徳川15代将軍

徳川斉昭

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水戸藩(現在の茨城県水戸市)9代藩主であり、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の実父としても有名な「徳川斉昭」(とくがわなりあき)。積極的に藩政改革を推し進める一方、幕政にも臆せず物申した苛烈な性格から「烈公」(れっこう)と称され、徳川斉昭にまつわるエピソードは、2021年(令和3年)のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)でも描かれています。また、徳川斉昭は自ら鍛刀を行うほどの刀好きであったとも言われ、「刀剣ワールド財団」ではその作刀の1振である「刀 銘 葵紋崩(烈公)」を所蔵。ここでは、徳川慶喜との親子関係に注目すると共に、愛刀家としての一面にもふれながら徳川斉昭の人となりに迫っていきます。

水戸徳川家とその家系図

徳川斉昭

徳川斉昭

水戸徳川家」は、「尾張徳川家」、「紀州徳川家」に並び、江戸時代の将軍家に次ぐ地位を持っていた「徳川御三家」のひとつです。「徳川家康」は「関ヶ原の戦い」のあと、水戸が東北の外様大名達の動きを監視するためにふさわしい土地であると判断。

自身の十一男「徳川頼房」(とくがわよりふさ)を25万石で封じた(領地を与えた)のが水戸徳川家のはじまりとなります。

水戸徳川家が藩主家となって以降の水戸藩は、のちに徳川御三家の格式を保つために35万石まで加増。政治、または学問・教育においても諸藩を代表する大藩でした。

歴代藩主の中で特に名高いのが、2代藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに)と9代藩主の徳川斉昭です。徳川光圀は日本の歴史書である「大日本史」の編纂(へんさん)という功績を残しました。また「水戸黄門」という名称で、現代でもテレビドラマや映画、小説などを通して広く親しまれています。

徳川斉昭の功績として、藩校「弘道館」(こうどうかん:茨城県水戸市)の設立が有名です。これは当時の総合大学にあたり、文化・教育の発展において大きな役割を果たしました。この徳川斉昭の七男が明治維新のカギを握る重要人物のひとり、徳川慶喜です。

名君と呼ばれた徳川斉昭

部屋住みから一転、藩主継承へ

1800年(寛政12年)、徳川斉昭は水戸藩7代藩主「徳川治紀」(とくがわはるとし)の三男として生まれました。幼名は「虎三郎」、「敬三郎」。

初めは父より一文字を受けて「紀教」(としのり)と名乗り、のちに11代将軍「徳川家斉」より「斉」を授かり「斉昭」となっています。水戸藩の藩主は長兄の「徳川斉脩」(とくがわなりのぶ)が継ぐことが決まっており、次男と四男は他家の養子となっていました。

三男の徳川斉昭は30歳頃まで部屋住み(家督相続権がないものの独立せず親の家に留まっている次男以下の者)でしたが、生来の聡明さを活かし、学者で思想家の「会沢正志斎」(あいざわせいしさい)より「水戸学」を学びます。

1829年(文政12年)に8代藩主の長兄・徳川斉脩が継嗣(けいし:跡継ぎ)を決めないまま病没すると、家督を巡って一族が動き出しますが、改革派の学者や下士層(身分の低い武士達)は徳川斉昭を支持。ほどなくして徳川斉脩の遺書が見つかり、徳川斉昭が家督を継ぐこととなりました。

最初に目指したのは人材の育成

偕楽園

偕楽園

藩主となった徳川斉昭が最初に着手したのは、藩校である弘道館の設立です。身分を問わず広く門戸を開き、武芸の鍛錬はもちろん、儒学や医学といった学問を習得する機会を提供することで、藩のために貢献できる人材の育成に努めたのです。

また、弘道館で学んだあとに心身を休める憩いの場として「偕楽園」(かいらくえん:茨城県水戸市)を造園。

これは「一張一弛」(いっちょういっし:締めたり緩めたりすること)の思想に基づくもので、偕楽園の設立趣旨を記した「偕楽園記」には、「余[徳川斉昭]が、衆と楽しみを同じくするの意なり」とあり、偕楽園は水戸藩士だけでなく、領民にも開放されました。

子ども達への教育にも力を注ぐ

身分にかかわらず藩士の育成に尽力した徳川斉昭。その教育を重視する熱心な姿勢は、自身の子ども達に対しても変わることはありませんでした。

正室である「吉子女王」(よしこじょおう)と側室達の間に儲けた子どもは、男女合わせて37人。その中で無事に成長したのは男子12人、女子6人でした。徳川斉昭はそんな子ども達ひとりひとりの個性を大切に思い、それぞれに合わせた教育を施したと言われています。「子だくさん」であったゆえか、長男でのちに10代水戸藩主となる「徳川慶篤」(とくがわよしあつ:幼名[鶴千代麿])以外の男子は名前に数字が用いられました。

