「吹返」を設置。「厳島神社」(広島県廿日市市宮島町)の宝物館には紺糸縅鎧の、ほとんど欠損のない大鎧が保管されています。

  • 「直刀とは」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。

  • 「反りとは」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。

胴丸

胴丸(紺糸威胴丸具足)

胴丸(紺糸威胴丸具足)

胴丸は、大鎧と同時代の平安時代中期に徒歩で戦う武士の甲冑(鎧兜)として生まれました。右脇で引き合わせる構造が特徴で、前で合わせる胴丸式挂甲が発展したと考えられます。徒歩用であることから、大鎧に比べ軽くて身動きしやすいのが特徴。

胴丸の草摺は、大鎧より多めの8間(8枚)。数が多いほど、足元でかさばらず動きやすいことから下級武士を中心に重宝されました。現存する最古の胴丸には「大山祇神社」(愛媛県今治市)所蔵の「熏紫韋縅胴丸」(ふすべむらさきがわおどしどうまる)があります。

現在、胴丸と呼ばれていますが、実は室町時代までは「腹巻」と呼ばれていたと伝わっているのです。南北朝時代になり腹巻と呼ぶ背中引き合わせの胴が広まりました。

その後、室町時代末期頃から、右引き合わせの胴を「胴丸」、背中引き合わせの胴を腹巻と呼び分けるようになり、現在もこの呼び名を踏襲しています。

刀剣が奉納・展示されている神社・仏閣や宝物館をご紹介!

乱世に生まれた革新的な甲冑「当世具足」

室町時代末期から安土桃山時代の、所謂、戦国時代に生まれたのが「当世具足」です。「当世」とは「現代」、「具足」は「すべて備わっている」ことを表し、当世具足は「現代風の甲冑」という意味で名付けられました。

当世具足の原型は、右引き合わせの構造を持つ胴丸と言われ、槍主体の戦法や鉄砲での戦闘に対応して、簡素ながら堅牢な甲冑(鎧兜)として普及。当世具足を簡素で堅牢だとするのは、胴に当たる部分を鉄や革でできた小札を紐で綴じて作るのではなく、「板札」(いたざね)と呼ぶ鉄板や革1枚で仕上げることができるからです。この画期的な手法により、軽量化はもちろん防御面も格段に進歩しました。

そして室町時代末期から、中国との貿易により、「朱漆」のもととなる顔料が大量に輸入されるようになります。朱漆は、平安時代に定められた「延喜式」によると、使用できるのは皇族と身分の高い貴族だけに限られていました。

平安時代当時は貴重な顔料でしたが、室町時代末期になる頃には先述したように手に入りやすくなっていたため、武士達も自身の甲冑(鎧兜)に朱塗の使用が可能になっていました。

徳川家康」の家臣「井伊直政」も自身の軍に「赤備え」の甲冑を使用しています。さらに国内の金山・銀山では、多量の金・銀が採掘され、それらをふんだんに使用した華やかな甲冑(鎧兜)も作られるようになりました。

武将は、目立つ当世具足を好んだため、彩色豊かな甲冑(鎧兜)が生産されるようになったのです。

  • 徳川家康のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 井伊直政のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 徳川家康のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

江戸時代の復古主義

徳川家康が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」以降は、江戸時代末期の幕末まで日本は200年以上大きな戦が起きることなく平和な時代が続きます。しかし戦がなければ甲冑(鎧兜)は無用の長物。甲冑(鎧兜)は、戦で着用する機会はなくなりますが、武家の格式を示す表道具(身分や格式を示す道具)としての役割を担うようになりました。

江戸時代中期頃には、古式の甲冑(鎧兜)様式を再評価し始めた人が多く、そのなかのひとりに8代将軍「徳川吉宗」がいます。徳川吉宗は「武蔵御嵩神社」(東京都青梅市)に安置されている平安時代末期作の「赤糸縅大鎧」(あかいとおどしおおよろい)の調査と修理を行ないました。

そして、老中「松平定信」は「集古十種」(しゅうこじっしゅ)と呼ばれる、鐘銘・碑銘・兵器・銅器・楽器・文房・扁額・印章・肖像・書画の10種類の古物を模写・編集しています。こうした過去の優れた文化を再度復興させる復古主義がさかんに叫ばれるようになりました。

復古主義の波は甲冑(鎧兜)作りにも大きくかかわり、当世具足以前の大鎧が再び作られるようになります。豪華な絵革(模様や絵を描いた革)の兜や、手の込んだ金銅製の飾り金具を使用した甲冑各部。小札には、紺糸縅・紫裾濃縅(むらさきすそごおどし)・緋縅・萌黄縅など平安時代や鎌倉時代に流行した華麗な縅を用いました。

甲冑(鎧兜)には既製品と注文品がありますが、注文品の場合は現在の家1軒分の金額に相当したと言います。

しかし甲冑(鎧兜)には、大名家の格式を示す表道具としての意味合いもありました。そのため大名家が制作を注文するような品には、惜しみなく金銭が使われ当時の工芸技法が凝縮された豪華な甲冑(鎧兜)が制作されたのです。

これらは、大名家の藩主が代替わりするときに、大鎧・胴丸・面頬籠手・臑当・佩楯など、一揃いの甲冑(鎧兜)が受け継がれていくのです。井伊家・伊達家細川家などには、受け継いだ甲冑(鎧兜)に加え、歴代藩主が作らせた甲冑(鎧兜)が、ゆかりのある神社や施設に遺されています。

  • 徳川吉宗のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 豊臣家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

  • 伊達家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

  • 細川家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。