弘道館 至善堂

弘道館 至善堂

なかでも、とりわけ優秀で豪気な性格であったと伝えられるのが、徳川慶喜こと七男の幼名「七郎麻呂」(しちろうまろ)です。

徳川斉昭は、七郎麻呂が5歳になる頃より弘道館の「至善堂」(しぜんどう)にて教育を始めます。その内容は、剣術や馬術、射撃といった武芸や勉学にとどまらず、体力増強を図る水泳など広範囲にわたっていました。

七郎麻呂が7歳のとき、徳川斉昭は自分の子ども達を評価しています。その際、七郎麻呂については、「七郎はあっぱれ名将とならん。されどよくせずば手に余るべし」と評価。

聡明でありながらもわんぱく盛りで強情な一面もある七郎麻呂に対して、徳川斉昭や家臣達は「常人にあらず」と、むしろ期待感を持っていたとされ、他の男子達が跡継ぎのない武家へ養子として出されている中、七郎麻呂だけは手元に置いていたのです。

武芸・学問に励む七郎麻呂は、父より「昭」の一文字を受け「松平昭致」(まつだいらあきむね)と名乗ることになります。熱心な英才教育を受けた松平昭致が徳川斉昭のもとを離れたのは11歳になった1847年(弘化4年)のこと。

松平昭致の英邁なことは江戸にも知られており、12代将軍「徳川家慶」の意向で「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつ「一橋家」の家督を継ぐこととなったのです。松平昭致は徳川家慶より「慶」の一文字を授かり、「一橋慶喜」となりました。

一橋徳川家相続の打診を受けた場面は、徳川慶喜に仕えた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が主人公のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の第1回「栄一、目覚める」(2021年[令和3年]2月14日放送)でも描かれ、徳川斉昭は悲願であった水戸から将軍が出る可能性に思い至り、「快なり! 快なり!」と歓喜の声を上げています。

藩政改革で見せた大胆な手腕

藩政改革・財政再建への強い意志

弘道館を設立して教育に力を注いだ徳川斉昭は、下士層からも才気あふれる人材を登用し、水戸藩の藩政改革に乗り出しました。そこには、家老の「戸田忠太夫」(とだちゅうだゆう)や水戸学者の「藤田東湖」(ふじたとうこ)、会沢正志斎らが名を連ねています。

徳川斉昭による藩政改革の柱は下記の4つです。

  1. 「経界の義」(けいかいのぎ)

    農地の経界(境界)を正すことを意味する全領検地のこと。これにより正確な年貢が決められました。また農村には飢饉に備えて穀物を備蓄する稗倉(ひえぐら)を設置しています。

  2. 「土着の義」(どちゃくのぎ)

    藩士を水戸城下から農村へ移して定住させ、軍備体制の強化を図ること。

  3. 「学校の義」(がっこうのぎ)

    藩校「弘道館」の設立と、藩校の分校で庶民のための学校である郷校(きょうこう)の設立。

  4. 「総交代の義」(そうこうたいのぎ)

    藩主や一部家臣が江戸に常住する江戸定府制の廃止。

水戸藩は徳川御三家の中でも唯一、参勤交代を行わず江戸に定住し、万が一のことがあれば将軍に代わるという役目を担っていました。

そのため、水戸藩主は江戸にいながら領地を治めなければならず、江戸にも領地にも家臣を置く「二重化」を迫られた上、江戸の物価が高いことや、石高35万石に見合った格式を保つためなどで財政難にあえぐこととなります。代々の藩主が財政改革に乗り出すものの多くが頓挫。

徳川斉昭は、水戸藩のこの財政難への対策として、抜本的な藩政改革を行い財政の立て直しを図ったのです。

外国勢力を見据えた海防への関心

徳川斉昭は藩政改革を推し進める一方、欧米列強に対抗するための海防に対しても強い関心を抱いています。そのきっかけとなったのは、1824年(文政7年)に水戸藩領の大津浜(現在の茨城県北茨城市大津町)へイギリスの捕鯨船2艘が着岸し、乗組員が上陸した「大津浜異人上陸事件」です。

この事件ののち、徳川斉昭は大砲の製造を命じ、「那珂湊」(なかみなと:現在の茨城県ひたちなか市)へ設置。さらに大規模な軍事訓練を実施しました。ところが、大砲製造にかかわる出来事が幕府の不興を買ってしまいます。

もともと徳川斉昭は水戸学における「敬神廃仏」(けいしんはいぶつ)の思想を持ち、神道を重視して仏教を抑圧していました。この大砲製造に際しても、領内にある190もの寺院を壊して、大砲の材料となる鐘などを没収。

さらに住職のいない寺院の廃絶を進めています。このような仏教への抑圧により僧侶達から怒りの矛先を向けられることとなった徳川斉昭。また、大規模な軍事訓練を繰り返していたことで江戸幕府から謀反の嫌疑をかけられます。

さらに幕政にも厳しく物申していたことも反感を招き、1844年(天保15年/弘化元年)に12代将軍・徳川家慶より謹慎処分を命じられました。そのあと、徳川斉昭は家督を嫡男の徳川慶篤へ譲り、隠居します。

幕政への参与から井伊直弼との対立まで

藩士達の復権運動により謹慎解除に

徳川斉昭が隠居したあとの水戸藩では、保守層の門閥派が実権を握り専横を行っていました。これを憂慮した徳川斉昭支持派の藩士達は復権運動を展開。こうした働きかけもあって徳川斉昭は1846年(弘化3年)に謹慎が解かれ、1849年(嘉永2年)には幕政関与が許されます。

この時期、徳川斉昭は薩摩藩(現在の鹿児島県)11代藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)ら諸大名と交流し、攘夷(じょうい:外敵を撃退すること)や海防について活発に意見を交換。存在感を増していきます。

1853年(嘉永6年)のペリー来航後は、「黒船は断固打ち払うべき」と主張。江戸防備のために大砲74門と大量の弾薬を幕府に献上すると共に、西洋式軍艦「旭日丸」を建造し、これも幕府に献上しました。

これらの功績により、幕府は徳川斉昭を「海防参与」に任命。徳川斉昭が「海防参与」に就任したことは、威圧的な黒船の出現に動揺していた江戸市民から大いに歓迎されます。この様子はNHK大河ドラマ「青天を衝け」の第3回「栄一、仕事はじめ」(2021年[令和3年]2月28日放送)でも取り上げられました。

それは、徳川斉昭の顔を古代中国の「三国志」に登場する名軍師「諸葛孔明」(しょかつこうめい)に見立てて描かれた錦絵が江戸市中に出回ったと言うエピソードです。江戸の庶民にとって、徳川斉昭はカリスマ性を感じさせる心強い存在であったことが分かります。

「安政の大獄」により蟄居

しかし徳川斉昭の前には巨大な壁が立ちはだかりました。攘夷論の先鋒である徳川斉昭は、13代将軍「徳川家定」の後継者問題や、「日米修好通商条約」の勅許(ちょっきょ)問題を巡り、開国を推進する幕府の大老「井伊直弼」(いいなおすけ)と対立したのです。反対勢力を粛正する江戸幕府の弾圧「安政の大獄」(あんせいのたいごく)によって、1859年(安政6年)に水戸での永蟄居を命じられ、徳川斉昭は幕府中枢から完全に排除されてしまいます。

そして1860年(安政7年/万延元年)、徳川斉昭は蟄居処分が解けないまま水戸で急逝。享年61歳でした。死因は心筋梗塞と推定されています。

烈公の「慰み打ち」

刀 銘 葵紋崩(烈公)

藩政改革、教育、そして幕政参与と、何ごとにも精力的に取り組んだ徳川斉昭。その厳しい性格から、「烈公」という諡号(しごう:貴人の死後におくられる名)が奉じられました。そんな徳川斉昭が作刀にも熱心であったことは、意外ではないのかもしれません。

刀工ではない、身分の高い人が刀を鍛えることを「慰み打ち」(なぐさみうち)と言います。徳川斉昭の慰み打ちの御相手鍛冶を務めたのは、水戸藩お抱えの名工達で、水戸随一と謳われた「市毛徳鄰」(いちげのりちか/とくりん)や、戦国武将「直江兼続」(なおえかねつぐ)の子孫にあたる「直江助政」(なおえすけまさ)、その子「直江助共」(なおえすけとも)などが挙げられます。

徳川斉昭の作刀は慰み打ちとは言え本格的であり、「八雲鍛え」(やくもきたえ)と称する独自の鍛刀法を確立しました。「刀剣ワールド財団」が所蔵する作品「刀 銘 葵紋崩(烈公)」の地鉄(じがね)も八雲鍛えで、きめ細やかな綾杉(あやすぎ)風の肌模様が交じっています。(なかご)には紋章のみが刻まれ、銘はありません。

この紋章は水戸徳川家の家紋であった「葵紋」(あおいもん)をもとにした「葵紋崩」(あおいもんくずし)と言われる意匠です。時計の針にも見える3本の線が入っていることから「時計紋」とも呼ばれています。

刀 銘 葵紋崩(烈公)
刀 銘 葵紋崩(烈公)
葵紋崩
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
70.9
所蔵・伝来
徳川斉昭 →
青木家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